黒髪ポニーテールは『普通』の印

文字数 3,850文字

 

 昨年末から付き合い始めた彼氏との初めての夏、詩歩は彼に誘われてプールに来ている。
 流れるプール、波が出るプール、大型スライダーなどが揃い、ところどころにヤシの木も配されているトロピカルムード満点の大規模プールで、夏のデートの定番スポットでもある。
 実はこのプールに来るのは初めてではない、しかし、そのことを自分から口にするつもりはないし、彼にも多分訊かれないだろう。
 水着になるのはずいぶんと久しぶりだ、クロゼットにあった水着は大胆なビキニとスクール水着っぽいデザインのワンピースだけ、どちらも着る気にはなれなくてショッピングセンターを見て回った末に濃い青の縁取りが付いたセパレート型を選んだ、似合う似合わないよりも、今の自分の気分を第一に選んだものだが、彼も気に入ってくれたようだ。
「お昼、何が良い?」
 ひとしきり泳いだ後、彼に訊かれた。
「う~ん、焼きそばかな」
「やっぱりそれが定番だよね、じゃちょっと買ってくるわ」
 彼が行ってしまうと、詩歩はポニーテールに束ねていた髪を解いた、その方が早く乾くと思った、それだけの理由だったのだが……。
 髪を解くと、若い男性の二人連れがこちらをチラチラ見て、なにか言い合っている。
 詩歩はそれに気づいていながら気づかないふりをしていた、出来れば話しかけられたくなかった。
 特にキザっぽい人たちではないし、彼と一緒にいる時からチラチラ見ていたからナンパしようと狙っているわけではなさそうだが、詩歩はこのタイプの男たちを随分と見て来たからわかる……いわゆるアイドルオタクの匂いがする。
 案の定……意を決したように二人が近付いて来た……。

▽   ▽   ▽   ▽  ▽   ▽   ▽   ▽

 詩歩はかつてTYO36と言うガールズアイドルグループの一員だった。
 その頃はしばしば水着になってグラビアも飾っていた、このプールでも何度か撮影している、もっとも、その頃はオープン前、6月の晴れ間を狙っての撮影なので少々肌寒かったし、今日のような賑わいもなかったが。
 15歳・中学3年の時にオーディションを受け、高1から活動を始めた。
 最初は見習い扱い、2年後にはステージに上がるようになったが、立ち位置は後列端っこ、徐々に前へ前へと立ち位置を変えて行き、20歳の時には『総選挙』で10位にランクされて、いずれはセンターを狙える位置にまで昇って行った。
 しかし、詩歩は唐突に『卒業』した。
 理由は70年代アイドルの言葉を借りれば『普通の女の子』に戻りたかったから。

 まだ詩歩が『その他大勢』だった頃からそれは始まっていた。
 テレビ局やレコード会社、大手スポンサー企業などのパーティに呼ばれ、歌と踊りを披露する、そんな時はいつもより露出の多い大胆な衣装を着せられた。
 そしてパフォーマンスの後はコパニオンよろしくお酌をして回る。
 17~8だった詩歩はパーティ会場をグルグルと歩き回るばかりだったが、中心メンバーたちはお偉いさんたちのテーブルに呼ばれてかなり親密にお酒の相手をしていた。
 その頃、詩歩に限らず『その他大勢』たちはそんな中心メンバーの姿を羨んだものだ、いつか自分たちもあんな風にお偉いさんたちと親しくなりたいものだと。
 だが、『え~と、名前は?』と訊かれていたのが『詩歩ちゃん、こっちこっち』と声をかけられるようになって来ると、実情が見えて来た。
 激しい順位争いを繰り広げている中心メンバーたちはお偉いさんたちの中の誰かに取り入ろうと必死だったのだ。
 そして『総選挙』でトップ10に上がったころからは、さも当たり前のように『お持ち帰り』を打診されるようになった。
 そして口にこそ出さないが、詩歩のライバルたちはもう『お持ち帰り』に応じているようだったが、詩歩はやんわりと断り続けていた。
 すると、それまで順調にランキングを上げていた詩歩だったが、次の総選挙でトップ10から滑り落ち、それにつれて立ち位置もセンターから離れて行った。
 その頃から、詩歩の雰囲気は少しづつ変わって行った。
 元々切れ長の目を持つ和風寄りの端正な顔立ち、思い切り明るく振舞うことで華やかな雰囲気を自己演出していたのだが、無理な演出を止めると端正な顔立ちはアンニュイな雰囲気も醸し出すようになったのだ。
 すると、不思議なものでファンの支持は上がって行った。
 明るく華やかな女の子は目を惹きやすい、だがグループの中にあって少し異質な、落ち着いた雰囲気を醸す詩歩には熱心なファンが付くようになったのだ。
 ネットでの非公式な人気投票ではセンターに迫るほど、ライブでの声援もそれを裏付けていた。
 少々怪しい総選挙のランクもさすがに再び上昇し始めたが、詩歩は相変わらず『お持ち帰り』には応じていなかった。
 すると、徐々にメンバーの中で浮くようになってきてしまったのだ。
(あたしはあんなことまでしてランクアップに必死なのに、あの娘は何もしないでランクを上げて……)
(もしかして、プロデューサー本人と?……)
(あんたなんかに負けないわよ……)
 そんな妬みや邪推に晒されるようになると、詩歩はすっかり嫌気がさして来た。
『普通の女の子』に戻りたくなったのだ、今ならまだ間に合う、今がぎりぎりの崖っぷちかも知れない……。

 詩歩が脱退の意思を告げると、プロデューサーは強く慰留した。
 ひとつには詩歩が持つ固定ファンを失いたくないと言う欲から、もうひとつは暴露を恐れる卑しい思惑から。
 それを見て取った詩歩はきっぱりと言い放った。
「心配しなくても大丈夫ですよ、どうせ喋ってももみ消されるんでしょ? テレビ局や出版社のパーティにだって行ったじゃないですか、もしもみ消されないんだったら芸能界から去って行った先輩たちがとっくにやってますよ、それくらいは心得てます」
 プロデューサーは詩歩の真っ直ぐな視線からふと目を逸らしてあいまいに頷いた。
「まあ……脱退に意思も固いようだし、そこまでわかっているなら良いだろう……」

 そして数週間後に詩歩の『卒業』が発表された。
 『大学に行きたいから』と言うもっともらしい理由を付けて。
 そして形の上だけ入試を受けて見事に不合格になると、詩歩に関する報道はそれっきり無くなった。

 元々読書好きだった詩歩は書店に就職した。
 店のスタッフは詩歩が元TYO36と知っているが、だからと言って詩歩を特別扱いはしない、詩歩にはそれが心地良かった。
 TYO36時代には背中まで届く栗色のロングヘアーが売り物だったが、黒髪に戻しセミロングにしてポニーテールにまとめているとお客さんにも意外と気づかれない。
 レジに立てば時折は『もしかして詩歩さんですか?』などと聞かれることもあるが、そんな時、詩歩はあいまいな笑顔を向けることで肯定も否定もしない、詩歩が担当しているのは文庫本のコーナー、雑誌売り場に近寄らなければあまり気づく人もいない。
 詩歩は『普通の』生活を手に入れたのだ。

 今付き合っている彼も元TYO36の詩歩とは知らずに、文庫本コーナーの店員と常連客として親しくなった。
 読書家の彼はアイドルにはあまり興味がなく、付き合い始めてしばらくしてから『元TYO36の誰かに似てるね』と言われた、グループの中では少し異質だった詩歩は、アイドルには疎い彼の印象にも少し残っていたらしい、名前までは憶えていなかったが。
 そう言われて詩歩は素直にカミングアウトした、その時の彼のびっくりした顔は、詩歩を元アイドルとしてではなく、書店店員の詩歩として好きになってくれたことを示していた。

▽   ▽   ▽   ▽  ▽   ▽   ▽   ▽

「もしかして、元TYO36の詩歩さんですか?」
 近付いて来た二人連れにそう訊かれた。
「違います、時々似てるって言われますけど……」
 詩歩の言葉にあいまいに納得したようで、二人は『スミマセン』と言って離れて行った。
 詩歩は解いていた髪を再びポニーテールにまとめ、焼きそばのパックを二つ手にして戻って来る彼の姿を見つけて軽く手を振った。
 彼も焼きそばをちょっと上にあげて応えてくれた……。
 
 人気と言う得体の知れない、曖昧なものに振り回され、野心と妬みが渦巻いていた世界。
 権力と欲望と言う大波に翻弄される小舟に乗り込もうと縋り付く仲間たち。
 振り落とされればその世界から消えて行く他はない。
 そんな世界に身を置きながらも、詩歩は意を決して小舟から手を離した。
 そうやって取り戻した『普通』の生活。
 隣に腰を下ろした、取り立てて目立つところはないが優しく誠実な男性、手渡されたなんのへんてつもない焼きそば、彼がちょっと奮発して連れて来てくれた、カップルや家族連れで賑わうプールの休日、ブティックでもデパートでもなく、ショッピングセンターで買った水着、走り回る子供たちと、危ないとたしなめる母親たちの声……。
 そこに無上の幸せを感じられるのは、普通ではない世界に身を置いていたからなのだろう。
 詩歩は『普通の幸せ』の本当の価値を知っている、そしてそれを決して手放す気はない。

              (終)
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