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文字数 2,294文字


 8.

 こうして、巨大オシドリ女の存在は都市の一部の人々の知るところとなる。が、それについて口外し、破廉恥な会合に参加していたことを漏らす人間はいなかった。
 にもかかわらず、どこからか都市には噂が流れだす。
 巨大オシドリに跨った女が人間をたぶらかす。そいつは地球言語を解する器官を十分に備えており、生殖能力もある。
 巨大オシドリに跨った女が言語生命体を煽動する。
 女は悪魔だ。
 人間に対する悪。
 いや、それは早計ではないか。悪であるかもしれぬが、悪でないかもしれぬ。何せただ……その女はいるだけなのだ。だが何故? 誰が生んだ? 誰が巨大オシドリ女の持ち主(オーナー)なんだろう?
 やがて都市の、個性といえる特徴を持つ家々が並ぶ区画の、一軒の家の主があがる。
 あの人かも。
 あの人なら。
 その家に住むのは、奇形種の言語生命体を好んで蒐集する男である。会う事はなくとも、地球言語の伝播によって、少年は家の主の容姿も声も、完璧に知っている。
 少年は真昼の都市をさまよう。
 わざわざ肉体で以て外界に出る人間は彼くらいのものである。だから、彼は誰にも見えない。誰も彼を警戒しない。
 細い手足。曲がった背。髪のない頭部。まるで老人のような、張りのない顔の皮膚。だらしなく開いた口。皺が寄る目尻。
 照りつける太陽は容赦なくもとより乏しい彼の体力を搾る。宙廊には電飾が絡みつく街路樹ばかりが並んでいる。どれでもいいから首をくくれよ、ほらもう、疲れただろう。
 ちょっとした旅路の果て、少年はその家にたどり着く。
 紫の芝生が生える庭。白銀の壁。よろめきながら、少年は家の敷地に入りこむ。芝生の下の土は柔らかく、少年は目をくらませながら家の壁に手をつく。
 窓の向こうの人と目があった。
 人、いいや、言語体だ。
 ラグマットに横座りの姿勢でくつろぎ、少女が長い髪を弄んでいる。
 少女の髪は、巨大オシドリの首の羽と同じ、輝く金茶色。服から大きく露出する肩と胸元の肌の色は、紫と緑のグラデーション。二の腕にはそれぞれ二本の白い条線があり、そして、翼が生えていた。

 今、夜空を見上げてもそこに地球の月はない。アースフィアの月が照らす渡り廊下を、リージェスが駆けている。
 リージェスは渡り廊下を越えて神殿の医務棟にたどりつき、その廊下のソファに掛けるシンクルスの副官の姿を見つけた。
「リアンセ」
 ほどかれたピンクゴールドの髪の中で、リアンセが顔を上げる動きに合わせて光が揺れる。
「リアンセ。シンクルスはどうしたんだ?」
「来てくれたのね」
 リアンセは立ち上がり、髪を後ろに払い、青ざめて答えた。
「過労よ。今点滴を打たれているわ。安静が必要です。まだ意識は戻らないけど、命に別状はなさそうだと」
「よかった」
「これ以上無理をしなければの話ですけど。あの方は……何かに夢中になると見境なかったから。昔から」
 リージェスは軽く目礼し、ソファに腰掛けた。リアンセも座った。
「シンクルスとは長いのか?」
「あの方は、世が世であれば私の義兄となるべきお方でした」
 思わず首をよじってリアンセを注視すると、彼女は頬を紅潮させ、唇を噛みしめている。
「幼馴染です。そして、あの方と私の姉は将来を誓い合っておりました」
「……レガリア山要塞での決闘のことを聞いた」居ずまいを正し、リージェスは問う。「差支えなければ、事情を話してほしい」
 リアンセは、興味本位で尋ねているわけではないと理解してくれたようだ。深く頷いた。
「あの方は痛ましいお方です。地球時代から続く由緒正しい家の嫡男として生まれ、何不自由することなく、正しくまっすぐに育ち――なのに、神官大将の地位の簒奪を狙うアーチャー家の賊臣に全てを破壊された」
「何があった?」
「父君と母君に、国王陛下暗殺を謀った容疑をかけられたのです」
「まさか」
「濡れ衣です。しかしあの方のご両親は捕縛された。国王陛下のもとへ直訴に赴いたあの方も、不敬罪で投獄され」
 リアンセは言葉を詰まらせ、顔を背けた。
「……誰も彼もが掌を返したように冷たくなり、あの方を見捨てた。我が父もです。あの方は神学校から放校処分を受け、祖父は自死を強要され、ご両親は暗殺され、生まれ育ったお屋敷も、愛しておられた庭園も没収の上競売にかけられて……あの方は、冷たい牢にいる間に全てを失くしてしまわれた」
「あなたの姉君は」
「殺されました」
 声が震える。
 リアンセは沈黙した。長く。
 話したくなければ、夜が明けるまで黙っているだろう。全存在がほどけて消えるまで。
 しかしリアンセは話の続きをする。彼女は言葉を残す。
「私の妹と共に、激しい暴行を受け、殺された。妹はショックが大きすぎて子供に返ってしまった。まだ……あの子はたった十一歳でしたもの」
「……惨い」
「暴行に加わった一人がハルジェニク・アーチャーです。彼は自らそう言った。けれど証拠がなかった」
「あなたのご両親は」
「その一件で、ホーリーバーチ家当主である父はアーチャー家に対する闘志を失った。まるっきり従順な下僕に成り下がり、私は家に見切りをつけて西方領を出ました。神官への道を捨てて」
 階下から鐘が聞こえてきた。十八回。二人は無言で数える。鐘が鳴りやんでからリアンセは言う。
「……お休みになるがいいわ」
「あなたは」
「ここにいます。ここにいたいの。一人で」
 リージェスは頷いて立ち上がった。
「おやすみなさい、リージェス。よい夢を」
『地獄の夢を』


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