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文字数 4,352文字
3.
地下水が豊富な町らしく、闇の四方から清らかな水の音が聞こえる。この水は町のいたる所でため池と用水路を形成し、市民たちが野菜や果物を洗ったり、道行く人が喉を潤すために使っている。
こんな場合でなければ、もし自由に外を出歩ける身であったなら、その光景を見てみたかった。
リージェスが手にする天籃石が、白い光を放って二人の顔を照らしている。
ほとんど視界が利かぬ中を、リージェスは恐れも躊躇いも見せず走り抜ける。
ほとんどが下り坂、そして下り階段だ。
分岐が現れると、ブレイズに教えられた通りの道順をたどる。
右、右、中央。
ねえ、リージェスさん。私たち見落とした分岐があるんじゃないかしら。こんなに暗い場所で、どうして正しい道をたどっているとわかるの。
慣れない運動に息を切らしながら、リレーネは声にならない声で喘ぐ。
右手を掴まれたまま、リレーネはリージェスとほぼ同じ速さで走らなければならない。
この闇が怖いのに。急な階段が怖いのに。
リージェスさん、待って。
しかし声にならない。何より手首を通して伝わるリージェスの焦りと真剣さが、リレーネから嘆願を奪う。
突如として下り階段が現れる。リレーネは足許の急な変化に対応できず、靴底を滑らせた。
リージェスが膝を落とし、両腕で強くリレーネを引き寄せた。転落を免れた代わりに、意図せず胸の中に抱かれる形となる。リレーネの尋常ではない体の熱さと呼吸の早さに、リージェスは初めて気付いた。
「おい――」
何か言わなければ、と思った。口を開けた瞬間に、リレーネは吐いた。
未消化の朝食が、階段の上を跳ねる。リージェスの服を汚してしまう、と思っても、止めることができない。リージェスはリレーネを抱えたまま、戸惑って動かない。
「おい、大丈夫か」
ようやく口が利けるようになり、大丈夫です、とか細い声で答えた。体中が熱いのに、足の震えが止まらない。
「走ります、私は、走れますから、だから」
苦しさに涙を滲ませながら、天籃石の光ごと、リレーネはリージェスに縋りついた。
「置いて行かないで……」
リージェスが一瞬息を詰めるのを感じる。
体が浮いた。肩に担がれたのだ、と理解した時には、リージェスは走り出していた。走る動きに合わせて体が大きく弾む。
下り階段がなくなったようだ。立ち止まった時、リージェスはすっかり息を切らしている。リレーネを壁際に下ろしながら、僅かにふらつく。
目の前に何かが突き付けられた。紐付きの水筒だ。天籃石の光に照らされながら、目で「飲め」と言っている。
リレーネは青白い顔で頷き、水筒を受け取った。唇を濡らすと、堪らなくなり、一気に水をあおった。残りの水をリージェスが飲み干す。水筒から口を放しても、二人はそのまま荒い呼吸を続けていた。
リレーネは座りこんだまま、惨めな気持ちでそばに立つリージェスの気配を感じていた。
自分が走らなかったせいで、彼は余分に体力を消耗した。
「ごめんなさい――ごめんなさい――」
リージェスが唾を飲み、強引に呼吸を鎮める。
「立てるか」
「はい」
「行くぞ」
通路の先に、入り口と同じ木戸があった。リージェスが振り向いてリレーネに拳を突き出す。
つられて手を差し出すと、その手の中に拳を開いた。何か小さな物が手の中に落ちた。
耳栓だった。
「これを、つければよろしいの?」
「鼓膜を傷めたくなかったらな」
リレーネが耳栓を両耳にねじこむ頃には、リージェスはゴーグルを装着し終えている。
リージェスが木戸の内鍵を回したが、その音は聞こえない。淡い黄色の光が差してきた。
戸が大きく開く。ついて来い、とリージェスが手で合図する。路地の影に飛び出し、木戸をそっと閉める。
アースフィア人の習性として、リレーネは天球儀を見上げた。
月が見える。
透きとおる天球儀の向こう、本物の空に、ほの白い衛星が浮いている。満月だ、と思った。明るい、とも。月はさぞかし静かな所だろう。美しいものを育むのに、月ほど適した場所はあるまい。
この地上では、リレーネは、どこへ向かうかもわからぬままリージェスについて走っている。
靴底から、体の中を通じて、自分の足音が頭に抜けてくる。耳栓は心地よい物ではなかった。唐突に前を走るリージェスが立ち止まる。片腕でリレーネを制し、後ずさり、曲がり角に身を寄せる。
そして、別の辻へと走り出す。
家々とその柵、柵から乗り出す観葉植物の緑によって、路地に光と影のまだら模様が描かれる。ちらちらと揺れる光の中、リレーネは膝に痛みを感じ、ふらついた途端、何かに激突した。
耳栓をしていても、凄まじい音がしたのがわかる。つい悲鳴をあげた。
路地に色とりどりの酒壜が散乱し、眩しい。
ひきつった顔で振り向いたリージェスが、酒壜を蹴散らし、リレーネの手首をつかんで強引に走らせた。リレーネを次の角に押しこむと、振り返り、最初の銃撃を放った。
あとはもう滅茶苦茶だった。
リージェスにとっては滅茶苦茶な事ではあるまい。
彼にはリレーネを守るという責任がある。
彼には追われたら撃つ理由がある。
彼はこの町の地理と構造についての知識を、アズレラとブレイズによって頭に詰めこまれている。
リレーネには何もない。この命しかない。
そして、自分の代わりに手を汚し、あるいは自分の代わりに銃撃を浴びる盾として護衛がいる。
「リージェスさん!」
背後で撃ち合いをしていたリージェスが追いつき、手を取って、民家の私道に押し入っていく。大人一人通るのが精いっぱいの、土の道だ。
背後を銃弾が通って行った。
見なくてもわかる。撃たれなくても、弾の熱さと、その小ささに込められた暴虐の恐ろしさがわかる。
「リージェスさん、助けて!」
リレーネは恐慌に駆られ、叫んだ。リージェスにはまるで何も聞こえていない様だ。
庭木に水をやるためのホースを踏んづけ、庭と民家の間で立ち竦んでいる老人を突き飛ばし、裏木戸を蹴り開けたリージェスが、いきなり木戸の向こうを撃った。
何故、彼には敵がいるとわかったのかリレーネにはわからない。驚異的な反応速度だった。リージェスが撃った後の路地は恐ろしい有り様だった。高温の炎でも噴きつけた後のように、放射状の黒い煤が延びて、めくれあがった舗道を汚している。吹き飛ばされた兵士たちが、遠くの方であり得ない姿勢で折り重なっている。その横を走り抜ける時、リレーネは思い切り顔を背けた。
リージェスは大胆にも表通りに飛び出して、坂道を下ってゆく。額の汗をぬぐった時、知らぬ間に緩んでいた耳栓が片方抜け落ちた。
高い銃声が、どこか遠くの方から聞こえた。
少しして、近くの背の低い建物の上から、人間が血を撒きながら落ちてきた。
誰かが撃った。自分たちではなく、イオルク・ハサの兵士を。
また銃声。
数秒の間を置いて。どこかで窓が破れる音が響く。
とんでもなく遠くから撃ってきている。よほど腕のいい射手に違いない。自分たちに寄越された助けは、もうそこまで来ているのだ。
坂を下るほど、民家は少なくなり、左右の建物は大きくなる。レンガ造りの建物は、どれも倉庫のようだ。工場かもしれない。
いきなり振り向いたリージェスが、リレーネを背後に庇い、坂の上に銃を撃つ。強い閃光に目を閉ざした。やはりリレーネには、何故リージェスが敵の位置や気配を察知できるのかわからなかった。
坂を下りきったところに、高い柵と鉄条網が見える。左手の細い道に飛びこんだ。
蛇行する脇道を、背後に迫りくる足音を感じながら走る。
目の前でリージェスが、唐突に立ち止まった。
行き止まりだ。
高い柵と鉄条網に囲まれた、空き地のような空間である。
空き地には人の背丈より遥かに高い金属のコンテナが所狭しと並び、その中には鉄くずなどが溢れんばかりに詰めこまれている。
「奥へ!」
リージェスが叫んだ。彼は細い道に銃を向けた。リレーネは空き地の一番奥のコンテナの陰にうずくまり、強く耳を塞いだ。
やがて何かが、同じコンテナの陰に飛びこんできた。目を開けた時、自分がずっと涙を流していた事に気付く。飛びこんできたのはリージェスだった。
後を追うように、銃弾がばらばらと突き当たりの壁に降り、のめりこみ、または跳ねる。
リレーネを庇いながら、リージェスは空き地を睨んでいた。
ゴーグル越しに見える目から、闘志は消えていない。隙さえあれば、彼はたった一人で、少しでも多くの敵を減らしに行くはずだ。
リレーネのために。
リレーネを安全な所へ連れて行ってくれる、顔も知らぬ味方のために。
不意に銃弾の雨が弱まる。
やんだ。
すると、破裂音のような銃声が間近で鳴り響く。リージェスが扱う護衛銃士の銃と同じ音だ。
そして閃光。
コンテナに何か――恐らく兵士が――叩きつけられる音。コンテナから鉄くずや鉄材が降り注ぐ音。
突如静かになった。
己の体を抱く力を、ほんの少し緩める。
「そこにいるのだろう!」
朗々たる低い女の声が、銃声に代わり響いた。
「リージェス・メリルクロウ少尉! 私は味方だ。君たちを迎えに来た」
降り注ぐ影の中で、リージェスは少しだけ口を開けて、深呼吸をする。そしてまた唇を結ぶと、ここにいろ、とリレーネを手で制し、立ち上がった。
彼は一人で光の中に出て行き、「銃を置け」、と言った。
「君もだ、少尉。ついでにゴーグルも外すんだ。私と同じようにね」
リージェスが、声のする方から目をそらさずに腰を屈め、銃を置く。続いてゴーグルを外し、またまっすぐに立つのを見る。
「リリクレスト嬢はどこだ?」
リレーネは、震える足で立ち上がり、コンテナに手をついて空き地に出て行った。それだけが、自分の判断でなし得る唯一の行為だった。
空き地の惨状よりも、背後に銃士たちを従えてリージェスと話していた人物に、自然と目が吸い寄せられた。
堂堂の女性銃士だった。
臙脂色の軍服は、南西領のものだ。護衛銃士の身分を表す、金の房飾りがついた、丈の短い黒いマント。その肩口で波打つ、陽光を黄金に照り返す
「私はユヴェンサ・チェルナー、南西領防衛陸軍第一陸戦師団、歩兵連隊強行攻撃大隊、特殊銃戦部隊指揮官、上級大尉だ」
その大柄な体から、強い意志と闘志を撒きながら、銃士は二人に自信に満ちた笑みを投げかけた。