第41話 男の子の特権
文字数 3,514文字
楓はまず、髪を切ろうと思った。
実のところ、以前から思っていた。長い髪は面倒だ。顔を隠すには便利だけど、さすがに伸びすぎだと。
それなのに踏み切れなかったのは願掛けなどですらない、取るに足らない理由――一人で、美容院に行くのに抵抗があっただけだ。
それは決意したあとも拭えなかったので、楓は誰かに同行を頼むことにした。
普段なら三津、もしくは千代子に白羽が立つのだが、今はまだ合わせる顔がない。
消去法で捺に電話で頼むと、快く引き受けてくれた。
『でも、今までどうしてたの?』
『……姉ちゃんが、行く時に合わせてました』
『……なるほどね。千代の言いたいことが良くわかった』
急な名前の登場に、楓は腑に落ちないでいるも、捺からはなんの説明もなかった。
『場所とか希望ある?』
『えっと、ないです。ただ、今まで行ってたとこはちょっと……』
『なら、私の行ってるとこでいいか』
汲み取ってくれたのか、捺は理由を求めなかった。
そうして翌日、楓は約束の時間よりも三〇分も早く待ち合わせ場所に着いていた。土地勘がない場所だったので、余裕を持って行動した結果。
なのに、捺はそれから数分足らずで姿を見せた。
「千代の言ってた通りだ」
開口一番ネタらばらし。
楓は恥ずかしさを誤魔化すように、「あー……」唸り声を上げる。
「電車とか苦手で……それに方向音痴なんで」
つい口にして、言わないほうがマシだったかなと思い始めるも、あとの祭り。言い訳が癖になっている。楓はこれから先のことを考え、心が折れそうになった。
「遅れた訳じゃないんだから、そんな顔しなくてもいいのに」
その指摘に、また悪い癖。無意識的に手で口元を覆ってしまう。溜息。
一人で勝手に後悔していると、
「女の子の前でその態度はどうかと思うよ」
「すいません……あっ」
意味のない謝罪と、早くも減点の嵐。それで更に落ち込みそうになるも、注意されたばかりだったのでどうにか持ち堪える。
「うーん、どうしたの?」
ただ不自然だったのか、早くも捺には違和感を持たれていた。
「電話してきた時も思ったけど、なんからしくないっていうか」
胸に秘めたまま――一瞬、そう思うも、楓は知って貰おうと思った。自分の性格上、誰かに宣言しておいたほうがいいと判断して。
「えっと、変わろうと思ったんです。とりあえず、今まで千代子先輩とか、捺さんに注意されたことを改めていこうかなと……」
熱い。外の暑さとは、比べ物にならない熱が込み上げてくる。
見上げる捺の視線が更に煽る。
「それで、手始めに髪を切ろうかなって……」
安直かもしれないが、見た目から。
「なるほどイメチェンね」
その一言で片付けられると否定したくなるも、違いないと楓は頷いた。
「いいよ、協力してあげる」
捺は満面の笑みで、楓に腕を絡めてきた。
「えっ!? ちょっ……捺さん!」
楓は困ったように呼びかけるも、捺はいつもの調子で煙に巻く。
「いいじゃない。私がしたいからしてるだけだし」
それとも嫌? と上目遣いで訴えられ楓は返す言葉を失う。
「それじゃ行こうか」
反論ないと判断されたのか、捺は引っ張るように進んでいく。
楓の頭の中では色々と巡るも、足だけは素直に従う。一番強いのは羞恥心。そういう意味では嫌ではないが、居心地が良いともいえない。
捺はノースリーブで楓も半袖。肌と肌が直接触れあっている。
女性らしい柔らかさが強く伝わり、鼓動が早まる。自分の心臓音が聞こえないかと不安を覚え、冷静さを努めようと意識を散らす。
そこまでやきもきして、楓はやっと気づく。また、自分のことしか考えていなかったと。
「どうしたの?」
信号でもないのに、立ち止った楓に不審の声。
「……すいません」
身の置きどころがなくて、楓は会話どころか顔を合わせすらしていなかった。
けど、それは自分の都合。そんな理由で、隣にいてくれる人を蔑ろにしていいはずがない。
――変わろうと思ったんだ。
自分のためなんかじゃなくて、自分なんかを好きでいてくれる人のために――
「あら、残念」
楓がそっと腕を解くと、捺は笑った。褒めるような眼差しで。
「すいません。おれ、好きな人がいるんで……」
先ほどまでとは、別の意味で楓は逸らしていた。
駄目だと思うも、もう少しだけ待ってほしい。流れに逆らうのがこんなにも辛いなんて……自分は悪くなくても刺さる。
他人を、しかも嫌いじゃない人を拒絶するのはきつい。変わらぬ沈黙なのに重い。
こうなるんだったら、甘えたままで良かった……ストンッ!
「すみませんは余計」
脳天に軽い衝撃。俯いていた頭に、捺のチョップが落ちた。
「それと好きな人じゃなくて、百花ちゃんって言ってたら完璧」
捺は流暢に駄目だしをする。その声はからかい混じりだが、
「千代に比べたら、そりゃ付き合いは浅いけど……」
響きに寂しさが宿り初めたので、
「三津が好きです」
楓はねじ込むように言い切った。
「……これでいいですか?」
「うんっ、完璧」
今日一番の明るい声。二人で笑いだして、歩きだす。
「うんっ、やっぱ短いほうがいい」
捺の褒め言葉に押され、楓は鏡の中の自分と向き合う。
垂れ流せば口元まであった髪も、今では瞳を隠すことすらない。手ですくってみても軽い。揉み上げも輪郭を隠すには及ばず、顔が露わになる。
個人的には、まだ好きになれそうにない。女みたいで、頼りなく感じる。
でも、三津が好きだというのなら――楓は俯きかけていた顔を上げ、逸らさずに向き合った。
「そういえば、内股はいい」
美容院から出ると、捺が鋭い指摘をしてきた。
「治せないんじゃないんですか? 骨格がもう、そうなってるんで諦めてます」
「そうやって折り合いつけてくのはいいね」
全部は変わる必要ないと言ってくれているのだろうが、楓には取捨選択はできそうにない。
自分の良いところは、やっぱりわからないのだ。
「ま~た、自己嫌悪してる?」
瞳を遮る髪がなくなったからか、伝わってしまった。すぐ、顔に出る悪癖。捺としか話していないのに、減点は積み重なっていく。
「これは、千代の言い分なんだけど」
澄んだ声。他人の言葉だが、共感できたのだろう。
「弱さも、悪くないんだってさ」
減点追加。
楓はつい顔をしかめてしまった。信じられない? 捺の笑顔は悪戯っぽい。
「私はやっぱり、紅葉のしたことが許せなかった。本当は、納得なんかしていない」
打って変わった表情。急な反転にこそ楓は驚いたが、紅葉と会った件に関しては想像の範囲内だったので、説明は求めなかった。
「紅葉がしたことは、謝っても許されることじゃないと思う。まぁ、あの子はそんなに謝りもしなかったけど」
怒りよりも呆れが勝っているのか、言葉尻は穏やかだった。
「わかってたんだろうな、紅葉は。私が納得なんてしないって。どんな理由があっても、紅葉がいなくなるのを認めなかったって……」
捺は足を休めない。歩きながらのお喋りとして、話を終わらせようとしているのだろう。
「戻ってきたら絶対に受け入れるって……わかっててやったんだから、ずるいよね」
それでも、憎めないのがもどかしい。
最後の言葉に込められていた想いは、きちんと楓には伝わっていた。
「千代はね、私と紅葉を弱いって言った。けど、嫌いじゃないって。伊達に保育士目指している訳じゃないって、冗談交じりに言ってくれた」
別れを許せない弱さ。
逃げたのに戻ってきた弱さ。
それは楓も持っている弱さ。
「だから、今までの楓君もそんなに悪くないと思うよ」
それは紅葉の口癖でもあった。 ――楓は悪くない! どんな時も、絶対に否定をしなかった。
「格好良くなるっていうんなら、賛成だけどね」
茶化すように添えられた続きは、楓には聞き覚えのない言葉で沁みた。
「格好付けられるのは、男の子の特権なんだから」
常に後ろ向きだった楓には、思いつかなかった志向。漠然としていた変化の方向性が見えた気がする。
だから、精一杯の感謝を込めて、
「ありがとうございます。捺先輩」
嫌味ではなくて、素直に先輩と呼んだみた。
実のところ、以前から思っていた。長い髪は面倒だ。顔を隠すには便利だけど、さすがに伸びすぎだと。
それなのに踏み切れなかったのは願掛けなどですらない、取るに足らない理由――一人で、美容院に行くのに抵抗があっただけだ。
それは決意したあとも拭えなかったので、楓は誰かに同行を頼むことにした。
普段なら三津、もしくは千代子に白羽が立つのだが、今はまだ合わせる顔がない。
消去法で捺に電話で頼むと、快く引き受けてくれた。
『でも、今までどうしてたの?』
『……姉ちゃんが、行く時に合わせてました』
『……なるほどね。千代の言いたいことが良くわかった』
急な名前の登場に、楓は腑に落ちないでいるも、捺からはなんの説明もなかった。
『場所とか希望ある?』
『えっと、ないです。ただ、今まで行ってたとこはちょっと……』
『なら、私の行ってるとこでいいか』
汲み取ってくれたのか、捺は理由を求めなかった。
そうして翌日、楓は約束の時間よりも三〇分も早く待ち合わせ場所に着いていた。土地勘がない場所だったので、余裕を持って行動した結果。
なのに、捺はそれから数分足らずで姿を見せた。
「千代の言ってた通りだ」
開口一番ネタらばらし。
楓は恥ずかしさを誤魔化すように、「あー……」唸り声を上げる。
「電車とか苦手で……それに方向音痴なんで」
つい口にして、言わないほうがマシだったかなと思い始めるも、あとの祭り。言い訳が癖になっている。楓はこれから先のことを考え、心が折れそうになった。
「遅れた訳じゃないんだから、そんな顔しなくてもいいのに」
その指摘に、また悪い癖。無意識的に手で口元を覆ってしまう。溜息。
一人で勝手に後悔していると、
「女の子の前でその態度はどうかと思うよ」
「すいません……あっ」
意味のない謝罪と、早くも減点の嵐。それで更に落ち込みそうになるも、注意されたばかりだったのでどうにか持ち堪える。
「うーん、どうしたの?」
ただ不自然だったのか、早くも捺には違和感を持たれていた。
「電話してきた時も思ったけど、なんからしくないっていうか」
胸に秘めたまま――一瞬、そう思うも、楓は知って貰おうと思った。自分の性格上、誰かに宣言しておいたほうがいいと判断して。
「えっと、変わろうと思ったんです。とりあえず、今まで千代子先輩とか、捺さんに注意されたことを改めていこうかなと……」
熱い。外の暑さとは、比べ物にならない熱が込み上げてくる。
見上げる捺の視線が更に煽る。
「それで、手始めに髪を切ろうかなって……」
安直かもしれないが、見た目から。
「なるほどイメチェンね」
その一言で片付けられると否定したくなるも、違いないと楓は頷いた。
「いいよ、協力してあげる」
捺は満面の笑みで、楓に腕を絡めてきた。
「えっ!? ちょっ……捺さん!」
楓は困ったように呼びかけるも、捺はいつもの調子で煙に巻く。
「いいじゃない。私がしたいからしてるだけだし」
それとも嫌? と上目遣いで訴えられ楓は返す言葉を失う。
「それじゃ行こうか」
反論ないと判断されたのか、捺は引っ張るように進んでいく。
楓の頭の中では色々と巡るも、足だけは素直に従う。一番強いのは羞恥心。そういう意味では嫌ではないが、居心地が良いともいえない。
捺はノースリーブで楓も半袖。肌と肌が直接触れあっている。
女性らしい柔らかさが強く伝わり、鼓動が早まる。自分の心臓音が聞こえないかと不安を覚え、冷静さを努めようと意識を散らす。
そこまでやきもきして、楓はやっと気づく。また、自分のことしか考えていなかったと。
「どうしたの?」
信号でもないのに、立ち止った楓に不審の声。
「……すいません」
身の置きどころがなくて、楓は会話どころか顔を合わせすらしていなかった。
けど、それは自分の都合。そんな理由で、隣にいてくれる人を蔑ろにしていいはずがない。
――変わろうと思ったんだ。
自分のためなんかじゃなくて、自分なんかを好きでいてくれる人のために――
「あら、残念」
楓がそっと腕を解くと、捺は笑った。褒めるような眼差しで。
「すいません。おれ、好きな人がいるんで……」
先ほどまでとは、別の意味で楓は逸らしていた。
駄目だと思うも、もう少しだけ待ってほしい。流れに逆らうのがこんなにも辛いなんて……自分は悪くなくても刺さる。
他人を、しかも嫌いじゃない人を拒絶するのはきつい。変わらぬ沈黙なのに重い。
こうなるんだったら、甘えたままで良かった……ストンッ!
「すみませんは余計」
脳天に軽い衝撃。俯いていた頭に、捺のチョップが落ちた。
「それと好きな人じゃなくて、百花ちゃんって言ってたら完璧」
捺は流暢に駄目だしをする。その声はからかい混じりだが、
「千代に比べたら、そりゃ付き合いは浅いけど……」
響きに寂しさが宿り初めたので、
「三津が好きです」
楓はねじ込むように言い切った。
「……これでいいですか?」
「うんっ、完璧」
今日一番の明るい声。二人で笑いだして、歩きだす。
「うんっ、やっぱ短いほうがいい」
捺の褒め言葉に押され、楓は鏡の中の自分と向き合う。
垂れ流せば口元まであった髪も、今では瞳を隠すことすらない。手ですくってみても軽い。揉み上げも輪郭を隠すには及ばず、顔が露わになる。
個人的には、まだ好きになれそうにない。女みたいで、頼りなく感じる。
でも、三津が好きだというのなら――楓は俯きかけていた顔を上げ、逸らさずに向き合った。
「そういえば、内股はいい」
美容院から出ると、捺が鋭い指摘をしてきた。
「治せないんじゃないんですか? 骨格がもう、そうなってるんで諦めてます」
「そうやって折り合いつけてくのはいいね」
全部は変わる必要ないと言ってくれているのだろうが、楓には取捨選択はできそうにない。
自分の良いところは、やっぱりわからないのだ。
「ま~た、自己嫌悪してる?」
瞳を遮る髪がなくなったからか、伝わってしまった。すぐ、顔に出る悪癖。捺としか話していないのに、減点は積み重なっていく。
「これは、千代の言い分なんだけど」
澄んだ声。他人の言葉だが、共感できたのだろう。
「弱さも、悪くないんだってさ」
減点追加。
楓はつい顔をしかめてしまった。信じられない? 捺の笑顔は悪戯っぽい。
「私はやっぱり、紅葉のしたことが許せなかった。本当は、納得なんかしていない」
打って変わった表情。急な反転にこそ楓は驚いたが、紅葉と会った件に関しては想像の範囲内だったので、説明は求めなかった。
「紅葉がしたことは、謝っても許されることじゃないと思う。まぁ、あの子はそんなに謝りもしなかったけど」
怒りよりも呆れが勝っているのか、言葉尻は穏やかだった。
「わかってたんだろうな、紅葉は。私が納得なんてしないって。どんな理由があっても、紅葉がいなくなるのを認めなかったって……」
捺は足を休めない。歩きながらのお喋りとして、話を終わらせようとしているのだろう。
「戻ってきたら絶対に受け入れるって……わかっててやったんだから、ずるいよね」
それでも、憎めないのがもどかしい。
最後の言葉に込められていた想いは、きちんと楓には伝わっていた。
「千代はね、私と紅葉を弱いって言った。けど、嫌いじゃないって。伊達に保育士目指している訳じゃないって、冗談交じりに言ってくれた」
別れを許せない弱さ。
逃げたのに戻ってきた弱さ。
それは楓も持っている弱さ。
「だから、今までの楓君もそんなに悪くないと思うよ」
それは紅葉の口癖でもあった。 ――楓は悪くない! どんな時も、絶対に否定をしなかった。
「格好良くなるっていうんなら、賛成だけどね」
茶化すように添えられた続きは、楓には聞き覚えのない言葉で沁みた。
「格好付けられるのは、男の子の特権なんだから」
常に後ろ向きだった楓には、思いつかなかった志向。漠然としていた変化の方向性が見えた気がする。
だから、精一杯の感謝を込めて、
「ありがとうございます。捺先輩」
嫌味ではなくて、素直に先輩と呼んだみた。