10-2

文字数 2,834文字


 2.

 網状都市には、まだ肉体言語を使う人たちのための都がある。言語生命体が発祥した都市。そして、地球言語器官が十分に発達しなかったがために、宇宙都市の発展から取り残された人種たちが暮らしている都市だ。
「一緒に戦えだと? 何で。自由と平等のため?」
 当時すでに時代遅れとなっていた都市間通信装置で、教会の屋根裏と宇宙の一都市が繋がりあう。
『人間同士ですら平等じゃないってのによ、頭にウジ湧いてんじゃねぇの。お前みたいな奴は嫌いだ。どっかに行っちまえ』
「そりゃもちろん望むところです。だからさ、どっかに行くために、こうして協力を求めてるんですってば」
 瑠璃色の髪を持つ言語生命体の青年が、丘の下の火の列に目を落として話している。言語生命体を庇うなら、同胞であろうと焼き払う勢いの彼ら。牧師を殺した彼ら。
「俺たちがこのまま地球上にいたって、多分、ろくな事にならんよ。あんたもそう予感してるんだろ……俺たちの言語調教師。肉体言語の民。俺たちの地位が悪くなることに、あんた方はいつまで耐えられる? 俺たちがいなくなって、次に奴らから悪い意味で注目されんの誰?」
 窓から目をそらせば、同じ屋根裏には翼の少女が蹲っている。そして人間の少年。
『……お前らは何がしたい?』
「星が必要」
 少年は、言語生命体のように名を持つ事を拒んでいる。彼は『彼』と呼ばれている。
「できるだけ遠くがいいな。例えば……チューリップ座」
『なに夢みてぇな事言ってやがる』
「夢か。夢ねぇ。ああ、俺さ、夢で閃いたんだよね。チューリップ座の、地球環境化が進む星、あれ何て名前だっけ? あれにたどり着く方法。まずさ、俺たちねぐらが必要なんだ」
 だから、月が欲しい。月にまるまる一個都市が残ってるだろ。そして中継基地。それが欲しい。
『……月は言語汚染されている。だがまあ、地球言語に依存しないお前らには関係ない話だな』
 肉体言語の貧しい民が暮らすその都市も、宇宙空間を漂う様々な物質で構成されている。建材としての小惑星を捕獲する装置が宇宙に散らばっているのだ。
『でもな』男の声が、心なしか震えて聞こえる。『俺は、手伝わんぞ……』
 瑠璃色の髪という奇形種の特性を持つ青年は、その不幸な事故が起きた年に生まれた。捕獲された小惑星が、間違えて月面に向けて射出されたのだ。
 月の言語共有場には、人々の強烈な恐怖と絶望と死の瞬間の意識、すなわち言語が焼き付いている。今でも消えていない。地球言語のみに依存する人間は、その空間で正気を保っていられない。言語による住環境汚染だ。
 一方で言語生命体は、地球言語を解する器官が付与された個体であっても、必要に応じて機能を遮断できる。月に立てる。
「手伝う手伝わんに関係なく、あんた達は巻きこまれずにおれんよ。同じ人間として……ここぞとばかりに同胞意識を押しつけられて……地球言語器官が弱いあんたらは徴兵されて月に送りこまれる。俺たちが月を占拠したらな。言語共有場を介して操作されるうつし身は、月では戦えない。月で戦う人間が必要だ。弱い立場のあんたらが」
 やがて矢の家の始まりとなる青年の言葉に、男は半ば呆れて黙る。この奇形種の青年と違って、男が後世に名を残すことはない。地球上では廃れた『名』という文化を残す、最後の民族であるにも関わらず。
『何故、何であんたらは……わざわざ月に? そんな事をしなくても』
「どうしても月にこだわるっていう変わり者がいてね」
『彼』は何か――翼の少女に手許を見つめられながら、窓辺に文字を彫っている。

 3.

 降り注ぐ日差しはまだ夏の爽やかさを留めている。爛漫のコスモスが庭園を埋め尽くしている。総督府の裏の外れ、石塔から飛び出してきた七歳のリレーネが、息を切らして公邸へと走ってゆく。彼女は焦っている。一刻も早く身を隠したい。一刻も早く、石塔での出来事に立ち会った、その記憶を消さなければならない。
 お父様。お父様。
 公邸の扉を細く開け、体を滑りこませ、鍵をかける。お父様、その方は私と遊んでくださると仰ったわ。何故そんな事をするの。
 部屋に逃げこみ、ベッドに潜りこむ。誰かが入ってくる気配はない。よかった、誰にも見咎められなかった。もし見られていたら、同じことをされたかもしれない。同じ恐ろしい顔を、父にされたかもしれない。
 布団を細く開ける。その隙間から、いきなり真昼の月が見える。肉を裂く鞭の音が、耳の底で鳴り響く。リレーネは布団の中で吐いた。

 一年後、千年の真昼の月の下で、十三歳のリージェスがアイロンに熱を通す。彼はメリルクロウ家の二十三番目だったか三十二番目だったかの養子になっている。メリルクロウ家の子供たちの多くは家を出て、広大な屋敷にいるのは滅多に帰らぬ主人、そこらで足音や咳の音を立てる死んだ夫人、ほとんど面識のない義姉妹……こちらは多分生きている、そして召使いと自分。自分の前にはアイロンがある。
 アイロンの前に三面鏡が。
 鏡の中に月と青ざめた顔が入っている。
 少年のリージェスは、着ている衣服のボタンを一つ一つ外しながら立ち上がる。するりとシャツを脱ぎ、鏡の前に、月の前に、肩から背中にかけて並ぶ、二つの刻印を晒す。
 奴隷の刻印。
 リリクレスト家の家紋。
 アイロンが、蒸気の音を立てながら、白い湯気を吹き出す。湖に来る白鳥たちが一斉に身悶えて死ぬ。死んだ夫人が廊下を歩くと衣擦れの音がする。アイロンの音が木枯らしに似て、リージェスは寒さに震える。震える指がアイロンに伸びる。かつてあれほど逃れようとした恐怖と苦痛の体験を、今度は自らの手で成すために。
 三面鏡を使って背中の刻印を見る。夫人が何を気にしてか、リージェスの部屋の前を行ったり来たりしている。白鳥たちの狂乱が透明な窓に殺到する。リージェスは気が狂う方法を探している。
 焼け、焼け、焼け!

 同じ日、矢の家の最後の一人となった十六歳のシンクルスが石牢に閉じこめられている。足首に鎖、手には手錠、顔には何度も殴られてできた痣が浮き、目に涙を溜めている。
 牢の扉には食事を出し入れするための小窓がある。その小窓も今は外から施錠されている。近くに食事が手つかずで残されている。
 彼は食事を摂らぬと決めている。天井近くの細長い窓、そこに目を向けて、ああ、あの向こうには神学校がある! 数日前まで自分の居場所であった。神学校よりもっと向こうには故郷がある。
 家に帰りたい!
 頬を涙が伝う。
 涙に滲む月がある。
 時を越え、空間を越えて、彼らは不意に同じ事を願う。
 恐怖ごと身を包む子供用布団の中で。アイロンが床に転がり、肉の焦げる臭いが満ちる部屋で。餓死を決意した牢の中で。リレーネは、リージェスは、シンクルスは、どうしても叶わない願いを共有したことがある。

「月が欲しい」


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