生涯勉強 後編

文字数 2,089文字

 勉は通常の修行期間を終えても帰って来なかった。
 彼から届いた一通の手紙、そこにはごく手短に、『もっと勉強したいので行を続けます、もうしばらく待っていてください』とだけ書かれていた。
 僧侶になろうとしている者がもっと修行したいと言っているのだ、何一つおかしいことではないし、むしろ歓迎すべきことだ。
 だが、彼は章子の婚約者でもある、婚約者を待つ娘の気持ちになって考えると気がかりがないでもない。
 そもそも飄々として風のままに飛んで行ってしまってもおかしくないような男だ、修行を続けていることに疑いを抱いてはいないが、田舎の小さな寺に納まるような人物ではないのかもしれないとも思っている、もっと広い世界へ飛んで行ってしまうのではないか、と言う危惧も抱かないではない、例えばインドへ修行に行ってしまって数十年帰らないなどと言うことだって考えられないことではない。

 だが、章子は何の不安も抱いていないように見える。
 淡々と彼の帰りを待っている姿を見ると、つい『さっさと帰って来い』などと思ってしまう。

 ある日、その心の内を章子に漏らすと、こともなげにこう言った。

「世の中に何一つ変わらないものなんてないんじゃない? 物事っていろんな条件が重なって決まって行くものでしょ? 条件が変われば結果も変わるものよ、心配したってしょうがないじゃない」
……照見五蘊皆空度一切苦厄 ……色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是……

「物事って、何かの導きでそこに生まれるものでしょ? 何もない所から突然何かが生まれたり、なくなったりはしないものよ、あたしたちって何かの導きで出会ったんでしょうけど、あたしが生きてきた人生と彼が生きてきた人生が響き合ったから惹かれ合ったんだと思うの、この先、どういうことになっても、あたしがこれまで生きて来たこと、彼がこれまで生きて来たことは消えないわ」
……是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法……

「でも、あたしは日々変わって行ってるし、彼もまた変わって行ってるはず、昨日のあたしと今日のあたしは違うし、昨日の彼と今日の彼も違ってるはずよ、それは成長してるってことでしょ? 人は死を恐れるけど、それは誰も死後の世界を知らないからよ、でもね、あたし、死後の世界って産まれる前の世界と同じだと思うの、それは恋も同じよ、もし、彼がずっと帰ってこなかったとしても、彼を知る前に戻るのと同じことだと思うのよね」
……無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽……

「そりゃぁ彼を失いたくはないわよ、早く帰って来て欲しいと思うわ、でもね、そこにばっかりこだわっていたら前には進めない、こだわるってことはそこにじっとしてるってことだと思うのよね、じっとしてたら新しい自分には会えないわ」
……無苦集滅道無智亦無得以無所得故……

「だから心静かに待てばいいんだと思う、何かを失うことを恐れてたら心は自由じゃなくなるでしょ? 彼が帰ってこないんじゃないかなんて思ってたら息苦しくなるだけ」
……心無圭礙無圭礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想……

「あたしはあたし、彼は彼、二人の人間が別々の人生を歩んできて、ある時出会って惹かれ合った……それで良いじゃない、彼を縛ろうなんて思わない……でもきっと大丈夫よ、いつまでかかるのかは知らないけど、彼はきっとあたしのところへ帰って来てくれるって信じてる、一回りも二回りも大きくなってね、だからあたしだって成長してなきゃ……彼が修行に出る前のあたしのままじゃ恥ずかしいわ、彼を縛りたいって思ったら、それは自分自身をも縛ること、そんなの意味ないじゃない、彼は彼で流れて行って、あたしはあたしで流れて行くの、でも惹かれ合う心を持っている限り、またきっと会える、そう信じてるの」
……究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経……

 ……参った……章子はいつの間にか般若心経を理解して自分のものにしていた。
 『門前の小僧習わぬ経を読む』と言うが、ここまで深く理解していたとは……。
 わしはまだまだ修行が足りない、一生勉強だな、こりゃ……。

 そんな折、勉から便りが届いた。
 今修めておきたい行は一通り終えたので、小僧の仕事を一通り覚えたら帰る、とあった。
 行を修めたのならもう立派な僧侶なのだが、この寺に戻れば小僧に過ぎないんだと考えているらしい。
 ふわふわしている様で、意外に脚が地についた考え方もできている、想像以上の大物なのかも知れない。
 章子も笑いながらその手紙を読んでいたが、読み終えると胸に押し当ててちょっと涙ぐんだ。
 達観しているようでいて、恋する乙女の心はまた別のようだ……。
 章栄は二人の行く末に安堵し、未来を照らす明るい灯が確かに灯るのを感じていた。
 
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