序章
文字数 1,446文字
In principio erat verbum.
(はじめに言葉ありき)
チューリップ座の話は避けて通れぬ。
まだ月が存在していると知ったのは、外に出てみたからである。
月を囲う宇宙の網状都市が夜空に張り巡らされている。それら文明都市の輝きに絡めとられ、月は暗くみすぼらしく、使い古された衣服のような陰気な存在感を放っており、何故かチューリップの匂いがする。一方、地上には電飾の施された木々ばかり並んでいる。どれでもいいから首をくくって死ねという事だろう。
すると、宙廊の両側に整列する木々、その狭間から、何か大きな塊が、のっのっのっ、とやって来る。
巨大オシドリだ。
赤い脚。白い腹と紫の胸。赤い嘴。嘴の両横には、笑っているような、または眠そうな黒い目。黄金色に電飾を反射する首周りの長い羽根が、束の間視線を釘付けにする。
巨大オシドリは湿った足音を立てて彼の前まで来、止まった。
『お前は言語体か?』
彼は自分の言葉で問う。が、オシドリは彼を見下ろして、立ち止まっているばかり。
『お前は言語体か?』
彼は問い直そうとする。肉体語で。使わなくなって久しい、喉の震えを要する言語で。
「おあえあ」
しかし喋れない。彼は試行錯誤する。おあえあ。どうやら喉を震わすだけでは肉体言語にならぬらしい。おあああ。
巨大オシドリの首の陰から、不意に女が顔を出した。
白い顔。長い、黒い髪。黒い大きな瞳には、穏やかな笑みを湛えている。女は巨大オシドリの翼の間に横座りに座っていた。
「ええ」と女は答える。「そうですわよ」
彼はにわかに不機嫌になる。この女は、初めからおれの言葉を理解していたに違いない。からかわれたのだ。
『帰れ』
彼は萎えた肉体を使って巨大オシドリを蹴とばしてやろうかと考える。彼の幼児性は唆す。こんな奴傷つけて構わない。今、自殺しようと考えていた代わりに。
「帰るところですわ」
女が肉体語で答える。彼は気にくわない。
『どこへ帰ると言うんだ。そんな場所もないくせに』
「月に、帰るのです」
女は細い顎を上げ、チューリップの匂いが降ってくる空を見上げてもう一度言う。
「月から来て、月に帰るのです」
『馬鹿だな。月は破壊されるんだよ、言語汚染された基地ごと。もう要らないし、邪魔だからね。そんな事も知らないのか?』
「いいえ、月は壊されません」
生意気にも、女は人間たる彼の言葉を否定した。彼は嘲笑って、無知蒙昧ゆえに放たれた言葉だと判断する。そうであらば、自分に刃向う女の信念など、如何なるものであれ無価値で無害なものだ。
「私が帰る場所だからです」
『月で死ね。お望み通り月ごと爆破されちまえ。お前らなんか全員そうやって死んじまえばいいんだ』
「時が経てばわかります」
巨大オシドリが動く。のっ。道を譲る道理はない。しかしその質量に圧され、彼は路傍に身を引く。
「大人になればわかります。月が死なぬ理由は」
そして、のっのっのっ、と巨大オシドリは夜の彼方へ歩いてゆく。
彼は不機嫌と、恐れ、そして得体のしれぬ不穏なざわめきを抱えて立っていたが、今の出会いに含まれた未知に気付き振り返った。が、あれほど巨大なオシドリも、女の姿ももうなかった。月に帰ったのだろう。
彼は、その未知が恋であることを悟った。今の女を愛してしまったのだ。
時を経た。
大人になった。
愛は癒え難き病となっていた。