9-1

文字数 4,416文字


 1.

 少年は南向きの大きな窓に触れる。窓はぐにゃりと形を変えて入り口を作る。翼の少女は怯えて、横座りのまま後ずさろうとした。百合の紋章が刻まれた銀メッキのペンダントが、指から滑り落ちる。
『巨大オシドリ女はどこだ』
 彼にとって、そしてこの時代の地球人にとって当たり前の言語で問いかける。が、少女は両目に恐怖を満たして少年を見るばかり。少女と言っても、幼い。まだ十にもなっていないだろう。
『答えろ。正直に答えれば何もしない。あの女はどこだ』
 少女からの反応はない。少年は悟る。アレには地球言語を解する器官がない。オシドリ女とは違うのだ。
「ひょあいおいおい!」巨大オシドリ「おんああおおあ!」女はどこだ。
 使えもしない肉体言語が喉を震わせ、迸る。少年は激昂した。少女が怯えてばかりいるからだ。これほどまでに意図が伝わらない経験は初めてだった。
 少年は足を上げ、その家の床を踏んだ。甲高い悲鳴が耳を刺した。日頃から喉を使っている生き物の、芯のある声だった。
「助けて! 助けて!」
 少女の、白い条線のある二の腕を掴んで引き、強引に立ち上がらせた。地球人の萎えた筋肉は、言語生命体の体の重みに悲鳴を上げる。
 通じない事を承知で、肉体語で怒鳴る。
 あの女はどこだ。オシドリに乗った女だよ。知ってるだろう。
 通じない。
 悲鳴を上げてもがく少女を、床に落とすように手放した。少女は泣き喚きながら、翼をたたんで部屋のドアに這ってゆく。
 ドアが開いていることに、少年は気付いた。
 翼の少女と同じくらいの歳の言語生命体たちが、廊下に集まっている。四、五人ほどで、どれも奇形種だ。
 金色の獣毛に包まれた二本の腕が、翼の少女に差しだされた。少女はそれに縋りついて泣く。
 妙な気配を感じて振り向いた。
 家の外、紫色の芝生の向こうに、ゆらゆらと魂を持たぬ肉体が立っている。
 言語共有場を介して操作するための地球人の人形、『うつし身』だ。
「お帰りいただけますか」獣毛の少女が猫科の瞳を向けて言う。「私たち、教会に行く時間なんです」

 魂を持たぬように見える。
 それほど、横たわるシンクルスの姿は生気がなく、痛々しかった。見ていると辛くなる。もともとの天真爛漫な気質を知っているから尚更だ。にもかかわらず、ロアング中佐は病室から出て行く気になれなかった。
 そばにいたかった。目を離したら死んでしまう。
 実際、ロアング中佐の息子は目を離したら死んだ。十歳だった。特別聡明でも愚かでもなかった。標準的な十歳だったように思う。彼は父親の嘘を見抜かなかった。それは彼が愚かだったからではない。大人になれなかったからだ。
「神官さんは槍を持っていてかっこいいね」
 オレー神官大将の生誕式典であった。
「神官になるか? お父さんは昔神官になりたかったんだ」
「どうしてならなかったの?」
「神官よりも、軍人になりたくなったんだ」
 息子は、父親の好きな物は大概好きだった。石とか。母親と瓜二つの目の形、顔の形、鼻の形、しかし間違いなく自分の息子だった。
 水晶など拾いに行かなければよかった。
 自分と父との間になかった交流を、自分と息子の間でやろうと彼は試みた。お前、自分の水晶が欲しくないか。そんなに石が好きなら、拾える場所に連れて行ってやろう。
 息子は喜んだ。
 鉱物標本から視線をはがし、翌日息子は服を着替えてともに山に入る。やれやれ、こいつ、これで今日から標本を見るために俺の部屋に入り浸るのをやめてくれるぞ。今にして思えば、入り浸らせておけばよかったのに。
 山は分け入れど分け入れど、柔らかい土と落ち葉、キノコなんかがあるばかりで、水晶はめっきり見当たらない。
「この辺じゃあ、めっきり見当たらなくなったなぁ。奥の方に行くか? ついて来れるか?」
「大丈夫だよ、お父さん」
 下流に向かって太くなる沢のせせらぎ。鳥の声。ご機嫌な息子の声と足音。
「昔はこの辺、ちょっと探せば落ちてたんだがなぁ」
 腰を屈め、路傍の草と落ち葉をかき分ける。
「石英ならゴロゴロあるんだが、水晶は……」
 返事がない。
「おい」
 姿もない。
 沢の音。鳥の声。無風。
 額と背中と脇の下に嫌な汗が噴き出てくる。
 息子を呼ぶ。誰も答えない。心臓が高鳴り、頭がくらくらし、悪夢の世界をかき分けるように、息子が立っていた場所を目指す。
 沢に向かって、誰かが足を滑らせたとしか思えぬ形で土が抉れている。
 傍らの木に手をつき、遥か下の沢を覗きこんで、中佐は記憶を失う。気が付いたら葬儀会場である。息子の葬儀? 冗談ではない。中佐は怒っている。うんざりしている。隣で妻が泣き叫んでいる。そういえばずっとこの声を聞いていた気がする。
 こんなにも人がいたら、息子が迷子になってしまう。そう思って探すが、派出神殿内のどこにも姿が見当たらない。息子はどこだ。時を経て、夢をかなえて、神官になったのだろうか。自分だけ時間に置いていかれたから、最近の記憶が曖昧なのだろうか。この神妙な面持ちの神官たちの中に、息子が紛れてはおるまいな。
 家に帰っても息子がいない。肉体が見当たらない。ない。息子の体は焼かれて小さくなってしまった。
 中佐は自室にこもる。
 日当たりの良い部屋。西の壁に置かれた鉱物標本戸棚。
 戸棚のひきだしを取り外し、ベッドに腰掛け、ひきだしを膝に乗せる。
 四十代のロアング中佐が、沈痛な面持ちで、歳の離れた戦友の病室でうなだれている。
 時を重ねて、三十代の彼は失意のままに水晶を見つめている。そして、水晶に閉じこめられた太古の水の中に、また別の時間を見出すことができるだろう。
「酔えないのね」
 隣に女が来て言う。
 この頃のアセル・ロアングと言えば、日ごと安酒場に出向いて酒をかっくらうよりほか楽しみのない、斜に構えた、冷めた目つきの士官学生である。
 南西領の士官学校は十五歳から入学できる。が、不良少年だったアセルはまず父親によってぶちこまれた更生機関を卒業しなければならなかったので、士官学校に入学できたのは十八歳になってからだ。
 十八歳といえば、南西領ではおおっぴらに酒を飲んでも許される年齢だ。彼が同期の友人とおおっぴらに酒を飲めるようになるまで、三年待たねばならない。
 かくて三年後、通いの酒場にその女が現れる。
「ああ、酔えないね。やってられんよ」
 下品な照りを放つ深紅のドレス。毛先だけ金にそめた褐色の長髪。胸元で、指先で、髪の中で光を放つ宝石。
 厚化粧。
 塗りたくった口紅。
 ダンスステージで踊り狂い、猥褻な喝采を浴びる女。宝石。汗。宝石。
「あんたのお友達って、お子様ばかりね」女はアセルを、彼の望むまま、自堕落な欲望へ誘う女神となる。「抜け出しましょうよ」
 アセルは娼婦まがいのこの女が、自分より年上であることを知る。娼婦の真似事をしている割に、機知に富み、豊かな教養を身につけていることを、ただ一度の逢瀬の間に知る。
 女は海軍将校の娘だった。
 ことの終わり、それを知る時に、アセルは遠くない将来、女の足の間を割って出てくる我が子の顔を予感する。母親譲りの目、顔、髪。
 生まれて来るけれど死んでしまう。
 声が聞こえる。
 薄曇りの光にも、零刻の鐘にも掻き消されず、やがて妻となる女の唇から迸る、愛にまつわる様々な嘘に上書きされることもなく、時を越えてアセルの妻は囁く。
「けれどあなたは涙一つさえ流しやしなかった」
 妻さえ消えた。目の前で横になっているのはシンクルスだ。他人だ。しかし、息子が生きていれば息子と同じ歳である、その事実がどれほど彼を他人の語義から遠ざけていることか。
「クルス」私は家族を残さず死んでゆく。「クルス」君はどうするんだ?
 額に触れてみた。相変わらず、火が燃えているように熱い。復讐の火に違いない。身一つで南西領に亡命してから今日まで、彼を突き動かしてきた火だ。
「クルス」、ミカルド・アーチャーの血は君の火の慟哭を慰める事ができたかね? クルス、神官将殿、逆だろう。切り裂かれた肉から迸る血は、君の火を更に焚きつけた。怨敵の亡骸を薪として、火は君自身をも蝕み始めた。違うかね?
 熱い。
 こうも高熱が下がらないのでは、死んでしまうのではないか。
 そうなる前に、この男の体から、復讐の火を取り出してみたい。この若者、この神官、この、誰かの息子を、意識を失っている内に抱きかかえて運んで行き、冷たい水の底におしつけてみてはどうだろう。復讐が消えるまで。この熱が消えるまで。この熱い息を吐き出さなくなるまで。
 やるがいい。しのぶ石から木の物語を彫り出すように、ラピスラズリの瑠璃色の闇から星を消し去るように、彼を殺す火を殺すために彼を殺す。
 やるがいい。さあ。今なら無防備だ。衣服が緩められている。詰襟の戦闘服の、その留め具が外された襟の間から、手を入れることができるだろう。首を絞めるに十分なほど襟が開いているだろう。そこから、火を燃え上がらせる酸素を絶つのだ。
 さあ!
 シンクルスが呻いた。閉じた瞼が弱弱しく痙攣する。
 ロアング中佐は、シンクルスの首に両手を伸ばした姿勢で我に返る。
 何故、そんな変な姿勢でいるのか、中佐はすぐには思い出せない。そして、自分のたくらみを思い出すのに十分な時間が経つまでそのままでいる。
 中佐は青ざめて手を下ろす。
 今のは夢だ。夢に違いない。
「神官将殿」
 耳もとで呼ぶ。点滴の針が刺された腕、その指先が動いた。無意識の反応だ。昏倒した状態から正常な眠りに移ったのなら、じきに目を覚ます。
 中佐は更に呼びかけようと思ったが、やめた。休ませておくべきだ……そして、目覚めた時にそばにいるのに相応しい人間は自分ではない。
「あなたは涙一つさえ流しやしなかった」
 水晶の中でロアング中佐が病室をあとにする。三十代のアセルは水晶を掌に載せて、まどろみの中にいる。
 泣けば、満足なのか。俺が取り乱していることがわかればせいせいするのか。お前の悲しみはそういう物か。
 一つの悲しみを、同じ悲しみ方で悲しむことができれば、妻と別れる事もなかった。
 なあ、おい。俺は、お前が俺を憎んでいると思っているが、誤解だろうか?
 お前は、俺がお前を疎んでいると思ってるだろう。
 それは誤解だ。
 実際に腹を痛めたお前と違って、俺なんか子供などどうでもいいと思ってたと、思っているのだろう。誤解なんだ
「では何故」
 眠る耳もとで妻は囁く。
「こんな石ころのために、子供を死なせて……」
 目を開く。妻はいない。確かに声がしたのに、妙な事だ。消えたのかもしれない。宝石を隠すために消えたのだ。


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