1-1

文字数 3,919文字

 1.

 絶えず同じ明るさで降り注いでいた光が僅かに翳り、それきり明るくならなかった。少女は絵筆を止めた。視線をキャンバスから窓の外に向けるが、透きとおる天球儀に覆われた青空には、雲一つなかった。
 という事は、日が傾いたのだろう。
 世界が日没に近づいた。その瞬間に気付いたという事だ。パレットと絵筆を置き、少女は立ちあがる。絵の具で汚れたエプロンを脱ぐ。ほのかに緑色がかった金色の豊かな髪が外の光を跳ね返す。
 少女は窓辺に寄り、華奢な指で窓を押した。街の声が入ってきた。眼下では市場の露店が屋根を広げ、石畳の道を隠している。顔をまっすぐ上げれば、総督府の赤い尖塔付きの屋根が見える。
 そしてまた空を見れば、天球儀に描かれた地球(テラ・マーテル)が清らかに輝いている。地球の隣には金星。そして水星。そして、地球にとっての太陽。
 透明の天籃石(てんらんせき)が、青空と地上の間にそれらの図像を描き、繋ぎ、この星を覆う天蓋となっている。少女は地球の図像に見入った。この惑星にとっての太陽も、天球儀の向こうで輝いている。

 この星は自転を再開しようとしている。
 エネルギーを使い果たした惑星が自転を止めることはあっても、その逆はあり得ないとされていた。
 何故あり得ない事象が起きているのか、それは未だにわからない。
 確かなのは、王国に夜が訪れようとしている事だ。

 女が入ってきた。
 一人は若く、もう一人は老いている。
「リレーネ、筆は進んでおりますか?」
 老いた方が言った。小柄で髪はすっかり白く、両眼には好奇心と知性を輝かせた、上品な老婦人だ。リレーネと呼ばれた少女は窓を閉め、老婦人に答えた。
「はい、先生」
「遅れ気味だと聞いておりましたが」
 老婦人はキャンバスの前に立ち、絵を上から下まで見つめた。
「よく描けている様ですね」
「はい。四、五日で仕上がりますわ、先生。今日中に、手前のお花畑を塗り終わるつもりですの。その後――」
 老婦人は片手を上げ、言葉を遮った。初めての事だった。今までは、生徒が喋っている間じゅう、この教師は笑みを湛えながら生徒の絵を見つめているのが常であった。話が終わったら言う。ここが前よりできていますね、ここはこうする予定ではなかったのですか、と。その後、教師の言葉が更なる驚きを連れてきた。
「今日は家に帰るのです」
 教師は間を置き、戸惑いゆえの沈黙をそのまま小さな体に享受した。それから言葉を継いだ。
「街の様子が不穏です。良くない事が起こりそうです――あなたのお迎えがもうじき来ます」
「ですが、ララトリィ先生――」
 リレーネは窓を背に立っていたが、背後から冷たい気配が忍び寄ってくる気がし、思わず振り向いた。眼下の市場に目を凝らしても、色とりどりのパラソルや人々の姿から、不穏を見出すことはできなかった。
「何があるのですか、先生。それか、何かあったのです?」
「南方で悪い事が起こりました」
 老教師は顔をしかめた。
「南西領が……いいえ、詳しくは公邸でお聞きになるがよいでしょう。リレーネ、筆を片付けるのです。あなたのお迎えが来る前に。さあ」
 静かな声の力強さに従い、胸騒ぎを抱えて窓から離れた。
「キリエル、あなたはどうしますの?」
 もう一人の女、長い鳶色の髪を複雑に編んだ若い女は、熱心にキャンバスを覗きこんでいたが、リレーネを見て微笑んだ。
「帰るわ。他の皆も帰ったか、帰ろうとしているところよ」
 リレーネは一七歳である。キリエルはもう大人だった。しかし二人は仲が良かった。描く絵も似ている。そのつもりだ。
「ところで、これは何?」
 キリエルが絵に目線を戻して尋ねる。
 リレーネが描いていた絵は、恐ろしいほどチューリップが咲き乱れる丘の絵だった。
 一点の曇りもない青空。透きとおる天球儀の模様。
 丘の斜面を、赤や黄や、紫などのチューリップが埋め尽くしている。単色の種がある。白や桃色などが混ざった種がある。開きすぎているものや、まだ固い三角形の蕾のものもある。
 キリエルはその内の一輪について言っていた。
 左の片隅に、隠れるように黒く枯れたチューリップがある。そのチューリップは、茎の中ほどから折れて倒れ、心無く踏みにじられたかのように、元の色を失っている。
 リレーネはキリエルの横に立ったが、何とも答えられず、目をそらした。散らかった絵の具を集め、箱に戻しながらようやく、「描きたかったの」と答えた。
「いいえ。それもきっと違いますわ。いつの間にか描いていたの。描かずにはおけなかったの」
「何故かしらね。何があなたにこう描かせたのかしら」
「わかりませんわ」
 いや、わかる。
 絵の具は全て片付いてしまっていた。リレーネは一瞬だけ、キリエルの目を見た。
「……南西領で何が起きていようとも、この北方領とて全き平和などではありませんわ。泣いていない人がいないはずがない。そうでしょう、キリエル」
 リレーネは言ってしまおうと思う。一見、自分とよく似た絵を描く友に。しかし、全く異なる絵を描く友に。
 疑いようもなく華やかで、どのような場においても惜しみなき賞賛を浴びる絵を描く友に。
「――キリエル、(わたくし)はお父様が惨い事をなさっているのを見た事がありますわ」
 キリエルの目を見る。
 その目に拒絶の光を見る。
 聞きたくないと彼女は今思っている。
 しかしその光をすぐに消し、キリエルは尋ねた。
「惨い事とは、どういう?」
「男の子を、恐らくは、拷問していたの」
 浅はかなことを言った。
 キリエルはこの言葉を受け止めないだろう。これが、自らが発した質問の、最終的な答えなのに。リレーネはつい言い訳じみた口調で言い足した。
「大人が寄ってたかってよ」
 何への言い訳か。語る内容が恐ろしければ、口外してしまった罪悪感に対する言い訳になる。自分がそう考えていたことに気付き、結局は後悔を深めただけだった。
 胸の苦みだけを、二人は確かに共有した。
「キリエル、お帰りなさい」
 老教師が口を挟んだ。
「これ以上、リレーネを引き留めてはいけません。さあ、今日何事も起きなければ、また明日ここで会えるのです」
「はい。ええ。リル、御機嫌よう」
「キリエル」
 踵を返す友人を、リレーネは呼び止めた。
「あなたの絵の進捗はいかが?」
「ええ」とキリエルは振り返った。「順調よ」
 そして廊下に消えていく。後にリレーネと教師が残った。
 教師は黙っていた。リレーネの絵を見ている。明るい絵の片隅の、黒い枯れたチューリップを。
 手を触れていい物なら、それを指で撫でたかもしれない。代わりに腕を組んだ。
「総督閣下は――」
 と、腕組みをしたまま言う。
「――あなたのお父様は、公正で思慮深いお方です」
「それは……それは私もそう思いますわ、でも」
「それを見たのはいつの事です?」
 怒っているのかと思ったが、注がれた眼差しは優しかった。
「あなたの父君が、その『惨い事』をしているのを見たのは」
 先生は聞いて下さるかしら。リレーネは期待する。聞いて下さるわ、ええ、きっと。
「十年前ですわ。夏の終わりでした。私は寝なければなりませんでした」
 大丈夫だ、ちゃんと聞いてくれている。
「ですが、私は人を探していたのです――その人を――男の子を。後で遊ぼうと約束をしておりましたの。私より幾らか年上の方でしたわ」
「あなたのお父様は、どこでその『惨い事』をなさっていたのです?」
「総督府の裏の石塔です」
「どのような事を?」
 リレーネは首を横に振った。
「よく見て……いいえ、見ておりましたわ。けれど、覚えておりませんの。恐ろしくて、忘れようとして、大方忘れてしまいましたから――」
「それでよいのです」
 突如強い口調になり、教師は一歩、前に歩み出た。
 リレーネは黙る。
 これ以上彼女が自分の話を聞かない事は明らかだった。
 何がよいのですか、と尋ねようと思う。が、何が悪いのですか、と返されては何も答えられない。
「覚えていたところで、どうにもならないのです」
 と、ゆっくり歩み寄って、骨ばった手をリレーネの華奢な肩に置いた。そして声をひそめた。
「リレーネ、総督閣下の卑劣な政敵たちは、子供を間諜や刺客に使う事さえあるのです」
「それくらいの事は私も考えましたわ、でも――」
「あなたとその男の子がもう一度会っていたら、あなたは今、ここにはいないのかもしれませんよ」
 教師は、リレーネが鳥肌を立てたのを見抜いたように、軽く抱きしめ、すぐ放した。
「総督閣下は立派なお方です。何がしかの犠牲を払うという選択は、恐ろしく、そして勇気が要る決断です。時にはあなたや私には、意味を理解することが難しい選択や、行為があったかもしれません。ですが、リレーネ、ご覧なさい。この天領地の平和を――」
 言いかけて黙ったのは、それが今日終わるかもしれない事を察知しているからかも知れない。
 街が予感を囁いているのだろう。彼女には聞こえるのだろう。
 とにかく教師はリレーネから離れ、厳然と言い放った。
「娘のあなたが父君を信じず、どうすると言うのです? リレーネ、あなたはあと半年で嫁ぐのですよ、総督閣下の末女として。誇りを持ちなさい。そして信じなさい」
「ですがもし、ララトリィ先生――」
「そして」
 と、教師は言葉を重ねた。
「そのような事を、無闇に人に話すなど言語道断です」
 数分後、少女は落胆を抱えて出て行く。


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