第32話 ふたりの初めて

文字数 2,485文字

状況が状況だったので、楓たちは宮田先生の車で家まで送ってもらった。

「次に会うのは、登校日になるな。何かあったら、遠慮せずに連絡をしていいから」
 
 師井先生の言葉に満足な返事もできず、楓は頷きだけで返す。
 そうして、車の音が聞こえなくなるまで、立ち尽くしていた。
 三津は何も言わない。
 最初、先生は三津を送り届ける予定だったが、彼女はそれを拒否してこうして傍にいる。帰れと言っても聞かず、家の中まで付いてくる。

 ドアが閉まり、暗闇と静けさが増した。

 既視感を覚えるも、楓は振り払うように靴を脱ぎ捨てる。
 一人で階段を上るも、すぐに追従する音。三津は迷いもなく部屋の扉を開け、入り込み――

「おまえ……忘れたのかよ?」
 
 待っていた楓は、強引に閉めた。
 驚いたのか、三津は扉にもたれる。

「なんで、来るんだよ……」
 
 楓が両手を伸ばし、扉が強くきしむ。
 両腕の間にある三津の顔は、あの時と違い、少女の面影を残していなかった。
 それでも見慣れない。はにかむように頬を綻ばせ、消え入るような声で囁いた。

「また、慰めてあげようかと思って」
 
 その一言で決壊した。楓は力任せに抱きしめる。
 
 ――なんで、そんなこと言うんだよ! こっちは必至で我慢していたのに……!
 
 初めて抱き寄せた時と違い、抵抗はなかった。完全に預けてくれている。
 そして、今度のキスは涙の味だけじゃなかった。



 二人の初めては、三月の末日だった。
 朝から、紅葉の姿が見当たらないと、既に書置きは読んでいたのに楓は探していた。

 時間にして数十分――『いない』と理解するまでに要した。否、そこでようやく探すのを止めたに過ぎない。

 楓は信じなかった。だから、誰とも連絡を取らなかった。
 帰って来るからと思い込んで、待っていた。玄関口に座り込んで、紅葉が作ったお菓子を食べながら、日が落ちるまでずっと待っていた。
 キッチンに用意されていたお菓子のほとんどは焼き菓子――日持ちのするタイプ。書置き以外にも、帰ってこない要素は沢山あった。お気に入りの靴がない、電話をかけても繋がらない、探しに入った部屋からも持ち物がいくつか消えていた。

 前向きになれる材料はなかった。徐々に頭が働く。冷静に考えられるようになる。

 正常な思考を振り払おうと、楓はマカロンを頬張る。ほろ苦いキャラメル味。ふと、違和感――味覚が塩味を捉えた。
 紅葉は塩スウィーツが嫌いなはずなのに。もしかして最後だから……哀しい仮定が頭を過るも違った。

「なんだよ……これ」
 
 今更ながら、気付いた。どうして、紅葉は塩スウィーツが嫌いだったのか。
 だって、これは……涙の味だ。
 楓は泣いていた、ぼろぼろと。涙は頬を辿り、口元にまで流れていた。更に気づく。知っていたということは、紅葉も涙と共にお菓子を食べたことがある。

 でも、それはいつなのだろうか?
 
 少なくとも、塩キャラメルのブーム――紅葉が中学生の時にはもう嫌っていた。けど、紅葉の涙を楓は見たことがない。三津ですら何度か見かけたことはあるのに、紅葉は一切なかった。
 
 ――一人で泣いていた。

 そこに辿りついた瞬間、止まらなかった。楓は泣きじゃくる。気づいてやれなかった自分が嫌になる。
 膝を抱え、真っ暗やみの中で蹲っていると音がした。
 僅かに期待するも、ピンポーン――呼び鈴にまた顔を沈める。ベルはしつこく鳴り続けるも、楓は動こうとしない――カチャリ、あり得ない金属音。
 
 さすがの楓も顔を上げると、
「……楓?」
 三津が入ってきた。
 手には家の鍵、見慣れたキーホルダーが教えてくれた。

「あの、紅葉さんがこれ……」
 
 遠慮がちな態度で、三津が近づいてくる。床に膝をついて、楓に鍵を渡そうとする。

「……なんて言ってた?」
 
 泣き顔を見られたくなくて、楓は顔を上げなかった。

「今日のお昼頃、お菓子を持ってきてくれて……袋の中に入ってた。急いでいたみたいだから、ほとんど話はできなかったんだけど……」
 
 三津には戸惑いしかなかった。まだ状況を把握してないのだと、
「紅葉がいなくなった」
 端的に楓は告げた。

「学校も辞めたって。先生と付き合ってるんだって。一緒に暮らすんだって……」
 
 何度か質問が挟まれるも、楓は全て流して一方的に喋り続ける。

「もう、ここには帰ってこないんだって」
 
 声音から本気だと察したのか、三津は冗談? とは聞いてこなかった。

「嘘……?」

 と、傷ついた表情で涙した。
 その泣き顔はあまりに幼くて、楓はつい拭ってしまう。手を伸ばし、掌が頬にぴったりと合わさる。一瞬、三津の体が震えた。顔は固定されているものの、瞳が泳いでいる。
 再度、親指で涙をすくうと、脅えたように目を伏せる。彼女の隙だらけの姿に、今まで固められていた意志が音を立てて崩れていった。

「ちょっ……かえ、で?」
 
 驚き、少し怯えた声が真下から響く。感情に任せて、楓は胸に抱き寄せていた。熱く、濡れる感触が伝わってくる。同時に身をよじる抵抗――楓は力を込める。
 嗚咽を噛み殺しながら、泣きながら離さないと意志表示。徐々に三津から抵抗がなくなるも、震えは収まらなかった。

「楓……痛いよ」
 
 本当に哀しそうな響きだったから、楓は我に返ったように緩める。
 恐る恐る見下ろすと、至近距離で合わさった。

 果たして、心臓が大きく鳴った。

 それが合図だったかのように、楓は奪った。互いにぐちゃぐちゃの顔。口一杯に涙の味が広がる。
 三津は目を閉じていた。触れ合う体の至るところから、強張りが伝わってくる。
 それでも、楓は加減しなかった。僅かな抵抗なら押し切る気持ちでいた。

 ――もう、止まらなかった。

 ずっとずっと……我慢していた。手が届くと思った瞬間、抑えきれなかった。
 それなのに、一度も好きだとは言えなかった。
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