2-4

文字数 5,143文字

 3.

 次に目覚めた時にはもうすっかり時刻がわからない。
 零刻の鐘は鳴っただろうか。鳴ったとしてもこんな森の中まで聞こえてくるはずがない。
 頭が痛く、吐きたいような不快感があり、ずっと寝ていたかった。それでも起きたのは、時刻を知りたかったからだ。
 ここには髪を梳く櫛もない。仕方なく指を髪に通し、衣服の乱れを整えた。ヒールの靴は泥だらけだ。
 ここにいると言ったのに、パンジェニーは車内にいない。車の外に出てみたが、生ぬるい夏の風が吹くばかりで、誰の姿もない。
 川の方に向かってみると、森の中でリージェスに出くわした。リージェスは目を見開き、次いで気まずそうに顔を背けた。
「何故こんな所にいるんだ」
「どなたもいらっしゃらない様でしたから――ねぇ、今の時刻をご存知? 私、時刻を知りたいの」
「四時過ぎだ」
 リレーネはまた鳩尾(みぞおち)に重い痛みを感じる。昨日の今頃は画院にいて、ランチをどうしようか考えていた頃合いだ。
「あの、皆さんはどちらに行かれましたの? パンジェニーさんは?」
「偵察と、装甲車の整備だ。パンジェニーは炊事場にいる」
「あなたは何をしてらして?」
「寝ていた。今から見張りを交代する」
「あの」
 黙って隣をすり抜けようとするリージェスの肘に手を添え、リレーネは縋った。
「コンスティアさんかパンジェニーさんの所に連れて行ってくださる? 一人は嫌ですの。お忙しいのは承知ですわ。お願い。炊事の手伝いくらいでしたら私でもできますから――」
 リージェスは露骨に嫌そうな、面倒くさそうな顔で溜め息をついた。
「……こっちだ」
 ついて行った枝道の先に、錆びた看板がかかった古い小屋がある。看板は、辛うじて営林事務所の文字が読めるが、放置されて久しい様子である。
「パンジェ――」
 脂っこい、甘ったるい臭いが顔を包んだ。
 薄暗い小屋の中で、飛び散る赤い色彩が目に鮮やかだ。戸口からの光を浴びて輝いている。
『見ちゃ駄目よ』
 チューリップ妖精たちが出てくる。
『凝視しちゃ駄目よ』
『すぐに目を閉じた方がいいわ』
 リレーネは眼前の光景を正しく理解する。
 コンスティアが、その恋人と一緒に血の中に倒れている。
 あんなに血が出ては痛いだろうに、声も上げず、身動き一つしない。
 死んでいる男の名を知らない事に、今さら気付く。

 背後から何かがぶつかってきて、組みつかれたのだとわかる頃には、もう両腕を動かすことができない。
 助けを求めて視線をさまよわせた先で、同じようにリージェスが捕らえられていた。リージェスは口を掌で塞がれながら、体を捻ってもがいている。
 その後ろに立っている人間が見えた。
 レキだ。
「騒ぐんじゃないよ」
 自分の後ろから、女の声が言う。足から首の後ろまで、びっしりと鳥肌が立つのを感じた。リレーネを見たリージェスが、同じようにリレーネの後ろに立つ女を見て硬直する。
 パンジェニーに違いなかった。
 硬直するリレーネとリージェス、その後ろのパンジェニーとレキとの間を裂くように、外から男が一人、血なまぐさい小屋に入ってくる。
 レルノイ隊長が、威厳に満ちた目でリレーネを見据えた。次にリージェスを。
「――レキ、レキなのか? 何で……」
 答えはない。リージェスは身動きならぬまま敢然と顔を上げて、隊長を睨んでいた。
「コンスティアとカシナートが何をしたと言うのです、隊長。これはどういう――」
「彼らは我が小隊の機密を外部に持ち出そうとした」
 隊長は目をつぶり、頷くと、マントの下からゆっくり警棒を抜いた。リージェスの目の中で光が揺れる。彼が唾を飲む音が、自分の鼓動の音と共に聞こえた。
「彼らは優秀な銃士だった。残念に思う」
「……嘘だ」
「君に訊きたい事がある」
 警棒の先が、リージェスの下唇にあてがわれた。
「リリクレスト嬢略取の実行役が君に決まった時、シンクルス様はくじ引きのやり直しを求めてきた。何故だ?」
 躊躇いの後、「知るか」とリージェスは吐き捨てるように答えた。上官への敬意を捨てるための躊躇いだったのだろう。
 隊長が警棒を振るのはほとんど見えなかった。恐ろしい音が聞こえた時、リレーネは反射的に叫んだ。
「やめて!」
 パンジェニーは一切、拘束を緩めようとしなかった。レキも、隊長も、リレーネを顧みない。
 うなだれるリージェスのこめかみから血が伝うのが見えた。隊長がその前髪をつかみ、顔を上げさせた。リージェスは声を漏らすまいと歯を食いしばっていたが、瞳に怒りを燃やして上官を睨みつけた。
「質問の意図がよく伝わらなかったようだな。メリルクロウ少尉、君はくじで実行役に決まった後、独自にシンクルス様と接触をしただろう。私に無断でな。その後、シンクルス様は要求を取り消してきた。どういう事か説明してくれるかな」
「何故そんな事を今さらあんたに言う必要がある。その時に同じ質問をしてさえいれば答えてやったのに」
「……君は自分の立場がわからないのか」
「どっちが。この中でシンクルス様の隠密部隊の者と接触できるのは俺だけだ。居所を知っているのもな。リレーネを連れて離反するようなことがあってみろ。あんた達に逃げ道はない」
「ふぅん」
 今度は素手で、リージェスが顔を殴られるのを見た。次に腹を。悲鳴を上げたのはリレーネだった。
 咳きこむ声が悲鳴を押し殺すようなうめき声に変わった。後ろでレキが腕をねじり上げているのだ。
「答えろ! シンクルスと言うのは何者だ。お前は何を知っている! 隠密部隊の連中はどこにいる!」
「――あんたは馬鹿か」
 リージェスは喘ぎながら、血まみれの顔でまだ隊長を睨んでいた。
「リレーネの容姿でさえ、決行直前まで俺に教えなかったというのに。あの人から何も素性を聞き出せなかったのは、あんたが余程信用されなかったからだ。隊長の癖に」
 隊長はリージェスの胸ぐらをつかみ、引き寄せると、鳩尾に自分の膝を叩きこんだ。引きずられてよろめいたレキごと壁に叩きつける。
「隊長! 俺が痛いですよ!」
「隊長、やめましょう」
 ついにパンジェニーが声をあげる。
「やるなら一息にやりましょう、リージェスは喋らない!」
 その声を無視し、何度かリージェスの腹に拳を叩きこんだ。リレーネは見ていられず、目をきつく閉ざした。体が震え、この震えを抱くパンジェニーが昨日と同じ優しさを取り戻してくれる事を願った。
「隊長! これ以上は時間の無駄です!」
「パンジェニー、何を言い出すんだ。こいつを放っておけるかよ」
 レキの声。
「わかってるよ。だけどあたしはこういうのは好きじゃないんだ」
 ゆっくり目を開けて見ると、リージェスは両脚をがくがく震わせながら、まだレキに両腕を拘束された状態で立たされていた。ぐったりしながら荒い呼吸を繰り返している。
 バチリと音を立てて警棒が電気火花を散らす。
「レキ、次のは気をつけろ」
 うなだれるリージェスの眼前に電気を帯びた警棒を突き付け、ゆっくりと、彼の上官は告げた。
「そろそろ東方領から俺たちの援軍が来る。俺たちはリレーネを連れて合流をしなければならんのだ。時間を取らせんでくれ。答えろ。シンクルスの手下はどこにいる」
「隊長、もうリージェスごと連れて行きましょうよ。その方がシンクルスとやらに対する牽制になる」
「嫌だ。それは俺が嫌だ」
 今度はレキがパンジェニーに異を唱える。
「俺はこいつが嫌いなんだよ。こいつのシケた面見てるとイライラする。コンスティアやカシナートが死んでこいつが生き延びるなんて嫌だね。この――」
 昨日、レキがリージェスの帰還を喜んで親しげに接していたことを、リレーネは覚えている。
 二人は仲が良いのだと思った。
 リージェスもそのつもりだったろうが、何も反応しない。意識が朦朧としているのかもしれない。
「この掃き溜めあがりが!」
 その一言に、リージェスは反応した。僅かに顔を上げる。聞こえていたのだ。
 レキが何を言ったのか、リレーネにはよく意味がわからなかった。が、ろくでもない侮蔑の言葉に違いない。
 隊長が、味わうようにレキの言葉を繰り返した。
「掃き溜め上がり。ふん、そうか。お前はゴミ捨て場から来たのだったな。安心しろ」
 警棒が振り上げられる。暴虐の予感にレキの目が輝く。
「死んだらゴミ捨て場に帰してやる!」
 窓ガラスが砕け、隊長が警棒ごと弾け飛んだ。血が飛び散りリージェスとレキの姿を汚す。
 見開かれたままのリレーネの目に、その次に起こった光景が焼き付けられてゆく。
 リージェスが渾身の力でレキを振りほどく。パンジェニーがリレーネを突き飛ばしたので、二人の姿は視界から消え、床しか見えなくなる。
「受け取れ! 味方が来る! 西へ――」
 その頼もしい声は、昨日リレーネの事など放っておけと言った声だった。銃声が声をかき消す。血しぶきが背中に降った。パンジェニーが倒れる気配。
 ウィーグレーが窓から上半身を突っこむように、体を前に折り曲げた。そのまま、体を半分だけ営林事務所に差し入れた形で動かなくなる。
 彼が受け取れと言った物を、リレーネは見つけられない。リージェスが床を蹴って、リレーネの前に滑り込んできた。そして、黒く細長い物体を掌の中にかすめ取ると、床をごろりと転がり、膝立ちでレキを撃った。
 一瞬で人々が死体に変わった出来事を、真実かどうか確かめたかったが、リージェスは許さなかった。
「逃げるぞ」
「……待って」
 立ち上がらされながら、リレーネは自分でもよくわからぬ理由でリージェスに抵抗する。
「ウィーグレーさんが」
「もう死んでいる!」
「味方が来るって」
 手首を掴まれた状態で外に走り出た。
 世界が明るい事に驚いた。日差しに満ちている事に。森の匂いに驚く。血の臭いがない事に。
「敵の増援が先だ!」
 コンスティアが死んだ。パンジェニーも死んだ。コンスティアの恋人も、レキも、毛むくじゃらのウィーグレーも、隊長も死んだ。
 リージェスがリレーネを二階建て装甲車に引っ張り上げている間も、リレーネは数分前の過去の中にいる。
 記憶の中で聞いた銃声の回数をおさらいしている。同時に、隊長がリージェスを殴った音の回数をおさらいしている。パンジェニーの優しい声を聴いた回数をおさらいしている。何故パンジェニーは優しいままでいてくれなかったのか考えている。
 コンスティアは優しいまま死んでいった。優しいから死んでいったのかも知れない。
 いつの間にか走り出していた装甲車が急カーブを切る。リレーネは黒いカーテンにしがみついた。それから壁にへばりついて運転席に向かい、リージェスの横顔を見て一瞬心臓が止まる心地となる。
 殴られた側頭部や痣になった唇の横で、赤黒い血が固まっている。のみならず、目の中の血管が切れているらしく、白目の部分が真っ赤だった。
「リージェスさん――」
 リレーネがハンカチを取り出すのを横目で確認し、リージェスが叫んだ。
「そんなのは後だ!」
「だけど――」
「大した事ない、こんなのは――」
 リージェスが、たくさん並んだ計器類に目を走らせて舌打ちする。
「降りろ」
「えっ?」
「降りて、あの窪地まで走れ!」
 どの窪地について言われているのか確認できぬまま、急ブレーキがかかり、リレーネは装甲車から引きずりおろされる。
 装甲車は山を抜け、平地に停められていた。
 そのままリージェスは、リレーネがヒール履きである事などにお構いなく、全力で草の地平が途切れる所まで走って行く。
 掴まれた手首に力が加わり、体を振り回されるように、窪地に投げこまれた。
 この窪地、私が絵に描いた場所に似ておりますわ。
 誰にともなく、草地を転げ落ちながら、リレーネは心中で語りかける。
 この斜面一面に、チューリップが咲いておりますのよ。坂の上には一本の立派な木があって――。
 後から窪地を滑り落ちてきたリージェスが、リレーネの上に覆いかぶさり、地に伏せた。
 落下物が空気を切る音が、どこか間抜けに聞こえてくる。
 間もなく爆音。
 装甲車の破片がこの窪地にまで降って来た。リージェスが己の身でもって、飛び散る破片からリレーネを守っている。もっとも、ここまで飛んでくるような物は大して大きくもない。
 あとは、アースフィアの夏、六年続く夏の光と静寂である。
 照りつける日差しの中で、二人とも汗にまみれて互いの鼓動を感じている。

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