4-1

文字数 1,623文字


 1.

 あれから一日過ぎる。
 二日過ぎる。

 零刻(れいこく)。鐘が鳴る。
 一時。街はとっくに目覚めている。
 二時。兵士が見える。
 三時。アズレラが、部屋のカーテンを閉めに来る。

 四時。リレーネは考える。リージェスは言った。
「あなたは『鍵』だ。総督の娘ではなく、今も、この先も、『鍵』として存在するんだ」
『鍵』であることが、『鍵』として南西領に赴く事だけが、危機を迎えたアースフィアに対する自分の存在意義なのだ。
 北方領総督の娘としてできることが何かあったなら、リージェスは決してそんな言い方をしなかったはずだ。
 自分には『鍵』としての価値がある。
 生まれついての特性だ。何の努力の結果でもないし、褒美、まして罰として与えられたものでもない。しかしそれこそが、それだけが、自分の価値だという。
『鍵』として生まれさえしなければ、今この時を家族と共に過ごすことができたはずだ。
 五時。醜い傷を軍服の下に隠したリージェスが来て告げる。
「リレーネ、町を出る」
 リージェスは耐えた。
 評議会議長の息子として生まれた。ただそれだけで降りかかった過酷な試練に、彼は耐えた。
 リレーネは新しい靴に足を通す。
 ならば、私も耐えなければならない。

 2.

 道端に、食糧配給券の束が一冊落ちている。
 身なりの汚い、痩せた、灰色の髪の男が、酔いと不機嫌を撒き散らしながら路地をさまよい来る。
「おおっ」
 配給券の束が、充血して濁った男の目に留まる。震える足が行く先を定める。
 男が膝と腰を曲げ、配給券に手を伸ばしたとき、幼い少年がつむじ風のように男に突進した。少年は配給券を掠め取り、男を突き倒すと、速度を緩めることなくそのまま路地の向こうへ駆けてゆく。
 男は路地に尻もちをついたまま、狂ったように何か喚いている。しかし、舌が回らぬ男の言葉を誰も聞き取れない。
 大通りでは、イオルク・ハサの兵たちが、舗道を更に踏み固めて行く。町の時間を、囁き声を、傾きながらなお降り注ぐ太陽の光を、野菜の葉を、少し前まで鳩が石畳の隙間のパン屑を嘴で叩いていた音の名残を、軍靴の底で粉々に砕き、舗道になすりつけて行く。
 通りから、手配書が路地の砂をこすりながら男の手許に来る。
 手配書には、避難民たちの証言をもとに作成されたリージェスの似顔絵があるが似ていない。もっとも、リージェス本人がこの先手配書を目にする未来は来ないので、似ていないという感想を彼が抱く事もない。

 家の柵の内側で、ブレイズが二階を見上げる。窓辺に立つアズレラが、何気なく髪をかき上げる動作で合図を送る。
 ブレイズとリージェス、そしてリレーネが、その動作を合図に通用門から路地に飛び出す。路地を渡り、一つ向こうの区画へ行く、そのわずかな距離が果てしない旅路に思える。
 地下水路への扉にたどり着くと同時に、ブレイズが合鍵を差しこみ、リージェスを睨むような真剣な目で見た。
「道順は覚えてるな」
「右、右、中央、四回左に進んで最後を右だ」
 ブレイズは頷きもせず扉を開け放つ。リージェスが飛びこみ、リレーネはブレイズに背中を押されて飛びこみ、ブレイズだけ外に残って扉に鍵をかける。
「知らないって言ってるだろ!」
 悲鳴のような女の声。
「そんな奴ら、あたしらと関係あるわけないじゃないか。帰っておくれ。知らないったら知らないんだ」
 ブレイズは、少しだけ、声がする方を覗きこむ。そこに兵士の姿を見つけ、そっと家へと引き返す。
 民家の入り口で叫んでいる女の陰には、先ほど配給券を奪って走った青白い顔の少年がいる。
 兵士たちの陰で、酔った男が報復の恍惚に身をゆだねている。
 ついに兵士達が主婦を突き飛ばし、民家を荒らすべく押し入った。酔っ払いが邪悪な嘲笑を放つ。
 ブレイズには、彼が虚偽の通報をしたがためにもっと酷いめにあう未来が見える。


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