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文字数 5,478文字

 爽やかな夏の光の中を、一台の馬車が駆けてゆく。丘は一面の緑。木々は豊かに葉を茂らせ、見下ろす町の窓はすべて太陽の光をはね返している。
 この眩しい季節はまだ続くはずだ。
 チューリップ妖精のララシィとルルシィが、薄い銀の羽根をきらめかせながら馬車と追いかけっこをしている。
『誰しも夏が好きよ。生命の季節。乾いた愛の季節』
 ララシィが風に乗って、夏を祝い歌う。
『アースフィアの夏は六年』
『太陽の輝きが六年』
『けれどもう終わってしまう』
『なぜ? 夏はまだたくさん残ってるわ』
 ルルシィは、チューリップの匂いがする汗を馬車に振り撒きながら微笑む。
『時が巻き戻るの。夏は冬に戻る。昼は夜に戻る。暑さは寒さに戻るの』
 ほら、と馬車の窓を指さす。
 空の太陽が消え、世界は闇に病んだ。
 丘は焼け野原に変わる。
 馬車は軍用の自動走行車に。
 日に焼けた肌を癒やす夏風は、身を切る寒風に。
 ルルシィが指さす窓の中、設定された目的地へひた走る車の片隅で、リレーネがただ一人、膝を抱えていた。

 自動走行車は闇を裂き、北方領〈凍り砂の都〉にたどり着いた。リレーネは旅程のさなか、眠ったり、起きたり、起きた事を後悔してまた眠ったりを繰り返していたが、故郷が近付くとその気配を感じとり、じっと目を開けていた。
 市街に入った自動走行車は、じりじりとした徐行運転に切り替わる。
 明かりの点る窓はなかった。
 夜空に光る天球儀。街路に並べられた、急拵(きゅうごしら)えの感が否めない天籃石のランプ。通りを歩く人はいない。カーテンの影からこちらを窺う人もいない。路面が荒れているようだ。生き物の気配がない街に、砂礫を踏むタイヤの音だけが響く。
 その場所に差しかかった時、リレーネにはわかった。ここがリージェスに会った場所だと。似たような道と似たような家々が並ぶなか、他ならぬここが、リージェスがリリクレスト家の車を襲い、自分をさらった場所だとわかった。
「リージェスさん!」
 リレーネは自動走行車を飛び下りた。夜風がリレーネの体を包み、一瞬にして凍えさせた。
「リージェスさん! どこです?」
 かつてこの道でリージェスが車を潰した痕跡は何一つない。あの日満ちていた太陽も、夏も、最後の平和も、全て壊れてしまった。太陽の王国とともに。
「リージェスさん!」
 リレーネは叫んで、画院がある方向へと歩き出す。
「どこにいらっしゃるの? リージェスさん!」
『ここには誰もいないわ!』
 後ろからチューリップ妖精がやって来て、耳許で喋った。
『人間の物語は終わった。後はあなたしかいないの』
「リージェスさん!」
 大通りに出た。
 舗道を、ふらふらと、黒い人影がさまよっている。
 密度の薄い、人の形をしたそれは、言語崩壊を起こしたかつての人間に違いなく、しかし人間性を感じさせる要素は残していなかった。化生ですら生気を宿していたのに、これにはきっと生きるための本能も、意識もない。
「リージェスさん」
 よく見れば、そんな影人間がそこいらじゅうで揺れている。
「どこへ行ってしまわれたの?」
 震える足が坂道を上る。
「リージェスさん……リージェスさん……」
 その足は、汚れた服を着て揺れている人間の残骸に、吸い寄せられるように近付いていった。
「リージェスさんはいらしたのよ」
 言語崩壊を起こした人間は言語を理解せず、聞くこともできない。リレーネはまた別の人間の残骸のところへ。
「いたの」
 そしてまた、縋るように別の影に近寄る。
「いたのよ」
 広場を突っ切り、横転したトラムに腰かけてこちらを見下ろしている影へ。
「いたのよ、ねえ!」
 そこらで服が脱ぎ捨てられているのは、人が折り重なって倒れたのだろう。この街の荒れようは何だ。よほど大きな暴動があったに違いない。
 それでも血の一滴もなく、肉の一かけらもない。かつて人体だったものは、全てほどけて消えてしまった。
「リージェスさん!」
 滅びた街の唯一の言語が、市街のあらゆる建物の高さを突き抜けて、天球儀へ、その先の輝く月へと、放たれた。
「ここにいたの!」
 画院にたどり着いた。
「リージェスさん!」
 彼は画院からリレーネが出てくるのを待っていた。遠い旅へと連れてゆくために待っていた。
「一人で生き残って、何をしろと仰るの!?」
 リレーネは何のあてもなく、前庭を横切った。リージェスがいない、その事実を確かめて、更に打ちひしがれるだけだとわかっていたが、探さずにいられなかった。
「リージェスさん……?」
 学舎に入れば、この中でも戦闘が行われたのだとわかる。焦げた絨毯、開け放たれた穴だらけの扉が過去の惨劇を物語っている。
「ねえ、リージェスさん」
 私はここで絵を描いていたの。その時は、こんなに暗くなんかなくて、何もかも整って、美しくて、あなたが外で待っている間、私はチューリップの丘を。
 廊下の奥から誰か歩いてくる。
「リージェス――」
 玄関ホールの高い窓、そこから差しこむ天籃石の淡い光が深緑のワンピースを照らす。
 見覚えのあるものだった。
「――キリエル」
 最も仲が良かった友人の服だった。その服を着て廊下をさまようのは、外にいるものと同じ黒い影。
「……キリエル。あなたはここで亡くなってしまわれたの? どうして?」
 歩み寄って肩に触れた。衣服の感触はあるけれど、衣服を満たすものは空気。間もなく衣服の重みに耐えかねて、空気は抜け出し、影はほどけ、惨たらしくすらない、遺体と呼ぶにはあまりに空しい、しかし、確かにキリエルだったこの残骸も、消滅する。
 その予感を恐れてリレーネは手を引いた。影は揺らめきながらリレーネとすれ違おうとした。指先が影の、腕の部分に触れた。冷たくも熱くもなかった。
「キリエル」
 別れを惜しむつもりで名を呟くと、予想外の色彩が触れあう影の腕に宿った。
 小麦色。生前のキリエルの、健康的な肌の色。
 指先が離れると消える。
 リレーネは強烈な確信に打たれて立ち竦んだ。
 言語が輪郭であるのなら、言語が色彩であるのなら、言語を失くした人間が色も輪郭もなくして消えるのなら。
 言語を有する最後の一人として、世界に色を塗ることができるのではないか。
 リレーネは影を捕まえ、今度は恐れることなく左手で衣服を握りしめ、右手で顔に触れた。
「あなたの肌はまぶしい小麦色」
 頬を撫でた。きらめきを孕む小麦の色彩が、指の筋に沿って描かれた。影が何らかの有機物でできており、その繊維に色彩が沁みていくように、あるいはリレーネの意を反映するように、顔全体に小麦色が広がる。
「あなたの唇は赤」
 その通り、リレーネは影を唇の形に整える。
「覚えてらして? あなたは私をリルと呼んだわ。キリエル、キリエル、あなたの目は緑――」
 かつて目があった場所が、緑一色に塗られた。
 塗り方を間違えたと気付いたが、遅かった。
 一歩引いて見てみる。
 顔だけが肌の色。闇に浮くべたりとした唇。二つの、緑一色しかない両目。
 そんな影が闇に閉ざされた廊下に浮いている。
 キリエルのはずがない。
 こんな存在がどうして生きた人間に戻ろうか。
 唇が開いた。
 開いた口の向こう、荒れた廊下が見える。
「リ、リ――」金属がこすれるような不快な音が、口から放たれた。「リ――ル」
 リレーネは悲鳴の尾を引きながら画院から飛び出した。
 これは冒涜だ。キリエルの生の結末を、ただ消えていくだけだった死を、冒涜してしまった。キリエルを化け物にしてしまった。
 画院に残されたチューリップの丘の絵からチューリップ妖精たちが飛び出して来て、リレーネを追い、群れとなり、風にはためくリレーネの服や髪にしがみつく。
『ママー!』
 帰るべき家にたどり着いた――総督公邸へ。
 総督府から公邸へ続く道、その分岐点のベンチに座りこむ影があった。その大きさが、かつてその影が男であった事を思わせた。
 影はまだ服を着たままだった。北方領総督が、生前執務中に愛用していた極上のスーツを。リレーネにとって見覚えのあるスーツを。
「……お父様」
 リレーネはたった一人で父の残骸と対峙する。チューリップ妖精はいない。当然だ、そんなものは実在しないのだから。
 父と再会することがあったら、言いたいことがあったはずだ。父に怒りを抱いていた。怒りを言い表す言葉があったはずだ。相応しい言葉を考えていたはずだ。なのに思い出せない。
「お父様」
 ベンチの上で微動だにしない、失望しうなだれたそのままの姿勢の影に、リレーネは一歩、二歩、近付いた。
「リージェスさんは死んでしまわれましたわ。十年前に――」
 太陽があった十年前。永遠に太陽があると信じられていた十年前。
「――十年前に、お父様、生きてらした時に、お父様が石塔でひどい仕打ちをなさったあの方よ」
 服の肩に触れた。その下に、今までと変わらぬ肉体がある気がし、父はここにいる、その錯覚がリレーネの怒りを呼び覚ました。
「わかってらして? あなたがたった十二歳の男の子にした仕打ちをわかってらして? お父様!」
 手の中で肩が潰れる。
「それでもあの方は私を守って下さったわ! どんなに私が憎らしかったでしょう。けれどリージェスさんは立派でしたわ、お父様! あなたは――」
 影がベンチから崩れ、地面に流れ落ちた。それは人間が倒れるような姿は作らず、黒い粉末のように地面に広がり、土の粒と粒の間に埋もれるように、消えていった。
 リレーネはほとんど新品のスーツを手に持って、暫くその場に立っていたが、スーツを投げ出して公邸に駆けていった。
 公邸に戻るまでの道のりを覚えていない。叫んでいたかもしれないし、黙っていたかもしれない。後ろをチューリップ妖精たちがついて来ていたかもしれない。笑いさんざめきながら。
 自室に身を滑りこませ、鍵をかけた。部屋は日常が終わる最後の日、画院に行くために出た時と何も変わっていなかった。
 骨が軋むほど寒い。
 背後で部屋の戸が激しく叩かれた。
「リ――……」
 金属質の声。
「ル――……」
 膝から力が脱けていくのを感じた。リレーネは床にへたりこみ、両腕で震える体を抱き、叩かれる戸を凝視し続けた。
 いつからついて来ていたのだろう。かつてキリエルだったそれには、ドアノブを回すという生前の習慣すら残されていないらしく、しつこく戸を叩き続けていたが、その内戸を叩く理由も忘れたように、重たげに衣擦れの音を立てながら引き返していった。
 世界の末路に生きて立つ者はリレーネただ一人であった。

 絵を描いている。ベッドに腰掛けて。
 鉛筆の先がスケッチブックを引っ掻く音が響く。
 一人じゃない。
 チューリップ妖精たちがいる。
 部屋じゅうに。
『ママー、ママー』
 創造主、生みの親たるリレーネに、チューリップ妖精たちが愛を求めてまとわりつく。リレーネは肩にとまるチューリップ妖精を、優しく掌で撫でた。
「生きている色彩は私とあなた達だけですわ」
 描くそばから生まれるチューリップ妖精が、リレーネの言葉を求めてベッドの周囲に集まってくる。
「死んでしまった色彩は、色彩の地獄に落ちるのよ。死んでしまった輪郭は輪郭の地獄に落ちるの」
『死んでしまった言語の地獄はどこ?』
「ここよ」
 リレーネは肩のチューリップ妖精を鷲掴みにし、顔の前まで連れてくる。
「ねえ……死にたくない?」

 歌う。歌う。リレーネは歌う。
 地獄、と歌う。
 捨てられた子供たちの地獄、と歌う。
 チューリップ妖精たちが泣き縋る。
「ごめんなさいねぇ……ごめんなさいねぇ……」
 リレーネは笑う。笑う。
 笑いながらチューリップ妖精たちの四肢を、頭を、羽をちぎり捨てる。
 チューリップ妖精たちは幸せそうじゃない。
 優しくしてくれない。
 慰めてくれない。
 助けてもくれない。
 魔法も使えない。
 散乱するチューリップ妖精の死骸の中で、リレーネはふと考える。
 これは何だろう?
 これはゴミだ。
 創作物だって?
 この現実を変えてくれないものに、何の意味があるというの。
 絵を描く? 物語を創る? それが何だ?
 結局、ゴミにしかなっていない。
 毎日、毎日、せっせと、せっせと、私はゴミを作っていたのだわ。
 リレーネはさしたる理由もなく、顔を窓に向ける。そこに、欲しいものを見つける。消えてゆく秩序だった思考の中で、リレーネは願う。
 月が欲しい。

 リレーネはゴミを拾う。虐殺されたチューリップ妖精たちの死骸を。そしてまた描き、描いては殺し、血と肉塊を練り上げて、月を作る。
 自分のために光る月。自分だけの美。
 リレーネは、少しずつ月を大きく育てる。
 ある日気が付く。自分が何日水を飲んでいないか。何日物を食べていないか。何日眠っていないか。いや、何日経ったのか?
 そうか、わたしももう、にんげ ん じゃ な い ん だ。
 一抱えもある月を作り、彼女は満足する。
 自分だけの月。そばにいてくれる月。
 リレーネは膝の上で浮く月に両腕を乗せ、頬を寄せた。眠くて仕方がなかった。腕と頭を月に預けて、小さな欠伸(あくび)をする。そして、眠りの中へ、月の中へと入っていった。


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