3-2

文字数 5,133文字

 2.

「リレーネ、君を迎えに来た」
 トラックの荷台に男が入ってきた。逞しい体つきで、中年の、どこかで見た事があるような顔だ。指で、喉仏のあたりをやたらいじくっている。
「さあ、帰ろう。体を洗う場所も清潔な服も用意した。君の家から迎えが来ている」
 ところ変わって、リレーネはお気に入りのワンピースに身を包み、むせ返るほどの緑にあふれる庭園で、男と紅茶を飲んでいる。
「あなたがイオルク様ですの? 私の婚約者だという?」
「そうだ。助けに来るのが遅くなって、本当にすまなかった。辛い思いをしただろう」
 やはり喉仏をいじりながら男は答える。
「イオルク様、私の家の使用人が殺されてしまいましたの。ずっと長く仕えていた使用人なのに、東方領の反王派のスパイだって言われてしまいましたのよ」
「ひどいね。誰がそんな事を言ったんだい」
「隊長よ。東方領の反王派の工作員よ」
「そいつはおかしな話だね。隊長が東方領の反王派の手先なら、同じ立場のマゴットを殺せと指示する必要はなかったんじゃないかな」
 思わず男を凝視すれば、彼は相変わらず喉仏をいじくりながらリレーネに微笑んでいる。
「……そうですわね。何故かしら」
「きっと君の家の使用人を殺したのはあの銃士の判断だろうね」
『怪物だ!』
 とチューリップ妖精。
「ところでイオルク様、何故、あなたはそんなに喉仏をお気になさるの?」
「人間の顔の皮のサイズが合わないんだ。これがないと喋れないのに、喉のあたりがぶかぶかする」
「あなたは人間ではありませんの?」
「チューリップ人だ」
 男は喉仏をつまんで引っ張り上げるように、人間の頭部の皮を脱ぎ捨てた。
 その下に桃色のチューリップが現れる。
 父親が決めた婚約者は、肩から上にチューリップの花を咲かせたチューリップ人だったのだ。
「まだ(つぼみ)ですわ」
 ゆっくりと、頭部を傾けて、ほころびかけたチューリップの花弁の中を覗かせる。
 中は真っ黒だ。
 最高級の黒い絵の具のように。
 これが夜かしら、青くなくなった空は、こんな色なのかしら。
 すると、その黒色の中を何かがプカプカと流れて来る。
 目を凝らしてみると、ちぎれたマゴットの生首である。

 悲鳴を上げて起きる。喉は干からびたように渇き、腹筋に力が入らない。まるで悲鳴になっていなかったが、すぐに冷静になった。現状が何も変わっていないと認識できる程度には。
 トラックの荷台は開いたままで、外に出てみれば、そこは人けのない集落だった。他のバスやトラックも、集落の中央の道に停められている。
 未舗装の道の黄色い土には、無数の靴跡が刻まれ、そこかしこから扉を叩く音や人を呼ぶ声が聞こえる。
「人を探してんのさ! 取り残されてる人がいたら声をかけんとな」
 突如、背後から話しかけられてリレーネは飛び上がった。
「連れの兄ちゃんを探してんのかい」
 振り返ると、さっきの禿げ頭の辺境警備隊の男だ。男は黄色い歯を見せて笑った。
「ええ――」
「だったら、この辺りにいるんじゃないかね。オレらを手伝ってくれてるんだ」
「私も手伝いますわ。残っている人を探すのですね」
「ああ、それと、食料と燃料もな。ここにはもう、誰も残ってなさそうだからねぇ……」
 すると、沈黙する家々の中や裏などから、人が姿を見せ始めた。
 食事の時間だよ、と男が教えてくれる。

 リレーネが乗っていたトラックの荷台から、警備隊の男たちが糧食の木箱をおろし、一列に並んだ人々に配り始める。その間にリレーネはリージェスと二人きりになり、尋ねた。
「あなたは私を南西領にいらっしゃるお仲間のもとに連れて行くおつもりでしょう? うまくいくのかしらね」
「この人たちが紛争中の南西領にやすやすと入りこめるとは思えん。だが境界まで移動するには都合がいい」
 列が短くなるのを見計らい、リージェスが一番後ろに並び、リレーネの分の缶と水を持ってきた。
 人々はバスの張り出しの下やトラックの影などにめいめい場所をとり、缶を開けた。
 リレーネの缶の中はスープで、リージェスの缶はパンだった。リージェスはパンを半分くれた。リレーネはスープを半分分けようとしたが、リージェスはそれを固辞した。
 二人の様子を、領地からの脱走者たちが遠巻きに見つめている。その内好奇心の強そうな一組の男女が、二人が座る民家のポーチまで寄って来た。
「北方領から来たっていうのはあなた達? ここ、いいかしら」
「……ええ」
 リージェスが体をずらすと、若い男女はそれぞれ缶を握りしめたまま、空いた場所に腰を下ろした。
「あなた達も南西領に行くの?」
「ええ――事情があって」
「そう。まさかとは思うけど、歩いて行くつもりだったわけ?」
「まさか。車があったけど壊れたんです」
「大変だったわね」
「あなた達はどこから?」
「境界近くよ。もう住めなくなっちゃった」
「化生が出るんだ」
 男が言い、二人とも辛そうに顔を背けた。
「夕闇の領域からはるばるね。よそに頼れる親戚がいる人はみんなそっちに避難したし、そうじゃない人は、こうして逃げている」
「……逃げるしかなかったのですか?」
「私たちがいた一帯は神官たちの統治領域だったけれど、神殿の神官たちは何もしてくれなかった。それに、一度村を見捨てて逃げた以上、誰にも助けてなんてもらえないわ。この村もそうみたいね。皆どこに行ったのかしら」
「南西領は南東領と戦争中だ。それでも化生が出るよりはいいと?」
「あなたはアレを見た事がないのね」
 溜め息をつく女に、リージェスはそっと視線をよこす。
「それに、南西領が南東領に軍隊を寄越したのは、船に乗るためだわ。〈日没〉に間に合うためには仕方ないのよ」
 自分を誘拐するよう指示を出したのはシンクルスと言う人物らしいが、その指示に許可を出した人物がいるとしたら、南西領総督の他あるまい。
 コンスティアやパンジェニーの話は規模が大きすぎて現実感がなかったが、自分が巻き込まれたことの重大さ、その皮膜に触れて、リレーネはぞっと鳥肌を立てる。
 銃士の一小隊の謀反や狂信で済む話ではない。
 膝の上に、飛び交う鳥の影が落ちる。
 四人が顔を上げる。

 言語生命体を創るのに、地球人たちが如何なる奇蹟を用いたものか、今では神官たちしか知らない。
 リレーネの先祖たちが創造主たちと共に地球で暮らしていた時代、先祖たちは創造主たちに刃向い、罰を受けた。
 太陽の光を浴び続けなければ崩壊してしまう肉体にされ、アースフィアに取り残されたのだ。
 多くの言語生命体の、動物たちと共に。

 天球儀が檻であるように、この肉体も檻である。肉体の檻が太陽光の欠乏から崩壊することを言語崩壊というのだが、見た事がないのでわからない。
 昼でも夜でもない〈夕闇の領域〉には、言語崩壊を起こした生物が無数にはびこっているという。
 多くはその地にさまよいこんだ鳥や動物である。太陽の王国から夕闇の領域へと追放された罪人もいる。
 それらは自我の崩壊に伴って色や輪郭をなくし、影のような姿になって、最後には消える。
 しかし、それが太陽のある領域に再び踏み入る事があれば、異形の姿のまま固着し、人畜に害を為す。
 そうした存在が化生(けしょう)と呼ばれるものどもだが、見た事がない――多分。
「化生だ!」
 いや、どうやら今、見ているらしい。隣でリージェスが呟く。
「ただの鳥じゃないか――」
「違う! 何を言ってるんだ、あれが化生だ!」
 リレーネはぼんやり、空を飛びかう無数の影を見つめた。
 うっすらと黄ばんだような色の薄い空を、はたはたと群れ飛ぶ鳥は、確かに黒い輪郭だけの存在で、大きなゴムバンドが飛んでいる様でもある。
 あれが本当に人を襲うのか。そう言われても信じられないが、人々は慌てふためき、リレーネも腕を掴まれる。
「その人をトラックへ!」
 リージェスが叫び、リレーネはそのまま引っ張られた。
「待って――」
 腰丈のマントの下から、リージェスが銃身の長い銃を抜くのが少し見えた。
「こっちよ! 早く」
 急かされるまま前を向くと、先程まで和やかに食事を摂っていた人々が、無言のまま身を屈めて車両の中に退避していく。辺境警備隊の男たちが、手早い動きで人数を数えながら車に押しこんでいる。
 破裂音のような銃声が背後で響いた。
 化生の鳥が鋭い鳴き声を発する。振り向いた途端、体をひょいと掬い上げられ、トラックの荷台に放りこまれた。
 次に化生の姿を視界に入れた時、その姿は先程までとはまるで違っている。甲高く耳を衝く叫びを発するたび、その黒い輪郭は乱れ、色が濃くなってゆく。
 言語を持とうとしている。リレーネは直感する。言語と共に姿を失った生物が、今また人々の恐怖の叫びという言語を手にすることで、新しい、そして確かな姿を持とうとしている。
 その直感が正しいかどうかはわからない。
 先頭の車が動き出す音。
 ゴーグルを装着したリージェスが、銃を抱えて走ってくる。一緒に食事を摂った男女の、女性のほうにずっと体を抱かれていたことに、リレーネは気が付く。男のほうが、リージェスに荷台から手を伸ばした。
 地面を蹴ったリージェスが、男の手につかまる。リージェスが荷台に転がりこむと、禿げ頭の警備隊員が素早く荷台を閉ざした。
 化生どもがリージェスを追ってトラックに飛びこもうとしているところだった。
「怪我はないか!」
 リージェスが返事をしかけた時、トラックが大きくカーブを切り、全員が床に転がった。何かの段差に落ちこんだらしく、衝撃と共に荷台が浮く。
 顔を上げると、ビニールの窓の向こうに、黒い色彩の一団が見えた。
「撃ちます。銃口を直視しないでください」
 鋭い爪がビニール窓を突き破った。思わず目を覆った瞬間、閉じた目の暗闇を光が裂く。爆音に紛れて、荷台が開く音が聞こえた。
「何があったのです?」
「悪いね、あんた達前の車に移ってくれ!」
 荷台から飛び降りたところで、リレーネは立ち竦む。
 空の限りを化生の群れが覆い尽くしている。
 大きいもの、小さいもの、まだ輪郭だけのものがあり、その隙間からチラチラと太陽の光が見える。
「走れ!」
 リージェスが、空に向けて撃った。
 見えないエネルギーが奔り、化生の群れを焼き払う。二発。三発。
「走るんだ! 早く!」
 自分に向けて言われているのだと、リレーネは気が付いた。
 道の先では、怯える人の顔を積みこんだバスが、口を開けてリレーネ達を待っている。
 先に走っていた男女が、バスに押しこまれた。
 リレーネも走る。
 バスの扉がしまり、走り出す。
 辺境警備隊の男がトラックを指さし、恐らく「これに乗れ」叫んでいる。水の中にいるようだ。走る足はあがらず、誰の声も聞こえない。どこよりも騒々しい無音の世界。
 体が宙に浮いた。転んだ、と理解した瞬間、耳に音が戻ってくる。膝をすりむく痛みと同時に、甲高い鳴き声が頭蓋に響き渡った。
 空が落ちてくる。
 黒い色彩が、鋭い嘴となってトラックを守る男に襲いかかるのが見えた。
 叫び声が聞こえた。自分の声だ。頭から黒い布をかぶせられた。リージェスのマントだ。
「早く行け! 庇いきれない!」
「リージェスさん、私――」
 かぶせられたマントを握りしめ、リージェスの姿を探す。頭上すぐ近くを化生どもが群れ飛んでいるのがわかる。
「――た、立てない!」
 誰かが腕をつかんだ。力の入らない足をそのまま引きずられ、リージェスから引き離された。
 車に引きこまれた。トラックでもバスでもない乗用車だ。
「待ってください、もう一人、もう一人――」
 鋭い、短い悲鳴が聞こえた。化生の群れに食いつかれたリージェスが、大時計に叩きつけられ、地面に崩れ落ちるのを見た。
 扉が閉まる。
「あの方を置いて行かないで!」
 女の声が、同じ車の中で答えた。
「自分の心配をしな!」
「――リージェスさん!」
 リレーネを乗せた車が走り去る。
 その後の砂塵の中に、男が一人立っている。大柄で日にやけた、逞しい中年の男だ。男は乗用車を守るように、空を飛びかう化生の群れに向かって機関銃を放つ。
 その後ろをエネルギーの塊が走り抜け、男に背後から襲いかかろうとしていた一群を散らした。
「おっ」
「何者だ」
 ゴーグル越しにリージェスの鋭い視線を受け、男は肩を竦める。
「お前の命の恩人さ」


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