9-3

文字数 4,211文字

 3.

 少女がさえずりチューリップが花開く。私が咲かせてやっているとばかりに。実際、外界の花壇を世話しているのは奴らだ。地球人はそういう趣味でもない限り、生身で外に出ない。チューリップについて知りたければ、言語共有場にアクセスして調べれば良い。品種や起源、色形手触り匂いは当然の事、チューリップに関する知識で得られぬものはない。
『教会に行くだと? 何しに?』
 少年は言語共有場の中で記憶をほじくり返している。驚いたことに、地球人の言語がわかる言語生命体がいるらしく、少年に応えた。
『礼拝に行くのです』
『お前らみたいな連中が何を祈るっていうんだ』
『生命と、日々の恵みへの感謝を捧げるのです』
『祈りは人間のための文化だ』
『神の前に、我々は平等です』
『お前らは自分がどうやって生まれてきたのかわかってないようだな。お前らは人間に作られたんだ。お前らの創造主は人間だ。俺が、お前らの神だ。わかってんだろうな』
『私はあなたに作られたわけではありません』
 少年は腹を立て、困惑して立ち竦む少女たちを見回すが、どれが地球人の言語を発しているのか特定できない。
『神様は売女が嫌いなんだよ。お前ら、自分がどういう目的で生まれさせられたのかわかってんだろ? もうすぐそういうことができる年齢になるってわかってんだろ? お前らの持ち主(オーナー)好みの年齢になるってな。えっ? そうだろ』
 毒蜘蛛型のうつし身が一体、少年の足許に来た。
『それ以上はやめておきなさい。厄介ごとにしたくないだろう』
『嫌だね。聞いただろ? こいつら生意気なんだよ。どっちが偉いか教えてやらないと』
『出て行きたまえ。ここは私の家だ』
 言語共有場から去る。すると、待ち構えていたように、別室から放たれる父親の怒りの言語が体を打つ。少年は面倒になって共有場に避難した。萎えた体は少しの外出で疲労する。父親に付きあう余力はない。
 それにしても、あいつらはいい。感情と言語が直通じゃない。色、形、臭い、味、思考、イメージ、感情、地球人は今やその全てをありのまま伝達する、新しい言語を手に入れた。それがないあいつらは、不便かもしれないが、常に顔の前にまとわりつく熱気のような鬱陶しさとは無縁に生きているのだろう。ここにはいない他人の気配、興味のない言語、そんなものがない世界観。そして味気ないだろう。花の匂いは全て花の匂い。例えばチューリップとムスカリの匂いの違いが、例えばチューリップとたんぽぽの匂いの違いが、地球言語による感覚拡張が適用されないありのままの嗅覚だけで、果たしてわかるものか。
 そう言えば、あの女と出会った時のチューリップの匂いは鮮烈だった。あれは生身の嗅覚だけで得られる匂いではなかった。まだ月が存在していることを知ったあの夜……あの夜を満たしていたチューリップの匂いは、巨大オシドリ女が放つ地球言語だったのではないか?
 言語共有機のヘッドセットを外し、ベッドから背中をはがす。父親の怒りはピークを過ぎたようで、ぶつぶつ、ぶつぶつと愚痴を呟いている。
 外を出歩く。
 先ほどと違って、そこかしこから自分に虚ろな目を注ぐ人型のうつし身が立っている。誰も家から出ず、誰も人に会わない。しかし誰もが同じ言語を使い、少年の他人の家での狼藉を知っている。少年は耐えがたいほど鬱陶しく思っている。誰も少年を止めない。脆い生身に頑強なうつし身で手を触れる事は、固く禁じられている。弱いは、強い。かくて少年は一切の妨害に遭わずして教会にたどり着く。
 教会の前庭には、チューリップが咲き乱れている。匂い? そんなものはよくわからない。乱暴に一輪むしり、顔の前に持ってきて嗅ぐが、やはり言語共有場で感じるほど鮮やかな匂いではなかった。
 ぶどう色に塗られた教会の扉が、軽いチャイムの音と共に開いた。中から姿を現したのは、自分と同じ、萎えた体の人間だ。少年が老人のような少年であることに対して、その人は本当の老人だった。牧師だ。
『御用ですかな』
 少年はダイレクトに、巨大オシドリ女の容姿を伝える。同じ言語で返事がくる。ええ。確かにこの教会には、たくさんの言語生命体たちがやって来ますが、そのような女性は見覚えがありませんね。しかし、噂なら聞いたことがありますよ。言語生命体たちの、ではありません。人間たちの間での噂です。巨大オシドリに跨って、都市から都市をさまよい歩く。月につながる道を探している。そんな女性の言語生命体がいるとね。
 女性? そんな丁寧な言い方、あいつらには相応しくないですよ。あれたちは人間じゃない。なのに人間と同等に扱うから、つけあがって刃向かうんです。あいつらはですね、強いんですよ、牧師さん。進化以前の人間と同じ身体能力を持ってる。きちんと調教しなきゃ危険です。言語生命体たちにも人権を、なんて言い張る連中がいますけどね、ハハ、対等な権利なんて認めたら一体全体どうなることか。戦争ですよ。争いごとになる。そうなったらどう立ち向かうんですか?
 争いならもう起きてますよ。
 そう言って牧師は丘の下を指さす。少年には緑の丘陵以外何も見えない。しかし彼は、暇と鬱屈した情熱にあかせて教会に通う内、火を見る。教会に逃げた言語生命体たちを脅す、うつし身たちが掲げ持つ、丘の下の火の列。

 星は照り狂う。
 言語生命体たちは、おもちゃ、あるいは奴隷のように自分たちを扱う人間に耐えられない。人間は、被造物たちが耐えられないと思う心を持っていることが耐えられない。
 一方で、言語生命体たちをおおっぴらにできない行為に用いる人間ばかりなわけでもない。古い身体を持つ新しい生命を愛し、保護しようという人間らもいる。
 二派の人間は争う。
 生身はそれぞれの家のベッドでぬくぬくと寝たままだ。街路、公園、あるいは郊外の均質な人工美を誇る自然の中で、うつし身を使って争いあう。議論を試み、罵り合い、殴り蹴り石をぶつけ組みあい火を放つ。相手のうつし身に。それで何が傷つくつもりか。
 少年は、ばたばた暴れるうつし身たちの間を縫い教会に通う。うつし身たちは、生身の人間に驚き一時動きを止める。現れた静止の道筋を、のっそりと教会に歩いてゆく。
 生身は脆いが、それゆえ生身で出歩けば危険はない。
 ある日状況が変わる。
 いつものように牧師と世間話をしに出向けば、群がる人、半開きになった教会の扉、そして牧師がうつ伏せで倒れている。地面に接した額からは、血が流れて広がっている。
 誰がそれをやったのか、人型のうつし身たちはゆらゆら揺らめきながら立ちつくし、老シスターは硬直し、その背の奥から怯えた目をくれる言語生命体たち。
 そして、いつか会った翼の少女が牧師に縋り付いて泣いている。翼の少女は肉体語で叫ぶ。
 どうして、同じ人間なのに殺すの!
 言語生命体たちは決める。もう我慢しないと決める。
 戦の火が、言語生命体たちの星であがる。
「南東領・不死廊の都をはじめとする都市部では領民の冷凍睡眠政策が推し進められているが、計画に疑問を抱く農村の民が都市部に押しかけている。総督府は領民の冬眠は順次遂行していくと説明しているが、既に納得する者はおらぬ。全領民どころか、都市部の人間でさえ十分に収容しきれるような装置などない事は、もはや言わずもがなであろうが」
 シルヴェリアはソレスタス神殿の大会議室に集う将校たちを見回し、言葉を切る。その中には微熱程度まで熱のひいたシンクルスの姿もある。隣には、目の奥に水晶にまつわる時間を溜めこんだロアング中佐がいる。
 今回はリレーネはいない。
 こことは違う時間、地球上で行われた言語生命体たちの尊厳をめぐる戦の火の中では、リレーネの姿は誰にも見えない。夜の中で彼女が絵を描き、描くそばからテーブルから床にこぼれ落ちる紙は、描かれた戦の火によって自らを焼き尽くしてゆくが、リレーネさえその火に気が付かない。
「私たちは、何故生まれたの」
 時が進み、あるいは捻じれ、もしくは戻っても、同じ問いだけを彼女たちは共有する。
「南東領の主要都市は暴動によって都市機能に支障をきたし、征圧行動による死者も多数に上っている。もはや南東領は我ら南西領との戦争を続行できる状態ではないが、南東領〈言語の塔〉を守らんとする守護神殿の意志は固く、今後……」
 その席に、金色の瞳をシルヴェリアに注ぐリアンセもいる。彼女が一人涙を流す時に、胸の中で呟かれる上官への思慕。死んだ姉の婚約者に対し募る愛の言葉。それは誰にも聞こえない。誰にも聞かせない。
 愛は消える。消える前に得なければ、癒え難き病となる。
「私たちは何故生まれたの?」
 少年は成長し、中年になっている。
 彼は宇宙に浮かぶ船から、地球をめぐる網状都市のきらめきを見下ろす。破壊された都市は暗く、戦っている都市は明るい。
 何故これほどまでに大きな戦いになったのか。
 言語生命体たちの人権をどう扱うか、きっかけはそれだけだった。人権。権利。人間は、それを巡って如何ほど大きな鬱屈を都市の平和の中で抱え込んでいた事か。地球生まれ。網状都市生まれ。言語生命体などおらずとも、もとより人間は皆違っており、得られるものも違っていた。そして、肉体言語、それが如何ほど、消えゆく一方だった地球の人間の個を、欲求を浮き立たせたことか。
 言語生命体は争いの種だ。生命の病だ。
 敵は喚く。わからないでもない。何せ自分も少年時代はそう思っていたのだから。
 隣には、金茶色に輝く髪の少女が立つ。
 あの翼の少女の娘だが、この子には翼はない。奇形種としての目立つ特徴は遺伝子修正によって取り除かれている。百合の紋章のペンダントが、戦死した母の形見としてその胸にある。
「言葉を残すためだ」
 彼は流暢に肉体言語を操れるようになっている。
「宇宙の終わりに言葉を残せ。それがいつか、世界のはじめの言葉となる」
 網状都市における、一つの作戦が開始される時刻となる。地球言語至上主義者たちへの攻撃が、光の中で吹き荒れている。
 かつて少年だった地球生まれの人間は、娘の肩をそっと抱いて、小さな耳もとで囁いた。
「……お前にリリクレストの名をやろう」


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み