第26話 試験
文字数 2,704文字
不在が多いことを除けば、母は優秀であった。
昨夜は多量のアルコールを摂取したにもかかわらず、楓がリビングに顔を出す頃には朝食の用意が整っていた。
「やっぱ朝は和食よね」
また、長時間の移動疲れも感じさせず、母は流暢に鼻歌を口ずさんでいる。
「試験って何時に終わるの?」
「十二時前」
「なら、それくらいに迎えに行くから」
丁度、味噌汁を口に含んでいたので楓はなにも言えなかった。
「百花ちゃんと一緒にいて」
「明日も試験なんだけど?」
「別に一日中連れまわす訳じゃないんだから。それに、楓は携帯持ってないじゃない」
学生の気持ちなど露知らず、母は勝手に予定を組んでいく。
「とりあえず食事して、プラネタリウムね。あとは買い物だけど……そこまでは付き合わなくていいから」
渋々了承して、楓は食事を終える。
母の好意に甘えてすぐに登校しようと準備をしていると、
「これ、持って行きなさい」
昨日、持ち帰ったプティフールを手渡される。
「百花ちゃんか千代ちゃんに。一緒に行くでしょ?」
約束はしていないが、合わせるのは簡単。少なくとも、三津は試験であっても普段のライフスタイルを崩したりはしない。
案の定、交差点で待つこと五分。三津が姿を見せた。楓に気付くと、驚いたように少しだけ立ち止る。
けど、すぐさま変わらぬ歩調でやってきて、
「どうしたの?」
挨拶よりも先に投げかけた。
「母さんから」
開口一番、楓は紙袋を渡す。
「レストランで食べきれなかったプティフール。残り物で悪いけど……」
「あ、おばさん帰っているんだ」
「あぁ、昨日の夕方いきなりな。そのまま、有無を言わさず連れて行かれた次第だ」
「楓、余裕~」
「今日は、おまえも付き合えよ。ご指名だ」
「いいよ。おばさんの誘いは断れない」
歩きながら、三津は器用に箱を開封していく。マカロンを一つ、豪快にかじり付いた。
「行儀の悪い」
口が一杯だった三津は視線だけで不満を訴えてきた――男の癖に細かい、と。
「塩チョコに塩キャラメルか。紅葉さんが嫌いだったのは知ってるけど、楓もだっけ?」
「だって、涙の味じゃんか」
間髪入れずに出た答えに、三津は吹き出した。
「なにそれ。もう、やめてよね」
詩的な表現だと馬鹿にされるも、楓は否定も肯定もしなかった。
駅に着くまでの道のりで、三津は全て平らげていた。箱はたたんでゴミ箱。紙袋はデザイン的にも大きさ的にも便利だと、鞄へと入れる。
電車内では同じ学校の生徒が参考書を開いたり、友人と問題を出し合ったりしていた。
「黄色ブドウ球菌の毒素は?」
倣うように、三津が脈絡なく問題を出す。
「エンテロトキシン。サクラマスなどが原因の寄生虫は?」
「日本海裂頭条虫(サナダムシ)。夏場に多い細菌性食中毒で……」
楓たちには見られている自覚があった。だからこその問答。迂闊に聞いてしまった人を悩ませる内容を選んで、口にする。
ささやかなイタズラ。真剣な面持ちで、二人は滑らせていく。
「――テトロドトキシン」
「――自殺。悪性新生物(がん)。不慮の事故」
食品衛生学が終わると公衆衛生学。死亡率や毒物の致死量など、不穏当な単語が飛びだし始める。
「勉強してない割には答えるじゃん」
三津はちょっとだけ不満げ。唇をわざとらしく尖らせて、肘で楓をつつく。
「そっちこそ。略称とかじゃなくて正式名称で覚えてるじゃんか」
試験前でありながら、二人は軽口を叩く余裕に満ちていた。
二日目の試験が終わり、教室内の空気も和らぐ。
ホームルームも滞りなく行われ、一斉下校。駅前や繁華街などには先生の見回りがあるので、大半の生徒たちは素直に従う。
そんな中、楓は昨夜に引き続き堂々と出歩いていた。
「百花ちゃん、ますます大人っぽくなったね。モテるでしょ?」
「ほぼ女子高ですから。おばさんも相変わらず若々しいです」
まぁね、と満更でもない返事をする母を見て、楓の口から溜息が吐き出される。
この辺りでは、ファミレスかショッピングモール、ファストフードくらいしか昼食の選択肢はない。穴場的な店はあるかもしれないが、地元ではない母には難しいだろう。
そう、楓は目星をつけていたのだが、あっさりと裏切られる。
連れて来られたのは既視感を覚える建物――ホテルのランチビュッフェ。学生には、思いつきもしない場所だった。
「それ、どうやって持ってるんですか?」
母はスプーンとフォークを片手でトングのように扱っていた。
「小指と中指に乗せて、薬指で上から押さえる感じ。もう一つは親指と人差し指で……そう」
器用にも、三津は説明を聞いただけで真似をしている。楓もこっそりと挑戦してみるも、上手くいかない。
むきになっていると思われるのが嫌だったので、すぐに手放す。
「学校生活はどう?」
席に着くと、母は二人に向かって問いかけた。
「楓は浮いています。ただでさえ男子は少ないのに、停学になったから」
「お互い様だろ」
「私は停学にはなってない」
「クラスメイトの胸ぐら掴んだんだろ?」
「楓なんか先生の胸ぐら掴んだじゃん」
二人して、全力で自分のことを棚に上げていた。
「格好いいね~」
それを怒りもせず、母は笑っていた。
「私はそこまで大っぴらにはできなかったら、尊敬しちゃう」
なんの説明もなしに、察してくれた。
「一発殴れば、解決するんじゃないかとは思ったことあったけど、結局実践はできなかったな」
同じ立ち位置だったから、誤らない。
前提にある身勝手な妬みを見逃さず、楓たちを一方的な悪者にしない。
「気にしていないふりで、精いっぱいだった」
調子になど乗っていない。容姿に恵まれていても、みんなと同じ悩みも辛さも苦労も持っている。
謙遜や嫌味でなく、羨ましがられるようなものではないのだと、わかってくれる。
「おかげで、勉強する時間は沢山あったけど」
負け惜しみのように母は零す。
今はともかくとして、昔は本当にそうだったのかもしれない。
「んー、やっぱ二人が羨ましいかな? お互いに理解しあえる相手がいてさ」
複雑な気持ちが混ざり合い、楓は素直に聞き入れられなかった。
「楓、大事にしなさいよ」
「そうそう」
三津の軽い相槌のおかげで、楓はどうにか頷くことだけはできた。
昨夜は多量のアルコールを摂取したにもかかわらず、楓がリビングに顔を出す頃には朝食の用意が整っていた。
「やっぱ朝は和食よね」
また、長時間の移動疲れも感じさせず、母は流暢に鼻歌を口ずさんでいる。
「試験って何時に終わるの?」
「十二時前」
「なら、それくらいに迎えに行くから」
丁度、味噌汁を口に含んでいたので楓はなにも言えなかった。
「百花ちゃんと一緒にいて」
「明日も試験なんだけど?」
「別に一日中連れまわす訳じゃないんだから。それに、楓は携帯持ってないじゃない」
学生の気持ちなど露知らず、母は勝手に予定を組んでいく。
「とりあえず食事して、プラネタリウムね。あとは買い物だけど……そこまでは付き合わなくていいから」
渋々了承して、楓は食事を終える。
母の好意に甘えてすぐに登校しようと準備をしていると、
「これ、持って行きなさい」
昨日、持ち帰ったプティフールを手渡される。
「百花ちゃんか千代ちゃんに。一緒に行くでしょ?」
約束はしていないが、合わせるのは簡単。少なくとも、三津は試験であっても普段のライフスタイルを崩したりはしない。
案の定、交差点で待つこと五分。三津が姿を見せた。楓に気付くと、驚いたように少しだけ立ち止る。
けど、すぐさま変わらぬ歩調でやってきて、
「どうしたの?」
挨拶よりも先に投げかけた。
「母さんから」
開口一番、楓は紙袋を渡す。
「レストランで食べきれなかったプティフール。残り物で悪いけど……」
「あ、おばさん帰っているんだ」
「あぁ、昨日の夕方いきなりな。そのまま、有無を言わさず連れて行かれた次第だ」
「楓、余裕~」
「今日は、おまえも付き合えよ。ご指名だ」
「いいよ。おばさんの誘いは断れない」
歩きながら、三津は器用に箱を開封していく。マカロンを一つ、豪快にかじり付いた。
「行儀の悪い」
口が一杯だった三津は視線だけで不満を訴えてきた――男の癖に細かい、と。
「塩チョコに塩キャラメルか。紅葉さんが嫌いだったのは知ってるけど、楓もだっけ?」
「だって、涙の味じゃんか」
間髪入れずに出た答えに、三津は吹き出した。
「なにそれ。もう、やめてよね」
詩的な表現だと馬鹿にされるも、楓は否定も肯定もしなかった。
駅に着くまでの道のりで、三津は全て平らげていた。箱はたたんでゴミ箱。紙袋はデザイン的にも大きさ的にも便利だと、鞄へと入れる。
電車内では同じ学校の生徒が参考書を開いたり、友人と問題を出し合ったりしていた。
「黄色ブドウ球菌の毒素は?」
倣うように、三津が脈絡なく問題を出す。
「エンテロトキシン。サクラマスなどが原因の寄生虫は?」
「日本海裂頭条虫(サナダムシ)。夏場に多い細菌性食中毒で……」
楓たちには見られている自覚があった。だからこその問答。迂闊に聞いてしまった人を悩ませる内容を選んで、口にする。
ささやかなイタズラ。真剣な面持ちで、二人は滑らせていく。
「――テトロドトキシン」
「――自殺。悪性新生物(がん)。不慮の事故」
食品衛生学が終わると公衆衛生学。死亡率や毒物の致死量など、不穏当な単語が飛びだし始める。
「勉強してない割には答えるじゃん」
三津はちょっとだけ不満げ。唇をわざとらしく尖らせて、肘で楓をつつく。
「そっちこそ。略称とかじゃなくて正式名称で覚えてるじゃんか」
試験前でありながら、二人は軽口を叩く余裕に満ちていた。
二日目の試験が終わり、教室内の空気も和らぐ。
ホームルームも滞りなく行われ、一斉下校。駅前や繁華街などには先生の見回りがあるので、大半の生徒たちは素直に従う。
そんな中、楓は昨夜に引き続き堂々と出歩いていた。
「百花ちゃん、ますます大人っぽくなったね。モテるでしょ?」
「ほぼ女子高ですから。おばさんも相変わらず若々しいです」
まぁね、と満更でもない返事をする母を見て、楓の口から溜息が吐き出される。
この辺りでは、ファミレスかショッピングモール、ファストフードくらいしか昼食の選択肢はない。穴場的な店はあるかもしれないが、地元ではない母には難しいだろう。
そう、楓は目星をつけていたのだが、あっさりと裏切られる。
連れて来られたのは既視感を覚える建物――ホテルのランチビュッフェ。学生には、思いつきもしない場所だった。
「それ、どうやって持ってるんですか?」
母はスプーンとフォークを片手でトングのように扱っていた。
「小指と中指に乗せて、薬指で上から押さえる感じ。もう一つは親指と人差し指で……そう」
器用にも、三津は説明を聞いただけで真似をしている。楓もこっそりと挑戦してみるも、上手くいかない。
むきになっていると思われるのが嫌だったので、すぐに手放す。
「学校生活はどう?」
席に着くと、母は二人に向かって問いかけた。
「楓は浮いています。ただでさえ男子は少ないのに、停学になったから」
「お互い様だろ」
「私は停学にはなってない」
「クラスメイトの胸ぐら掴んだんだろ?」
「楓なんか先生の胸ぐら掴んだじゃん」
二人して、全力で自分のことを棚に上げていた。
「格好いいね~」
それを怒りもせず、母は笑っていた。
「私はそこまで大っぴらにはできなかったら、尊敬しちゃう」
なんの説明もなしに、察してくれた。
「一発殴れば、解決するんじゃないかとは思ったことあったけど、結局実践はできなかったな」
同じ立ち位置だったから、誤らない。
前提にある身勝手な妬みを見逃さず、楓たちを一方的な悪者にしない。
「気にしていないふりで、精いっぱいだった」
調子になど乗っていない。容姿に恵まれていても、みんなと同じ悩みも辛さも苦労も持っている。
謙遜や嫌味でなく、羨ましがられるようなものではないのだと、わかってくれる。
「おかげで、勉強する時間は沢山あったけど」
負け惜しみのように母は零す。
今はともかくとして、昔は本当にそうだったのかもしれない。
「んー、やっぱ二人が羨ましいかな? お互いに理解しあえる相手がいてさ」
複雑な気持ちが混ざり合い、楓は素直に聞き入れられなかった。
「楓、大事にしなさいよ」
「そうそう」
三津の軽い相槌のおかげで、楓はどうにか頷くことだけはできた。