1-2

文字数 3,959文字


 2.

 アースフィアと名付けられたこの星は、三つの領域に分け隔てられている。
 一つは明けない夜が支配する『死無の領域』。
 死無の領域を取り囲む『夕闇の領域』。
 そして、永遠の昼が続くはずの『太陽の王国』である。
 
 王国の中央を、王領が占めている。
 王領を取り囲む大地は五つに分割され、それぞれ天領地と呼ばれる自治区となっている。
 この地はその最北、一等天領地、あるいは『凍り砂の天領地』とも呼ばれる。
 凍り砂の天領地の画院から、リレーネが鞄を提げて出てくる。
 画院の前庭を歩きながら、自分の影がいやに長いと意識する。〈日没〉が進んでいるのだ。不安になり、また空を見る。天蓋に描かれた地球を。それはリレーネの癖という言い方もできるが、どちらかと言えばアースフィア人の習慣と言った方が正しいだろう。
 この位置からは、地球は様々な尖塔に隠されて見えない。
 遥か歴史の彼方、祖先たちは地球から、この地球によく似た星に来た。アースフィアには、アースフィアにとっての太陽がある。燃え盛る恒星。月と名付けられた衛星もある。
 一年の春、一年の秋、六年の夏と冬が巡るアースフィアでも、暦や時間は地球の自転・公転周期で測られている。終わりなき昼にも一日は一日だし、一年は一年だ。

 3.

 画院の門前に迎えが来ていた。リレーネが近づくと、黒塗りの長い車の後部扉が開く。その隣を警邏車両の列が通り過ぎて行く。
「ものものしいのね」
 リレーネは車内のソファに深く腰掛け、テーブルに置かれたボトルの水を飲んだ。車が動き出す。
「どうしたのかしら。嫌な感じがしますわ」
「本日は総督閣下が王領にお出になる日でございますから、仕方がありますまい」
 と、運転士のマゴットが答える。彼がどれほど長く家に仕えているのかリレーネは知らない。物心ついた時にはいたから、相当長い。
 彼について知っている事は、勤めが長いという事だけだ。とにかく無駄話をしない男で、リレーネの父も、リレーネが使用人に興味関心を抱くのを快く思っていない。
「特に月初めには、この総督閣下のお膝下において反王派の一派が検挙されております」
「ええ」
 リレーネはバッグから小型のスケッチブックを取り出す。
「仕方ありませんわね」
 スケッチブックに二人の妖精が描かれている。
 チューリップの妖精で、二人とも女の子だ。
「やはり、〈日没〉にまつわる会議ですのね。太陽の光がなくなれば――」
 スケッチブックをめくりながらリレーネは話し続けた。
「王国は滅び、私たちは言語崩壊を起こしてみんな死んでしまうと言われておりますけど――」
 最初から最後までページをめくり終えてしまう。車は進む。坂を。
「信じられませんわ。国王陛下やお父様のような方たちが、きっと――」
 初めてリレーネは、車が坂を下っていることに気が付いた。
 帰るべき総督公邸とは逆方向だ。
 リレーネはスケッチブックを持ったまま、無言で窓の外を見つめる。
 回り道をしているのかと、はじめ思う。何故。
 街の警備の関係で、公邸周辺の道が混んでいるのだろうか。いや、だとしても結局そこに帰る事には変わりないのだから、同じ事だ。
 車は明らかに別方向に向かっている。路地に入りこみ、細い方へ、低い方へ。
 目に入る家々の壁が次第に質素に、くすんだ色になっていく。
「ねぇマゴット」
 サイドミラーが目に入る。
 この車の後ろに、大型の軍備車両が伴走している。
 運転士が返事どころか相槌一つ打たない事に遅まきながら気が付いたのも、この時である。
 後ろの車両は、何だろう。自分に寄越された護衛だろうか。
「ねぇ――」
 運転士は無言で車を操る。道が狭い方へ。曲がりくねっている方へ。
 後ろの車両を振り切りたがっているのだ。
「お嬢様」
 押し殺した声で運転士は答えた。
「お許しを」
「えっ?」
「お嬢様、おつかまりください」
 言うが早いか、車は突如として方向を変え、リレーネは鞄ごと床に放り出された。衣服がめくれ、膝と肘を絨毯にこすり付ける。熱のような痛みが走った。しかし車の異変は未だ収まらず、今度は信じられない速度で一直線に走り出す。
 声も出ぬまま顔を上げ、窓の外を一瞬見て理解した。
 道幅いっぱい使ってターンをし、軍事車両の横をすり抜けて、今来た道を逆走しているのだ。
 あれだけ大きな車両だ、すぐにはついて来れまい。
「何をなさいますの!」
 その声は、いずこかで鳴り響いた爆発音にかき消された。車内を様々な振動が通り抜ける。リレーネはソファにしがみつき、薄いカーテンの向こうの運転席からの返事を待つ。しかし、返事はついぞ来なかった。
「今の音は何ですの?」
 聞いても仕方がないと知りながら、リレーネは更に問う。
「何が、ねぇ、南門の方からだったかしら。お父様がいらっしゃる方じゃないかしら!」
「市街戦が始まったのです」
 車が急カーブを切る。危うく舌を噛むところだった。リレーネは這い上るようにソファの上に身を伏せた。
 スピードは落ち着いた。
 もうさっきの車両はない、と思ったら、衝撃を受けてまた床に振り落とされた。
 それきり車は停止した。

 少しの間放心する。
 運転席のドアが破壊される音を、どこか遠くに感じる。
 鍵が外れる音。そして、後部座席のドアが開く。リレーネは床に座りこんで口を開けたまま、ドアの外から現れる人物の姿を、緑色の目の中に迎え入れた。
 男の人。
 黒い軍服は、ここ凍り砂の天領地に属する軍人が着る物だ。
 金の房飾りがついた黒い腰丈のマント。
 あれはどうした身分の人間が身につける物だっただろうか。
 思考力が緩やかに回復してくる。唐突に、その人物の顔に意識がいった。
 いきなり視線が合い、離せなくなる。
 切羽詰まった目をしている。それはそうだ、こんな事故を起こしておいて。事故。ぶつかったのはさっきの軍事車両だろうか。この人は軍人の様だし、そうに違いない。
 それでは、マゴットは。
 首を横に向けた。レースのカーテンを汚す血しぶきが見えた。その瞬間手首を掴まれて、車の外に引きずり出された。
 反射的に声が出た。手首が痛かったからだ。
 ついで悲鳴が出た。今見た血しぶきが何であるか、どういう事であるか、この事態に運転士が何もしないのがどういうわけか、理解できたからである。
「静かにしろ」
 がさがさした手触りの掌が背後からまわり、口を塞いだ。声は若い。顔を見たはずなのに、男の顔貌をほとんど覚えていなかった。覚えているのは目、だけである。実際、目しか見ていなかったのだろう。そして今も、切羽詰まった目をしているのだろう。
「だれ」
 叫ぶのをやめてリレーネは唇を動かした。男が手を緩める。
「だれ」
 拘束が解けた。しかし、右手首は掴まれたままだ。男が答えた。
「王領護衛銃士だ。リレーネ・リリクレスト嬢、あなたの護衛を仰せつかっている」
 横目で見れば、リリクレスト家の送迎車の頭の部分が、壁と軍事装甲車両の間で押し潰されている。
 王領護衛銃士は王に仕える銃士だ。
 ならば何故、天領地における王の代理人たる総督、その使用人をこの様な目に遭わせたのか。
「……なぜ、なぜ、なぜ」
「あの男は反乱者だ。反王派に通じている。あなたの誘拐を企んでいた」
 銃士が装甲車の後部扉を開く。
 広い。様々な電子制御卓と、奥に仮眠用の狭いベッドがある。銃士はリレーネをそのベッドまで連れて行き、カーテンを引いて視界を遮った。
「あなた、名は」
 カーテンの向こうから、声。
「リージェス・メリルクロウ少尉だ」
 本当なの? いえ、あなたの名の事じゃなくて、マゴットが国王陛下に背く反乱者だというのは。私が誘拐されるところだったというのは。マゴットが死んでしまったというのは。
 装甲車が向きを変え、どこかへ走り出す。
 ひどい運転だった。
 車は何度も揺れ、跳ね、時折爆発する。いや、車が爆発しながら走っているとは思えないから、車の周りが爆発しているのだろう。
 ばらばらと車体に礫のようなものがぶつかる音。
 リレーネはベッドに伏せて布団にしがみつき、音と恐怖と絶え間ない衝撃に耐えていた。
「あのマントは護衛銃士が着る物だわ!」
 と、スケッチブックから抜け出してきたチューリップの妖精・ララシィが耳もとではしゃいだ。
「あの方は本物の銃士に違いないわ!」
 と、もう一人のチューリップの妖精・ルルシィがはしゃいだ。
 いつの間にか静かだ。
 車は走り続けているが、暴動の気配はない。無論チューリップの妖精などもいない。
 リレーネは身を起こし、カーテンを払った。
 正面に見える運転席の窓には、無数の罅割れが走っている。もっと目を凝らせば銃弾も見えるだろう。
 罅割れの向こうには、平和な緑が広がっている。
 リレーネは震える足で立ち上がり、制御卓の間を縫い、二歩、三歩と前に出た。
「どこへ向かっていらっしゃるの?」
 運転席の陰に隠れて見えないが、銃士はいるはずだ
「お父様のところですの?」
 いるはずだが答えない。アクセルを踏んだまま撃たれて死んでいるかもしれない。
「ねえ、そうですわよね。あなたは銃士様ですもの! 国王陛下やお父様に命じられて私を守ってくださったのですよね!」
 不安に駆られ叫んだ時、リレーネは、彼は『誰から』護衛を命じられたのかを自分に言わなかった事に気付く。
 すると運転席から、未だ顔を知らぬ銃士が
「俺が一言でもそんな事を言ったか」
 と、さも馬鹿にした口調で答えた。


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