3-3

文字数 6,570文字


 3.

 乗用車は山を越え、小さな町に着いた。
「怖かったろ、リレーネ。もう大丈夫だ」
 運転席の女が言う……まだ名乗ってもいないのに。
「流石に泣き止んだか。どうしたんだい、押し黙って。訊きたい事があるなら訊いていいんだ」
 リレーネが黙っているのは、女を信用できず、怯えているからである。大きな目が印象的な、はっきりした顔立ちの、小柄な女だ。年は三十過ぎ程度だろう。女はリレーネの心情を知ってか知らずか、
「ああ、私はね、アズレラって言うんだ。よろしく」
 と笑う。
「あの、あの、もう一人……」
 リレーネは控えめに言ってみた。
「もう一人いたんです、あそこに、私だけじゃなくて……」
「銃士の若い子だね。知ってるよ」
 事もなげにアズレラは答えた。
「私が一人であんたを助けに来たと思ってるのかい、お嬢ちゃん。大丈夫。あの銃士もじきに来るよ」
「どうして私の名を?」
「知らないわけがないじゃないか。だって、ウィーグレーがあんな事になる直前に呼んだ『味方』は私たちだもんさ」
「それじゃああなたも、シンクルスという方の――」
「町にいる間は、迂闊にその名を口にしちゃいけないよ」
 リレーネは物を言うのを諦めて、後部座席に身を沈めた。
 車は塀つきの民家に入る。暗い車庫で車を停め、アズレラは車庫と続きになった扉から、リレーネを家に招き入れた。
 いたって普通の家だった。特別センスが良いわけでも悪いわけでもない、白い壁紙の廊下。居間に通される。ここも少し散らかっているが、テーブルや棚に飾られたよくわからない土産物らしき置物以外、特徴的な物は見当たらない。
 特徴を挙げるとすれば、塀や木や室内の置物などが、うまい具合に外からの視線を遮断している事くらいだ。
「ウィーグレーと私と夫は幼馴染だったんだ。よく三人で遊んでた」
 目の前に水のボトルが置かれる。
「リージェスが無事帰ってくるまで、待ってたいんだろ?」
「はい――」
 リレーネは無言で、なめるように水を飲んだ。ここは食べ物の匂いがする。空腹とも逃亡とも疲労とも無縁の場所のように見える。
「難民の人たちは、どうなるんでしょう――」
「わからないね。私にはどうにもできないよ」
「ウィーグレーさんは」
 訊いても仕方がない事ばかり訊こうとしている。リレーネは自分の愚かさに眩暈がするのを感じながら、なお訊いた。
「死んでしまわれたのですか」
「ああ」
 予想通りの失望を、アズレラは答えた。
「『あの方』はリージェスを信用する事にしたようだが、あの隊長の事は今一つ信用しきれなかったんだね。だからウィーグレーに見張らせたんだ。あいつは、私を通じて『あの方』と繋がりがあったから」
 庭から車の音がした。車庫に入り、廊下に上がったかと思うと、そのまま地下へと降りて行く。
 息を殺して待っていると、また足音が上がってきて、大柄の中年男が姿を見せた。
「アズレラ、一緒に銃士の傷をみてやってくれ。一人じゃ難儀だ」
 アズレラより先に、リレーネが立ち上がった。
「……その子がリレーネか」
「夫のブレイズだよ。大丈夫、落ち着くんだ、リレーネ。怪我は酷いのか?」
 男はリレーネを観察した後、首を横に振った。
「傷は多いがどれも浅い。心配するな。眠っているだけだ」
 アズレラだけでなく、自分に向けても言ってくれたのだとわかった。
 リージェスが、トラックの中で自分が寝ている間もずっと起き通しだった事を、リレーネは思い出す。自分が腹を空かせていたのと同じように、リージェスも何も食べていなかった事を。にも関わらずパンを分けてくれた事を、自分を守って戦った事を。今さら思い出す。

 シャワーを浴びる事を許された。アズレラが用意してくれた新品の下着と着替えに袖を通す。どれも、今まで経験がない程質の悪い布地だった。何でも自分のために一級品が用意される生活は、この先二度と来ないかもしれない。
 それでも血で汚れていたり、汗を吸いきった物よりずっといい。アズレラに礼を言わなければと思うのだが、アズレラは二階の一室にリレーネを通して以来、姿を見せない。
 その内時計の針が二十時をさす。普段ならとっくに寝ている時間だ。
 緊張が切れて眠くなった頃、アズレラが部屋に来た。
「リージェスに会うかい?」
 ベッドでうとうとしていたリレーネは、すぐに体を起こした。
「会いますわ。あの方はご無事ですの?」
「うん。それでね……」
 アズレラはゆっくりと、リレーネの隣に座った。ベッドが彼女の重みで沈むのを感じる。
「ウィーグレーが発信機をリージェスに渡してくれたお蔭で、私たちはあんたらに接触することができた。その発信機に、あいつ、隊長とのやりとりを録っておいてくれたんだけどね……」
「ええ」
「レキがリージェスに『掃き溜め上がり』って言った事、覚えてるかい?」
「はい」
「意味はわかる?」
 リレーネは首を横に振った。
「いいえ。でもあまり良くない意味の言葉だと思いますわ。とても貧しいところの出身という事かしら」
「もっと悪いよ。奴隷あがりという事だ」
「奴隷」
 不意に放たれた言葉の意味と重みを量りかねて、リレーネは呆然とアズレラの顔を見つめる。
「奴隷の意味はわかるでしょ」
「……ええ」
「どういう人たちがなるかわかる?」
「ひどい罪を犯した人や、国王陛下に背く思想を説いた人たちですわ。代わりに北方領では死刑が廃止されておりますが……」
「そうだね。そして奴隷の間に生まれた子供たちだ。じゃあ、奴隷と言う身分の人たちが、具体的にどんな仕事をさせられてるか、知ってるかい?」
「いいえ」
 そうした身分の人々が存在する事は知っていた。だが、自分で見ぬよう聞かぬようにし、自分の周りにはいなかった。
「誰も進んでやりたがらない仕事さ。夕闇の領域で天籃石の採掘とか……危険な海上での仕事、海底に眠る資源の掘削作業、楽な部類では死刑場や執行器具の清掃とか、もちろん無賃でね。子供だったら……」
 アズレラは躊躇いを挟んだのち、言った。
「子供をどうこうするのが好きなゲス野郎に与えたりとかね」
 リレーネが思わず声を発する前に、制するように言葉を重ねた。
「リージェスが何をされたかなんてわからないよ。ただ、彼の肩には奴隷の焼き印……の形跡があった」
「形跡?」
「どういう事かは見ればわかるさ。とにかくその、奴隷の焼き印の横には、その奴隷を買い取った家の家紋も共に捺されるんだ。その焼き印も半分残ってる」
「どこの家の焼き印ですの?」
「リリクレスト家だ」
 すっと体が冷たくなって、呼吸の仕方を忘れる。
「でも確かじゃないんだ。家紋の焼き印が半分しか残ってなくて。見てくれるかい」
「その、焼き印が半分しかないっていうのは」
「多分、後から自分で焼き潰そうとしたんだ。奴隷の焼き印も、家紋の焼き印もね。そんな形跡がある。だけど、家紋の焼き印のほうだけ半分残っちゃったんだね」
 リレーネは、痛ましい話から逃げたくて頷いた。アズレラが口をつぐむ。次に、リージェスに会うことを同意するために頷いた。焼き印の痕を見るために。
 それがリリクレスト家の家紋ではないと確かめるために。
「静かにね。リージェスは具合がよくないんだ」
 リレーネはアズレラの後ろについて一階に下り、そのまま車庫にほど近い扉から、地下室に下りた。
 階段も地下室も、天籃石に照らされて明るい。地下室はがらんと広く、薬の匂いに満ちていた。片隅にベッドがある。
「リージェスさん」
 リレーネは、悔しいような、痛ましい気持ちに捕らわれた。横向きに寝かされているリージェスの姿には生気がなく、地下室の入り口からは呼吸をしているかも定かではない。
 ブレイズが椅子から立って場所を譲る。
 リージェスは警棒で殴られた額に包帯を巻かれ、目を閉じていた。静かに呼吸の音を立てている。肩や腕にも包帯を巻かれているのは、そこを化生どもに食いつかれたのだろう。
 アズレラが静かに指をさした。
 左の肩口に、古い火傷の痕がある。
 焼いた鉄板でも押し付けたようだ。
 その引き攣れた火傷の端から、古い焼き印の模様が飛び出している。
 リレーネは声を出さないようにするために、口を掌で覆わなければならなかった。
 百合の紋章が描かれた盾。
 半分しかない状態でもわかる。
 見慣れた、自分の家の家紋だ。
 リレーネはただ頷く。何を肯定しているのか、わざわざブレイズとアズレラに伝える必要もなかった。
「……何てこった。あの人はわかって、リージェスにリレーネを誘拐させたのか?」
「多分ね。一度はくじのやり直しを求めたって事は、そういう事だろう」
 二人の会話を聞きながら、リレーネはリージェスの左肩に焼き付けられた家紋から目をそらすことができない。
 隊長とレキは、この傷を笑いものにしたのだ。
 仲間なのに。
 リレーネの小さな正義感が燃え上がる。怒りに、何か言わずにはおれなかった。
 怒りの火を消したのは、この傷を恐らく自分の父がつけたという事実だった。
「父上! おやめください!」
 突如、少年の悲鳴が鼓膜を打つ。
 目の前の世界が破れた。
 眼前に広がるのは、石塔の、暗い半地下の部屋だ。何のためにあるのかわからない部屋。格子状の扉がある部屋。
 リレーネは廊下の壁に身を寄せ、格子の間から部屋の中を見ている。
「父上――」
 部屋の中に、何人もの大人たちがいる。
 たった一人の子供を押さえつけ、服従させ、焼き印を押しつけるために集められた、リリクレスト家の使用人たち。
 中央の、身なりの良い男が腕を振り上げる。鞭の先が、高い窓からの光を浴びて輝く。
 リレーネは怯えてきつく目を閉ざす。十年前、七歳の時そうしたように。
『リレーネ、総督閣下の卑劣な政敵たちは、子供を間諜や刺客に使う事さえあるのです』
 十年前には聞いたはずがない言葉を、今、リレーネは聞く。
『あなたとその男の子がもう一度会っていたら、あなたは今、ここにはいないのかもしれませんよ』
「やれ」
 冷徹な声が告げた。
 父の声だ。
「どうした。やるんだ、アークライト議長。ここまで来て怖気づいたわけではあるまい」
 金具の音がする。鎖が石床を這う音。少年の啜り泣き。
「待ってください、母さんに会わせてください、せめて、せめて――」
『――あなたのお父様は、公正で思慮深いお方です』
 背中に何かがぶつかった。アズレラの腕だ。その腕に抱かれ、リレーネはその場に座りこみそうになる。
「私、思い出しましたわ――私――」
「どうしたんだい、リレーネ」
 アズレラが耳もとで囁く。
「何を思い出したんだい?」
 リージェスが、ベッドの上でうめき声をあげた。ブレイズが姿勢をごろりと仰向けに変えてやる。
 何を言えばいいのかわからない。
 この先、どう彼と接すればいいのか、見当もつかない。
 それでもリレーネは、咄嗟に床に跪き、リージェスの冷たい手を握った。
「リージェスさん、リージェスさん、私がわかりますか?」
 うっすらと目が開き、緑色の瞳がリレーネの姿を見つけた。
 穏やかな目をしていた。弱っているからだろう。初めて会った時とは別人のような、穏やかな眼差しだった。
「リレーネか……」
 かすれた声で、リージェスは尋ねた。
「……怪我はないか?」
「ええ、ええ」
 繰り返し頷くリレーネに、そうか、と一言だけ零すと、リージェスはまた目を閉じてしまう。握りしめたリージェスの手が重くなった。
「――リージェスさん」
「寝かせてやろう。彼は疲れてるんだ」
 アズレラが肩を叩く。リレーネは諦めて、リージェスの重い掌をベッドの上に置いた。
「アズレラさん、私は、恐らく、この焼き印がつけられるところを見た事があります」
 リージェスを起こしてしまわぬよう、静かな声でリレーネは言った。
「本当かい?」
「はい。ええ。私、ずっと忘れておりましたの。恐ろしくて、忘れようとしておりましたの……」
「どれくらい前の事だ?」
「十年ほどですわ」
 ブレイズは渋い顔をして、アズレラと視線を交わす。
「……子供を奴隷にするってのはなぁ、よっぽどの事だ。リレーネ、一部で有名な話がある。表に出る事はねぇと思うがな」
「どんな、お話ですの」
「タロス・アークライト元評議会議長を知っているか」
「お名前だけでしたら、存じておりますわ」
「その男には離婚歴がある。離婚した時の妻は、北方領総督セヴァン・リリクレストが仲を取り持った女性だ。それを自分の不倫で離婚に持ち込んだのだから、仲人の顔は丸潰れだな」
「……でも」
 そんな事が、リージェスの身に降りかかった事とどう繋がるのか理解できない。
「アークライト議長の不倫相手はね、よりによって総督公の妹君だったのさ。タロスは本気だった。本気で、総督公の妹君との婚姻を望んだんだ。熱烈に。そんで晴れて、あんたの叔母さんの内の一人と結婚したんだ」
 アズレラが肩を竦める。
 アークライト議長の名は聞いたことがあるが、自分とそのような関係にあるとは知らなかった。知らない事だらけだ。かつて北方領で起きた事について、この人たちの方がよく知っている。
 私は北方領総督の娘なのに。
「十年前、北方領で奴隷制度廃止の気運が高まっていた時期があった事は知ってるかい?」
「……いいえ。ごめんなさい」
「アークライト議長は、王領に倣って奴隷制度を廃止する方向に議会を持っていきたかったんだ。でもね、奴隷制度がなくなれば治安が悪化するというのが総督の考えだ。奴隷になる恐怖が減れば、凶悪犯罪が増えるとして、総督公は奴隷制度を維持したかった。どうしたと思う? 最低だよ。最低なゲス野郎と最低な馬鹿野郎だ」
「アークライト議長に、妹をやる代わりに十二歳になる息子を奴隷として差し出せと迫ったんだ」
「そんな」
 アズレラが言う最低のゲス野郎とは、自分の父の事らしい。
「まさか、そんな事で本当に自分の息子を差し出すわけありませんわ。ね、そうでしょう?」
「議長の息子は、議長の本当の息子じゃなかったんだ。前妻も前妻だったってわけだね。離婚直前まで夫を騙してたんだ。議長は憎かったろうね。妻も、息子もさ」
「そんなの、そんなの」
 息子には何の非もないではないか。
「たしかね、私の記憶が正しければ、その息子の名は」
 リージェス・アークライトだ。
 と聞こえた。
 空耳かもしれない。聞きたくないと思う気持ちが、もっとも聞きたくない言葉を聞かせただけかもしれない。
 よく聞こえなかった、と言おうかと思った。
 一方で、聞こえた通りの事を言われたのだと、リレーネはわかっていた。
「言わないでください」
 リレーネは恐れ、喉を絞るように声を発した。
「リージェスさんに言わないでください、私が焼き印の事を、知ったって」
「知りたくなかったかい?」
「いいえ。知らなければならない事でした」
 けれどリージェスは、リレーネがかつての石塔での出来事を知っているとわかったら、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。気まずさから。あるいは憎しみから。
 俺が誰かわかるか、と尋ねられた意味が今ならわかる。
 突き放すような冷たい態度をとり続けていた理由が。
 今までリージェスが優しくなかったのは事実だ。しかし、自分を庇って傷ついたというのも、また事実だ。
 生きていてよかった。
 この人が、自分のために死んでしまわなくてよかった。
「リージェスさんを――」
 夫婦の顔を直視できなかった。顔を上げる前に涙があふれ、肩に回されたアズレラの腕に甘えて泣くしかできない。
「助けてくれて、有難うございます――リージェスさんを――」
「リレーネ、部屋に戻ろうか」
「アズレラさん」
「リージェスが生きてて良かったね」
 アズレラに背を押され、リレーネは地下室を出た。二階の一室に戻るまで、リレーネは何度も繰り返し、礼を言い続けた。
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