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文字数 6,715文字


 4.

 アースフィアには月が必要だとわかってくる。開発予定地とされる、常に太陽が照りつける面。その面を永久に太陽に向け続けるには、自然のままではやはりバランスが悪いのだ。
 月を造ってその微妙なバランスを調整してはどうか。
『月!』
『月が欲しい!』
 育まれる銃士への愛の中で描き散らかされた空想より、二人のチューリップ妖精が身をもたげて紙から出てくる。
「月をどう作るか」
 言語共有場の会議室に、参加者たちのアイコンが浮かび上がる。
「地球の月を持っていけばいいんじゃないかね。どうせもう奴らもねぐらとして使う気はないんだろう」
「壊して、わざわざ、運べと」
「いい厄払いだ。もはや地球に月など必要ない」
『月を壊さないで!』
 チューリップ妖精のララシィが、紙粘土の質感の、灰色の顔のアイコンのもとに飛んでいく。
「かつて月で起きた事を考えろ。月は地球の病だ」
『月は地球の恋人だわ』とララシィ。
『あなたなんかが生まれるずっと前から、地球の歴史の中で人間は月に恋焦がれていたのだわ』とルルシィ。
「恋が成る事はなかった」
「愛は消えた」
「消えて病となった」
「もはや月は地球の負の象徴」
 そう言う紙粘土の肌のアイコンは、頭部がふくれあがって月になり、赤く熟してから黒くなって腐ってボトリと落ちて死ぬ。
『長らく月が与えてきた地球文化への影響を鑑みれば月の破壊は好ましくないでしょう?』
 ララシィは別のアイコンの顔の前で羽ばたいて言う。
「旧言語に依存する地球文化などもはや保存の意義はない。そんなものは言語生命体どもにくれてやれば良いのだ」
 ルルシィはそれとは別のアイコンに食い下がる。
『地球環境への影響を考えたら月を壊すわけにいかないわ!』
「月がある位置に月と同等の重力を発生させておけばよい」
 矢の家の若者は、月が解体されてゆくのを見る。戦の始まり、教会の屋根裏でひっそりと反乱の支度を整えていた、あの青年の孫である。彼もまた、アースフィアにおいて建国の基礎となる様々な功を成し、ライトアロー家の回廊に肖像画が飾られる。
 意識の彼岸、壊れた時間の断片で、ライトアロー家の遥か先の子孫が肖像画の目を覗きこむ。
 その時彼は、溜め置かれた時間としての、月が消えた窓を見出すだろう。もはや二度と月明かりが差すことのない、戦の起点となった教会の屋根裏。窓辺に積もる埃を、先祖の指が一撫でする。
 そこに、誰かが彫り残した地球文字を見つけるのだ。
〈永遠〉

 時が経ち、矢の家は続く。真昼の月のもと、アースフィアは栄えている。地球時代のあの人間もあの同胞も死んでいる。
 飽きた恋人のように、地球人は言語生命体を持て余す。
 平和な時代、地球人はここが母星から遥か遠いという事実を思い出す。そもそもは言語生命体たちが遥か母星の地球の人間たちに背いたのだと思い出す。更に、自分たちの先祖が人間でありながら人間に背き、母星に離反したと理解し直す。
 地球にいた頃は地球人を地球人とは呼ばなかった。人間とはすなわち地球人なのだから当然だ。かつては人間と言語生命体とがいた。それが今では地球人とアースフィア人になっている。
 自分たちはアースフィア人だという。
 力が強く、言葉が通じず、煩わしい音声の肉体言語でしか会話できない連中。違いすぎる容姿、そしてその容姿を、創造主たる地球人の今の姿より優れていると思っている、鼻持ちならない被造物ども! そんな奴らと同じ星に閉じこめられている。地球人なのに。創造主なのに。
「帰る!」
 神界戦争を経て、クレヨンで塗られた玉座に座り、クレヨンで塗られた地球人の王様が叫ぶ。
「お前たちが要らないって言うなら俺たちは地球に帰るからな! その代わり条件付きだ! 御三家を呼べ!」
「はぁい、私ララシィ!」矢の家の主。
「はぁい、私ルルシィ!」射手の家の主。
 もう一人のチューリップ妖精が落書きの国の王宮に現れる。
「私ニコシィ! 今日からあなたたちの仲間だよ! よろしくね!」弓の家の主。
「いいか、お前らのお望み通り俺らは地球に帰る。その代わりアースフィアの宙域には戦列艦を残していくからな。その気になったらいつでも焼き尽くしてやるからな! 覚えてろよ!」
「はーい!」ララシィ。
「俺たちの先祖が持ってきた環境維持装置も全部引き上げるからな。そのかわり天球儀を造るから、そこから出ずに暮らすんだぞ。出ようとしたら天球儀が壊れて王国が滅ぶからな」
「はーい!」ルルシィ。
 王様の色を塗るクレヨンが溶けていく。いつか来る夜の中で言語生命体たちの存在がほどけるように。
「あとそれから、今後生まれてくる子供たちは太陽光なしには生きていけないようにしてやるからな。宇宙に出て来れないように、一人残さずだからな」
「はーい、わかりましたぁ」ニコシィ。
「お前らもだからな、他人事じゃねえぞ。絶対、絶対にだ――」
 王様は色を失い透明になった。アースフィアには言語生命体だけが残される。
「いなくなっちゃったね」
 やがて、本当に造られた天球儀。言語崩壊を起こす次世代の体。果てなき蒼穹のどこかに隠された戦列艦。
「本当に、地球人は、一人もいなくなっちゃった」
《私がいる!》『彼』は叫ぶ。《私がここにいる! 見ている!》
 声は誰にも聞こえない。
 そもそもの戦の始まり、チューリップが咲き乱れる地球の片隅の教会で月の奪取を試みた、まさかそんな世代の地球人が生きているなど誰も想像しない。できない。

 矢の家、射手の家は、消えた地球人を恐れる。
「だって私たちが本当に宇宙に出て行かないようにできちゃったんだもん。本当に私たちを焼き尽くせる火を置いていったんだもん」
「地球人は神様だよ! そういう事にしよ。ね? だって……」
 私たちの歴史では今までずっと地球人が偉かったから。いきなりアースフィア人だけでの自治なんてできないから。なんかの形で地球人っていうアイコンがあったほうが都合がいいよ。
 こうして二家の思惑が歴史の土台となる。
「よく言うよ! 自由と平等を求めて地球人をアースフィアから撤退させたくせに!」
 弓の家は二家に抗う。
「神様は唯一のものなんだよ。神様の前にはみんなが平等なんだよ。地球人が神様だなんて変だよ!」
「大丈夫だよ、今までだって地球人が偉かったんだし」
「やだーい! やだーい!」
「なんで? あんだけ凄い科学技術を持ってる地球人だもん、長い時間をかければ地球人が神様だったってみんな信じるよ!」
「ヤダヤダヤダー! そういう問題じゃないもん! あなた達結局地球人をダシにして甘い汁吸いたいだけじゃないのー!」
 チューリップ妖精のニコシィは落書きの国の花園で、羽をばたつかせて泣く。
「そんなことさせないもん! 署名だって持ってきたもん! ほら、ね? 地球人が神様だなんてイヤっていう人がこんなにいるもん!」
「なによこんなモノー!」
 チューリップ妖精たちの目は細長く吊りあがり、ぷっくりした唇は耳まで裂け、血を欲して鋭くとがる大小の牙を剥き出しにする。ニコシィは羽根を毟り取られて地に落ちる。彼女の上に砕かれた銀の薄い羽根が降りそそぐ。
「何よ、歴史なんて! 何よ地球なんて!」
 ララシィとルルシィはなおもニコシィを蹂躙する。
 服が、髪が、皮膚が、肉が、八つ裂きにされて飛び散らかる。
 やがて爪の一欠け、血の一滴からも生命が消え失せる。
 弓の家は惨たらしく滅んだ。
 八つ裂きにされた死骸に、矢の家射手の家は物語の土をかける。
 歪められた歴史を神話に、科学を奇蹟に、置き去りにされた地球の産物を聖遺物に、地球を神界に、地球人を神にする物語。
「ねえ、これも砕いて埋めちゃおうよ」
 茫漠の園はほの暗く、その薄闇の底で、チューリップ妖精はとある未来予測を持ってくる。
「ね、こんな恐ろしい事は、私たちの子孫にだって言い残さないでおこうね」
 こうして一つの真実が、物語の土をかぶり消える。
『宇宙は永遠です』
「宇宙は永遠などではない」
 奇しくも星空の下、隠蔽された真実がその破壊者の子孫の口から語られる。
『地球の科学は万能です』
「宇宙の中にある限り、宇宙の死には抗えぬ。万能と言われる地球科学を以てしても」
 戦闘車両が掘り起こした土、それこそが物語であるように、その下に隠された真実を見出したかのように。山中の野営地で、さわやかなペールブルーの二重マントに身をくるむシンクルスは、リージェスと共にリレーネの護送車にいる。
「宇宙は膨張する」
 リレーネは体に毛布を巻きつけてベッドに掛け、まるで聞いたこともない言葉を語るシンクルスに眼差しを注いでいる。
「膨張の果てには、宇宙に満ちる物質がその重力で互いを引き止めあい、後に収縮に転じる。いき着くところは宇宙全体が圧縮された、特異点と呼ばれる始まりの状態だ」
「私たちも、アースフィアも遥か彼方の地球も、小さな点に?」
「そうだ。かつて、その極度に高温・高密度の点が爆発的に膨張し、宇宙が始まった。膨張が収縮に転じるというのは、地球人たちが予測した宇宙の死の形態だ。地球人たちはこれをビッグクランチと呼んだ」
「小さな点に戻った後はどうなるのかしら」
「再び爆発し、広がるかもしれぬな。そしてまた星々が生まれ――」
 リレーネには、とても真実が語られている様には聞こえない。シンクルスも、まるで栓無きことを語ったとばかりに、微笑んで首を横に振った。
「いずれにせよ、その時には今ある全ての生命は存在し得ぬであろう」
「地球人がビッグクランチとやらへの対策を何もしなかったとは思えない」
 コーヒーカップで手を温めるリージェスに目をやり、シンクルスは頷く。
「あるいは何も対策を立てられなかったか……このアースフィアが地球人にとっての遥かな未来にあるなら……つまり地球人が空間と同様に時空を跨ぐ技術を手にしていたのなら、因果を失った時間の断片を漂流することで命を繋ぐことはできる。それも長い長い一時しのぎに過ぎぬだろうが」
「どうなさるおつもりなのか、地球人に尋ねてみたいですわ。今でも存在するのなら」
 視線を合わせ、リレーネとシンクルスは笑いあう。
「いいえ。どなたも、地球人が今アースフィアにいるはずがありませんわね」
《いいや、私がいる! ここに!》――『彼』の叫び――誰にも伝わらない。誰にも気付かれない。
「……でも、もし存在するのでしたら、どのような方法で存在するでしょうね」
 リレーネは窓の向こう、遠い星空を見上げる。血と火薬の臭いに満ちる外を。隘路内部で蹂躙された敵兵の怨嗟と砂塵と硝煙が消え残る外を。
 その星の光の中に、地球の戦艦の光が紛れていることをシンクルスは知っている。彼の精神は星々の谷間へと、深い孤独の淵へと落ちてゆく。――俺は、何なのであろうか。家族。愛した人。友。仲間。敵。殺してきた者。これから殺す者。悪くすればこれから俺を殺す者も。悠か時の中で、存在が、何だというのだ?
 俺は何者なのか――何者ではないのか?
 言語生命体。地球人の失われた言語、それに依存する景観、世界観、そうしたものを保存するために生まれた命。記念碑的生命。
 地球に依存した精神性は、地球を失えば、地球がそれを不要としたら、成り立たなくなる。
 言語生命体には、地球人たちがその存在を無用と判定した時には、身を守る術がなかった。この生命、この存在が正当であると主張できる論拠がなかった。だから先祖たちは戦った。地球で。アースフィアで。
 けれど、言語生命体がアースフィア人となり、その後、アースフィア人だけで作り上げた世界観や価値観という物があっただろうか?
 シンクルスは、先祖たちの行いの全てを知っているわけではない。しかし、十分に想像することができる。千年の自治の歴史の中に、神格化された地球人の存在に依存していなかった時代はないから。それが何を意味しているかを考えればいい。
 深い喪失感の中で、彼は一つの覚悟を決める。
 何者であろうとも、俺は――臆病者ではない。

 地球人の長い寿命が尽きる直前の日、『彼』は地球に帰ってきた。宙廊、光る木々、どれが自分の家かわからぬほど無個性な、箱型の家々。誰も個性、見分け、識別を必要としなかった、あの時代。
 私は彼女に会った。
 自意識を持て余し、同じような人間を見つけることができず、いっそ死のう、死に方が個性になると思っていた時代、あの女は宙廊の向こうから歩いて来た。
「巨大オシドリ女」
 『彼』は両手を空につき上げて、身をのけぞらせて息を吸う。
「巨大オシドリ女!」
 あの女も言語生命体ならば名前を持っていたはずだ。今、空には都市が輝く。月が足りない。あの日、都市の網目から見えていた地球の古い恋人が、もうどこにもいない。
 この宙廊を月を見ながら歩いていけば、そこに教会があった。
『何故、彼女らが生まれたかわかりますか?』
 牧師は怯える目で少年を窺う言語生命たちを振り返り、言った。
『私たち人間は、音声や文字に頼らず事物を伝達する能力を獲得しました。この進歩がもう一段階進めば、人類という種があらゆる形態の言語を喪失することは想像に難くありません』
 ステンドグラス越しの光の中で寄り添いあう少女たちの中にも、この地球言語がわかる個体がいる。何人かが興味深そうな目を牧師に注いでいるから、そう理解できる。
『言語の喪失、それは人間のありようを根底から覆すでしょう。人類は未知の世界観に突入します。ちょうど、私の親に当たる世代は、その変遷を恐れました。何らかの形で言葉を残したがった』
『その言葉がこいつらですって?』
『そうです』
 牧師は前庭から、教会の中に入っていく。
『言葉の歴史、言葉によって記述された人間の意識と景観(ランドスケープ)を残そうとしたのです。人類の歴史の一つの記念碑として』
 そんな過去の記憶が彼女を呼んだのかもしれない。
 宙廊の両側に整列する木々、その狭間から、病が歩いてくる。
 赤い脚。白い腹と紫の胸。赤い嘴。
 嘴の両横には、笑っているような、または眠そうな黒い目。
 束の間視線を釘付けにする、黄金色に電飾を反射する首周りの長い羽根。
 巨大オシドリだ。
 寿命が百年もないような言語生命体の一個体が、何故またも自分の目の前に現れたか、彼は理解できない。
 巨大オシドリの翼の間に横向きに座る、黒い髪と黒い瞳を持つ女。
 彼女は若いまま、美しいままだった。
 『彼』は己と死を隔てる距離がさほどない事を悟る。死が理を超える時がきたと。死が、あり得ぬ人を連れてきた。それについて彼は恐怖し、次に、愉快な気持ちがこみ上げて来る。
「月に帰るのか?」
 あの日使えなかった肉体言語で『彼』は問う。女は嫣然と木々の電飾の中で微笑みながら、黒髪を背中に払った。
『月は、壊れました』
 今度は彼女が、からかう様に地球言語で応じる。
『帰ります』
「……どこへ」
『月がいる場所へ』
 巨大オシドリが動く。のっ。のっのっのっ。夜の彼方へ消えてゆく。
「待て」彼はオシドリの尾を追って、よた、よた、よた、と歩きだす。「待つんだ」時を追って。病が愛に還元されることを求めて。
『私は月を壊した人たちを憎みます』
 チューリップの匂いに乗って、女の声が届く。
『月を壊したあなたが、その事を悔いて悔いて、誰からも責められて、気が狂わんばかりに嘆けばいい』
 老人は重い少年性を抱えて足を引きずる。行く先の宙廊には、もう巨大オシドリは見えない。
『日ごと夜ごと、私の呪いが翼を生やしてあなたに会いにゆきます』
「待ってくれ」
『私の呪いは星空に、あるいは昼の青いお空に舞い上がって、海風を受けて、山の風を受けて、光り輝く太陽に吸いこまれていくの』
 月は必要だったのだ。言葉のために。言葉の世界に。
 お前らのためじゃないか。
 ただ壊しただけではないのだ。
 邪魔だから壊したわけではないのだ。
 聞いてくれ。待ってくれ。
 名前を教えてくれ。
『その太陽を、あなたも見るのです』
 太陽が壊れる日まで。
 最後の言葉を受け取り、『彼』は足をもつれさせ、宙廊に倒れこむ。その時額を強く打ち、『彼』はそれきり二度と自力では立ち上がれない。
 二度と。


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