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文字数 3,117文字


 会議が終わった後、リレーネは宿舎の屋上に出た。白い光を放つ天球儀の向こうに、一面の光点――神話に聞くところの『星』。藍色に暮れる空の下、シンクルスが立っている。
 隣に並ぶと、シンクルスは笑みをくれた。
「そなたも風に当たりに来たか」
「ええ。邪魔をしてしまいましたかしら」
「構わぬ。リレーネ、本日は急な呼び立てとなり済まなかった。緊張したであろう」
「いいえ、嬉しいですわ。あなたが私の話を受け止めてくださった事、よくわかりました」
 この先のソレスタス神殿。そこに行けば、行きさえすれば、するべき事がある。
 眼下には、一日の訓練を終えて格納庫に戻る戦車や戦闘用車両の光の列が見える。兵士たちのざわめきが、風に乗って聞こえてくる。
「学生時代、俺は地球戦術史を専攻していた」
 シンクルスが囁きながら、柵に指を添えた。
「俺は歴史や戦史を学ぶのが何より好きだが、実戦闘は嫌いだ。兵力を消耗する。甘い事をと笑われるかもしれぬが、俺はいつも、全ての兵が生きて帰ってこればよいと願っている。叶わぬことと、よく承知しておくべき立場であるのにな」
「笑ったりなどしませんわ」
 自ら寂しそうに笑うシンクルスの顔を見て、リレーネは首を横に振った。一際強い風が吹く。暴れる髪が一瞬、視界を遮った。一瞬。一瞬で、この人は涙を流したかもしれない。この一瞬、全ての笑みを消したかもしれない。リレーネは言いようのない寂寥に支配される。
「それに……それに、私、クルスさん、私はあなたに本当に感謝しておりますの。私のためにああして席と時間をご用意いただいたこと」
「リレーネ、そなたは俺が略取を命じた件について、憎いとは思わぬか?」
「憎んでなどおりません、今は。少しでも多くのアースフィアの民を救おうとする南西領総督と、神官大将様にこそ大義があると、今では思っておりますわ。それに」
 リレーネは、シンクルスに微笑んで見せた。
「憎むなら、まず実行したリージェスさんを憎んだでしょう」
 シンクルスは優しい目で微笑み返すが、その目に影が落ちている。同じ影が、リレーネの心の中にも落ちている。
 その影を生み出している問いを、リレーネは口にした。
「クルスさん、あなたは知っていて、リージェスさんに私を任せましたの?」
「リージェスとそなたの父君との間でかつてあった事を、か。であるならば、そうだ」
「あの方は私を憎んでおりました。ですが」冷たい風が吹き、リレーネは首を竦めた。「父の仕打ちを知ってなお、あの方を憎むなんて、私にはできませんわ」
 シンクルスは頷いた。柵から手を離し、体をまっすぐリレーネに向ける。
「酷な言い分に聞こえようが、リージェスがそなたを憎悪する事は、致し方ない事だ。リージェスもかつては上流家庭の子弟……それを、十二歳という多感な時期に、家や家族のみならず、自尊心までをも破壊された」
 ひどい動悸がし、リレーネは気分が悪くなってシンクルスから目をそらした。
「これは、人によっては生涯かけても癒しきれぬ程の痛手だ。その上ひとたび奴隷の地位に身を落とした者は、大概奴隷として生涯を過ごす事となる」
「リージェスさんはそうはなりませんでしたわ、幸いにも」
「そなたは、同じ立場であったらどう思うであろうか。地位と財産のある人に救われた……そこまでは良い。だが、自分は自分の意志や力でなく、誰かの力によって生き長らえた、生きる事を許可された。そう思わずにおれるであろうか。力ある他者の存在を気にせず、己の意のままに生きる事ができるであろうか。それはとても難しい」
「……悪夢ですわ」
 そう、そして、過去の悪夢が肉体を持ってリージェスの前に現れた。否応なく関わりあった。この自分が。
「私は、リージェスさんの前にはいない方が良いのかも知れませんわ。クルスさん、私には自信がありませんの。リージェスさんをこれ以上傷つけぬように存在し続けられるという自信が、どこにもありませんわ」
「リレーネ……」シンクルスは少しの間を置いた後、そっと腰を曲げて顔を寄せた。「リージェスは、初めて会った時、そなたにどのように接したであろうか」
「とても恐ろしくて、冷たかったですわ。私を憎んでおりましたから」
「今でも恐ろしく、冷たいままであろうか?」
「いいえ。最近、優しくして下さるわ」
「それはリージェスが、そなたに優しくしようという気を起こしたからだ。リレーネ、リージェスの優しい面を引き出したのはそなただ。自信を持つがよい。そのような寂しい事を申してはならぬ」
「ごめんなさい」
「そなたも苦しんでいたのだな」
「いいえ。リージェスさんが受けた仕打ちに比べたら、私の苦しみが何だと言いますの。私は……私はただ、まるで何もされていない自分こそが傷を受けたような気持ちになって、自分こそが辛い目に遭ったような事を言って」
「ブレイズとアズレラから聞いている。そなたはまだ七歳だった。純粋でいたい年頃だ。斯様に幼き時期に惨たらしい暴力を目の当たりにして、傷つかぬはずがなかろう」
 熱いものが目の縁までこみ上げて来るのを感じた。リレーネは泣きださずにいるために、黙った。
 シンクルスはしばらくの間、何も言わずにいてくれた。
「……いつ、リージェスさんに言えばいいのかしら」シンクルスが隣で風に目を細めているのを確かめて、リレーネは尋ねた。「私が、過去の出来事を知っている事についてですわ」
「無理にその話を持ち出す必要はなかろう。リージェスの方から打ち明けてくるのを待っても良いではないか」
 全く、シンクルスは言って欲しかった言葉をそのまま言ってくれる。リレーネは思う、この人は、きっと生まれながらの聖職者だわ。
「そなたの存在が、存在感が、リージェスにとって何らかの救いになっているのなら、安らぎになっているのなら、ただそれだけでそなたは彼の癒え難き憎しみを癒す事ができる」
「癒え難き憎しみ」
 それほど強い情念を、未だかつてリレーネは抱いた事がない。
「さあ、リレーネ、中に戻ろう。このような場所に長居して、風邪などひいてはつまらぬ」
「あなたにもその様な憎しみがありますの?」
 勢いに任せてリレーネは訊いてしまった。
 すぐに後悔した。
 シンクルスが身構えたのがわかったからだ。
 実際に、彼が何らかの動作に出たわけではない。攻撃ないし防御の意図や、怒りや、不快な感情を露わにしたわけではない。
 ただ、シンクルスの瞳孔が開くのがわかった。
 皮膚の下で全ての表情が消え去るのがわかった。
 彼の体の奥底が冷たく凍りつく、その音が聞こえた。
 彼の魂が抱く、冷凍された憎悪の異世界が軋む音を聞いた。
 シンクルスを見つめる。微笑んだままだ。だがわかっている。その心に暖かな感情がない事を。皮膚の下の筋肉は微笑んでいない事を。
 まったく、冗談では済まされぬ事を言った。
 やがて、品の良い形の口が開いた。
「ある」
「……そうですの?」
「ああ」
 美しき神官将は、優しい、静かな、神秘的な笑みを湛えたまま、
「殺してやりたいほど憎い」
 と、囁いた。

 その日以来サマリナリア基地は眠らない。いつでも、どこかで会議に次ぐ会議。リレーネは黙って過ごす。暇だなどと申しつけるような真似は二度とするまいと己に誓っている。
 全ての人が生きて帰って来ればいいのに。
 その日が来る。

 世界の断末魔が夕刻に化けて空を掃いていった。
 夕刻さえ過ぎた。
 空には、遥か西の稜線に、僅かに赤い光の波打ち際が残るのみとなった。


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