春色の音

文字数 2,829文字




「姉ちゃん、迫力ねぇなぁ、トランペットはもっと朗々と鳴らさなきゃ『らしく』ねぇよ」
「そんなこと言ったって、これが精一杯なのよ」
「肺活量ねぇのな、そんなんでどうしてトランペット選ぶかなぁ」
「自分で選んだわけじゃないもん……」

 伊藤真桜(まお)は高校一年生。
 中学の頃からブラスバンド部に所属していて、高校でも迷わずブラスバンド部の門を叩いた。
 しかし、幸か不幸か、真桜が進学した高校のブラスバンド部は部員八十余名の大所帯、部員だからと言って必ずしもステージに上がれるとは限らない。

 中学時代、真桜の楽器はフルートだった。
 小学校五年生からやっていたのだが、中学のブラスバンド部はそれほど厳しくはなく、高校に入ってみるとフルートの腕前では先輩はおろか同期の中でも下の方。
 そして、顧問の先生にはトランペット転向を勧められた、『トランペットのパートがちょっと足りない』と言うだけの理由で……勧められたと言うべきか、強制されたと言うべきか……。
 しかし、少しばかり引っ込み思案な真桜は『でも私、フルートが良いんです』とは言えなかったのだ、ステージに上がれるようになるには近道かも知れないし……。


 弟の正彦は一月生まれ、四月生まれの真桜とは二歳近く離れているが、学年では一つ下だ、そして、真桜の後を追うように、やはり五年生から小学校のブラスバンドに入り、中三の今も続けている、楽器は最初からトランペットだ。
 そして、一年生の頃からソロパートをふんだんに与えられる腕前……悔しいが弟に教えを請う他はなかった。
 憎まれ口は気に食わないが、親身になって教えてくれたし……。
 そして、正彦が高校受験の為の受験勉強に入る頃には、『朗々と』とは行かないまでも、スムースに音が出せるようになっていた。

 一年後の、また桜が散り始める時期のことだ。
 正彦は全国大会でも実績のある、ブラスバンドの名門校に進学、土日も練習がある。
 真桜はいつもの公園で、一人で練習していた。
 
「とてもお上手ね」
 公園でよくベンチに腰掛けて編み物をしているおばあさん。
 しばしば顔を合わせるので、会釈くらいはする間柄になっていたが、声を掛けられたのは初めてだ。
「私なんか……なかなか朗々とした音が出せなくて」
「でも、とても優しくて暖かい音色よ」
「え?……」
 言われてみれば、ブラスバンド部の先輩だって、輝かしく張りのある音を出す人もいればシャープなハイノートが特徴の人もいる、トランペットは唇を震わせて音を出すのだから、それぞれが違う音になって当たり前だ……。
「あ、ありがとうございます、なんか吹っ切れたみたい……」
「え? 別に楽器に詳しいわけじゃないのよ、ただ感じた事をそのまま口にしただけなんだけど……」
「いえ、なんか迷いがすっと消えたみたいで……」
「そう? だったら嬉しいけど」
 おばあさんはにっこりと優しく微笑んだ。

 その日、桜が舞うベンチに並んで腰掛けて色々な話をした。
 おばあさんは自分の事はあまり話さなかったが、若い頃に見た『道』と言う映画が大好きで、映画の中でヒロインがトランペットを吹くシーンを見て、自分も吹いてみたかったのだと言う。
「その頃は女の子がラッパなんてはしたない、みたいな雰囲気でね……トランペットって大きな音がするから密かに練習するわけにも行かないでしょう? だから諦めちゃったけど、『道』の『ジェルソミナ』は今でも一番好きな曲なの、ニーノ・ロータの曲はみんな好き、トランペットにも合うわよね」
 ニーノ・ロータはもちろん知っていたが、『ジェルソミナ』は知らなかった。
 真桜は楽譜を探して吹いてみると、哀愁の漂うとても美しいメロディ、自分の音にぴったりの曲だとも思った……。

「こんにちは、『ジェルソミナ』練習してみたんですけど、聴いて貰えます?」
 一週間後、公園でおばあさんに会った時、目の前で『ジェルソミナ』を演奏した。
 まだまだ練習が足りず、こなれていないと思っていたが、不思議とスムースに吹けて、吹いている自分自身にまで染み入るような心地がした。
「本当に上手よ、ありがとうね……いっぺんに六十年も若返った気持ちよ」
 おばあさんもとても喜んでくれた。

「伊藤さん、もう一度今のを吹いてみて」
 ブラスバンド部の練習前、音楽室で一人『ジェルソミナ』を吹いていると、顧問の先生にそう言われた。
「自分の音を見つけたみたいね……とても優しくて暖かい音色よ」
 その日から真桜はステージメンバーに選ばれた、それだけではない、ほどなくブラスバンドのレパートリーに『ジェルソミナ』が加えられ、真桜はソロパートを任されるようになった……。

 ステージメンバーに選ばれると土日も学校で練習がある、真桜はあのおばあさんに会いたい、会って色々とお話したいと思っていたが、なかなか時間が取れずにあの公園からも足が遠のいてしまった。

 久しぶりに公園に行ったのはつかの間の夏休みのこと。
 いろいろと時間帯を変えて行ってみたものの、おばあさんには会えなかった。
(暑い時期だもん、お年寄りは公園には来ないわよね)
 残念だったが、そう自分に言い聞かせて納得し、真桜はまた練習漬けの日々に戻って行った。

 次に公園を訪れたのは冬休みに入ってからのこと。
 やはり、おばあさんには中々会えない。
(寒い時期も無理よね……)
 がっかりしながらトランペットをケースから取り出し、『ジェルソミナ』を吹き始める……。

「あの……」
 五十代も半ばだろうか、初老の女性に声を掛けられた。
「あ……」
 真桜にはそれが誰なのか、すぐにわかった、あのおばあさんに良く似ていたから……。

 おばあさんは夏場に体調を崩して入院し、そのまま晩秋の頃に帰らぬ人となっていたのだそうだ。
 病院は公園のすぐ近く。
 入院したばかりの頃、真桜が公園でトランペットを吹くと、窓を開けて聴き入ってくれていたのだそうだ。
『またあの娘に会いたいねぇ……』と言いながら。

「そうだったんですか……私も会いたかったんです、おばあさんのあの一言で、私には私の音があるんだと気がついて、それからはトントン拍子で……おばあさんのおかげです」
「ねぇ、もし良かったら、あたしにも聴かせてくださる? 母が一番好きだったあの曲を……」
「はい、もちろんです」

 真桜のトランペットから哀愁を帯びたメロディが流れ出す。
 おばあさんに気づかせてもらった、自分自身の音色、優しく温かみのある音色で……。
 
 冬枯れの公園、でも、真桜にはあの日と同じように桜が舞い散っているのが見えたような気がした。
 そしておばあさんの優しい笑顔も……。

(終)
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