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文字数 11,037文字

 静まり返った管制室で、リレーネは呆然と椅子に座りこんでいる。さっきまで戦闘が行われていたとは信じられない。窓を染めていた火はすっかり(ぬぐ)い去られてしまったようだ。リージェスは隣で立ったままだ。シンクルスはというと、操作パネルの台に手をかけて、思いつめたような表情の横顔を見せていた。
 戦闘服にしみついた、死の気配を放つ血の滲みを見ていると、視線に気付いたシンクルスが振り向いた。目があうと、無理をしているとわかる笑顔を彼は作った。
「驚かせてしまっただろうか」
「……いいえ。痛くありませんの?」
「大丈夫だ。俺の血ではないからな」
 痛々しくなって目をそらすと、「カルナデルが呼んでいる」と、リージェスが小声で告げた。
 シンクルスが小型端末をマントの内側から取り出して、手近なデスクに置いた。
『クルスか』
「ああ」
『やったな』
「……ああ」
 友人同士の会話は短く、言い表せないものを含んでいた。
『……ロアング中佐のことは残念だった』
「中佐殿は最後までご立派な、勇敢な武人であった。俺の命は、俺の未来は、あの方が繋いでくれたものだ」
 未来が繋がれた。
 繋がれたのは、アースフィアの未来そのものだ。
 もうすぐ宇宙船が来る。
 太陽光を追うことができる。〈日没〉現象を観測し、対策を講じることが叶う。宇宙の終わりが避けられぬとしても、まだ生きる事はできる。
 もう、船は近いはずだ。
 リレーネは窓へと顔を上げた。
『行こうぜ、一緒に、宇宙へ――』
 閃光が窓と視界を塗り潰した。遅れて世界がその切り岸から奈落へ転落していくような轟音、そして衝撃が来た。
 窓が鳴っているのが、床が震えているのがわかる。驚いて立ち上がろうとし、転びかけて、誰かに抱きとめられた。
「伏せろ!」
 抱きとめたリージェスが鋭い声で叫んだ。リレーネは抱かれたまま、瞼の痛みに耐えて必死に瞬きをした。次に目を開けた時には何も見えない。全ての窓にシャッターが下りたからだと、誰かが扉を開けて、廊下の光を入れたからわかった。
「みんな、ゴーグルをして」ヴァンの声が聞こえた。「音声はダメだけど、映像が来てる」
 デスクに置かれた通信端末が、壁に映像を照射する。
 黒い、大きな針のような影が幾つも空から降りてくる。
 正体のわからぬそれは、天球儀の網をかいくぐって地面に迫っていた。
 更に高い所、天球儀の向こうに白い闇が広がる。何が起きているか理解する前に、天より降りくるものたちが一斉に、地に向けて光の線を放った。
 地上に火が広がった。
 天よりくるものたちの一部が、画面の端の、山脈を背に聳える塔の塊へと方向を変えた。その塔が何か、ということだけが、リレーネにわかることだった。この管制塔だ。
「退避する」
 シンクルスがごく冷静に指示した。
「リージェス、リレーネを連れて先に行くのだ。リンセル少尉、先ほどの耐爆倉庫へ二人を先導せよ。我々は後尾につく」
 兵も、銃士も、神官も、隠密部隊指揮官の指示に張り詰めた声で答えた。全身を悪寒に包まれ立ち尽くしていたリレーネも、その声によって気を持ち直すことができた。
 ヴァンが廊下に飛び出した。リージェスに促され、リレーネも続く。もはや敵兵は――人間の敵兵はいない。ただ走る事だけが必要だった。膝が震えてうまく走れない。
 別の塔へ続く渡り廊下は暗闇に満ちていた。窓の向こう、うっすらと映る自分の影の向こうに、リレーネは見た。
 天からくるものたちが、四肢を有しているのを。金属光沢を放つ肌を。二対の翼を生やしているのを。
 先ほどより更に強い衝撃が管制塔を襲った。恐怖の悲鳴を上げるリレーネを床に伏せさせ、リージェスが覆いかぶさる。後ろを守るシンクルス達が同様床に伏せるのが、気配でわかった。
 轟音を立てて背後の建物が崩れ去った。炎の気配が全身を舐める。起き上がりつつ振り向くと、そこに、いきなり外が見えた。渡り廊下が途切れ、夜に向かって垂れ下がった廊下の絨毯が風にはためいている。廊下が続いていた先、すなわち主塔の上部は消えていた。まだ避難していない人間が大勢いたはずだ。
「あれがうつし身というものか……」
 そう呟くシンクルスに意味を問う前に、リージェスに立ち上がらされ、飛ぶ機械たちの死角へと角を曲がった。
「あれが何か、わかるのですか」
 若い兵士が震える声で尋ねた。
「地球人の脳が発する信号を受けて動作する人形だ。あれは地上での戦闘に特化した型であろうな」
「地球人の? 地球人が戦列艦にいるのですか」
「それは考えられぬ。うつし身は言語生命体と地球人とを見分けられる。地球人たちが、言語生命体を掃滅せねばならぬ万一の場合を想定し――」
 再びの轟音と衝撃で、後ろの会話が掻き消された。
 明かりがともる廊下に出た。いきなり前を行くヴァンと兵士たちが、何かに邪魔されて立ち止まった。
「どこへ行く! 持ち場を放棄して逃げる気か?」
 ヨリス少佐の強行攻撃大隊の、二人の兵士だった。
「俺は強行攻撃大隊内特殊銃戦部隊のヴァンスベール・リンセル少尉、現在は通信連隊隠密工作部隊に同行し作戦行動中だ。『鍵』を避難させている。道を開けてくれ」
「『鍵』だと」
 四つの尖った目が刺さる。リージェスが無言で、庇うように立ちはだかった。
「……アレを呼んだのは、『鍵』か? その娘が呼んだのか?」
 憎悪のこもったその問いと同時に、追いついた後続の兵士が興奮した声でシンクルスに質問を重ねた。
「では、何故それが急に地上に攻撃を始めたのです?」
 シンクルスにはいずれの質問も聞こえていたようで、角を曲がってリレーネ達に追いつくやいなや、状況を把握した口ぶりで答えた。
「地上の火器やミサイルのレーダーに反応したのだろう。決して『鍵』たる者に非のあることではない」
「しかし、南東領〈言語の塔〉内部での戦闘は全面的に停止されていたのでは……」
「もしかしたら――近隣の山中で、武装組織が冷凍睡眠施設を襲撃していたはずです。そちらに反応したのでは」
 アズレラが言う。
 すると、その男ヨリス少佐が廊下の奥から歩いて来た。
「通してやれ」
 ヨリスの低い声を受けて、兵士は身を引いた。ヴァンはむしろ困惑した様子を見せ、代わりにリージェスがリレーネを連れて前に出た。
「メリルクロウ少尉」
「はい、ヨリス少佐」
「しっかりしろ」
「……はい」
 それだけだった。彼は戦闘にしか興味がない、という素振りで、護衛もつけずに来た廊下を引き返して行こうとする。
「ヨリス少佐、あなたはここに残るのですか」
「退避する必要はない」
 誰も撤退を命じる人間がいないからだ。また、ヨリス少佐にも大隊長として撤退を命じる気はない。ヨリスの背を見てリレーネは理解した。
 この廊下は守るから、早く行けと言っているのだ。
 言い表せぬ悔しさが胸中に広がった。叫び出したかった。ヴァンが、班の兵士たちが、続けてリージェスが、リレーネも、ばらばらと走り始めた。やがて激しい銃撃の音が、逃げても逃げても追ってきた。
 聞こえている。
 けれど静かだった。
 何故こんなに静かなのか、これほど神聖な静けさに意識が満たされているのか、リレーネは理解できない。
 エレベーターは動いていなかった。それを知るや、ヴァンはさらに主塔から離れた別の塔へと走り出す。
 窓のない、狭い筒のような廊下を渡りきって、膝の震えに耐えきれず転んだ。
「少尉! 非常に不安定ながら通信が復活しています! 独立戦車大隊第一中隊が応答を求めています」
 ヴァンの班の通信士が叫んだ。さすがに全員が肩で息をしている。地上階は近い。そう思いたかった。荒い息と共に唾を飲み、体中の悪寒を堪えた。カルナデルの部隊ではないか。
「こちら隠密工作部隊リリクレスト嬢護衛班のリンセル少尉、どうぞ」
『こちら独立戦車大隊第一中隊第一小隊ジョスリン・ミグ伍長であります! 我が中隊は消滅しました! 動ける戦車は一台もありません!』
 ミグ伍長の声は泣いていた。リージェスが慌てて口を挟んだ。
「消滅した? どういう事だ? 戦車は、他の部隊員はどうなった?」
『敵の攻撃を受けて――蒸発しました!』
 すると唐突に、通信が途切れた。塔の震動はいつしか絶え間ないものとなっている。
 最後に見たカルナデルの顔を思うも、唐突過ぎて、打ちひしがれることは愚か悲しむことさえできなかった。ミグ伍長の声はもう聞こえてこない。代わりに別の通信を拾った。
「師団長」
 今度はシンクルスが呼びかける。通信士が慌ただしく位置情報を交換する。
「用件のみ言う。私と合流しろ。以上だ」
 ちょうどそれを言った直後に通信が絶えた。シルヴェリアの位置が、彼女に報告していた耐爆倉庫に近い事を通信士が告げた。息が切れても、状況がわからなくても、走るしかなかった。
「あいつらの目的は何なんだ」
 と、リージェス。
「生き残りの地球人を探すために、言語生命体を皆殺しにするつもりであろう。地球人にとっては言語生命体が……もはや誇るべき技術の結晶などではない、ただアースフィアの住環境を維持するための装置でしかなかったとしても不思議はないのだ」
「アースフィアの住環境を維持するための? 何故」
「地球人が避けえぬ宇宙の終わりを予期していたとして、なす術はなく、それでも多少なりとも生の時を引き延ばそうと思うなら……住環境の整えられたアースフィアは彼らにどう見えるであろうか? その環境を千年維持してきた言語生命体を、言語崩壊によって跡形なく消し去れるとしたら、そなたが地球人であれば、自分と同胞が生き延びるためにどうする」
 リレーネは走るだけだ。目的地がどこにあるのかさえわからない。階段を段飛ばしで駆け降りる。
「だから、俺は以前に言った。何者がアースフィアに来ようともリレーネを守れと」
 階段が終わった。
 ヴァン達が唐突に、廊下の角に身を寄せた。風が吹いてくる。もうすぐ外だ。
 焼けた砂を踏む金属的な足音が、外を行き交っている。
「……ここまで来て」
 ヴァンが呻く。リレーネはリージェスを、シンクルスを、希望を求めて見た。
「もはや安全な経路などない」
「突破するか」
「いいや」
 シンクルスがマントの下の銃を抜き、一人ひとりの部下の顔を見つめた。神官たちはとうに覚悟を決めていた顔で銃を担ぎ直す。彼が何をしようとしているか、リレーネは予感した。
「シンクルス――」
「行け、メリルクロウ少尉。どれほどの間引きつけておれるかわからぬが、我らヨリスタルジェニカの神官は最後の一兵まで退かぬ。ロアング中佐より預かった兵たちも」
「クルスさん」
「希望だけは売り渡さぬ」
 リレーネは声を失って、ただ何度も首を横に振った。見開いた目でシンクルスの姿を記憶に焼き付ける、それしかできなかった。
 シンクルスは何事にも動じぬ微笑でリレーネの動揺を受け入れた。初めて出会った時、何故泣いているのだ、と彼は尋ねた。あの時と同じ表情で、彼は別れを告げようとしている。
「リレーネ、『鍵』の言語崩壊の進行が遅いのは、そなたも存知の通りだ。そなたは太陽の王国の夜を生きて越えられる可能性がある。生きてくれ……どうか、生きて、アースフィアの歴史の証人となってくれ」
 その視線が、今度はゆっくりと、隣のリージェスに移る。リージェスはゴーグルを外した。惜しむように二人は互いの目を見つめあった。
「約束は守る」
 リージェスが深く頷く。シンクルスはその一言で満足したようだった。もう一度、リレーネの目をまっすぐ覗きこんだ。
 それは、別れの言葉としてはいささか不思議な言であった。
「俺たちには時間がない。だから、時を超える」
 思わずマントを掴むと、シンクルスはリレーネの手をそっと両手で包みこみ、掴んだ手を離させた。
「また会おう、リレーネ、リージェス。次の宇宙で待っている」
 そう語りかける笑顔が、最後に見たシンクルスの顔となった。
「アズレラ、ブレイズ、すまぬが二人はこの先もリレーネに付き添ってくれ」
 マントを翻し、シンクルスも、彼が引き連れる神官も兵も、それきりリレーネに背中を向けた。
 リージェスに手首を掴まれた。別の出口へとヴァンが先導し、走る。後ろからアズレラとブレイズがついて来た。
 やがて後方から、激しい銃声と爆発音が聞こえてきた。
 小さな戸。その直前の曲がり角に身を寄せ、外を覗きこんだヴァンが静かに、来いと合図する。
 戸の外では、黒い機械人形たちが、シンクルスたちが戦っている方向へ吸い寄せられていくところだった。その身の丈はリレーネの倍はありそうだ。それが振り向かない内に、壁沿いに熱風吹き荒れる野外を移動する。
 吹き飛ばされたシャッターと、地下に続く坑道が見えた。四角い空間は下るにしたがい明るくなる。
 無人のシャトルに乗りこんだ。
 白い闇の中で、リレーネはシャトルの中の思いつめた顔の数を数えた。自分と、リージェス、ヴァン、ヴァンの班の兵士が二人、アズレラ、ブレイズ。宇宙港の敷地内に忍びこんだ時の、三分の一になっている。
「おい、しっかりしろよ」
 ブレイズがアズレラの耳に囁いた。
「何よ。しっかりしてるわよ。しっかりしてるって」
 答えるアズレラの声はいつものように気丈だが、飄々とした余裕がすっかり感じられなくなっていた。
「……しっかりしてるさ。私はあの方の最期を、ヨリスタルジェニカの神官たちに伝えなければ……」
 リージェスとヴァン達は、必死にシンクルスと交信を行おうとしていた。シンクルスの通信端末は破壊されていないようで、呼び出し中を告げる緑のランプが点滅し続けた。いつまでも。いつまでも誰も応じなかった。
 それが何を意味するか、わからぬはずがなかった。

 シャトルがたどり着いた場所は、暗かった。そう広い廊下ではない。壁の中で光る誘導板に従って廊下を曲がると、扉のない広間のような空間に行き当たった。
 そこは、明るさとうめきと血の臭いに満ちていた。
 兵士たちが床に横たわり、あるいは座りこみ、または壁にもたれかかっている。もはや自軍も敵軍もない。集められた負傷者たちの中には、すでに死んでいる者もいそうだ。不気味な囁きに満ちた空間だった。
 広間の反対側の廊下の暗がりからリアンセが姿を見せた。
「ご無事で何よりです。よくぞあの管制塔から……」
 合流すると、リアンセは軍人らしく、平静を装った顔で静かにそう言った。
「あなたこそ無事で何よりだ、ホーリーバーチ中尉。師団長はどちらに。合流しなければならない。ここはどこなんだ?」
「荷揚げ場です。師団長は地上階に。ここから近い建物に、かつて地球産の武器弾薬を保管していた耐爆倉庫があります。あそこなら『鍵』を保護できます」
「シンクルスと同じことをお考えか」
「シンクルス様はどちらへ」
「……戦死した」
 リアンセの顔の皮膚がさっと強張り、唇の端が片方ぴくりと動いた。彼女の体の底で激しい嵐が沸き起こるのが感じられた。
「了解しました」しかし、リアンセはあらゆる感情を声の凛々しさの下に隠して、恐らくはもっともシンクルスが望む言葉を告げた。「ただいまから、戦死したライトアロー正位神官将の副官として私が指揮権を引き継ぎます。あなた方はシンクルス様からあれが何か、聞いてはいませんか?」
「あれは、かつて地球人たちが脳から発する特殊な信号によって操作していた『うつし身』という人形です。今地上で暴れているのは戦闘用に特化された特殊な型です」
 この場に残る唯一の神官としてアズレラが答えた。
「『うつし身』たちは救助すべき地球人を捜しています。奴らは地球人の脳が発する信号を感知できますから――今の段階ではまだ、信号が感知されない場所に積極的に踏みこむ様子は見られませんが、邪魔な言語生命体は見つけ次第殺戮するでしょう。奴らにとって言語生命体は反乱者です」
「地球人がいつまでも、どこにも見当たらないとなれば、現在破壊を免れている場所にも侵入してくることが考えられるということですね」
「はい、そうです」
「……わかりました。総督閣下、あるいは南西領神官大将の軍団とは連絡が取れましたか?」
 それは、こちらが訊きたいことだった。
「……いいえ」
 リアンセは頷く。
「急いでください。うつし身たちの行動が次の段階に移る前に。見つからぬようお気をつけて」
「リアンセさん、あなたはどうなさるの?」
 自分が何かに耐えきれなくなりつつあると感じながら、リレーネは思い切って尋ねた。
「この場を守ります。行ってください」
 冷たい棘を声に含ませ、リアンセは突き放すように答えた。
 彼女は腹を立てているのだとわかった。シンクルスがリレーネを逃がすためにその身を犠牲にしたのだと、彼女はわかっているはずだ。そのリレーネが別れを惜しんでぐずぐずしているから、腹を立てているのだ。
「……わかりました。行きます」
 リアンセが、金色の瞳に憂いを湛えてリレーネを見た。
「さようなら、リアンセさん」
「ええ、さようなら。幸運を祈ります」
 暗い廊下へ。リアンセを振り返るまい。先導するヴァンの背中を、ほとんど睨むような眼でリレーネは見つめ続ける。振り向いたら泣いてしまう。泣いたら前が見えなくなる。
 階段を上り詰めた先で、南西領の兵士たちに会った。
「『鍵』が来たぞ!」
 一人が叫ぶ。そこは見通しの悪い、天井までの高さがある棚が並ぶ空間で、棚と棚の合間を縫って「鍵」、兵士たちのざわめきが広がった。
 ざわめきを受けて棚の間から駆け付けた、菫色の髪の銃士の姿を見て、「アイオラさん!」リレーネは叫んだ。アウィンも一緒だった。
「リレーネ! ヴァン、リージェス、あなたたちも無事で良かった」
「二人とも――」
 ヴァンが何か言いかけるのを、アウィンが遮った。
「気持ちは一緒だけどよ、ま、急ごうぜ。こっちだ。師団長が待ってる」
 リレーネ達は走り出す。シルヴェリアがいるならここが地上階のはずだが、窓がないためよくわからなかった。もっとも、窓がなく内部が見渡せないから、今までうつし身たちの目から守られていたのだろう。
「師団長! チェルナー上級大尉!」
 硝煙と、血の臭い、そして破壊されたうつし身の残骸が散乱する閉鎖された空間に、少数の兵を従えたシルヴェリアとユヴェンサが立っていた。壁にのめりこんだ銃弾が、さきほどここで行われた戦闘の激しさを物語っている。
「間に合ったか。シンクルスはどうしたえ」
 リレーネ達が首を振るのを見て、そうか、とだけシルヴェリアは応じた。
「耐爆倉庫に向かえと、ライトアロー正位神官将より命を受けております。場所は私が存じております。師団長――」
 ヴァンの言葉の途中で、上階から何かがぶつかるような震動が伝わり、床を揺らした。
「階段を床式のシャッターで封鎖したが、もう長くはもたぬな。わかっているなら行け、背後を守れる者が残っている内に」
 ユヴェンサが、軍靴を響かせて歩み寄り、リレーネの両肩に手を置いた。
「ひどい顔色だね」
「ユヴェンサさん、あなたはここに残りますの?」
「戦う人間が必要だ。うまくあいつらの目をかいくぐって、逃げるんだ。リージェスの言うことを聞くんだよ」
 目があった。
 ユヴェンサの決意が両目から流れこみ、駆け抜けてきた道に置き去りにしてきた感情をもう一度与えたかのように、リレーネの胸に激しい衝動をもたらした。リレーネはユヴェンサに抱きついた。
「嫌です!」
 背中に腕が回る。大柄な体に抱かれて、リレーネは溢れ出す涙でユヴェンサの軍服を濡らした。
「嫌です、もう嫌……もう知っている人が死ぬのは嫌!」
 ユヴェンサの掌が背中を撫で、軽く叩いた。リレーネの頭のてっぺんに、ユヴェンサは頬を寄せた。
「君は華奢だな、リレーネ……よくここまで来てくれた。よく我慢したね。よく頑張った」
 このままでいられたら。今、あいつらがアースフィアから引き揚げてくれたら。時間が止まったら。
 しかし、肩を掴むユヴェンサの手に、体を引き離された。
「だから……あともう少しの我慢だ。リレーネ、ここまで来た道のりを、自分自身で無駄にしてはいけない」
 リージェスがそっと手を引く。リレーネはユヴェンサを諦めなければならなかった。肩からユヴェンサの手が離れた。
「……ユヴェンサ、感謝している。あなたがどれほど俺を強くしてくれたことか」
「君を強くしたのはこの子だ、リージェス。この子を連れて行くんだ。命に代えて守り抜いてくれ、護衛銃士として。私の部下として」
「了解しました、チェルナー上級大尉」
 リレーネとリージェスが共に走り出す。合図を受けて、アウィンとアイオラが彼らについて行った。姿が見えなくなった時、上階の震動と破壊音が激しくなった。
 ユヴェンサは銃を構え直しながら、管制塔で戦い、先に逝った恋人を思った。敬愛する上官でもある、恋しい男を思った。
「マグダリス……ギィ」
 誰にも聞こえぬ声で呟きながら、彼を思い続けようとユヴェンサは決めていた。死ぬ時まで、肉体の目で敵を、心の目で彼を見つめていようと。
「こっち!」
 廊下の先で、追ってきたアイオラがリレーネ達に叫んだ。アイオラとアウィンが今通り過ぎた曲がり角に立って、違う道を指している。
 引き返し、そのまま今度はアイオラとアウィンが先頭になる。この廊下でも、明かりとなるものは壁の中で点る小さな誘導板だけだった。
 シャッターに行き当たった。アイオラが首に下ろしたゴーグルに手をかけ、しかし、装着する前に何かを思い直し、振り向いた。
「今の内に言っておくわ。リージェス、短い間だったけどありがとう。一緒に戦えてよかった」
 リージェスが返事をする前に、彼女はシャッターの操作パネルに触れた。微笑むアイオラの体越しに、風が入ってきた。
 先導するヴァンが弾丸のように飛び出していく。リレーネもリージェスに導かれて中庭に走り出た。
 嫌な予感を受けて振り返った。
 シャッターが閉じてゆく。シャッターの向こうにアイオラとアウィンの足が見え、そして、見えなくなった。
「立ち止まるな!」
 ブレイズに叱りつけられ、広い中庭を夢中で駆けた。
 ふと、夜の闇とは違う暗さを、頭上に感じた。
 中庭の上、四角く区切られた空にうつし身たちが浮いている。
 回廊へとリージェスに引きずりこまれた。
 閃光。
 うつし身たちの放った閃光が、土の上で深紅の炎となった。熱気が顔を煽る
「行って!」
 ヴァンが叫んだ。
「この先すぐだから! 一本道の廊下のエレベーターを降りて……あとは行けばわかるから!」
 何が起きているか、この先何が起きるのか、見ていられなかった。ただ、リージェスに手を掴まれたまま、ヴァンを追い抜き、回廊の先へと走った。
 これまで通ってきたのと同じ、誘導板のみが光る廊下。
 ヴァンは追って来なかった。班の二人の兵士も、ブレイズも、アズレラも、誰もついて来なかった。手首を掴むリージェスの力は痣ができそうなほど強かった。
 追いついて隣に並び、ゴーグルの中でリージェスが涙を流していることに気付いた。
 金属が床に叩きつけられるような音が、ずっと後ろで響く。
 続けてもう一度。
 足音だ。
 つま先から頭の先まで悪寒に包まれた。
 あの恐ろしい連中が、もうここまで迫ってきた。
 行き止まりにたどり着いた。エレベーターだ。リージェスがボタンを叩く。
 扉は開かない。
 リージェスはボタンを何度も何度も連打している。
 開かない。
 足音が廊下に反響しながら近付いてくる。
「開いて」
 リレーネは震えて祈った。
「開いて!」
 薄い扉が左右に分かれ、光が廊下に広がった。硬直していたリレーネはリージェスによってエレベーターに押しこめられた。
 恐怖が来る。黒い奴らが来る。
 今度はリレーネが内側のボタンを連打する。
 すると見えた。
 床から天井までをその大きな体で埋め尽くし、歩いてくるうつし身たちが。
 リージェスが銃口を上げた。
 目を閉じ、両耳を塞いで、リレーネは蹲った。
 エレベーターが動き出した。扉が閉まったのだ。リレーネは怯えながら目を開ける。その目に、床に飛び散る血が映った。
「……リージェスさん?」
 耳から手を離す。苦しげなうめき声が鼓膜を震わせた。
 リージェスは壁にもたれかかり、肩口をおさえて座りこんでいた。彼の体から飛び散った血が、天井を、床を、壁を赤黒く汚していた。
「リージェスさん!」
 駆け寄り、怪我をしていない方の肩に触れた。
「リージェスさん、リージェスさん!」
「……大丈夫だ……リレーネ……俺は、大丈夫……」
 声を振り絞るその間にも、あふれ出る血は止まらない。
 誰が彼を治せるだろう。誰が彼の血を止められるだろう。
 エレベーターが地の底に着いた。リレーネに肩を借り、廊下に出たリージェスは、そこで崩れ落ちるように膝をついた。
「リージェスさん……」
「先に行け、行けばすぐにわかるとヴァンは言――」
 言葉が、悲鳴を押し殺したうめきに変わる。それでもリージェスはなお堅く意志を示し、傷口から手を離して廊下の先の闇を指さした。
「リージェスさん」
「死なない」
 不意に強い視線を彼はくれた。
「死なない……あいつらが追って来れないように、エレベーターに細工をするだけだ。だから……死なない……約束するから行け!」
「約束ですわよ」
 もう、強引に手首を掴んででも、リレーネの意思に反してでも、リレーネを安全な場所に導いてくれる人間はいなかった。
 リレーネは、自分の意志でリージェスと別れなければならなかった。
「絶対に、絶対に約束ですわよ。死なないで……お願いですわ」
「ああ……約束だ」
「来て下さる? 必ず後で私の所に来て下さる?」
「必ず行く。待ってろ」
 リージェスは、膝を震わせながら立ち上がった。
 リレーネも立ち上がって、廊下の先に歩いて行く。
「リージェスさん」
 振り向いた。
 エレベーターの光を背に浴びながら、リージェスは濃い緑色の目でリレーネを見ていた。
「リージェスさん……」
 少し歩いて、また振り向いた。
 リージェスはまだいて、リレーネを見てくれていた。
「リージェスさん!」
 三度目に振り返った時、エレベーターの光はなく、リージェスはいなかった。

 その日、死の物質が世界中にばら撒かれた。
 言語子の働きを急激に促進させ、言語崩壊を起こさせるその物質は、天球儀、そして地上の天籃石を触媒に、アースフィア中に広められた。
 それは、冬眠した者、起きている者、生きている者、死んだ者、一切の別なく言語生命体たちの体を溶かした。
 天籃石のない闇の中で、リレーネは知る術もなかった。


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