2-1

文字数 1,699文字

1.

 顔を見たのに顔を見ていなかった。
『それってどういう事かしら』
 チューリップ妖精が訊く。
「私にだってよくわかりませんわ」
『おかしいわ。確かに見たはずなのに』
『目は見たのでしょう?』
『目はあたしも見たわ』
『私も目しか見ていませんでしたわ』
『目しかなかったのかしら』
『そうかもしれないわ!』
 どちらがララシィでどちらがルルシィだかリレーネには区別がつかない。作者のくせにそれでは困るのだが、つかないと言ったらつかない。
『一つ目だったかしら』
『そんな気がしますわ』
「けれど、私相手に喋ったのですから口があると思いますわ」
『牙が生えておりましたわ!』
 チューリップ妖精が叫ぶ。
『牙が血にまみれていましたわ!』
 叫んで、二人ともリレーネの背中に隠れる。
 一つ目で牙を生やし、その牙から血をしたたらせた怪物が歩いてくる。
 カーテンの向こうに、その黒い影がある。
 怪物は装甲車を運転しているはずなのに、と思ったら、車はもう動いていない。感覚がまったく働いていなかった。ついでに時間の感覚もない。
 あれからどれくらい経ったのだろう。
 怪物がカーテンに指をかけ、一気に引きあけた。
 目は二つあった。緑色の二つの目がベッドの上のリレーネを直視し、
「降りろ」
 と命令した。
 人間だ。リレーネはそれを、何故か驚くべき事柄として捉える。
 緑。私と同じ目の色だわ。いいえ、この人の緑色の方が濃くて暗い。

 自転の再開が公表された時、その現象をどう受け止めるべきか、誰にもわからなかった。
 リレーネは絵を描いていた。絵筆を置いたらそんな事になっていた。
 ねぇキリエル。リレーネは尋ねた。あなた、何かをご存知? キリエルは首をかしげる。
 罰が当たったのかもしれない。
 絵を描いていたからだ。キャンバスではなくちゃんと空を見つめ続けていたら、〈日没〉など来なかったかも知れない。
「国王陛下のお言葉です」
 太陽が沈むと。ララトリィ先生が乾いた唇を開く。ならば真実なのだ。
 天球儀を這いつたう夜が、清い嘆きの雫となってしたたり、アースフィアは滅ぶ。

 リレーネは恐怖に駆られる。銃士に尋ねてみようかと思う。
 私たちは、ここ、太陽の王国でしか生きていけないとされているわ。
 太陽の光を失ったら、私たち言語生命体の肉体は著しい組成変化を――即ち言語崩壊を起こし、色と輪郭を失って消えてしまうと。存在がほどけてしまうと。影のように揺らめくだけになると。
 それってどれくらいの時間で起きるのかしら。何時間、あるいは何日? 案外、何か月も平気かもしれませんわね。それに自転が起きているのなら、また朝が来るのよね。それまで私たちの自我は持ちこたえられる?
 あなた、何かをご存知?
 結局、リレーネは何も訊かない。代わりに今度こそ、その銃士の顔を見つめ、覚えた。
 やはり若い。二十代前半だろう。
 黒髪。尖った印象を受ける。固く結ばれた唇と、細い鼻筋、吊り上った目尻のせいだ。
「北方領総督セヴァン・リリクレストの娘だな?」
 唐突に銃士が尋ねた。
 わかって誘拐したのではないのか。
 そして何故、「リレーネ・リリクレストだな」とは尋ねないのか。
 一応目を直視してこないのは、彼なりに威圧する気はないということを表明しているのだろう。リレーネは息もしないで頷いた。
 銃士の瞳の中で、緑色の憎しみが燃え上がる。リレーネは体を固くして次の言葉を待った。
 もうチューリップ妖精はどこにもいない。
「俺が誰かわかるか」
 それが次の質問だった。
「王領護衛銃士、リージェス・メリルクロウ少尉ですわ」
 銃士は体の両脇で拳を握っていた。牙は生えていないが、歯を食いしばっている様子が伝わってくる。目を伏せる。
 憎しみはもうなかった。今その目に浮かんでいるのは、何かを諦めたような、そして何かを諦めきれぬような葛藤だった。
「来い」
 銃士が身を(ひるがえ)す。リレーネはベッドの下の靴に足を入れた。立てないのではないかと予感したが、そんな事はなかった。


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