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文字数 3,578文字
4.
リレーネは、一年続く春のさなかにこの世に生まれ落ちた。チューリップの花咲き誇る美しい季節だと聞くが、リレーネが実際にチューリップを目にするまで、十四歳まで待たなければならない。
七歳。その年の季節は秋。
当時の遊び相手はララシィでもルルシィでもなかった。コスモス妖精のナントカというのがいたが覚えていない。
「上手だね」
背後から声をかけられ、リレーネはスケッチブックから顔を上げる。
黒い髪、緑の瞳、自分よりいくらか上の少年が、スケッチブックを覗きこみ微笑んでいる。
「あなたは、どなた? お客さまですの?」
「うん。邪魔してごめんね、あんまり上手だったから。君はこの家の子?」
「はい。リレーネと言いますの!」
少年と少女は視線を交わして微笑みあう。
「あなたはお一人ですの? お一人でいらしたの?」
「ううん、父さんと――」
「××!」
遠くから、男が少年の名を呼ぶ。少年が男を見、少し慌てた様子を見せる。
「ごめんね。行かなきゃ」
「行ってしまわれますの? またここに戻ってきて下さる?」
「うん。戻るよ。待ってて」
少年が踵を返し、コスモスが咲き乱れる庭園から走り去っていく。歩道で待つ父のもとへと。
「待ってますわ! あとで、私と遊んでくださいね! きっとよ!」
『だめ』
十年後のリレーネが声を振り絞る。
『そちらに行ってはだめ!』
「総督閣下は立派なお方です」
「嘘!」
リレーネは画院で髪を掻きむしる。
「嘘ですわ、ララトリィ先生! お父様は私憤を晴らすために、あの方に酷い事をなさったのよ! ただ溜飲を下げるためだけに! それのどこが立派な行いですか!」
「総督閣下を侮辱している奴がいるぞ!」
窓の外の市場から、市民が糾弾する。
「あそこに!」
「総督閣下を侮辱!」
「している奴がいるぞ!」
「リレーネ、残念ですが……」
ララトリィ先生が、知的に光る両目いっぱいに憂いを満たして顔を覗きこむ。
「あなたは総督閣下を侮辱した罪で、奴隷にならなければなりません」
「いや! いや!」
ララトリィ先生が、とても老女のものとは思えない怪力でリレーネを引っ張って行こうとする。リレーネは縋りつくものを求めてイーゼルに手を伸ばす。
するとイーゼルに立てかけられたキャンバスから突如としてチューリップ人が飛び出して来て「お目覚めですかあ!」
リレーネは飛び起き、恐ろしさに震え、泣き、笑い、ちょうど様子を見に来たアズレラに心配される。
「食欲あるかい?」
「はい」
驚くほど美味いパンを驚かれるほど食べ、
「好きなだけお食べ、リージェスもうちの人ももう食べたから」
と言われて恥ずかしくなり手を伸ばすのをやめる。
「リージェスの今の名前、メリルクロウという姓に心当たりはある?」
「いいえ、ございませんわ」
「メリルクロウ財団の名を聞いたことはないかい? 王領の篤志家でね。奴隷の子供を買い取っては養子、養女として迎えたり、身寄りのない子供たちのために孤児院を建てたりしている」
リレーネはアズレラを凝視した。
「きっと彼も買い取られて養子となったんだね。総督閣下と評議会議長の一件も、裏では話が回るの早かったから」
「リージェスさんはどれくらいの間つらい身分でいなければならなかったのかしら」
「個人で入手した奴隷は個人を相手に売るのが通例だ。そうなったら、第三者が介入することは難しい。多分、まだ完全に北方領総督の手許にいる内か、仲介業者の手に渡った直後に買い……引き取られたんだね」
「私、リージェスさんにどんな顔をして会えばいいのかしら」
「今まで通りの顔さ。知らないふりで通すんだろ?」
これまであまりリージェスの顔を直視しないで過ごしてきた事に気付く。彼があまりに無愛想で、自分に対する態度が冷たいから、彼に言葉で傷つけられる事を恐れていた。
「南西領から迎えが来るよ」
アズレラが唐突に言った。
「それまで、居心地悪いと思うけどここにいておくれ」
ブレイズはどこかに出かけているらしく、同じ家にいるはずのリージェスは気配を感じられない。
リレーネは、文字盤に並ぶ0から23までの数字を時計の針がなぞるのを見て過ごす。
十八時。寝る直前、一人で地下室におりる。
リージェスはテーブルに分解した銃の部品を並べ、手入れするでも組み立てるでもなく、頭を抱えてじっと動かないでいた。リレーネが入ってきた事に気付く気配もない。
気分が悪いのかと思った。頭が痛いのかもしれない。
一歩足を踏み出すと床板が鳴り、リージェスは弾かれたように顔を上げる。
「何をしに来た?」
動揺を隠した後は、以前と変わらぬ突き放すような口調だった。
「様子を見に来たの」
「何も問題はない」
「ですが――」
「部屋に戻れ。子供は寝る時間だ」
しかしリレーネは勇気を出してテーブルに歩み寄る。
「南西領から迎えが来るそうですわ」
「知っている」
「お腹は空いていらっしゃらない?」
「空いていない」
「リージェスさん、服に血が滲んでいますわ」
リージェスは左腕に目をおとし、借り物の白い服に赤い血の色を認めると、忌々しげに目を細めた。
「私、アズレラさんに言って――」
「いい。これくらい自分でどうにかする」
「でも」
「あなたは何をしに来たんだ? 無駄話か? 俺は今そういう気分じゃないんだ」
「ごめんなさい。一人ではいられなくて」
昨日の一件がなかったら、ここで大人しく口をつぐみ、引き下がっていただろう。
リージェスは自分を嫌っている。
しかし、その理由を知っているだけで、嫌われている事実が辛くない。リレーネにとって初めての気付きだった。
「少しの間、そばにいたかったの」
「護衛は側仕えじゃない。いるのは別に構わんが静かにしててくれ。どうしてそんなに喋りたがるんだ」
「何も言わずにいる方がよほど変ですわ」
「あなたは――」
リージェスは珍しく口ごもり、その目をじっと見つめると、意外な事にリージェスの方から目を背けた。
「あなたは俺に腹が立たないのか?」
「どうしてですの? あなたは昨日、身を挺して私を守って下さったわ」
「それは……それは単にあなたを護衛するが俺の仕事だからだ、勘違いしないでくれ!」
「おい、あんまり大きな声を出すな」
ブレイズが、開きっぱなしの扉から地下室に入っていた。
「……傷が開いてるじゃねえか。どうした?」
リージェスは気まずそうに目を伏せ、右手で左の上腕を握った。白い服に血が広がり、右手も血の色に染まっていく。
「……何でもない」
「服脱ぎな。包帯換えてやる」
「いい、自分で――」
「うるせぇ、さっさと脱げバーカ」
リレーネは部屋を出て、タオルを借りて水で濡らした。タオルを絞って地下室に戻ると、ブレイズがリージェスの肩と腕の傷を消毒してやっているところだった。
火傷の痕を見てしまわぬよう、リージェスの正面に立ってタオルを差し出した。リージェスは無言で受け取り、手を拭いた。
すっかり包帯を取り換えた後、ブレイズは部屋から出て行かず、重い溜め息をついて告げた。
「昨日の避難民たちが、ここからほど近い町で拿捕された」
「まあ。皆さん、無事だったのかしら」
「問題はそこじゃねえ。捕らえられた避難民たちが、お前らと出会った件について黙っていると思うか」
リレーネは息詰まる心地となり、そっとリージェスを窺う。
彼の目には、先ほどまでの迷いも、気まずさも、動揺もない。強い光を宿し、静かにブレイズの話に、そして自分の思考に集中している。
「可能な限りの速さで、俺たちの仲間がこの町に向かっている。だが……」
「追っ手は。敵将校の名は?」
「イオルク・ハサだ。お嬢ちゃんの婚約者だよ」
リレーネは今度こそ血の気が引き、ブレイズのよくやけた顔を凝視する。
「お父様かしら。お父様が私を保護しろと」
「だったらいいけどな。普通に考えりゃ、あちらさんの第一の目的は敵の――南西領総督の手に『鍵』を渡さない事だろう。お嬢ちゃん、追っ手があんたに向けて発砲することは十分にあり得る」
「ですが、あの方は」
「婚約者だからってのは無しだぜ。それは平時の価値観だ。覚悟しな。逃げるんだ。あんたはもはや北方領総督の娘じゃない。総督の娘として持っているものなど、今となっては何一つないと自覚しろ」
「でも私は、――それでは私は何だと――」
「『鍵』だ」
リージェスが低い声で呟く。
「あなたは『鍵』だ。総督の娘ではなく、今も、この先も、『鍵』として存在するんだ」
ブレイズは何も言わなかった。
地上では、また少し、太陽が西に傾く。