第1話 ひび割れたマカロン
文字数 3,085文字
おそらく、マカロンは割れてしまっただろう。
ぶつけないようにと、抱え込んでいたのが裏目にでた。その高さは、ちょうどドアノブと同じ。見事に、紙袋に食い込んでいる。
それを、この世の終わりのように見つめているのは少年だった。濃紺のブレザーにグレーのチェックズボン、一年生の生徒である。
少年――佐藤楓が呆然としていると、
「あれっ?」
隙間から声が聞こえてきた。
甲高い、女の子らしい音色。
廊下には誰もおらず、場所が場所だけに響いた。
無意識に漏れ出した疑問だろうが、その声は楓のカンに触った。
「あれっ……?」
先ほどと比べると、おとなしい口振り。
半端に開きかけていた扉が一度閉まると、今度は微動だにしなかった。
「えっ……?」
先生に声でもかけられたのか、
「大丈夫です!」
気丈な発言。
しかし、現状は全然大丈夫ではない。
反対側では、楓が全力で扉を押さえこんでいた。
状況的に、少女には悪意も悪気もなかったはず。
これは不幸な事故。
そう、わかっていながらも、楓は割り切れなかった。
ささやかな仕返し。
ほんの出来心で塞いでみただけなのだが、楓は引く機会を逃してしまう。
加えられる力に、腕が震えだす。
咄嗟にマカロンを左手に避難させ、押さえるのは右腕一本。
さりとて、高校生ともなると男女の力の差は歴然。思いきや、体ごとぶつかってきているのか互角。
それどころか、押し切られそうだった。
互いに引かない意地の張り合い。
そんな幼稚なやり取りに、
「佐藤、おまえは一体なにをしているんだ?」
水をさす大人の一声。
楓が顔を向けた先には、担任の師井先生がいた。
呆れた表情で、しっかりと握られたドアノブを見下ろしている。
第三者の介入により、楓は冷静さを取り戻す。
無意識に力を緩めてしまい――弾けた。
強烈な衝撃が左手をとらえ、紙袋が宙に舞う。
その落下を阻止するどころか見届けることもかなわず、楓は背中を壁に強打――少女が勢いよく跳び込んできた。
「大丈夫か!? 佐藤、塩谷 」
担任の心配はやけに熱が入っていた。よほど危ない光景だったのだろう。
現に、楓は悶絶していた。
それでも、手は少女の腰と頭に添えられている。
受け止められた少女は未だ状況が掴めていないのか、
「~ぅぅっ……」
楓の胸元に顔をうずめたまま、痛がっていた。
かくいう楓も、触覚でしか現状を把握できていない。
痛い――『なにか』が、ぶつかった。
温かい――なにかではなく、『誰か』だ。
柔らかい――誰かは、『少女』である。
そして、その少女は『小さい』。
態勢が悪いとはいえ、少女の頭は楓の顎先にも届いていない。
その高さに、楓はつい撫でてしまった。
一度も染めた経験がないであろう、黒髪。滑らかな手触りと、鼻をくすぐる香り。
手が頭を往復している内に、さすがの少女も顔を上げ、硬直した。
「え? ……佐藤君?」
震えた声に、
「……あぁ」
楓は気のない応答。
そのまま時間が停止するも、
「怪我はないか? 佐藤、塩谷」
先生の言葉で我に返ったのか、二人は離れた。共に一歩。楓は冷静に下がり、少女は慌てた様子で背を向ける。
「いったいなにをしていたんだ、二人して?」
職員室という場所を除いても大人げなかった。
自覚している楓は言葉を濁す。
「えっと、その……すいません」
同じ気持ちなのか、塩谷も曖昧に謝るだけ。俯き、顔を上げようとしない。
バツが悪いのか、体も微かに揺れていた。
それに合わせて、ちらちらと楓を盗み見している。
「大事がないならいいけど」
言いながら、先生は紙袋を手渡す。
拾ってくれたことに楓は感謝するも、中身を見て絶望した。
「どうした?」
プラスチックの容器だから、一目でわかった。マカロンの表面がひび割れ、粉々。
見る見る内に楓は気落ちしていくも、理由を口にだせるはずもなく、黙って睨みつける。
手で、長い髪をとかしていた塩谷。運よくかみ合い、ただでさえ伏し目がちだった彼女の瞳が、更に沈んでいく。
二人の姿は完全に小動物と捕食者。
あまりにあからさま過ぎたため、
「なにを睨んでいるんだ」
楓は注意を受ける。
「まったく……。塩谷はもう行っていいぞ。日直だろ?」
塩谷は思いだしたかのような声を上げ、一度だけ楓を見た。が、気まずそうな表情を浮かべるだけで、なにも口にはしなかった。
なんせ、楓の瞳は今も怒りで細められている。
「失礼しますっ」
素早く一礼して、塩谷は逃げるように駆けていった。
師井先生が「走るなよ」と背中に投げかけていたが、視界から消えたあとも足音は響いていた。
「でだ、佐藤」
名前を呼ばれ、楓は改めて師井先生と対峙する。
見慣れた白と黒の上下。赴任したばかりだからか、他の教師と比べたら堅い服装。
「今日から復帰だというのに、朝っぱらからなにをやっているんだよ、まったく……」
呆れというよりも、愚痴っぽい。
それが楓には親身に感じられ、小さく頭を下げる。
「見かけたのが私じゃなかったら、どうなっていたことやら……」
先生の物言いに、楓は反省を示す。
思っている以上に、自分の立場はよくないようだ。
「最初からそういう態度だったら、こんなに長引くこともなかったのに」
感情的に出かかった言葉は飲み込んで、
「すいません」
楓はもう一度頭を下げた。
「気をつけろよ。もう、おまえを知らない人間は、この学校にはいないからな」
まさかと楓は苦笑するも、冗談と否定することもできなかった。
ここ、神川高校は元女子高である。
その歴史は深く、始まりは小さな裁縫塾。そこから百年もの間、幾度となく名称や形態を変えながらも、女学校として経営してきた伝統を持っている。
かような学び舎も、今年から男子を受け入れ始めた。まだ目立った減少は見られないが、先を見越せば当然の采配ともいえる。
少子化の波が、この瀬戸内に面した小さな街にも訪れていた。
そして、記念すべき今年の新入生は四百十六名。
内、男子は僅か十四名――中でも、楓は背が高く人目を引く容姿をしていた。
「見た目だけでも目立っていた上に、停学処分。しかも、中学の事件まで広まっているし」
改めて突きつけられると、楓は後悔すらしてくる。
どう考えても、いい状況とは思えない。
「またなにか言われるかもしれないが、今度は我慢しろよ?」
もうこれ以上は庇ってやれないと聞こえ、楓はあえて堅い返事をする。
「わかりました。以後、気を付けます」
それが功を成してか、師井先生は肩の力を抜いたように柔らかい笑みを浮かべた。
「なら、おまえも行っていいぞ」
「あ、はい。今日はこのまま、教室に行っていいんですよね?」
「あぁ、ただ席が変わっている。一番奥の窓際で三津 の隣だ」
楓は一礼して、教室へと向かう。
道中、何度も視線を感じた。慣れてはいるものの、心地よいものではない。
無表情を貫き、姿勢を正して歩く。
とはいえ、背が高いものの楓は線が細い上に内股。目こそ鋭いものの、顔は中性的で周囲を威圧するには不充分であった。
ぶつけないようにと、抱え込んでいたのが裏目にでた。その高さは、ちょうどドアノブと同じ。見事に、紙袋に食い込んでいる。
それを、この世の終わりのように見つめているのは少年だった。濃紺のブレザーにグレーのチェックズボン、一年生の生徒である。
少年――佐藤楓が呆然としていると、
「あれっ?」
隙間から声が聞こえてきた。
甲高い、女の子らしい音色。
廊下には誰もおらず、場所が場所だけに響いた。
無意識に漏れ出した疑問だろうが、その声は楓のカンに触った。
「あれっ……?」
先ほどと比べると、おとなしい口振り。
半端に開きかけていた扉が一度閉まると、今度は微動だにしなかった。
「えっ……?」
先生に声でもかけられたのか、
「大丈夫です!」
気丈な発言。
しかし、現状は全然大丈夫ではない。
反対側では、楓が全力で扉を押さえこんでいた。
状況的に、少女には悪意も悪気もなかったはず。
これは不幸な事故。
そう、わかっていながらも、楓は割り切れなかった。
ささやかな仕返し。
ほんの出来心で塞いでみただけなのだが、楓は引く機会を逃してしまう。
加えられる力に、腕が震えだす。
咄嗟にマカロンを左手に避難させ、押さえるのは右腕一本。
さりとて、高校生ともなると男女の力の差は歴然。思いきや、体ごとぶつかってきているのか互角。
それどころか、押し切られそうだった。
互いに引かない意地の張り合い。
そんな幼稚なやり取りに、
「佐藤、おまえは一体なにをしているんだ?」
水をさす大人の一声。
楓が顔を向けた先には、担任の師井先生がいた。
呆れた表情で、しっかりと握られたドアノブを見下ろしている。
第三者の介入により、楓は冷静さを取り戻す。
無意識に力を緩めてしまい――弾けた。
強烈な衝撃が左手をとらえ、紙袋が宙に舞う。
その落下を阻止するどころか見届けることもかなわず、楓は背中を壁に強打――少女が勢いよく跳び込んできた。
「大丈夫か!? 佐藤、
担任の心配はやけに熱が入っていた。よほど危ない光景だったのだろう。
現に、楓は悶絶していた。
それでも、手は少女の腰と頭に添えられている。
受け止められた少女は未だ状況が掴めていないのか、
「~ぅぅっ……」
楓の胸元に顔をうずめたまま、痛がっていた。
かくいう楓も、触覚でしか現状を把握できていない。
痛い――『なにか』が、ぶつかった。
温かい――なにかではなく、『誰か』だ。
柔らかい――誰かは、『少女』である。
そして、その少女は『小さい』。
態勢が悪いとはいえ、少女の頭は楓の顎先にも届いていない。
その高さに、楓はつい撫でてしまった。
一度も染めた経験がないであろう、黒髪。滑らかな手触りと、鼻をくすぐる香り。
手が頭を往復している内に、さすがの少女も顔を上げ、硬直した。
「え? ……佐藤君?」
震えた声に、
「……あぁ」
楓は気のない応答。
そのまま時間が停止するも、
「怪我はないか? 佐藤、塩谷」
先生の言葉で我に返ったのか、二人は離れた。共に一歩。楓は冷静に下がり、少女は慌てた様子で背を向ける。
「いったいなにをしていたんだ、二人して?」
職員室という場所を除いても大人げなかった。
自覚している楓は言葉を濁す。
「えっと、その……すいません」
同じ気持ちなのか、塩谷も曖昧に謝るだけ。俯き、顔を上げようとしない。
バツが悪いのか、体も微かに揺れていた。
それに合わせて、ちらちらと楓を盗み見している。
「大事がないならいいけど」
言いながら、先生は紙袋を手渡す。
拾ってくれたことに楓は感謝するも、中身を見て絶望した。
「どうした?」
プラスチックの容器だから、一目でわかった。マカロンの表面がひび割れ、粉々。
見る見る内に楓は気落ちしていくも、理由を口にだせるはずもなく、黙って睨みつける。
手で、長い髪をとかしていた塩谷。運よくかみ合い、ただでさえ伏し目がちだった彼女の瞳が、更に沈んでいく。
二人の姿は完全に小動物と捕食者。
あまりにあからさま過ぎたため、
「なにを睨んでいるんだ」
楓は注意を受ける。
「まったく……。塩谷はもう行っていいぞ。日直だろ?」
塩谷は思いだしたかのような声を上げ、一度だけ楓を見た。が、気まずそうな表情を浮かべるだけで、なにも口にはしなかった。
なんせ、楓の瞳は今も怒りで細められている。
「失礼しますっ」
素早く一礼して、塩谷は逃げるように駆けていった。
師井先生が「走るなよ」と背中に投げかけていたが、視界から消えたあとも足音は響いていた。
「でだ、佐藤」
名前を呼ばれ、楓は改めて師井先生と対峙する。
見慣れた白と黒の上下。赴任したばかりだからか、他の教師と比べたら堅い服装。
「今日から復帰だというのに、朝っぱらからなにをやっているんだよ、まったく……」
呆れというよりも、愚痴っぽい。
それが楓には親身に感じられ、小さく頭を下げる。
「見かけたのが私じゃなかったら、どうなっていたことやら……」
先生の物言いに、楓は反省を示す。
思っている以上に、自分の立場はよくないようだ。
「最初からそういう態度だったら、こんなに長引くこともなかったのに」
感情的に出かかった言葉は飲み込んで、
「すいません」
楓はもう一度頭を下げた。
「気をつけろよ。もう、おまえを知らない人間は、この学校にはいないからな」
まさかと楓は苦笑するも、冗談と否定することもできなかった。
ここ、神川高校は元女子高である。
その歴史は深く、始まりは小さな裁縫塾。そこから百年もの間、幾度となく名称や形態を変えながらも、女学校として経営してきた伝統を持っている。
かような学び舎も、今年から男子を受け入れ始めた。まだ目立った減少は見られないが、先を見越せば当然の采配ともいえる。
少子化の波が、この瀬戸内に面した小さな街にも訪れていた。
そして、記念すべき今年の新入生は四百十六名。
内、男子は僅か十四名――中でも、楓は背が高く人目を引く容姿をしていた。
「見た目だけでも目立っていた上に、停学処分。しかも、中学の事件まで広まっているし」
改めて突きつけられると、楓は後悔すらしてくる。
どう考えても、いい状況とは思えない。
「またなにか言われるかもしれないが、今度は我慢しろよ?」
もうこれ以上は庇ってやれないと聞こえ、楓はあえて堅い返事をする。
「わかりました。以後、気を付けます」
それが功を成してか、師井先生は肩の力を抜いたように柔らかい笑みを浮かべた。
「なら、おまえも行っていいぞ」
「あ、はい。今日はこのまま、教室に行っていいんですよね?」
「あぁ、ただ席が変わっている。一番奥の窓際で
楓は一礼して、教室へと向かう。
道中、何度も視線を感じた。慣れてはいるものの、心地よいものではない。
無表情を貫き、姿勢を正して歩く。
とはいえ、背が高いものの楓は線が細い上に内股。目こそ鋭いものの、顔は中性的で周囲を威圧するには不充分であった。