9-2

文字数 4,318文字


 2.

 そして、意識の彼岸では時間が壊れている。シンクルス・ライトアローは彼の生家にいる。庭園に面した回廊、その窓ガラスの向こうを、幼いシンクルスが走ってゆく。
 幼い自分が何を胸に抱えているのか、大人のシンクルスには覚えがある。大判の鳥の図鑑だ。子供が見えなくなってから、回廊の窓を静かに開け、踏み石を踏んで屋敷にあがりこむ。
 明るい光に満ちた回廊を曲がると、続きの廊下の窓は小さく、薄暗い。窓と反対側の壁には、先祖の肖像が並んでいる。どれも言語生命体の歴史に名を刻んだ偉人たちだ。
 子供の頃、この廊下が怖かった。肖像画から視線を感じるのだ。今、その目を覗きこめば、絵に封じられた先祖の魂など存在しない事がわかる。代わりに時が見える。壮年、あるいは老いた先祖たちの小さな両目が注ぎ口となって、フラスコのように、顔の裏側に個々の時間を溜め置いているのだ。
 ある一対の眼の向こうには、火が見える。同じ地球人をも焼き払わんとする地球人の火。教会の丘の下に一列。二列。地球の夜の暗闇の中で火を見つめている先祖は、この髪の瑠璃色が、地球人には本来ない色である事を知っている。地球人にない身体特性を備えている言語生命体は奇形種と呼ばれている事も、おのれは奇形種ゆえに駆逐されやすい身であることも、承知している
 また別の一対の目の向こうには、水が見える。天籃石のない地球の空から、海原に、奇形種の言語生命体たちが投棄される。多くは着水の衝撃で死ぬ。死体を浮き輪代わりに泣き叫んでいるのは、船から投棄された者たちである。
 そうした記憶が、スープの舌触り、便の色、くだらない女のお喋りと同じレベルで溜まっている。
 幼かったシンクルスには、背が足りず見えなかった。しかし音は聞いた。圧縮されている氷が融けながら放つ軋み。凍った火が、なお火であらんと身悶えする軋み。波でも粒子でもなくなった光が、地に堕ち血糊の中に潜りこむ軋み。
 音がどこから聞こえるのかシンクルスは探している。大判の鳥の図鑑から? 壁から、天井から? 彼はじきに、先祖の腹の中からだと気が付く。どのような季節にあっても時間のように冷たい額縁のガラスに耳をあてれば、自分の骨がいつか同じ軋みを立てる事を予感する。そうして怖くなった彼は、母親を探しに行く。
「お母さま、お母さま」
 彼の母親はテラスの椅子に掛け、その背もたれの上から少しだけ頭を見せているだろう。
「お母さま、庭にいる鳥の名前がわかりました。ツグミです」
 澄み切った高い声を、幼さの特権として放ちながら、椅子の正面に回りこむ。
「お母さま、おひざに乗ってもよろしいですか?」
 甘えたくなって問えば、母親は彼女の時間を溜めた目をくれる。その両目は頭の向こうまで貫通した空洞で、青空が見える。何か呟いていたようだが、幼い我が子を膝に抱き上げると、また呟き始めた。
「あまりにも多くの同胞が、火の中、水の中、土の中で、殺されてゆきました。けれど、地球時代の同胞たちは、言語生命体に味方する地球人たちもいる事を知っていたのですよ。その地球人たちは、言語生命体のために、チューリップ座のアースフィアという惑星を勝ち取ってくれたのです」
 閉じこめるために。
『こうすることが』『お前のためだ』『お前の子のためだ』『平和のためだ』
「地球人との約束を守るために、三つの家があります。弓の家、矢の家、射手の家です」
「ですが、弓の家はもうありません、お母さま」
「そうですね。そして、矢の家も滅びました」
 大人になったシンクルスが、骨の軋みの中で叫ぶ。母上! 矢の家は滅びておりませぬ! まだ私がおります!
 誰かの両腕が背中に回り、抱き寄せられた。体の正面が他の誰かの体と密着する。
「シンクルス」目を開ける。見えるのは自分が目の中に溜めこんだ時間、その表層、夜。「シンクルス、息子よ、愛している」大きな人の肩越しに、シンクルスは星を見ている。
 ここはどこだろうか。サマリナリア基地か、いいや、違う気がする。サマリナリアを出て、次の対象を制圧し、だが、それはどこだったか? そしてこの人は?
「……父上」
「お前は私の誇りだ。たとえ肉体が滅びれど、我が魂は共にある」
 シンクルスは、場所について知ろうとするのをやめる。父親の背に腕を伸ばし、温かい抱擁を返そうとした時、誰かが襟首を掴んで力任せに引っ張った。
 息がつまり、体が振り回される。
 父親が腕に力をこめて抱きとめようとするが、遅かった。
 まぶしい光の中で、シンクルスは壁に叩きつけられる。倒れこみかけるが、胸ぐらをつかまれ、壁に身をこすりつけられながら立ち上がらされた。踵が床から浮く。襟が首の両側を締め付ける。
 彼は屋敷にいる。光に満ちる回廊で、親の仇と向かい合う。
「……で、だな」
 ミカルド・アーチャーが、シンクルスの胸ぐらを掴む力を強めた。首がさらに締まる。火に巻きつかれたような痛みと苦しさに、シンクルスは顔をしかめた。
「ハルジェニクには妻がいるのだ。ハルジェニクは貴様が俺を殺したことで頭にきている。貴様がハルジェニクを殺せば、どうだ。次に怒り狂うのは妻だろう。子供が言葉を覚えれば、次に母の怒りを覚える。貴様は俺を殺したが、身を守るためにはハルジェニクも殺さなければならない。更に身を守ろうとするならその妻を殺さなければならない。将来を憂えるなら、必ずや子供も殺さねばならん。必ずだ。でなければ理屈に合わんからだ。そうしたことを、貴様は、どこまで続けられる?」
 口を開くが、酸素を求める喘ぎと、掠れた声しか出てこない。苦しくて涙がにじむ目を吊り上げ、ミカルドを睨みつける。
 その顔の向こうの庭に、少女を乗せた車椅子を見つける。
 ああずっと、ずっと軋んでいたのは、あの車椅子だったのだ。
 こちらに来る。

 シンクルスは音を連れて此岸に戻ってくる。
 目を開けるとベッドで寝かされている。ドアの近くの椅子で、リアンセが座ったままうたた寝している。
 ギッ、と車椅子が軋んだ。どこで? 探そうとするが、体が重くて動けない。喉が熱い。少しでも動こうとすると、頭が割れるように痛む。
 今度はもっと近くで、切実さを湛えた軋みが聞こえる。窓の外だ。目を向ける。水色のカーテンがかかっている。カーテンの向こうで、窓が激しく叩かれた。
 まだ十一歳だったホーリーバーチ家の娘、あまりに惨たらしい目に遭い、それゆえ幼児退行した車椅子の少女。それが、湿った掌を何度も窓に叩きつけている。
 起き上がろうとした途端、頭が急激に重くなって枕に縫い付けられた。喉に針で撫でるような痛みが宿る。痛みを吐き出そうと、体を丸めて咳きこんだ。
 リアンセが目をさまし、駆け寄ってくる。彼女が何故窓を気にしないのか、シンクルスには理解できない。
「シンクルス様。……大丈夫ですか? 苦しいのですか?」
 布団越しに、背中に手を添えられる。咳が収まってきた頃、窓を打つ音に消されぬよう、息を吸いこんで言った。
「動けぬ」
「それは、あなたのお体が、動きたくないと言っているのです。動いてはなりません」
「窓」悪寒に身を包まれながら訴えた。「外に、誰か……」
 リアンセが、歩いて行ってカーテンを開け放つ。誰もいない。溺れるほど夜一色。
「シンクルス様、ここは六階です」
 窓を叩く音は消えた。シンクルスは仰向けの姿勢になり、静かに恥じる。カーテンが閉まる音。リアンセに、リアンセの妹がそこにいたと、それだけは言ってはならない。
「覚えていらっしゃいますか? あなたは総督閣下やオレー大将とお話になった後、西棟の外でお倒れになったのですよ」
 シンクルスは淡い記憶をたどる。そうだった気がする。では、自分を医務棟まで連れてきたのはロアング中佐か。
「……すまぬ。迷惑をかけてしまった」
 痛む頭に片手を添え、起き上がろうとすると、リアンセが慌てて両腕で動きを制した。
「神官たちはどうしている。リレーネは」
「今の時間は休んでおります。何も……進展はございません」
「何という事だ、寝ている場合では」
「なりませぬ!」
 強く言い、そして強く言い過ぎたと思ったか、リアンセは目をそらして口ごもった。
「お休みください、シンクルス様、今のあなたは起きていられる状態ではありません」
 二人は口をつぐむ。
 シンクルスはリアンセの目を凝視していたが、ふとその眼光が弱まり、目を閉じたり、開けたりした。
「……そなたには、このように弱っている姿を見られたくなかった」
「どうしてです? 見れば、私があなたを軽蔑するとでも思っておられましたか?」
「昔からそうだったではないか」
「そうだったかもしれません」
 リアンセは口元に笑みを浮かべ、今では上官となった幼馴染の体に布団をかけ直してやった。
「私が五つで、あなたと姉上が六つの時でした。覚えていらっしゃいますか? 大きな雷が、あなたのお屋敷の庭に落ちて、木が焼け焦げてしまった。あなたは驚いてしまって、あなたの母君のスカートを握りしめて泣いて」高熱で潤む目の中に、強い光が閃く。「私は言いました。お姉ちゃんも私も普通にしているのに、何故あなたはそんなに泣き虫なの」
「そんな昔の恥ずかしい話はよいではないか」
「それから、私は、あなたが私をお嫌いになってしまったのかと思いました。姉上とばかり遊んで、私はすっかり構ってもらえなくなってしまいましたから」
「誰だってみっともない格好を指摘されたくなかろう。お互いに子供だったのだ」
「あなたは、それからどんどん負けず嫌いの、辛抱強いお人になっていって」
「休めと言うのなら、一人にして下さるか」
 感情のない声に遮られ、リアンセは黙る。
「邪険にしているのではない……一人になりたいのだ。早く体を治さねばならぬ……わかるだろう。そなたにも、明日からは通常通り部隊の仕事に戻っていただきたい」
「無駄話が過ぎました。申し訳ございません、シンクルス様」
「ソレスタスに神官のある限り、戦列艦〈セト〉並びそれに属する戦艦の捜索を続行せよ。以降、何人(なんぴと)も付添いは無用だ。そのために人手を割くことのなきよう」
「了解しました。仰せの通りに。……失礼します」
 敬礼し、ドアの手前で振り返った時、シンクルスは目を閉じている。部屋に戻ったリアンセは、誰にも見られぬ涙を流す。シンクルスは、リアンセへの態度に関して自己嫌悪を抱いたまま、夢のない眠りに落ちる。


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