ベリー・ショート

文字数 6,757文字

 本来6月分ですが、ようやく書き上げられました。



「早紀!!! どうしたの!? その髪!」
「どうしたって……切ったのよ」
「そうじゃなくて、あたしが聞きたいのは『どうやって』じゃなくて『どうして?』よ」
「うっとうしかったの…………」
「うっとうしい……って……」
「手入れも大変だし……」
「手入れが……って……」
「それに、もう伸ばしてる必要なくなっちゃったし……」
「あ……」
 それを聞いて由美は愚かな質問だったなと後悔した……。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 早紀と由美は大学時代からの友人、卒業後も同じ会社に同期入社した仲。
 会社を辞めるまでの早紀は腰の近くまで届く艶やかな黒髪がトレードマーク、いや、チャームポイント……アイデンティティだったと言っても過言じゃなかった。
 早紀と初めて顔を合わせればまず真っ先にその見事な黒髪に目が行くくらいに。
 
 そして、由美は早紀がそれまで髪を切らなかった理由も知っていた。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

20年ほども前のこと……。
夜もかなり遅くなった頃、早紀の母方の実家である青木家の電話が鳴った。
「もしもし、青木ですが」
「山崎早苗さんのお母様でお間違いないでしょうか?」
「ええ、早苗は私共の娘ですが……失礼ですがどちら様ですか?」
「申し遅れました、警視庁の者です」
「警視庁?」
「大変お気の毒ですが、早苗さんが亡くなられました」
「……え?……どういうことですか?」
「旦那様と一緒に事故に遭われまして……」
「…………」
「どうした?」
 早苗の母、早知江が電話口で絶句し、へなへなと座り込んでしまったのを見て、夫の和夫が受話器を受け取った。
「あ、電話代わりましたが……」
「山崎早苗さんのお父様で?」
「ええ、そうですが」
「警視庁の者です、大変お気の毒ですが……」
 警視庁の署員はもう一度同じことを繰り返さねばならなかった。
「申し訳ありませんが、○○病院までご足労願えますか?」
「……わかりました、○○病院ですね? 今から伺います……」
 孫娘の早紀はもうぐっすり眠っているのは幸いだった。
「俺が行って来る、お前は早紀と一緒に待っていなさい」
 そう言い残して和夫はパジャマを着替えると車に乗り込んだ。

「娘と夫に間違いありません、どうしてこんなことに……」
 霊安室で和夫は娘の早苗と、その夫である孝彦の遺体を前に立ち尽くした。
「関越自動車道でトレーラーとダンプカーが接触して横転する事故がありまして、ご夫妻は運悪くそのすぐ後方を走られていまして、横転したダンプカーに突っ込んだ形で……」
「孝彦君に落ち度はなかった?……」
「少なくとも重大な過失は」
「そうですか……」

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 こうして早紀は孤児となり、母方の祖父母に引き取られることになった。
 その時まだ小学校3年生、しばらくは両親の死を受け入れられずにいたが、ようやく受け入れられるようになると今度は猛烈な哀しみと淋しさに襲われた。
 ただ、早紀にとって幸いだったのは優しい祖父母の存在、昼間は気丈に振舞っていても夜になると涙があふれて来て眠れない日々を送る早紀を、祖母は暖かく抱きしめて慰め、癒してくれた。
 早紀が髪を伸ばし始めたのはその1年後から。
 母親の早苗も背中まで届く黒髪が自慢だった、毎日仏壇に飾られている父母の写真を見て自分も母のようになりたいと思ったのだ。
 そして日毎に亡き娘に似て来る孫娘の姿に祖父母も目を細めてくれて、とりわけ祖母は手入れをしてくれながら娘の思い出を語ってくれる……早紀にはそれが何よりうれしかった……母が自分の中にまだ生きていてくれるように思えて……。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 その後、もちろん両親がいないと言う事を淋しく思ったりすることはあった。
 授業参観や運動会に他所の家では母親や父親が来てくれるのに自分のところは祖父母、でもそのことを揶揄されたりはやし立てられたりすることもなく、早紀は真っ直ぐに育って行った。
 由美と知り合ったのは大学の新入生オリエンテーションの席、たまたま早紀の真後ろに座った由美が見事なロングヘアに見とれて、思わず声をかけたのがそもそものきっかけ。
 早紀が早くに両親を亡くして祖父母と暮らしていることはすぐに知ったが、早紀はそれを恥じるようなこともなかったので由美もありのままに受け入れられた。
 家に遊びに行っても暖かく迎えてくれるお祖父さん、お祖母さんを由美もすっかり好きになっていたくらいだ。
 そして親友として大学の4年間を共に過ごし、同じ会社に就職することになった時も手を取って喜び合った。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 入社して3年ほどが経った頃のこと。
「しばらく会社を休むことになるわ」
「何かあったの?」
 早紀の沈んだ様子に、もしや、と思ったがその通りだった。
「祖父がね、亡くなったの」
「え? こないだお会いした時はお元気だったのに……」
「クモ膜下出血……寝ている間に逝けたのがせめてもの……」
 確かに既に80代半ばだったし長患いなどしなかったのは幸いだったかもしれないが、残された家族にとってはあまりに急で気持ちの整理もままならないだろう。
 残されたのは早紀と祖母だけ、葬儀のためだけの忌引きでは足りないだろう……。
「お祖母さんを元気づけてあげて……早紀も辛いだろうけど」
「うん、わかってる……」
「早紀も身体に気を付けてね」
「ありがとう……」
 それが早紀と会社の中で交わした最後の会話となった。
 休暇願は休職願となり、結局は退社届を提出することになったのだ。
 理由はお祖母さんの介護。
 50年以上も連れ添った仲の良い夫婦だったので、お祖母さんの落ち込みは激しく、心ここにあらずと言った状態になってしまい、家の中で転倒して足の骨にひびを入れてしまったのだ。
 亀裂骨折の方は程なく癒えたが、元々腰椎狭窄症を抱えていたので筋肉の衰えと共に腰痛を再発してしまった、その上80代の高齢、病院のベッドから起き上がれずにいる頃から認知症の症状が出始めていた。
 高齢者が怪我をして動けなくなるとそうなるのは比較的よくあること、しかもお祖母さんの場合は心労や喪失感も重なっている、症状の進行は速かった。
 怪我が癒えて家に戻れれば回復するのでは……早紀のそんな願いも、祖母の頭に宿った病は聞き入れてはくれなかった。

「お父さんがいないの、どこに行ったのか知らない?」
 夜中に何度も起きて来ては家の中を探し回り、最後は早紀を起こしに来る。
「家に帰らなきゃ……」
 ここがお祖母ちゃんの家なんだと何度言い聞かせても理解できない、50年間住み続けている家なのに……ここで結婚生活を始め、子育てをした思い出が詰まった家のはずなのに。
「お祖母ちゃん、やっと見つけた……さあ、おうちに帰ろう?」
 ふらふらと出て行ってしまったものの帰り道がわからなくなってしまうことも何度もあった、近所の人に見つかれば帰してくれるのだが、そうでなければどこを歩いているのかもわからなくなってしまう、一日中探し回ったこともあった、腰痛を抱えているので歩みは遅いが、時間が経てば経つほど遠くまで行ってしまう、GPS付きの携帯をポケットに入れておいても家に置いて行ってしまう、そのような電子機器は自分の物だと認識できず、早紀の物だと思ってわざわざテーブルの上に置いて出かけてしまうのだ。
 不本意ながらお金は隠し、市営バスのシルバーパスも隠してしまったが、うっかり財布をテーブルの上に置き忘れてしまった時は電車に乗ってしまい、終着駅で駅員に保護されていた。
「できるだけ目を離さないようにしてあげて」
 近所の人たちは心配して言ってくれるのだろうが、夜中に何度も起こされて眠れないのだ、昼間うつらうつらしている間に出て行かれてしまっては防ぎようがない。
「はた目には徘徊に見えても、本人にとっては何か意味があるんです、外出を禁じるのではなく見守ってあげた方が……」
 ケアマネージャーや施設の職員はそう言うが、腰に爆弾を抱えている、次にもう一度転倒でもしたらおしまいだ、そう考えれば外出はしてほしくない。
「何かしたい、役に立ちたいと言う意欲は出来るだけ尊重してあげてください」
 施設の職員はそう言うし、早紀もできるだけそうしてあげたいと思うのだが、言うほど簡単なことではない。
 洗濯をすればセーターを縮ませてしまい、取り込めばてんでバラバラにしまい込んでしまい、自分でどこにしまったか忘れてしまう。
 料理をしようとしてガス台に火をつけたことを忘れてしまい、危うく火事になるところだったこともあった、食べ物をクロゼットにしまってしまい、腐りかけたそれを食べてしまってお腹を壊したこともあった。
 しかも、腰は完治してはいない、今は小康状態を保っているだけなのだ、いつ、どんなきっかけでまたひどい痛みに襲われるかわからない、もしまた入院するようなことがあれば認知症はさらに加速してしまう、そう思って家事全般を先回りするように済ませるようにしているのだが、その隙を縫うようにして動いてしまう。
「だって、世話になるばっかりじゃ悪いじゃない」
 そう思ってくれるのは嬉しいが、実際は何もしてくれない方が楽だし、余計な心配をしなくて済むのだが……。
 
 高齢者介護の分野では色々と研究が進んでいて、専門家を名乗る先生が「ああしたら良い」「こうした方が良い」とアドバイスする。
 だが、話はそう簡単ではない、研究は介護を『される側』の立場で進められているが『する側』のケアは通り一遍、真摯に向き合おうとすればするほど介護を『する側』は疲弊して行く。
 世話を必要とするのは子供も同じ、だが、子供は成長するにつれて世話を必要としなくなって行くし、親はその成長を楽しみに世話することができる。
 だが高齢者の場合は違う、衰えて行くばかりなのだ、その進行を少しでも遅らせることしかできない、自分の大切な人が緩やかだが確実に壊れて行くのを間近で見守ることしかできないのだ。

「もうどうすればいいの?」
 早紀もほとんど限界だった。
 仕事として高齢者に向き合う分には、言い方は悪いかも知れないが『そう言う動物なのだ』と割り切ることもできる。
 だが身内はそうはいかない。
 その人との思い出を持っている、しっかりと元気だった頃の姿を知っている、だからこそ壊れて行く様を見ながら世話を続けなければならないのは堪える。
 
(もう施設のお世話になるしかない)
 早紀もしばしばそう思う、だがどうしても踏ん切りがつかないのだ。

「早苗の髪は綺麗だねぇ」
 祖母はほとんど何もできなくなってしまっても正座した早紀の後ろに膝立ちとなって髪を漉いてくれる。
 もう娘と孫の見分けもつかなくなっている、それでも娘の早苗とそっくりの早紀の髪の手入れはちゃんとできるし、それを楽しみにもしてくれる。
 母と間違われていることを知っていても、早紀は祖母に髪を漉いてもらうのが好きだった、母の髪に憧れて伸ばし始めた頃からずっと。
 櫛を通して祖母のぬくもりが、愛情が伝わって来る心持がするのだ。
 髪を漉いてくれている時、鏡に映る祖母の目はいつものぼんやり、どんよりした目ではなく、生き生きと輝いて見える……この時間を共有できるうちは何とかこの家で……。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 だが、その幸せな時間もついには失われることになってしまった。
「危ない!」
 ドライバーはとっさに急ブレーキを踏んだ。
 横断歩道の手前に立っていた早紀の祖母が何の前触れもなくふらりと車道に踏み出して来たのだ、対向車もあってハンドルを大きく切ることもできない。
 床を踏み抜かんばかりにブレーキを踏んで、何とか寸前で止まれたが、ギリギリになって車に気づいた祖母は尻もちをついてそのまま立ち上がれなくなってしまったのだ。

「このお歳では手術はお勧めできません、手術で治せるかどうかもわかりませんし、そもそも手術に耐えうる体力が残っているかどうかも……」
 医師の説明を聞いて、早紀はもう無理だと考えざるを得なかった。
 手術なしでできる医療行為と言えばコルセットをはめて腰を固定することだけ、あとはできるだけ痛みを和らげてあげることだけ。
 強い痛み止めを使えば認知症が加速度を増して悪化していくことは目に見えている。
 痛み止め以外の医療が出来ないのならば、入院している意味はない、そして自分が誰なのかもわからなくなってしまえば住み慣れた家で過ごす意味もない。
 
「あたしが居眠りなんかしなければ、外に行くのを止めてあげていれば……」
 早紀は自分を責めて涙を流したが、その背中をケアマネージャーがそっと叩いた。
「早紀さんは充分によくやりましたよ、あなたが真面目に一生懸命介護に取り組んでいたのは良く知っています……私もそれに甘えて無理を強いてしまっていたかもしれませんね……後は施設にお任せしましょう……」

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

「お祖母ちゃんを施設に預けて帰る時ね、もうあたしの顔も覚えていないみたいだった……で、帰り道に美容院を見つけて飛び込んだの」
極端に短く切った髪……それは早紀にとって『贖罪』だったのだろう、由美はそう感じた。
両親を一度に失った早紀を育ててくれた祖母を最後まで看取ってあげられなかった……その自責の念が早紀を美容院に飛び込ませたのだと。
でもそれは……。
「あとあたしに出来ることと言ったら、この家を守っていくことくらい……」
 その言葉を耳にした時、由美は思わず早紀の手首を掴んだ。
「一緒に来て!」
「どこへ?」
「あたしのアパート、ワンルームだけど落ち着くまで居て」
「あたし……落ち着いてるけど」
「ううん、疲れ果てて立ち上がれないでいるだけ、落ち着いてなんかいないよ」
「そんなこと……」
「でも一緒に来て、この家に居ちゃだめ、おばあちゃんとの思い出が詰まってるところに」
「どこにも行きたくないんだけど……」
「でもだめ、とにかく来て!」
 
 自殺しちゃうんじゃないかとは考えなかった、でもとにかくここにじっとしていてはいけない、このままにして置いたら早紀は家と一緒に朽ち果てて行ってしまう、そう思った。
 とにかく都会に出て刺激を受けなきゃだめ、だってまだ20代なんだから、早紀の人生はこれからなんだから……。

▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽   ▽

 今、早紀の髪はようやく肩に届くまで伸びた。
「あれ? 美容院行った?」
 会社から帰るとちょっとだけ雰囲気が変わった早紀が待っていた。
「うん、どう?」
「うん、似合ってるよ」
 毛先を切りそろえて整えただけで極端に短くしてはいない、そして以前のように背中まで伸ばすつもりもないようだ。
「あのね、このアパートに空き部屋が出るらしいの、不動産屋さんの窓にチラシが張られてた、あたし、借りようかな」
「このアパートに? 大賛成、さすがにワンルームに二人は狭すぎだもんね、でも同じアパートなら毎日でも行き来できるし」
「でね、駅前のお花屋さんに求人が張られてたから面接してもらった、今週末から来て欲しいって」
「ホント?」
「アパート借りるなら収入がないとね」
「言えてる」
 そう言って笑い合った。
 どうやら吹っ切れたようだ。
 早紀の新しい人生はこれから始まるのだ、お祖母さんも、亡くなったお祖父さんも、そしてもちろん早くして亡くなった早紀のご両親もそれを望んでいるに違いない。
 大事な人を次々と亡くし、最後に残ったお祖母さんの介護も限界まで頑張った。
 早紀はその分幸せになる権利がある、いや、幸せにならなきゃいけない。
「よ~し、今日はお寿司取っちゃお、就職祝いよ、あたしが奢る」
「え~? 悪いよ、そうでなくても厄介になってるんだし」
「いいのいいの、早紀の門出を祝わなくっちゃ、冷蔵庫に貰いものの高級ワインが入ってるはずだからさ、あれ、空けちゃおうよ」
「いいの?」
「ささやか~なパーティだけどね」
「ありがとう、これ、ちょうどよかったな」
 テーブルの上にはピンクのバラが一輪、長めのコップに活けられていた、多分花屋さんでもらってきたんだろう。
 瑞々しいバラが一輪あるだけで、テーブルはぐっと華やいで見える。
 早紀のこれからの人生もこのバラのように明るく、みずみずしく咲き誇ると良いな……。
 由美はそんなことを考えながらスマホに登録しているお寿司屋さんの番号を探していた。
 

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み