第39話 女の戦い
文字数 5,625文字
「百花、傷ついたと思うよ」
紅葉は座って向き合う。
千代子は「そうだね」と、気のない返事。
「うちらから仲間外れにされるのは、さすがのみっちゃんも泣いちゃうかも」
「不謹慎」
紅葉は膝を抱え込むように体育座り。
冷房がききすぎていて、寒い。膝に顎を乗っけて上目遣いで注意する。
「それが嫌なら、文句を言えばいんだよ。言わない時点で、みっちゃんだって悪い」
「誰もが、千代みたいに強くないんだよ」
「いつまでも近くに、わかってくれる優しい人がいるとも限らないかんね」
互いに譲らない。
千代子はベッドを背もたれにして、見下ろしていた。
「甘やかすだけ甘やかして、突然放棄する奴だっている訳だし」
聞き流せない一言だったのか、紅葉の目尻が上がる。
「別に、誰とは言ってないんだけど?」
「相変わらず性格の悪い」
距離感を取り戻したかのように、二人から遠慮がなくなっていく。
「自覚あったんだ。そりゃ、驚きだ」
千代子は嘲笑を浮かべ、冗談ぽく口にした。
「それなのに放りだすなんて、おみそれしました」
まるで猫や犬を扱っているかのような口振りに、容赦なく紅葉が千代子の頬をぶった。
「……なに?」
だが、千代子の瞳は据わったまま。
「わかんないの?」
怒声としか取れない声音を受けても、千代子はひょうきんな態度を崩そうともしなかった。
「あー、わかんないね。あんたを馬鹿にしたのがいけなかったのか、それとも、あの子たちを見下したのがいけなかったのか」
「両方に決まってんでしょ!」
炸裂音と共に、紅葉が声を張り上げた。
「我侭なこった。放りだしたくせして……」
三度目は不発に終わった。千代子は紅葉の手首を掴み取った。
「全部、紅葉が悪いんだろ? 西研もそうだ! あんたが始めたくせして、放り投げやがった。ふざけんなよ? 全部押しつけやがって、勝手なこと抜かすな!」
紅葉は開いた手を振るうも、届かない。両手を掴まれ、真っ向から睨み合う。
「逃げて悪い!?」
開き直ったかのように、紅葉も吠える。
「私、頑張ったもん。ずっとずっと頑張ってきたもん! 千代は知ってるでしょ? だから……いいじゃん。それくらい許してよ!」
共感を訴える悲痛の響き。間近で見ていた千代子には伝わったはず。
「あぁ、疑いようもなく……あんたは頑張ってた」
紅葉は許されたと勘違いするも、
「――頑張らなくていいことまでな」
すぐに、叩き落とされる。
「楓のこともみっちゃんのことも、あんたが頑張る必要はなかった」
でも……、と否定する声はか細い。
「家のことだってそうだ。完璧にする必要なんてなかった。あんたは子供だったんだから。我慢する必要なんてなかった。あんたが見栄なんて張らなければ、おばさんだって行かなかった」
「うるさい! あんたがそれを言う? 親がいなくて良いとか! 自由で羨ましいとか! 勝手なこと言ってたのは、誰よ! 千代じゃない!」
「はぁ? いつの話してんだ! んなの本気な訳ないだろ? それともなにか? 淋しいねっ、辛いねって言って欲しかったのか?」
「んな訳ないでしょ! なんで私が、千代に同情されなきゃなんないの!」
二人は支離滅裂な舌戦を繰り広げるも、
「そもそも! あんたは、自分が褒められたかっただけじゃん!」
その一言に、紅葉が口を引き結ぶ。否定しようとするも、言葉としては出てきてくれない。腕を無理矢理に解こうとしても、千代子の拘束からは逃れられず――せめてもの意地で、紅葉は瞬きすらせずに見据える。
「だから、楓に家のことをやらせなかったんだろ? あいつの性格上、絶対に手伝いを申し出たはずだ。それなのにやらせなかったのは、なんでだよ?」
千代子には何度も話していたので、言い逃れはできなかった。色々とやることが多いと。一人で大変、大変……と。
「楓を駄目にしたのは、あんたの責任もあるんだよ? それなのに、楓を利用して逃げるなんて酷いんじゃない?」
全てが見透かされていた。感情的になっても通用しない。千代子の前では、紅葉は悲劇のヒロインではいられなかった。
「楓は本気にしてるよ? 自分の所為だって、傷ついてる。あんたが楓をダシにして、先生に言い寄ったなんて、これっぽっちも疑っちゃいない」
――初めてだった。
こんなにも強く、駆り立てられるような恋。気づけば、目で追っているというレベルではない。どうすれば手に入れられるかを、無意識に算段していた。
教室内では、どうしても人目に付くからと同好会を作った。ここでなら、周囲から敵視される心配もない。西研では、あえて難しい分野に手を出したりもした。向上心があるように見せかけ、気にいられた。次第に資料集めなどにも、必然的に付き合って貰えるようになった。
一年、二年と着実に進行していった。卒業と同時に告白するつもりだった。
それなのに、転勤すると言われた。
男子が入ることにより、系列校で珍しく人事異動があると。女子高はやり辛いと、宮田先生はあっけらかんとしていた。
もう、手段を選んでいる暇はなかった。正面切って告白しても玉砕。真面目な先生は、受け止めてくれなかった。
それでも、揺らぎや葛藤は感じられた。
泣いて縋れば、なんとかなるかもしれないって思った。
本当に卑怯な手段――紅葉は、楓を利用した。
それが不器用な恋心だと知っていたのに、弟をそういった人間に仕立て上げた。
その甲斐あってか、成果は得られた。
ただ、宮田先生の堅物さを見くびっていた。まさか、辞職するとは思わなかった。
紅葉は益々引けなくなった。
楓に会って、説得すると言った時は本当に焦った。必死になって、止めた。中学の事件を大げさに持ち出して、危ないとまで勧告した。最低だ。自分の為に、弟を最低な人間に陥れているなんて……姉として最低だ。
もう、引けなかった。
先生には止められたけど、学校を辞めることにした。泣いて、喚いて……今まで一度もしたことのない我侭をやってみた。
それだけで、親は了承してくれた。
こんな簡単なことだったんだと、何かが刺さった。酔っていただけで、自分が思っている以上に恵まれた環境だったのだと、紅葉は気づかされた。
ただ、不幸な少女を演じていただけ。
親はほとんど帰ってこなくて、家のことをやらなくちゃいけなくて、弟の面倒もみて……全部、自分で抱え込んでいただけだ。
今更になって、自分のした行いに後悔した。
得体の知れない何か――罪悪感の塊が、ずっと蔓延っていた。
すぐに耐えきれず、紅葉は懺悔した。泣きながら、好きだと何度も謝った。好きでごめんなさいと。
それでも、楓のことだけは否定しないでいたのは嫌われたくなかったから。
全て嘘だと言ったら、見放されるかもしれないと怖かった。いつかバレるんじゃないか、という不安は勿論あった。
けど、杞憂に終わった。
宮田先生が会った楓は、自分が陥れたような人物的行動を取ってくれた。偶然だろうけど、自分があんなことを言ったからではないかと、思わずにはいられなかった。
だから、会えない――もう、会わす顔がない。
「楓に訊いて、みっちゃんに訊いて、宮田先生にも訊いて、やっと気付いた」
宮田先生の名前に紅葉の瞳が裏切られたかのように揺れるも、
「それを見越して、私にもあんな相談したんだろ?」
千代子は傷つくのを許してくれなかった。
「そもそも、感情的に訴えたらあの人が抗えないのは、あんたのが知ってんじゃない?」
尚且つ、そんな意地悪まで挟んでから、千代子は断罪してきた。
「――紅葉、あんたは最低だ」
唇を噛みしめ、真っ向から迎い討つ――わかっている! そんなのは覚悟の上だ。これくらいでは揺らぎはしないと、紅葉は目一杯に我を張る。
「あそこまで信じさせた上で裏切るなんて、それはないだろう? おかげで、楓はあんたを責められない」
それが辛いと訴えたら怒るだろうか? いっそ責めてくれたほうが楽なのに……自業自得と切り捨てられるのがオチだと、紅葉の口が自嘲の笑みを象る。
「うちが言っても、絶対に責めない。そんなことを言う、うちのことも責めない。結局、あいつが責められるのは自分だけだ」
何度も頭を下げ、謝罪を連ねる弟の姿は、今も瞼に焼き付いている。中学の時、ただひたすら謝り続けていた。言い訳もしないで、自分が悪いのだと――涙を溢れさせながら、ごめんなさいと。
自分があんな風にいなくなって、楓が泣くのは想像に難くなかった。自惚れではなく、好かれている自覚はあった。
でも、大切な弟を切り捨ててまで、欲しいと思ったんだ。手に入れたんだ。今更……引ける訳がない! ごめんなさい、私が悪かったと謝るなんてあり得ない。謝らないといけないような真似をした覚えはない。
――私がしたのは恋愛だ。
相手が教師で指をさされることはあるかもしれないけど、他人に謝る云われなんかない!
沸き上がるように言葉は浮かぶのに、喉元にくると詰まる。疑う余地もなく本音なのに、吐きだしたら傷つく予感がある。壊れてしまうかもしれない。二度と修復不可能なほどに……。
一度は捨てたはずなのに、未練たらたらだ。
こうして顔を合わせるだけで傾いてしまう。
もしかしたら……そんな期待を抱かずにはいられない。
今、紅葉の意志を汲み取ってくれているのは瞳だけ。そこに様々な感情が去来して、混じり合い、戸惑う。
「黙ってないで、なんか言えよ」
居心地が悪そうに千代子が勧めるも、両手は離してくれなかった。
紅葉は否応なしに、向かいあうことを余儀なくされている。顔を逸らすのはなんだか負けた気がして……それだけは、絶対に選べなかった。
謝ったら許して貰える? また、みんなでいられる? 先生もいてくれる? 誰も、私のこと嫌いにならない?
勝手な言葉たちが脳裏を過ぎるも、死んでも口にするもんかと、紅葉は更に固く引き結ぶ。
意地だけで、本音を閉ざす。丸く収まりそうな雰囲気をぶち壊す。
「千代が……悪いんじゃない!」
なんの相談もなしに高校を選んで、将来とか当たり前のように話して、一緒に来て欲しいと一度も言わないで――そんな強くて正しい親友に劣等感を刺激されたのは一度や二度ではない。
「あんたがっ……あんたがぁ!」
でも、全て蓋をした。出てこないよう、心の奥深くまで沈めた。千代子を恨むのは間違いだと、幾度となく言い聞かせた。
けど、限界かもしれない。千代子は言った。文句を言わないほうが悪いと――だったら、言ってやる! と、紅葉はこの距離から更に詰める。
「あんたが彼氏なんて作るから! しかも、初恋を叶えるなんて! それも大人の……だから! 私だって……! 私が……っぅ!」
羨ましくなんてなかった。置いていかれたような気がして、怖かった。
自分よりも先に捺が知っていて、悔しかった。何も話してくれない千代子にムカついた。
――負けたくない!
今まで一度も思ったことなかったのに、強く抱いてしまった。勝負なんて思っちゃ駄目だってわかってたのに、引けなかった。
宮田先生の異動は都合がいいはずなのに、突っ切ってしまった。
「なに、それ……? バカ、じゃ……ない?」
千代子はやっと、傷ついた顔をした。それに喜んでいる自分が嫌になり、
「――帰るっ!」
紅葉は叫んでしまう。
千代子は呆気に取られていたのか、あっさりと拘束は解けた。言いたいことを言ったはずなのに、全然気持ちよくない。
紅葉がノートや目に入る私物をバッグに押し込む。と、千代子が立ち上がった。
「ここがあんたん家だろ」
それだけ言い残して、千代子は部屋から出て行こうとした。
紅葉はそれを黙って見送ろうとするも――
「なに?」
意図せず、飛びついてしまった。
千代子の背中に抱きついて、止めていた。
面倒くさそうに、
「……なに?」
千代子がもう一度漏らす。
子供を相手にする時のような優しい音色に、紅葉は泣きたくなった。
「……よが、……らんでよ」
自分から吹っ掛けたのに、凄く後悔している。千代子は悪くない。全部、自分勝手な被害妄想。わかっている。それがどんなに理不尽かは、よく知っている。
そんな理由で嫌われたら……そんな理由で嫌ってくる奴なんて、どうでもよくなる。
あっ、そうですかって。そんな奴、こっちから願い下げだってなる。
千代子からそんな風に思われるのは、嫌だった。
自分はこっそりと背を向けたくせして、目の前で背を向けられたら止めずにいられなかった。
「千代が、選んでよ……もうっ、自分じゃどうしたらいいか、わかんないんだもん!」
だから、必死で繋ぎ止める。行かないでと、置いていかないでと縋り付く。
「あんたといい、楓といい……少しは、図々しいって思わない?」
「だってここ……私の、部屋だもんっ」
「……やっぱ、みっちゃんにいて貰うべきだった。あんたのこと、ぶん殴ってくれただろうし」
千代子の口調は、既に紅葉を許していた。
「けど、捺は納得するまで黙らないぞ?」
付け加えられた言葉もちょっとした意地悪にしか聞こえなくて、
「千代は私の味方だよね?」
お返し。
紅葉も相手を困らせるだけの言葉を返した。
紅葉は座って向き合う。
千代子は「そうだね」と、気のない返事。
「うちらから仲間外れにされるのは、さすがのみっちゃんも泣いちゃうかも」
「不謹慎」
紅葉は膝を抱え込むように体育座り。
冷房がききすぎていて、寒い。膝に顎を乗っけて上目遣いで注意する。
「それが嫌なら、文句を言えばいんだよ。言わない時点で、みっちゃんだって悪い」
「誰もが、千代みたいに強くないんだよ」
「いつまでも近くに、わかってくれる優しい人がいるとも限らないかんね」
互いに譲らない。
千代子はベッドを背もたれにして、見下ろしていた。
「甘やかすだけ甘やかして、突然放棄する奴だっている訳だし」
聞き流せない一言だったのか、紅葉の目尻が上がる。
「別に、誰とは言ってないんだけど?」
「相変わらず性格の悪い」
距離感を取り戻したかのように、二人から遠慮がなくなっていく。
「自覚あったんだ。そりゃ、驚きだ」
千代子は嘲笑を浮かべ、冗談ぽく口にした。
「それなのに放りだすなんて、おみそれしました」
まるで猫や犬を扱っているかのような口振りに、容赦なく紅葉が千代子の頬をぶった。
「……なに?」
だが、千代子の瞳は据わったまま。
「わかんないの?」
怒声としか取れない声音を受けても、千代子はひょうきんな態度を崩そうともしなかった。
「あー、わかんないね。あんたを馬鹿にしたのがいけなかったのか、それとも、あの子たちを見下したのがいけなかったのか」
「両方に決まってんでしょ!」
炸裂音と共に、紅葉が声を張り上げた。
「我侭なこった。放りだしたくせして……」
三度目は不発に終わった。千代子は紅葉の手首を掴み取った。
「全部、紅葉が悪いんだろ? 西研もそうだ! あんたが始めたくせして、放り投げやがった。ふざけんなよ? 全部押しつけやがって、勝手なこと抜かすな!」
紅葉は開いた手を振るうも、届かない。両手を掴まれ、真っ向から睨み合う。
「逃げて悪い!?」
開き直ったかのように、紅葉も吠える。
「私、頑張ったもん。ずっとずっと頑張ってきたもん! 千代は知ってるでしょ? だから……いいじゃん。それくらい許してよ!」
共感を訴える悲痛の響き。間近で見ていた千代子には伝わったはず。
「あぁ、疑いようもなく……あんたは頑張ってた」
紅葉は許されたと勘違いするも、
「――頑張らなくていいことまでな」
すぐに、叩き落とされる。
「楓のこともみっちゃんのことも、あんたが頑張る必要はなかった」
でも……、と否定する声はか細い。
「家のことだってそうだ。完璧にする必要なんてなかった。あんたは子供だったんだから。我慢する必要なんてなかった。あんたが見栄なんて張らなければ、おばさんだって行かなかった」
「うるさい! あんたがそれを言う? 親がいなくて良いとか! 自由で羨ましいとか! 勝手なこと言ってたのは、誰よ! 千代じゃない!」
「はぁ? いつの話してんだ! んなの本気な訳ないだろ? それともなにか? 淋しいねっ、辛いねって言って欲しかったのか?」
「んな訳ないでしょ! なんで私が、千代に同情されなきゃなんないの!」
二人は支離滅裂な舌戦を繰り広げるも、
「そもそも! あんたは、自分が褒められたかっただけじゃん!」
その一言に、紅葉が口を引き結ぶ。否定しようとするも、言葉としては出てきてくれない。腕を無理矢理に解こうとしても、千代子の拘束からは逃れられず――せめてもの意地で、紅葉は瞬きすらせずに見据える。
「だから、楓に家のことをやらせなかったんだろ? あいつの性格上、絶対に手伝いを申し出たはずだ。それなのにやらせなかったのは、なんでだよ?」
千代子には何度も話していたので、言い逃れはできなかった。色々とやることが多いと。一人で大変、大変……と。
「楓を駄目にしたのは、あんたの責任もあるんだよ? それなのに、楓を利用して逃げるなんて酷いんじゃない?」
全てが見透かされていた。感情的になっても通用しない。千代子の前では、紅葉は悲劇のヒロインではいられなかった。
「楓は本気にしてるよ? 自分の所為だって、傷ついてる。あんたが楓をダシにして、先生に言い寄ったなんて、これっぽっちも疑っちゃいない」
――初めてだった。
こんなにも強く、駆り立てられるような恋。気づけば、目で追っているというレベルではない。どうすれば手に入れられるかを、無意識に算段していた。
教室内では、どうしても人目に付くからと同好会を作った。ここでなら、周囲から敵視される心配もない。西研では、あえて難しい分野に手を出したりもした。向上心があるように見せかけ、気にいられた。次第に資料集めなどにも、必然的に付き合って貰えるようになった。
一年、二年と着実に進行していった。卒業と同時に告白するつもりだった。
それなのに、転勤すると言われた。
男子が入ることにより、系列校で珍しく人事異動があると。女子高はやり辛いと、宮田先生はあっけらかんとしていた。
もう、手段を選んでいる暇はなかった。正面切って告白しても玉砕。真面目な先生は、受け止めてくれなかった。
それでも、揺らぎや葛藤は感じられた。
泣いて縋れば、なんとかなるかもしれないって思った。
本当に卑怯な手段――紅葉は、楓を利用した。
それが不器用な恋心だと知っていたのに、弟をそういった人間に仕立て上げた。
その甲斐あってか、成果は得られた。
ただ、宮田先生の堅物さを見くびっていた。まさか、辞職するとは思わなかった。
紅葉は益々引けなくなった。
楓に会って、説得すると言った時は本当に焦った。必死になって、止めた。中学の事件を大げさに持ち出して、危ないとまで勧告した。最低だ。自分の為に、弟を最低な人間に陥れているなんて……姉として最低だ。
もう、引けなかった。
先生には止められたけど、学校を辞めることにした。泣いて、喚いて……今まで一度もしたことのない我侭をやってみた。
それだけで、親は了承してくれた。
こんな簡単なことだったんだと、何かが刺さった。酔っていただけで、自分が思っている以上に恵まれた環境だったのだと、紅葉は気づかされた。
ただ、不幸な少女を演じていただけ。
親はほとんど帰ってこなくて、家のことをやらなくちゃいけなくて、弟の面倒もみて……全部、自分で抱え込んでいただけだ。
今更になって、自分のした行いに後悔した。
得体の知れない何か――罪悪感の塊が、ずっと蔓延っていた。
すぐに耐えきれず、紅葉は懺悔した。泣きながら、好きだと何度も謝った。好きでごめんなさいと。
それでも、楓のことだけは否定しないでいたのは嫌われたくなかったから。
全て嘘だと言ったら、見放されるかもしれないと怖かった。いつかバレるんじゃないか、という不安は勿論あった。
けど、杞憂に終わった。
宮田先生が会った楓は、自分が陥れたような人物的行動を取ってくれた。偶然だろうけど、自分があんなことを言ったからではないかと、思わずにはいられなかった。
だから、会えない――もう、会わす顔がない。
「楓に訊いて、みっちゃんに訊いて、宮田先生にも訊いて、やっと気付いた」
宮田先生の名前に紅葉の瞳が裏切られたかのように揺れるも、
「それを見越して、私にもあんな相談したんだろ?」
千代子は傷つくのを許してくれなかった。
「そもそも、感情的に訴えたらあの人が抗えないのは、あんたのが知ってんじゃない?」
尚且つ、そんな意地悪まで挟んでから、千代子は断罪してきた。
「――紅葉、あんたは最低だ」
唇を噛みしめ、真っ向から迎い討つ――わかっている! そんなのは覚悟の上だ。これくらいでは揺らぎはしないと、紅葉は目一杯に我を張る。
「あそこまで信じさせた上で裏切るなんて、それはないだろう? おかげで、楓はあんたを責められない」
それが辛いと訴えたら怒るだろうか? いっそ責めてくれたほうが楽なのに……自業自得と切り捨てられるのがオチだと、紅葉の口が自嘲の笑みを象る。
「うちが言っても、絶対に責めない。そんなことを言う、うちのことも責めない。結局、あいつが責められるのは自分だけだ」
何度も頭を下げ、謝罪を連ねる弟の姿は、今も瞼に焼き付いている。中学の時、ただひたすら謝り続けていた。言い訳もしないで、自分が悪いのだと――涙を溢れさせながら、ごめんなさいと。
自分があんな風にいなくなって、楓が泣くのは想像に難くなかった。自惚れではなく、好かれている自覚はあった。
でも、大切な弟を切り捨ててまで、欲しいと思ったんだ。手に入れたんだ。今更……引ける訳がない! ごめんなさい、私が悪かったと謝るなんてあり得ない。謝らないといけないような真似をした覚えはない。
――私がしたのは恋愛だ。
相手が教師で指をさされることはあるかもしれないけど、他人に謝る云われなんかない!
沸き上がるように言葉は浮かぶのに、喉元にくると詰まる。疑う余地もなく本音なのに、吐きだしたら傷つく予感がある。壊れてしまうかもしれない。二度と修復不可能なほどに……。
一度は捨てたはずなのに、未練たらたらだ。
こうして顔を合わせるだけで傾いてしまう。
もしかしたら……そんな期待を抱かずにはいられない。
今、紅葉の意志を汲み取ってくれているのは瞳だけ。そこに様々な感情が去来して、混じり合い、戸惑う。
「黙ってないで、なんか言えよ」
居心地が悪そうに千代子が勧めるも、両手は離してくれなかった。
紅葉は否応なしに、向かいあうことを余儀なくされている。顔を逸らすのはなんだか負けた気がして……それだけは、絶対に選べなかった。
謝ったら許して貰える? また、みんなでいられる? 先生もいてくれる? 誰も、私のこと嫌いにならない?
勝手な言葉たちが脳裏を過ぎるも、死んでも口にするもんかと、紅葉は更に固く引き結ぶ。
意地だけで、本音を閉ざす。丸く収まりそうな雰囲気をぶち壊す。
「千代が……悪いんじゃない!」
なんの相談もなしに高校を選んで、将来とか当たり前のように話して、一緒に来て欲しいと一度も言わないで――そんな強くて正しい親友に劣等感を刺激されたのは一度や二度ではない。
「あんたがっ……あんたがぁ!」
でも、全て蓋をした。出てこないよう、心の奥深くまで沈めた。千代子を恨むのは間違いだと、幾度となく言い聞かせた。
けど、限界かもしれない。千代子は言った。文句を言わないほうが悪いと――だったら、言ってやる! と、紅葉はこの距離から更に詰める。
「あんたが彼氏なんて作るから! しかも、初恋を叶えるなんて! それも大人の……だから! 私だって……! 私が……っぅ!」
羨ましくなんてなかった。置いていかれたような気がして、怖かった。
自分よりも先に捺が知っていて、悔しかった。何も話してくれない千代子にムカついた。
――負けたくない!
今まで一度も思ったことなかったのに、強く抱いてしまった。勝負なんて思っちゃ駄目だってわかってたのに、引けなかった。
宮田先生の異動は都合がいいはずなのに、突っ切ってしまった。
「なに、それ……? バカ、じゃ……ない?」
千代子はやっと、傷ついた顔をした。それに喜んでいる自分が嫌になり、
「――帰るっ!」
紅葉は叫んでしまう。
千代子は呆気に取られていたのか、あっさりと拘束は解けた。言いたいことを言ったはずなのに、全然気持ちよくない。
紅葉がノートや目に入る私物をバッグに押し込む。と、千代子が立ち上がった。
「ここがあんたん家だろ」
それだけ言い残して、千代子は部屋から出て行こうとした。
紅葉はそれを黙って見送ろうとするも――
「なに?」
意図せず、飛びついてしまった。
千代子の背中に抱きついて、止めていた。
面倒くさそうに、
「……なに?」
千代子がもう一度漏らす。
子供を相手にする時のような優しい音色に、紅葉は泣きたくなった。
「……よが、……らんでよ」
自分から吹っ掛けたのに、凄く後悔している。千代子は悪くない。全部、自分勝手な被害妄想。わかっている。それがどんなに理不尽かは、よく知っている。
そんな理由で嫌われたら……そんな理由で嫌ってくる奴なんて、どうでもよくなる。
あっ、そうですかって。そんな奴、こっちから願い下げだってなる。
千代子からそんな風に思われるのは、嫌だった。
自分はこっそりと背を向けたくせして、目の前で背を向けられたら止めずにいられなかった。
「千代が、選んでよ……もうっ、自分じゃどうしたらいいか、わかんないんだもん!」
だから、必死で繋ぎ止める。行かないでと、置いていかないでと縋り付く。
「あんたといい、楓といい……少しは、図々しいって思わない?」
「だってここ……私の、部屋だもんっ」
「……やっぱ、みっちゃんにいて貰うべきだった。あんたのこと、ぶん殴ってくれただろうし」
千代子の口調は、既に紅葉を許していた。
「けど、捺は納得するまで黙らないぞ?」
付け加えられた言葉もちょっとした意地悪にしか聞こえなくて、
「千代は私の味方だよね?」
お返し。
紅葉も相手を困らせるだけの言葉を返した。