化身

文字数 5,508文字




「ふぁ~、良く寝たわ……さて……と」
 彼女は身を起こし、あぐらをかいて大きくひとつ伸びをするとベッドから降りた。
 胸まで届くみどりの黒髪、すっと横に墨で描いたかのような眉、切れ長の瞳、鼻筋はスッと通り、小ぶりの唇も慎ましい正統派の和風美女だ。

 彼女は洗面所に立つと、赤いカーディガンとお気に入りの男物パジャマをふわりと床に落とし、スルスルと下着を下ろして脚から引き抜いた。
 ……産まれたままの姿が鏡に映し出される。 
 特別にグラマーだとかスレンダーだと言うわけではなく、バストやヒップも無暗に大きかったり小さすぎたりすることのない、これ以上を望めるのだろうかと思えるほどに均整がとれたプロポーション……彼女はシャワーをゆっくりと浴びると、その美しい肢体をバスローブに包んで鏡の前に座った。
 彼女には特に念入りなメイクは必要ない、化粧水で肌を引き締め、薄くルージュを引くだけで充分、ナチュラルな美が彼女の持ち味なのだ。
 鏡を離れるとジーンズと男物の白いワイシャツを身に着け、彼女は玄関に向かった。

 先週のことである。
「すみません、ちょっといいですか?」
「はい? 何でしょう?」
 藤沢の街で彼女は男に声を掛けられた。
「私、こういった者なんですが」
 男が差し出したのはフリーカメラマンの肩書がついた名刺、確かにカメラなどの撮影機材が入っているらしい重そうなバッグを肩にかけ、風貌もなんとなくそれっぽい。
「一度撮影させていただけたら……」
「あら、あたし、スカウトされてる?」
「ええ、私は週刊〇〇のグラビアを担当させてもらってるんですが、あなたを見かけてビビッと感じるものがあったんですよ」
「あたしがグラビアに?」
「ええ、どうでしょう?」
「あたし、脱がされちゃうのかしら?」
 彼女はちょっと悪戯っぽく笑った。
「え~と……水着は必須です、もうちょっと踏み込んだセミヌードなんか撮れればなお良いんですが……あ、男性誌じゃないですからそれ以上はないです」
「週刊〇〇なら存じてます、確か『今週の美女』みたいなページありますよね」
「ええ、それです……どうでしょう?」
「良いですよ、プロの方に撮って頂ければ記念にもなりますから」
「やった!……いや、すみません、あんまり嬉しかったもので」
「ふふふ……」
「スケジュールとか謝礼の件は〇〇社の方から追って連絡させていただきます」
「はい、よろしくお願いします」
「こちらこそ」

 そんなやりとりがあって、早速今日が撮影日、『今週の美女』は素人女性であることが売りなのだが、実際には大部屋女優なども多いのだとも聞く、本物の素人が撮影に応じてくれるとあれば気が変わらないうちに……と言う事なのだろう。

「こんにちは」
「ああ、良く来てくださいました。
 スタジオを訪れると既に準備は整い、スタッフも揃っているようだ。
「ええと……BENTENさんとお呼びすれば?」
「ええ、それでお願いします」
 彼女が撮影に応じるに当たって出した条件は、本名不肖、年齢不詳、出身地不肖……唯一OKしたのは藤沢市在住と言う事だけ、ただ、呼び名がないと困るだろうし、グラビアページにクレジットも出来ない、そこで彼女が提案したニックネームが藤沢市・江の島にゆかりのあるBENTENだったのだ。
「服装のセンスもいいですね、白いワイシャツってなぜだか色気を感じるんですよ」
「あら、そうなんですか?」
「もし良ければもうひとつだけボタンを外して頂けると……」
「いずれ水着になるんでしょう? それくらいは大丈夫ですよ」
 ふっと微笑むと、彼女は潔くボタンを外し、胸の谷間を露わにした……。
 
(ただの素人じゃないな……)
 カメラマンはファインダーに写る彼女を見てそう感じた。
 表情やポーズ、スチール写真には写らない仕草に至るまで自然で堂に入っている、と言うよりもこんなになまめかしい表情やぐっとくるポーズはベテラン女優でもなかなかできない。
「グラビアの経験が?」
 そう訊くと彼女はふっと微笑んでかぶりを振った。
「いいえ、初めてですよ」
「でも、女優さんでもそんな表情はなかなか出来ませんよ……ああ、それともクラブか何かで歌ってらっしゃるとか?」
「そうね……『普通の人間じゃない』とだけ白状しておこうかしら、でも女優でも歌手でもありませんよ、もしそうなら芸名なり本名なり出すでしょ?」
「確かに……」

 撮影は順調に進み、徐々に熱を帯びて来た。
「ジーンズ、脱げます?」
「ええ、あたし、寝る時もパジャマの上だけなんですよ」
 そう言って程良い肉付きの白い太腿を露わに……もう用意してあった水着などに用はない、カメラマンは夢中でシャッターを切り、その熱意を感じたのか、彼女も大胆になって行く。
「琵琶を抱えて貰えます?」
「まあ、琵琶なんて用意してあったんですか?」
「ええ、なにしろBENTENさんですから」
「うふふ……そうでしたね……ちょっと弾きましょうか?」
「弾けるんですか? 琵琶を」
「ええ、ちょっと……」
 スタジオに琵琶の音が響きわたる……聴き慣れた西洋楽器とは違う、哀愁を帯びて神秘的な琵琶の音色はスタジオの空気を一種独特な、官能的なものに変えて行き、撮影はますます熱を帯びて行った。
「下着、邪魔ですわね」
 自分からそう言い出して、着ているものは白ワイシャツ一枚に……ライトを当てれば肌や乳首が透けて見え、逆光を当てれば見事なプロポーションが浮き上がる、そしてワイシャツの裾から伸びるすらりとした脚……見えている部分が隠されている部分を連想させる。 
 そして彼女の身体を覆っているのは半ば透けてしまう白い布一枚きり、ボタンは既に全部外されているからそっとワイシャツに手を添えれば彼女の全ては露わになってしまうだろう……カメラマンはファインダー越しに彼女と二人きりでいるかのような錯覚を覚えた、男物のワイシャツはまるで自分自身が彼女の見事な肢体を腕の中に抱いているかのよう……おそらくは現場にいたスタッフたちも皆同じ感覚を抱いたことだろう……。

 そして最後の一枚は……一糸まとわぬ姿で片足あぐらをかき、肝心な部分を抱えた琵琶だけで肝心な部分を隠した写真。
 暗転した背景で彼女だけにライトが当てられ、白い素肌が浮かび上がる。
(これは俺にとっても快心の一枚になる)そう確信して夢中でシャッターを切りながらもカメラマンの脳裏には彼女の言葉が繰り返し巡っていた。
<そうね……『普通の人間じゃない』とだけ白状しておこうかしら……>

 グラビア写真が雑誌に掲載されると大きな反響が巻き起こり、とりわけ最後の一枚は人々に強烈な印象を残した。
 何年か前に『日本一美しい32歳』がブームを巻き起こしたことはまだ記憶に新しい、それよりもさらに官能的で幽玄な雰囲気も併せ持つ美女の出現に、名だたる芸能プロはこぞって彼女を獲得に走り、彼女はその中の一社と契約を交わした。
 謎に包まれた美しくも官能的なグラビアアイドルBENTENの誕生だった。

 BENTENの名は瞬く間に日本中の男たちの知るところとなり、彼女もその活躍の場を広げて行く。
 なにしろ何をやってもそつがない……いや。そつがないどころではない。
 バラエティに出演すれば清楚さと色香を絶妙なバランスで発揮し、受け答えも頭の回転の速さを感じさせる、そしてその発言や振る舞いは、彼女が奏でる琵琶の音も相まって彼女の謎めいた魅力を深めて行く。
 
「お願い、もう私を追わないで……住む世界が違う人間なの……」
 初主演したTVドラマは正に彼女のために書かれた脚本によるもの、狂おしいほど彼女に魅せられた男が必死に彼女を追うが、手が届いたかと思うと彼女はふっと身をかわしてしまう、そして最終回、彼女は彼の気持ちに感謝し、自らの愛情も告白するが、謎めいた台詞だけを残して消えてしまう……。
 手を触れることはできるが抱きしめようとすれば泡のように消えてしまう……まるでシャボン玉のような彼女の魅力は、その確かな演技力によって見事に表現された。

「ごめんなさい、私はこれ以上あなたの愛に応えることができないの……」
 映画ではもう一歩踏み込んだ。
 彼女は美しく愛を交わすシーンをも披露したが、ラストシーンではどこかへ消えて行ってしまう……愛を交わすことはあっても誰のものにもなれない、そんな女を官能的に演じて見せた。

 そして歌手デビュー。
 琵琶の弾き語りで静かに始まるその曲は、やがてシンセサイザーの響きにも彩られて聴く者を幽玄の世界へ誘う。
 透き通った彼女の歌声に心を鷲づかみにされ、哀愁を帯びた琵琶の音で締め付けられ、やがて虚空へと誘われるよう……。
 もちろん年間第一位の大ヒットを記録した。

 音楽活動はソロだけにとどまらなかった。
 自らのバンド『TAKARABUNE』を率いて制作した1stアルバムは、虚空を彷徨うかのような幽玄な曲から激しく叩きつけるロックまで、一つのジャンルになど到底納まりきれない彼女の多彩で豊かな音楽性を如何なく発揮したものとなった。

 アルバムの成功を受けて始まったドームツアー、東京から始まり日本を縦断した『TAKARABUNE feat.BENTEN』はアメリカへと飛んだ。
 アメリカの主要都市を回り、最終日の舞台となったのはNYのメットライフスタジアム、8万人を超える収容人数を誇るアメリカン・フットボール用のスタジアムだ。
 それまでの公演と同様、青白いスポットライトに浮かび上がったBENTENの琵琶弾き語りで静かに幕を上げ、一転してTAKARABUNEが激しいビートを叩き出し、聴衆のボルテージが一気に上がる、その時だった。
 PAの大音響を複数の銃声が切り裂いた。
『一体何事!?』とTAKARABUNEは演奏を中断し、聴衆も銃声が上がった方向を注視した。
「このスタジアムは我々が占拠する、お前たちはみな人質だ! アッラーは偉大なり!!」
 ライフルやマシンガンで武装するだけでなく自爆用のダイナマイトまで体に巻き付けたテロリストの一団がすべての出入り口を封鎖するように立ちはだかっている。
 NY市民は貿易センタービルが炎上、崩れ落ちた光景を今でも目に焼き付けている、相手は自爆をも辞さないテロリスト、危険なこと極まりない上に迂闊に手も出せない。
 その時だ、ステージ上のBENTENが叫んだ、いや、吠えた!
「アッラーが何ほどのものよ! 宗教ってのはね、人の心と暮らしを平穏にするために存在するの! それぞれが自分の神を信じれば良いのよ! それを異教徒だとかなんとか争いの種にするなんてどういう了見よ!」
「なんだと!? アッラーを貶めることは許さんぞ!」
「別に貶めちゃいないわよ、でもね、争いの種になることを許してる時点で神失格よ!」
「言わせておけば……」
「これでも食らいなさい!」
 BENTENが掌を前に突き出すと、そこからは激しい水流が発射された。
「ぐわっ!」
 水の直撃を受けた100m先のテロリストが思わずよろけるほどの水圧! 
「く……ダイナマイトが……」
 体に巻き付けたダイナマイトは水浸しだ。
「オン・ウカヤジャヤ・ギャラベイ・ソワカ! オン・ウカヤジャヤ・ギャラベイ・ソワカ!」
 BENTENが何やら呪文のようなものを唱えると、その身体が赤い炎に包まれた。
「変身!!!」
 そう叫ぶと炎は消えた、するとどうしたことか! BENTENの身体は甲冑のようなものに包まれ、その身体からは8本の腕が生えているではないか! そして手にはそれぞれ弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、投げ縄が握られている。
 その勇ましい姿に仰天したものの、同時に敵に立ち向かう勇気を得た聴衆はテロリストに飛びかかり、変身を遂げたBENTENとTAKARABUNEのメンバーたちも加勢するためにステージから飛び降りて行く。
 強い! なんと言う強さ! 8本腕となったBENTENは次から次へとテロリストたちを打ち据え、たちまち縄で縛り上げ、まとめてゴミ箱に放り込んでしまった。
「あんたたちみたいなゴミにはゴミ箱がお似合いよ!」

「驚いたでしょう?」
 騒ぎを収めてステージの戻ったBENTENは元の美しい姿に戻っている。
「あたしはBENTEN、日本では弁才天と言って芸能を司る女神なの、そして昔はヒンドゥー教のサヲスヴァティー、水の女神だったわ、さっきのはあたしのもうひとつの姿、八臂の姿のあたしは戦勝の女神でもある……みんなのピンチに思わず変身しちゃったわ……正体を現わしてしまったからにはもう人間界に留まってはいられないの、ごめんなさい」
 そう言い残してBENTENはステージから走り去り、スタッフが慌ててその後を追ったが、その姿は空気に溶け込むように薄れて行き、消え失せてしまった……。

 BENTENが姿を消してから数か月後、彼女が世に出るきっかけとなった写真を撮影した件のカメラマンは江の島にいた……目の前には裸で琵琶を抱える弁天像。
(なるほど、あなたは芸能の女神だったんですね……道理で常人離れした美しさを持ち、芸事全てに精通していたわけだ……そして……)
 江の島にはもう一体の弁天像が安置されている、こちらは戦勝の女神である八臂像。
(そして人々のピンチに直面して、戦勝の神に変身したんですね……この二つの像にはどちらにもあなたの魂が宿っているのかな……)
 二体の弁天像は何も語らない、しかし、これからも人の世を見守ってくれるだろう。
 なぜなら、今も江の島を訪れて弁天像に手を合わせる人々は後を絶たないから、そしてこれからもずっと……。


 

 
 
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