かごめ

文字数 3,954文字

 


 山形の銀山温泉。
 常吉は七十五歳になる今でも老舗旅館の番頭を務めている。
 
 
 銀山温泉の歴史は古く、十五世紀に銀山の鉱夫によって掘り当てられたと言われるが、交通の便が悪い山奥ゆえに長い間秘湯とされて来たが、近年注目されて来ている。
 中学を卒業してすぐに下働きに入って六十年、常吉はずっと銀山温泉と共に生きて来た。

 国民保養地に指定された時、常吉二十三歳。
 TVドラマ『おしん』で注目され、全国にその名が知れ渡った時、常吉三十八歳。
 その大正時代の雰囲気を色濃く残す家並の保存条例が制定された時、常吉四十一歳。

 その都度湯治客は増えて行ったが、それでもまだ『秘湯』だった。
 そして、常吉五十四歳の時、山形新幹線が新庄まで延びたことによって交通の便がかなり改善され、人気の観光地、温泉地となって行った。
 だが、今でもなお新幹線の駅からバスで四十分かかる上、温泉街には車が乗り入れられないから交通の便が良いとは言えない。
 もっとも、その不便さが銀山温泉街の景観や風情を保ってくれていることもまた確かだ。
 常に旅館は満室、人出も多い、しかし賑わいはあっても喧騒はない、そんなところがまた人々を惹き付けるのだろう。

 常吉は六十年間を過ごして来たこの街を心から愛している。
 とうに隠居していてもおかしくない歳になっても番頭を続けているのは、後継者と目されていた男が早世してしまった事ももちろん関係しているが、常吉自身、ここで番頭を続けていることが好きで少しも苦にならないからだ。
 この歳になるまで妻帯もしなかった。
 別に女嫌いと言うわけではなく、独身主義を貫いていると言うわけでもない、ただ忙しく立ち働いているうちにいつの間にか七十五になっていた、そう言うことだ。

 しかし、今年はこの温泉街にも人影はまばらだ。
 コロナウィルス禍による外出・旅行の自粛、どこでも同じだろうが、ここもその影響をもろにかぶっていて、昨年までは賑わっていた街をガス灯の灯りが虚しく照らし出している。

(おや?……またあの女性(ひと)だ……)

 このところ、しばしば見かける女性がいる。
 黒地に紫陽花が染め抜かれた浴衣に身を包んだ女性だ。
 従業員でないことは間違いない、従業員なら浴衣姿のはずはないし、銀山温泉の生き字引と言われる常吉のことだ、他の旅館であっても従業員の顔は全て見知っている、まして彼女ほどの美人なら見忘れるはずもない。
 この街では浴衣の女性を見かけることは珍しくない、旅館の部屋着としての浴衣だけでなく、きちんとしたおしゃれ着としての浴衣を着て歩いている女性も多い。
『大正ロマンの香り漂う』と評される街並み、若い女性ならば和装で散策してみたくなるのは頷けるし、着付けサービスをしている宿も少なくないのだ。
 だが、湯治客と言うわけでもなさそうだ、彼女を見かけるようになったのはひと月も前のことから、自炊宿などない温泉街だ、ひと月は長すぎる。
 
(いつからいるんだろう……)

 コロナ禍以前は多くのお客さんが詰めかけていた、自分の宿のお客さんならいざ知らず、一人一人の顔など憶えていられるはずもない、それ以前からいた可能性もある。
 そして、もうひとつ不思議なのは、誰も彼女のことを話題にしていないことだ。
 外出自粛でお客さんがまばらになった今、長期にわたって滞在してくれているお客さんで、若い美人とあればその話で持ちきりになっても不思議はないはずなのに……。

 常吉は男としては涸れかかっている、だが、恋心はまた別だ。
 おそらくは五十歳は年下の女性、だが恋心はそんなことには無頓着だ。
 彼女をどうにかしたいと思わないはずもない、男なら、まだ完全に涸れ果てていないならば当然のことだ、だが、そんなことは出来るはずもないこともわかっている。
 それでも出来ることならば彼女と二人湯に入り、何もできないまでも彼女の身体を抱いて眠りたい……そんな思いが日ごとに募って行き、今朝、常吉は何十年ぶりかに夢精を経験した……。
 
▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 かごめかごめ
 籠の中の鳥は
 いついつでやる
 夜明けの晩に
 鶴と亀がすべった
 後ろの正面だあれ

 常吉は歌には疎い、歌謡曲、演歌にいたっても知っている曲は数少ない。
 そらでも歌えるのは、毎晩橋の上でショーが行われる花笠音頭、そしてこのかごめかごめくらいだ。
 小さい頃、母親にこの歌を教わった時、怖くなって泣き出してしまったことを憶えている。
 寂しげな曲調もさることながら、籠を被せられて逃げられない鶏のイメージが浮かんで怖かったのだ。
 他の子供たちと遊ぶ年齢になると、遊びの歌として何回となく歌い、耳にして来た。
 言葉の意味が分かるようになると、いかにも不思議な歌だ。
 『かごめ』は六角形の籠目なのか、それとも『籠込め』なのか。
 神に仕える女性・神具女がなまったものだと聞いたこともある。
 『籠の中の鳥』は輪に囲われたオニの事だろうと思うのだが、輪を作って回ると言う動作は何やら呪術的なものを思わせる、オニは目隠しをしなければならない、もしその決まりを破って『後ろの正面』を見たら不吉なことが起きる……そんな想像もしてしまう。
 『夜明けの晩』とはいつのことなのか、明け方と考えるならば、子供の遊び歌として不自然だ。
 『鶴と亀が滑った』とは……意味はその通りだとするならば脈絡がなさすぎる、長寿を象徴する鶴と亀が滑るとは、どことなく死をイメージさせる。
 『後ろの正面』とは、遊びの中では『真後ろ』を指しているのだと決まっていたが、『後ろ』なのに『正面』とは妙な気がする。
 そんな数々の疑問は老境に達した今でも解けない、口ずさんで元気が出るような歌でもない、それなのについ口を衝いて出て来てしまうのだ。
 最近ではそんなことも少なくなっているが、何か心に引っかかるものがある時、気がかりなことがある時、かごめかごめは常吉の頭に浮かんでくる。

 夢精してしまった朝、常吉はいつものように宿の前を掃き清めていた。
 そんな仕事は女中や下働きに任せても良いのだが、お客さんを迎える大事な玄関だ、常吉は六十年間ずっとこの仕事を続けている。
 そして、ふとあの歌が脳裏に浮かび、小さな声で呟くように歌った。

 かごめかごめ
 籠の中の鳥は
 いついつでやる
 夜明けの晩に
 鶴と亀がすべった……。

「後ろの正面だあれ……」

 ふいに背後から若い女性の声がした。
 常吉が振り返ると、そこには紫陽花の浴衣を着た若い女性の姿が……。

「なんだかお恥ずかしいですな……こんな歳になって子供の遊び歌なんて……」
「いいえ……」
 彼女はふっと微笑んだ。
「籠の中の鳥は……」
「そうですな、私はこの六十年、ほとんどここから離れていません、私自身が『籠の中の鳥』なのかもわかりませんなぁ……」
「いついつでやる……」
「ははは、それは死ぬ時なのかもわかりませんな……」
「夜明けの晩に……」
「そう、まだ明けきらないこんな時間のことを言うのかも知れませんな……」
「鶴は私……」
「え?……」
「千年の時を永らえる……私は鶴……」
「……では私は亀ですかな……あちこちガタが来始めていてとても万年は生きられそうにはありませんが……」
「それは、この世での話……」
「なるほど、あの世でならば万年も永らえることも出来るのかもわかりませんな……このひと月ほど貴女を見続けておりました……年甲斐もなくときめいてしまいましてな……」
「後ろの正面……だあれ?」
「貴女……ですかな?」
「はい……お迎えに参りました……私と一緒に参りましょう」
 常吉は心からの笑顔を浮かべた……。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「常吉さんはいつものように箒を持って……ふと振り向いて誰かと話しているように見えました……そしてふっと……体から力と言う力が抜けたみたいにふわりと崩れ落ちたんです……」
 常吉の葬儀の席、その朝、向かいの旅館で同じように玄関前を掃き清めていた女中がそう話していた。
「お医者様の見立てでは心臓発作だと言うことだが……」
「ええ、でも全然苦しんだりした様子はなくて、本当に魂が抜けたかのように……顔も穏やかだったでしょう?」
「ああ、まるでこれから天に昇って行くのを喜ぶように微笑んで……あんな死に顔は見たことないよ」
「ご褒美だったんじゃないでしょうかねぇ」
「ご褒美? 誰からの? 何に対して?」
「常吉さんは番頭さんひと筋に生真面目に生きて来られましたし、裏表のない、優しい良い人でしたからこの街の誰もが好いていましたよ、天がそんな常吉さんを召さなければならない時が来たのなら、せめて苦しみもなく、穏やかに連れて行ってあげたいと思うんじゃないでしょうかねぇ……」

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 数年後、コロナ禍は収束し、温泉街も活気を取り戻した。
 常吉が亡くなったのが閑散とした時期だったのが幸いして後継となる番頭も無事に育ち、常吉が勤め上げた旅館も盛況を見せている。
 そして、紫陽花の浴衣の女性は姿を見せていない。
 死期が迫っている人間にしか見えないのか、それとも人出に紛れているだけなのか……。
 それを知る人物は既にこの世の者ではないので、誰にもわからないことだが……。
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