8-6

文字数 1,649文字


 7.

 闇に食われた人間の体がつむじ風になって走る。
 風がロアング中佐にぶつかった。
 屋内にある彼の体を叫び声が透過して、髪と衣服を後ろになびかせる。
 中佐は立ち止まった。
 振り向くが誰もいない。
 気のせいだと納得できるまで時間を置き、ロアング中佐は歩き出す。
 西棟に一番近い、外への扉を開けた。闇をかき分けて歩くと、探していた人物の白い服が、浮かび上がるように見えた。
「神官将殿」
 壁際の、獅子を模した彫刻の前から動かない。彫刻の口から流れる水に手をさらしている。
「神官将殿、何をしているのだ?」
 シンクルスは、両手で水を受けながら目を閉じていた。跳ねた水が、服や、靴を濡らしている。
 目を開けた。
 ぼんやりした、どこか焦点の合わぬ目で中佐を見る。まるで、それが誰だかわからぬような、不思議そうな顔をして。
「水が……」
 かすれた声が答えた。
「冷たくて気持ちが良い……」
 すると、その姿がふらりと前のめりによろめいた。
 ロアング中佐は咄嗟に両腕を伸ばし、シンクルスを支えた。腕に体の重さがのしかかる。シンクルスは、中佐によりかかったまま地面に膝と両手をついた。
「……クルス」
 中佐は一緒に身を屈めた。呼吸の荒さと、衣服の下の体の震え、そして熱さに気付かぬわけにいかなかった。シンクルスの前髪をかき分けて額に手を当てる。
「すまぬ、中佐殿……少し眩暈が」
「何が少し眩暈が、だ! ひどい熱だ」
「少し……」
 シンクルスは体に力をこめ、立ち上がろうとする。背に当てた掌越しにその意図が伝わる。が、叶わなかった。
「少し……疲れた……」
 倒れこむ体を腕で支え、中佐はその体を激しく揺さぶった。
「クルス、クルス!」
 冷たい気配が二人の頭上を占める。
「クルス!」
 上下の睫毛を閉じあわせたシンクルスは気付けない。彼を抱き上げ、安全な場所へ運ぼうとするロアング中佐もやはり、頭上を黄色い月が通り過ぎることに気付かない。
 アースフィアの月から降り注がれる千年の問いかけに気付かない。
『お前は言語体か?』

 お前は言語体か?
 お前は言語体か?
 使いこなせない肉体語が、地球の月の下ばら撒かれる。肉体語を撒き散らすのは萎えた体の少年である。
 お前は言語体か!
 少年は、ふらふらと家に帰る。白い壁。白い平屋根。どれも同じ家。なぜ、自分の家が自分の家とわかるのか不思議なほど無個性な区画。
 お前は言語体か!
 夜に満たされた家の中で、肉体語という騒音に対する刺々しい怒りが、背中から腹を貫くように刺さった。
 その『気』こそが、地球人の言語である。
 言語を放ったのは父だ。
 少年は枯れ木のような足で、よたよたと地下の父親の部屋を目指す。
 父はほの白い照明の中で、ベッドと一体化した言語共有機に接続されて横たわっていた。脂肪の削ぎ落とされた頬。ぼんやりと開いた口。死んでいるみたいだ。しかし死どころか眠ってすらいない。どうせ別室の母親と『イイこと』の真っ最中だ。それを邪魔されたから怒り、しかし、息子が肉体をひきずってここまで迫っていることに気付いている様子はない。『イイこと』のお相手が母親であるかどうかも怪しいものだ。
 だが別にどうでもいい。
 少年は横たわる父親の頭から、言語共有機のバイザーを強引に奪い取った。
 接続された淫靡な共有場について把握するよりも早く、少年は彼の言語、この時代の地球人の言語で喚く。

 巨大オシドリ女!
 巨大オシドリ女!

 言語共有場の乱交会に出入りしていた男女は巨大オシドリ女の容姿を意識に叩きこまれて覚醒を余儀なくされる。
 父親がそのような会に出入りしていたことなど少年にはどうでもよい。
 自分にも、両親にも、誰にも名がないことと同じくらいにどうでもよい。

 未来、アースフィア人にとって彼が過去の人であり、『地球人』でしかないのと同じくらい、彼は自分の父親の個性などどうでもよかった。

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