第25話 襲来

文字数 5,302文字

 六月の末日は楓の誕生日でもあったが、高校生に祝う余裕はなかった。
 期末試験の真っただ中。真面目に授業は受けているものの、楓は自信のなさから試験の前日はほぼ徹夜をしていた。

 初日の試験が終わり、帰宅するとベッドに潜る。日が暮れた頃に目が覚めればいいなと、アラームをセットして熟睡。
 だから、家のチャイムが鳴ったのに気付かなかった。
 それどころか、家に入り込まれ、寝ている部屋の扉が開けられても、なお眠ったまま――

「――楓。起きなさい!」
 
 凛とした女性の声。楓の耳に届き、記憶を揺らす。

「ほらほらっ、起きて起きてっ!」
 
 パンパンパンッ、と耳元で手を叩く音。楓は重い頭を引きずりながら瞼を開くと、見覚えのある顔が視界に広がり――跳び起きる。

「やっと、起きた」
「なんで……?」
 
 楓は眠気まなこで、女性の姿を凝視する。肩を撫でる、茶色混じりの緩やかな髪。胸元に刺繍が施されたモノトーンのワンピースにボレロと正装じみた出で立ち。

「なんで……母さんが?」
「三ヵ月ぶりだっていうのに冷たくない? あ、そうだ。誕生日おめでとう」
 
 楓は紙袋を押しつけられ、
「早く、着替えて。時間ないから」
 中身を改める前に明かされる。

「七時で予約取ってるから。ホテルのレストラン」
 
 テーブルマナーはもう習った? と母は一方的に捲し立てる。

「ちょっと、待て! おれ、明日試験なんだけど?」
「一日勉強しないくらいで落とすようなら、諦めなさい」
 
 楓の言い分を一蹴すると、母は渡した紙袋の中身を出していく。

「捺ちゃんからサイズは聞いてるから、大丈夫とは思うけど。これ、オーダーメイドね。あんたの場合、身長で合わせるとウエストとか緩くなるから」
 
 抵抗むなしく、楓は着替えさせられる。母の服装に準じるようなスーツ。

「うん、やっぱ楓は格好いいわね。お父さんと違って映える」
「……ネクタイは?」
「この辺りに、そんな堅い店なんてないわよ」
 
 急かされるまま、楓は洗面所へ連れて行かれ中腰を命じられる。

「長すぎじゃない? 切りなさいよ、こっち(日本)は暑いんだから」
「切ろうとは思ってるんだけど……」
 
 ぼやいている間にセットは終わったのか、腰を強く叩かれた。

「んー。もうちょっと胸張って、締まった顔してくれたら完璧なんだけど?」
「いきなり叩き起こされて、無理矢理行かされてるんだけど?」
 
 さすがにムッとして楓は言葉を返すも、
「寝てるあんたが悪い。せっかく驚かそうと思って、チャイムまで鳴らしたのに」
 全然堪えていない。
 母は勝手な理屈ばかりを並べ、相変わらず自由気ままである。

「そんなの知るか。普通に電話しろ」

 なのに、楓の反論は軽口止まり。
 反抗の域までは、遠く及ばない声振りに留まっていた。

「そうだ、折角だし百花ちゃんも呼ぶ?」
「だから、試験だって言ってんだろ?」
 
 それが、一瞬だけぶれる。

「母さんの非常識にあいつまで巻き込むなよな」
 
 露骨だった。トーンこそ落ち着いていたが、楓は睨みつけていた。
 母は思いもよらない反撃を受けたかのようにこわばるも、
「酷い言い草」
 わざとらしく肩をすくめた。
 楓の態度に不満や文句を抱いた様子はないが、どこまで理解したかも掴めない。

「まぁ、今日は楓の誕生日だし。それぐらいは許してあげる」
 
 クラクションが鳴る。タクシーだと母は告げ、楓も玄関口へと進む。通学用とは明らかに違う革靴が置かれていた。
 ――相変わらず、こういった物の用意はいいんだから……。
 新品のため、多少きつくは感じるが申し分なかった。
 タクシーに乗ってホテルまで。そこから上階のレストランで名前を告げ、席に案内される。
 ここに至るまでのエスコートは、全て母が行っていた。しかも、随所で講義を交えて。

「本来なら男性が先に入る。けど、店員のあとに続くのは女性。そして、女性が座るまで男性は座らない」
 
 他にも腕を組む時の立ち位置、タクシーに乗る順番などこと細かい。

「場所によっては女性に渡されるメニューには値段が書いてないから。プリフィクススタイルって、チョイスによっては追加料金がかかるから注意して」
 
 教科書に載っていない、現実的な知識を母は披露してくれていた。それには感謝すべきであろうが、時折余計なお世話が混じる。

「最初は、シャンパンかシャンパンカクテルがベターね」
 
 この中ではミモザ、ベリーニ、キールロワイヤルと具体的にあげていく。

「炭酸系。特にシャンパンなんかは酔いが早くまわりやすいから、連れ……」
「まだ、未成年なんだけど?」
 
 我慢の限界。
 
 楓は強くねじ込むも、
「ここに来るまでもそうだけど、恥ずかしがらずにスマートなエスコートを心がけること。女性に非現実感を与えるの。そしたら、簡単に連れ込める。勿論、部屋は取っといてね。タクシーじゃどうしても醒めちゃうから」
 伝わらなかったようで、最後まで言い切られた。

「日本人には、そこまでできる人少ないけど」
「それ以前に、学生には無理だろ」
「そう言われたらそうね。思い返してみれば、学生と付き合ったことなんてなかったから、迂闊だった」
 
 さらりと気になる情報が添えられていたが、息子としては訊ねづらいので流す。父親とも二十近く離れていることを考慮すると、元々そういう嗜好なだけだと解釈して。
 メニューに目を落とすと、知識としては知っているが、口にはしたことのない料理が並んでいた。
 楓は頭の中で翻訳して、味を想像する。

「決まった?」
 
 頷くと、母は目配せで店員を呼んだ。
 なんの相談もせずに決めたのだが、先行する母とまったく同じチョイス。

「遺伝って凄いわね」
 
 意地にならずに変えればよかったと思うも、あとの祭り。
 楓は気恥ずかしさから無視する。

「紅葉の件でも思ったけど、やっぱり似るものみたい」
 
 なにが? と、口にするまでもない。紅葉は高校。母は大学。

「付き合うのを通り越して、いきなりプロポーズってとこまで一緒なのはほんと驚いた」
 
 共に学生で相手は先生。そこまでの一致は楓も承知だったが、もう一つは初耳だった。

「いきなりプロポーズって?」
「あぁ、楓には言ってなかったか。紅葉と先生、オーストラリアまで来たのよ」
 
 楽しそうに母は語る。
 四月の頭。紅葉は母に連絡して、オーストラリアに訪れていたと。

「空港まで迎えに行ったら、男連れで驚いた。血は争えないって、初めて思ったわ。やっぱりこの子は私の娘だって」
 
 些か不謹慎というか迷惑な解釈だと思うも、先を急ぐ楓は黙って聞いていた。
 会話の途中でサービスが始まる。ドリンク、アミューズと供され、前菜。

「驚いたっていえば、お父さんが先生を殴ったのも傑作だったわ。普通の父親の感性も持ってたんだって、紅葉もびっくりしてた」
「それで……了承したのか?」
「一発殴って終わり。星ばっか追いかけて、子供のことをかまけていたんだから文句は言えないって、怒りながら口にしてた」
 
 前菜がもう一皿。タイミング良く料理は運ばれてくる。

「それ以前に、自分も教え子に手出してる口だし。成人と未成年の違いはあるけど」
 
 魚料理の前に母はグラスを開け、白ワインを注文した。

「楓はなにか飲む?」
「明日試験。それ以前に未成年」
「相変わらず堅い。普通、それくらいの年齢だったら興味もたない?」
 
 製菓には様々なリキュールが扱われるので、興味がないことはなかった。

「親の目を盗んで飲まれるよりも、目の前で飲んでくれたほうが安心なんだけど?」
 
 甘い囁きに釣られて、楓もアルコールに切り替えてみる。

「楓は甘党だから……ベリーニなんていいかもね。料理には合わないかもだけど」
 
 母の勧めに従って、注文。
 背の高いフルートグラスに入った、ほのかなピンク色。口に含むと桃の上品な甘みと芳醇な香り。濃厚な味わいだが、炭酸のおかげで飲み口は軽かった。

「なるほど。これは飲みやすくて、女性に人気なのもわかる」
「そういう語りたがりなとこは、ほんとお父さんそっくり」
 
 楓が覚えている父の姿は、正しくそれだ。
 見上げて、語っている。星を、神話を……花より団子だった楓(紅葉も)はあまり興味を持っていなかったのに、無邪気に延々と喋っていた。

「まさか、無自覚に口説いたりはしてないでしょうね?」
 
 楓が黙殺すると、母はグラスを呷った。
 次は肉料理。教科書通りに赤ワインをオーダー。

「ほんと真面目ね。楓だったら、いくらでも女遊びできるだろうに。今なら、連れ込み放題じゃない」
「別に興味ない。というか、そこは注意するとこだろ?」
「そうね。遊ぶのは勝手だけど、真面目な子はやめときなさい」
 
 論点が違うとぼやくも、母の耳には届いていなかった。

「純粋で一途って言えば聞こえはいいけど、ようは頑固で自分の世界観を持っているってことだから。執着心とか独占欲の強いタイプだったら、楓なんかじゃ手に負えないわよ」
 
 陽気な口調とは裏腹に、母は真剣な表情で楓を覗き込む。

「ぶっちゃけ、紅葉とか百花ちゃんなんかがそうね。素質はあると思う」
「……四十代がぶっちゃけなんて使うなよ」
「まだ若いつもりなんだけど?」
「息子としては、もう少し慎ましくあって欲しいね」
「あら、綺麗なお母さんは嫌い?」
「周囲からは羨ましがられるけど、個人的には……」
「どう振舞ったって、他人の見る目は変わらないんだから」
 
 軽口だったが、楓には重く伝わった。きっとそれは体験談。同じような環境を過ごしてきた上での、答えなのだと。

「頑張ればなんとかなるかもしれないけど……そこまでして、同じである意味はないのはわかるでしょ? 一緒にいて高みを目指せるならまだしも、落ちぶれるなんて論外」
 
 母は容姿に恵まれていただけでなく、勉強もできた。それは才能ではなく、努力があってこその結果だったのだが、周囲は認めなかった。

「周囲は好き勝手に言ってくるんだから、こっちだって好きにやっていいでしょ」
 
 自分が正しいと思うことだけをやる。他人の目を気にせず、独りを恐れない。

「楓は男だからいいけど、女は弱いの。あやふやな考えじゃ、すぐ駄目になっちゃう」
 
 異性には言い寄られ、同性にはハブかれる。大人も関係ない。むしろ、場合によっては同年代よりも厄介な存在になり得る。

「男でも物でも勉強でも信念でも……なんだっていい。なにか縋るモノがないと、やっていけないの」
 
 楓にはなにもなかった。未だあやふや。流れに身を任せるだけ。
 波が去るのを、じっと待つしかない。

「だから、ソレを折られると呆気ない。きっと、紅葉もそうだったんだろうな」
 
 母は遠い目をしていた。
 男の楓には、口を挟む資格すらなさそうなので待つしかない。
 コースは終わりへと近づいていく。軽めの冷菓――アヴァンデセールを挟んでデザート。

「楓も早く、決めちゃいなさい。いつまでも逃げてはいられないんだから。みっともない大人になりたくないでしょ?」
 
 酒の勢いもあってか、母の口は休まらなかった。
 楓は手痛い言葉を浴びせられ続ける。

「学校を出ちゃうと、ほんと色々な人がいるから。付き合ってと泣いて縋る人もいれば、ナイフを持ち出したりして死んでやるとか、殺してやるって叫んだり……」
 
 もし泣かれたら、逃げるしか手段は取れそうにない。あとの二つは想像もつかないが、きっと全力で逃げるんだろうなぁ、と楓は思う。

「中途半端な覚悟じゃ流されちゃう。誘惑はいっぱいあるんだから。楓の大好きな甘い、甘~いね」
 
 身に覚えがあり過ぎる楓は噛みしめる。平然を装うしか、自分を守る術はない。
 最後の一皿のあとにやってきたプティフール。可愛らしい一口サイズのお菓子が幾つか登場した中、塩キャラメルと塩のショコラマカロンだけが手に触れられずに残っていた。

「食べないの?」
「……あぁ。おなか、一杯だから」
 
 嘘だった。楓は甘い物なら別腹を地でいくタイプである。

「なら、包んで貰おうか。私もさすがに限界だし」
 
 母が申し出ると、店員は快く引き受けてくれた。
 豪華な箱と紙袋に包まれた小菓子を持って、二人は帰宅する。
 時刻は夜の九時を過ぎたばかりで、勉強する時間は充分に残っていた。
 けど、楓はしなかった。
 風呂に入り、自分の部屋のベッドに沈む。つい布団を抱きしめる。お酒の所為だ。心地よい高揚感に、魔が差してしまった。
 思い浮かべた影を払う。一緒に試験のことまではねのけたのか、なんの焦りも感じずに楓は眠りに落ちた。
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