3-1

文字数 3,290文字


 1.

 空の色が薄い気がする。
 気がする。
 いや、薄い。
 生まれてこの方変わらなかった空の青みが褪せ、僅かに黄色っぽい。視界の果て、山と空とが接する場所では更に黄色みが強い。川沿いに平原を歩きながら、絵を描きたいとリレーネは願っている。ほんの一日前はまだ画院にいたと思うが、何故今では追われているのか。
 靴は汚れきり、足も土まみれ。昨日一日体を洗えていないし、髪はこんがらがっている。
 背中と後ろ髪には、ウィーグレーに撃たれたパンジェニーの血がこびりついたままだ。パンジェニーには申し訳ないが、怖いし気持ちが悪い。
 自分はこんな目に遭うべき人間ではない。リレーネは押し黙って、泣きたいのを堪えている。
 あと半年、半年何もなければ西方領に嫁いでいる身の上だった。
 相手は十八歳上だという。リレーネが十八歳で嫁ぐのだから、ちょうど倍の年数を生きている男だ。
 戸惑いはしたものの、拒否するつもりはなかった。政略上の結婚だという事もわかっている。しかし、そうであっても幸せな生活を手に入れた人間は数多くいる。自分の母のように。
 それに、あの父と下の叔父とが選んだ結婚相手が、立派な人物ではないはずがない。
 イオルク様。
 まだ顔も知らない婚約者はどれほど心配しているだろう。
 返して。私の人生を返して。
 怯えと無力感をありったけの意志で怒りに変えて、少し前を歩くリージェスを睨むが、その横顔を見たら怒りは急速に萎えてしまう。
 顔の血は川で洗い流したが、白目の部分は赤いままだし、唇の横に痛々しい痣がある。思いつめたような光を宿していた目も、今は虚ろだ。
 息が荒い。痛いのだろう。どこか体の骨が折れているかもしれない。
「大丈夫ですか?」
 結局リレーネは怒りを捨ててしまった。リージェスは弱弱しい、しかしきっぱりした口調で答えた。
「問題ない」
 でも、と口ごもるが、歩く。ここには何もない。問題あろうと無かろうと、歩くしかないのだ。
 絵を描きたい。怒りも逃げる必要もない場所で。
 背後からチューリップ妖精が出て来れば、平原もチューリップ畑となる。
『描いていない時だって、私たちはここにいるわ』
『あなたと一緒にいる。辛い時も。苦しい時も』
 チューリップ妖精が増える。目に見えぬ、さんざめく群れとなる。
『私たちは消えない』
『私たちは終わらない。終わらない物語。だからあなたの憧れ』
『ねえ』
 チューリップ妖精が一人、顔の前でくるりと回った。
『人間の物語はどう終わるの?』

 太い道に合流する。
 車の走行音が背後から聞こえて来た。近付いてくる。リージェスが片腕で、リレーネを道の脇に押しやった。
 バスやトラックから成る車両群が、黄色い砂を巻き上げて迫ってくる。
 目を細めてその集団を見極めたリージェスは、先頭の車が十分に近付くと、手を振って呼び止めた。
 運転手の顔が見える位置で、先頭のトラックが停まった。
 後続の車からも、人間が下りてくる。五人の男たちがリージェスとリレーネの前に集まった。
 うち二人は辺境警備隊の制服を着ている。他の三人は民間人だ。あまり良い身なりではないが、体つきは逞しく、日にやけている。農夫たちだろうか。
「この車はどこに行く?」
 リージェスが尋ねる。が、男たちはまだこちらの品定めを終えておらず、暫くは誰も答えない。
「あんた、その制服、北方領の軍人か?」
「北方領の護衛銃士だ。ここはもう西方領なのか?」
 男たちは戸惑いながら互いに目配せし、各自が頷いた。
「南に向かうなら、俺たちも乗せてほしい」
「北方領の護衛銃士がどこへ行こうって言うんだ?」
「事情があって、南西領に行かなければならない。同行を許可してくれるなら、その間車両の護衛を申し出る。この先は化生(けしょう)が出るのだろう」
「ちょっと待ってろ」
 彼らは少し離れ、五人で固まって何か話し合っていた。
「――あんた方の事情は知らんが、俺たちは領地を捨ててよそに逃げるところだ。王領の王の僕がそれに目ぇつぶって護衛をするだと?」
「あなた方の事情には関与しない」
 リージェスは答え、首を横に振った。
「王領護衛銃士は王の財産として各天領地に貸し出されたものだ。俺の所属は王領ではなく北方領だし、そこに戻るつもりもない。それに、あなた方は何も今からこの車両群で王宮に攻めこむわけでもないのだろう」
 男たちはまた額を寄せて話しあう。
 今度は数分かかった。
「後ろのトラックになら空きがある。――いいな。化生が出たらどうにかしてくれ。護衛してくれよ。絶対だからな、それが条件だ」
「ああ」
 バスの窓には頑丈そうな格子がはまっている。この人たちが手作業で取り付けたのだろう。その奥の、疲れた女性や子供たちの怯える目と視線を合わせながら、案内の男について歩く。
 連れていかれたトラックにはビニールの窓があり、明るい。薄い毛布や糧食の箱が積み重ねられ、その番をするように、辺境警備隊の制服を着た男がどかりと座っている。
「その辺に座りな」
 その禿げ頭の男は彼なりに親しみを示すように、唇を片方吊り上げて笑った。
 リレーネは適当な木箱に腰かけた。リージェスはまだ外で何か話し合っていたが、その内荷台に上がってきた。
「大丈夫かい、兄ちゃん。あんた酷い顔だぜ」
 リージェスは禿げ頭の男を見、恥じるように顔を背けると、無言で首を振って気遣いを拒んだ。トラックが動き始めた。ビニールの窓がはためき、涼しい風が入ってくる。
「どこに行くのですか?」
 気まずさに耐えかねて訊くと、男はまた親しみをこめて笑いかけてくれた。
「南西領さ。紛争地帯だ」
「何故そのような所へ」
「南西領総督のダーシェルナキ公は情に厚い方だと聞くからよ」
「南西領は豊かな土地だが、亡命者を受け入れる余裕があるだろうか」
 リージェスが、男の顔を見ぬまま訊いた。
「何とかなるさぁ。西方領にいたって、オレら一般人が〈日没〉の後にどうこうして、生き長らえさせてもらえるなんて気がしねぇもんなあ。何も説明ないままに、税金だけ取り上げられて、土地に縛り付けられて終わりさぁ。夜が来るまでねぇ」
「南西領に行けば、何かあるのか」
「知らねぇのかい? 船に乗るんだ」
 疲れた足を伸ばして脱力していたリレーネは、全身に力が走るのを感じ、男の邪気のない顔を見、ついでリージェスの目に光が散るのを見た。
「ああ。すんげぇでっけえ宇宙船が、アースフィアの周りにゃ幾つもあるんだってよ。南西領の総督は神官たちと関係がうまくいってるみたいでよ。宇宙船に退避する目算があるんだとよ。なんでもその船、冬眠施設もありゃあ、完全に食料の自給自足もできる。一番大きな船一つだけで、南西領の人口がまるまる収容できる程度だと」
「そうか。……初めて聞く話だ」
 その船の中には、天球儀の建造に使われた船も残っているかもしれない事。そうであれば光を蓄えた大量の天籃石を確保できる事。
 男は滔々と話す。
 この辺りの村には夕闇の領域から飛来した化生たちがいる事。化生に殺された人間が何人もいる事。なのに、この一帯を統治する神殿は何もしてくれない事。
 放置された村ばかりがある事。
 リレーネは思考を行うまいとする。
 この木箱の裏側に寝床があることを男が教えてくれる。「汗くせぇけどよ。我慢してくれな」。果たして積荷の裏に簡素な寝床を見つける。
 寝床は固く、毛布は確かに臭く不衛生だった。しかしリレーネは汗にまみれた体で何も考えずに横になる。
 まどろみ、目を覚ましかけては、目覚めることを拒んでまたまどろみに落ちていった。自分の知らない内に劇的な展開があって、次目覚めた時には家に帰りついていますように。
 もう誰の死も見ない内に。
 まどろみの中、リレーネは男たちの会話を聞く。
『王領護衛銃士が領地を見捨てて脱走か。世も末だな』
『だから、もう世が末なんだって』
『笑えねぇよ』

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