第9話 ふたりの先輩

文字数 4,530文字

 朝の八時半がラインである。
 ホームルームの開始時間。担任の裁量にもよるが、それを過ぎれば遅刻扱い。
 現在の時刻は七時半。人影はまばらだ。
 校門が生徒で溢れるには、あと三十分は要するであろう。
 
 こんな時間に登校してくるのは、日直か、挨拶週間中の生徒会や委員長。もしくは友人とのお喋りを含め、なにか用がある生徒――天川千代子は人を待っていた。
 気温の上がりきっていない朝。
 寒いなぁ、と思いながらも後々温かくなって邪魔になるからと、千代子はブレザーもカーディガンも羽織ってこなかった。
 そろそろだと、千代子は校舎の時計を見上げ、正門を見据える。壁にもたれることなく仁王立ちして、門をくぐる生徒たちの顔を見定めていく。
 
 ――あれ? デザイン科って裏門のほうが近いんだっけ?
 
 ふと思い至り、千代子は体をねじる。足は正面を向いたまま、腰を捻って、後方も見渡す。校舎が邪魔して裏門は決して見えはしないのだが、目を凝らす。
 しばらくして、また前方……繰り返していく内にストレッチになっていた。軽い息を漏らしながら、徐々に激しさを増していくも、視界に、ある生徒の姿を見つけて停止――

「そういえば、共学になったんだったな」

 千代子は今までの怠慢を反省する。
 女子高気分が抜けていなかったと、顔を出したばかりの待ち人に投げかける。

「まぁ、保育科とデザイン科はまだ女子だけだし。それよりも、朝からなにしてんの?」
 
 いきなり振られたにもかかわらず、待ち人――甘楽捺は見事に返した。

「相変わらず、めんどくさい髪してんね」
 
 千代子は無造作に手を伸ばすも、その手つきは柔らかい。子供に触れるように、捺の髪を撫でる。
 お世辞にも、黒と呼べない髪はあちこち編み込まれていた。両サイド対称。大小の三つ編みは耳の裏など、細かい個所まで行き届いている。

「めんどくさい、言うな」
 
 拗ねたように捺は千代子の手首を掴んで、そっと頭から外す。

「それで、なにしてたの? 千代がこんな早く来ているなんて、雨でも降らす気?」
「ったく、あんたを待ってたってのに酷い言い草だこと」
「ストレッチしながら? それなら、電話なりメールしろよ」
 
 そうすれば時間を浪費せず、無駄になることもない賢い待ち合わせ。
 ただ、千代子の目的は会うことではなくて説得だった。
 そのためにも、相手に覚悟させておく訳にはいかなかった。
 捺は口達者で、理論的かつ容赦ない。大人相手にも自分の主張を押し通せるほどに、口がよく回る。
 現に、彼女がいた時はどんな話し合いもすぐに纏まっていた。

「ごめん、ごめん。思い立ったのが急だったんだ」

 けどそれは、前準備があればこそだと千代子は知っていた。
 捺は頭の中で考えて、反芻、更に推敲してから口にする。そんな彼女に対して、考える時間を与えるのは得策ではない。
 待ち伏せ気味に待っていたのは、意表を衝こうとして――

「ストレッチはみっちゃんに感化されて。今朝、家でたらジョギングしてたからさ」
 
 みっちゃん、という響きに捺は表情を曇らせた。彼女らしくない、情けない微笑みに変わっていく。

「あの楓が……新入部員を連れてきたんだ」
 
 楓の名前に笑顔は消えていった。残ったのは、あまりに複雑で読み取れない。怒っているような、悲しんでいるような、哀れんでいるような……

「とりあえず、部室で話さない? お茶淹れるから」
 
 徐々に人は増えてくる。互いに邪魔。千代子の提案に、捺は黙って従う。
 背筋を伸ばして、共に女子としては高身長。絵になる歩みで別れた。千代子は頼もしく、捺はそれでいて女性らしく背を向ける。
 千代子は上履きに履き替え、部室に辿りつき、ケトルに水を入れ……部室はデザイン科の昇降口からのほうが近かったのに、捺のほうが圧倒的に遅かった。

「ここは変わらないか」
「そりゃ、まだ一ヶ月くらいしか経ってないし。それに、メンバーも……一人しか変わっちゃいない」
 
 その、変わってしまったメンバーが繋げた存在だった。二人を三人に。三人を五人に。どうしても、ぎこちなさが混じる。
 互いに口にはしないものの、感じざるを得ない。
 
 差しだされた紅茶を、
「ありがとう」
 捺は丁寧に受け取る。
 
 カップの水色は透明ではなかった。香りも、紅茶よりミルクのほうが強い。捺はそっと口をつけ――小さく声を上げ、笑う。

「……やっぱり、私は無理かな」
 
 それでも、彼女の口から漏れたのは弱音だ。いくら好みを押さえていようとも、上手くはいかない。元通りにはならない。

「千代はいい。百花ちゃんも大丈夫。だけど、楓君とは前みたいに接するのは難しいかな」
 
 予想外。不覚にも千代子は嬉しくて、頬が緩んでしまう。
 それが照れくさくてカップで隠そうと呷り、
「あつっ」
 軽く口の中を火傷する。

「大丈夫?」
 
 心配してくれる捺を手で制し、千代子は説得を続ける。

「でも、あんた楓のこと好きだったろ?」
「好きって……気に入っている。もしくはタイプって言ってよ。ほんっと、友達の弟じゃなかったら……」
 
 冗談のように軽く訂正を入れたあと、
「けど、私は紅葉が許せない」
 捺は断罪した。
 なにも言わないどころか、連絡まで絶つなんて酷い、と。

「勝手に行っちゃったあのコに、本気で腹が立っている」
 
 千代子は逆だと思った。なにも言わなかったからこそ、紅葉はフェードアウトできたのだ。
 しかし、それを口にしても話がこじれるだけだろう。
 捺の思考は停止している。

 ――紅葉を許さない。

 この一点だけは、きっと揺るがない。

「だから、あんな噂を流した……と?」
 
 威圧するよう、千代子は低く響かせた。

「悪い?」
 
 捺は誤魔化そうともしなかった。

「ちょっとは頑張って、しらばっくれようとしてくんない? さすがにイラつくから」
「無理。どう言い繕ったって綻びを隠しきれないもん」
 
 憮然としていた。溜息。共にわかっている。折れる気はないと。性格上、このような態度は想定内だと、沈黙をもって噛みしめる。

「……まぁ、悪かない」
 
 先に、千代子が詰めていた息を吐きだした。

「あんたの言う通りだし」
 
 紅葉の退学と宮田先生の退職の真相を知っているのは、教員を除くと『身内』のみ。
 この件は、学校側にとっては都合が悪いので、強力な緘口令も敷かれていたはず。目につく問題はなく、二人の関係性は寝耳に水だったのだから。
 そのような表沙汰になっていなかった――不都合しか生まれない情報を漏らすとは考えられない。

「パっと出の噂が核心に触れてるんだ」
 
 騒いでいたのは、最初だけ。宮田先生は転勤で元々いなくなる予定だったし、春休みを跨いで生徒が辞めるのも、そう珍しくはなかった。
 それが一ヶ月の猶予を経て、一気に爆発した。

「知ってる奴が流したとしか考えられない」
「ほんと、今更。もっと早く、責められると思ってた」
「なんで責めないといけないんだ? 悪かないって言ったろ?」
「それは……私の態度のことじゃ?」
 
 捺の思い違いに気づき、千代子は「違う違う」と手を振る。

「紅葉の噂だって、別に悪いとは思っていない。うちだって、あいつには苛立っているから。今の状況はまぁ……ざまぁみろって感じ?」
 
 千代子の口調はやけに明るく、作ったようにも感じられた。

「悪かないって言ったのは、そういう個人的な理由だけじゃなくて……」

 千代子は喉を潤す。
 
 澄んだ音色。持ち上げられたカップが元に位置に戻り、
「楓を庇ったんだろ?」
 ズッと、紅茶が激しくすすられる。
 むせたのか、捺は何度かせき込んでいた。

「男子は注目の的だったかんね。特に、楓は目立ってた。うちのクラスでも、格好いいとか可愛いって騒いでる奴らがいたくらいだしな」
 
 否定も肯定も取らずに、千代子は進めていく。

「もしあんたが暴露してなかったら、二~三年も楓の話題で盛り上がってたんじゃない?」
 
 二人は知っていた。楓が自分の容姿にコンプレックスを抱いていることを。見た目だけで好かれ、騒がれるのが嫌いだと。

「別に、そんなんじゃ……」
「じゃぁなんで、すぐに言わなかったの?」
 
 一ヶ月も待った理由は、捺の口から出てこなかった。

「楓のこと、心配なんだろ?」
「でも、紅葉の弟だから……楓君とは、会いたくない。そもそも、千代だって続ける気なかったでしょ?」
 
 核心を衝かれ、今度は千代子が言葉を失う。

「廃部の申請……しようとしてたでしょ?」

 千代子はらしくない愛想笑いを浮かべるも、
「あぁ、そのつもりだった」
 出てきたのは、諦めではなかった。

「だって、楓がやるなんて思わなかった。続けようなんて言い出すなんて……それで本当に連れてくるなんて、思ってもいなかった」
 
 千代子は、楓をまったくもって信用していなかった。
 彼の内気な性格を、外面とは裏腹な幼さと弱さを知っていたから、どうせ口だけで終わると高を括っていた。

「けど、それで連れてきちゃったからなぁ……。うちも約束しちゃったし。これで破ったら、あいつ泣いちゃうよな?」
 
 容易く想像できたのか、捺は困ったように漏らし、無関係を訴える。

「別にそれは……千代の責任であって私の知ったことじゃないし……」
「でも、うち言っちゃったんだよな。部員が揃えば、捺も顔出すってさ」
「は? ちょっとなにそれ? 聞いてないし!」
 
 いつの間にか、千代子は余裕に満ちていた。完全にからかう口調。嘆息まで挟んで、わざとらしく連ねる。

「楓からすれば、捺が約束を破ったってことになるから。ショック受けるだろうなぁ、あいつ」
「そ、それは千代が勝手に……!」
「いやまぁ、それはそうだけどさ。それ説明しちゃうと、うちが楓に嘘を吐いたことになっちゃって、結局あいつ泣いちゃわない?」
「う……、って、ちょっと待て。千代が嘘吐いたのは事実だろうが!」
「そうなんだけど。楓は、うちの言うことはなんでも信じるからね」
 
 それがどこまで本気なのか……。
 現に、楓は千代子に対してはかなりの低姿勢で接している。

「もしうちが、捺が裏切ったって言えば……信じてくれちゃったりするんじゃないかな?」
「ちょっと、あんた!」
「つーか、捺。楓とは会いたくないって言ってなかった? なら、好都合じゃないか?」
「会いたくはないけど、嫌われるのはイヤなの」
「なんつー、我侭な」
 
 千代子は笑い、捺は怒っていた。舌戦の末、明らかな優劣が決まったのにわだかまりは残っていなかった。あまりに幼稚だったからか、二人は純粋な感情を吐き出しただけ。

「だったら、やるべきこともわかってるよな?」
 
 目だけは文句を言いたげだったが、捺はしっかりと頷いていた。
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