◇4 恐怖体験──ヘーックションッ! コンチクショウ!

文字数 9,681文字

 コウスケは捻挫した足首をこねくり回してみた。少しばかり痛みはあるものの歩行には差し支えない。こんなに早く快方に向かうとは、湿布が効いたのかもしれない。
 早速ちゃぶ台の前に座り手鏡を覗いた。念入りにリーゼントを整えながら後ろを何度も振り返った。
「なにビクついてんだ? オレが怯えるこたねえ! まったく……」
 それでも警戒するに越したことはなかろう。
 ヤツは散歩に出た。鬼婆の居ぬ間に事をおさめる必要がある。コウスケは急いだ。
 身なりを整え──といってもお気に入りのブルージーンズと純白のTシャツの上に皮ジャンを羽織るだけのシンプルないでたちだが──慌てて玄関へ跳んだ。スニーカーを履き、ドアを開け左右を確認する。ヤツの姿はない。カギをかけ、バイクの元へすっ飛んで行く。息を切らしながらバイクの横で皮ジャンの内ポケットに指を忍ばせまさぐってみる。ジーンズの尻ポケットに手を突っ込む。財布しかない。前のポケットを引っ張り出してもベロンチョンと垂れ下がるだけだ。叩いて揉んでも埃しか出ない。キーはどこにもない。
「シマッタ!」
 ハッとしてつい叫んでしまった。
 ──キーは……
 ──バアさんのツナギのポケットにおさまっているはずだ!
 猛ダッシュで階段を駆け上り部屋に戻ると、窓際の婆さんの居座り続ける座布団の横に青いツナギは丸まって脱ぎ捨てられていた。急いでスニーカーを脱ぎ捨て、獲物に飛びかかった。
 躊躇なくそのポケットの中身を探る。右手で左の腰ポケットに手を突っ込んだら、指にひんやりとした硬い物が触れた。
 ──間違いねえ!
 ──バイクのキーだ!
 それを握って取り出そうとしても手を引き抜くことすらままならない。一旦手を開くとポケットの奥へとキーは滑り込んだ。焦ってつかもうとすればするほど却ってうまくいかない。
 ──落ち着け!
 呼吸を整え、己を鼓舞し、今度は手を代えてからもう一度チャレンジしてみる。ポケットに深く沈んだキーの先っちょを左手の人差し指と中指で摘まみ、ゆっくりと持ち上げる。途中危うく落としそうになったが、何とか堪えた。それでも外に出すことはできなかった。仕方なくツナギを畳に置き、右手でポケットの底部を固定すると同時に左の手首と肩も固定した。左腕を真っすぐ伸ばしたまま両膝を突き、上体を後ろに倒しながら肩を引くとようやくキーの姿を認めることができた。荒い呼吸を整え、一旦キーをツナギの上に置き、すかさずその先端を親指と人差し指で摘まみ直し空中に放り投げる。右の掌でキャッチしながら振り向き様立ち上がろうとしたら、左目の視界に何かの影が入ったので、その方向を見た途端、無情にも手からポロリとキーは零れ、ツナギの上に落ちてしまった。目を凝らすと、婆さんが玄関前に立ち塞がっていた。
「おめえ、なーに興奮してんだ? ハアハア言って……」
 婆さんは詰め寄る。「人の服あさって、変態か?」
 婆さんの視線が突き刺さる。と、己が左頬が引きつった。中腰のコウスケはそのまま後ずさってツナギの上に尻餅をついた。硬いキーの先端が尻に当たった。丁度尻の穴の真下だったから、もしパンツ一丁だったら桜田門に突き刺さっていたやもしれなかった。幸い厚いジーンズ生地で事故は免れホッとした。
 婆さんはコウスケとの距離を次第に詰めてくる。慌てて尻を浮かべてキーをつかむと、婆さんの前にそれをかざした。
「こ、これ……取りに……」
「バイクのキーでねえか。そうか、オラ、ツナギに入れっぱなしだったか?」
 小刻みに何度も頷く。
「ちょっと出かけようと……」
「あの娘、誘うのか?」
「そ、そう……」
「気ぃつけてな……」
 婆さんはコウスケの足元にバタンと座ると、そのまま仰向けになる。その顔に幾分正気がないようにも目に映ったが、コイツはその方が正常な人間に見えるのだと思った。
「影が消えやがった……どういうこった?」
 婆さんは何やらぼそっと口走ったが、その内容までは聞き取れなかった。
「ど、どうした?」
「なあ、お向かいさん、夕方すぎに帰んのか?」
「帰る」
「そうか……聞いてみねえとな……ラチあかねえ」
「バアさんよ。なーんか変だ」
 元気なく寝そべる角を抜かれた鬼の顔を真上から覗いてみた。うつろな目だ。
「うっとうしい顔見せるんでねえ、早よ行け!」
 その雄叫びに体を強張らせると、そっとその場を離れ、スニーカーに足を入れた。踵を踏んだまま外に出ようとしたら、背後でバサッと畳と衣服がこすれる音がして、振り返ると婆さんが胡坐をかいてうつろな目をこちらに向けている。お互いの視線が重なったので咄嗟に屈んだ。婆さんの視線はコウスケを追いかけてこない。それがかえって気色悪い。
「な、なんだ? どうした?」
 首を捻りつつ恐る恐る訊く。
「なしてだ? 分かんねえよなあ……」
「だから……なにが?」
「おめえ、いたのか?」
 婆さんの目が今度はコウスケをしっかりと捉えた。「窓から日差してるよな?」
 この部屋の路地側の窓は南向きで日当たりはいい。流しの上の小窓は北向きだから冷え冷えとしている。コウスケはそれを確認する。
「それが?」
「なんか、おかしかねえか?」
「ぜーんぜん」
「ま、こっちゃきてみろや」
 婆さんは手招きする。
 コウスケは躊躇ったが拒み続けることは叶わないことを知っている。悲しい性である。仕方なく靴を脱いで部屋の真ん中で立ち止まる。婆さんの傍までは近寄りたくはない。婆さんとは面と向かっているが、いつでも逃亡できるように心もち体を玄関の方へ向けておき、ジーンズの前ポケットに親指を突っ込んで多少左目線で婆さんを見下ろす。キーは右手にしっかりと握ったままだ。
「なんだ?」
「今、おめえの後ろに出てるよな?」
 尻をさすってみる。
「なにも出てねえ」
「ケツじゃねえ! 日が当たったら反対側になにができる?」
「また難しいことを……」
 吹っかけられた難題に思わず舌打ちする。
「黒いもんだ。なーんだ?」
「クロい? クロい、クロい……分かんねえな?」
「全く……これだ、これ!」
 婆さんは畳を掌で叩いた。
「畳?」
「バーカ、おめえの形に映ってるヤツだ!」
「なんだそれ? クロい……クロくてオレの形に……うつってる?」
 難題に、腕組みをして首を傾げ、考えるポーズだけは作った。脳ミソの回転はさておき、目ん玉だけを転がし続けた結果、運よく突然閃いた。「あっ、カゲだ! ピンポーン、正解!」
「おめえは一を聞いて十を知るって芸当はできねえよな。十を聞いてもかえって頭こんがらがるだけだもんな、呆れるぜ、まったくよお……」
「また数学の問題か……」
 コウスケはうな垂れる。
「うんにゃ、数学は関係ねえ。オラを、よーっく観察してみろや。なーんか気づかねえか?」
「んー?」
「おめえの後ろには影ができてるよな?」
「うん」
 後ろを振り返って薄ら映る己が影を見たあと、ついでに婆さんも見た。婆さんはじっとこちらをうかっがって微動だにしない。コウスケは息苦しくなり視線を逸らしリーゼントを整え始める。
「オラがバカだった。もうええ、行ってこいや」
「アッ!」
「なんだ、どうした?」
「帰ってきた。早かったな今日は……」
 首を動かしながらリーゼントを整えていたら、ふと向かいの部屋に人影を認めた。
 婆さんもコウスケの視線の先をよく見ようと機敏な動作で立ち上がり、窓際に寄って向かいの部屋を覗く。
「お向かいさん、もう帰ったのか?」
「そうらしいな。バイト終わったのか? さては負けやがったな……」
「負けた……だと……」
 婆さんは振り返って腑に落ちない表情を向けた。「どんなバイトしてんだ?」
「パチンコ」
「朝から一日中か?」
「そういうこと」
「はあ、ええご身分なこった。それで食ってんのか……だったら相当な腕だな……」
 婆さんは独りごちながら感心して頷く。「で、勝率は?」
「五分五分ってとこだ。ま、本人が言ってるだけだけどよ。オレの見立てじゃ、最近はめっきり負けが込んでやがるぜ、間違いねえ」
「で、勉強はいつしてんだ?」
「してるとこ見たこたねえよ」
「それで東大目指してんのか?」
「そういうこと。分からねえお人さ、まったくよお……」
「一種の天才か?」
「あれが天才……だと? さっきも言っただろう、受けた大学全滅だって」
「オラ、そこんとこが分かんねえ。東大目指してんのに勉強ができねえとは……」
 婆さんは腕組みして首を捻る。「まあ、単なる試験上手と……学問の頭は違うということか?」
「東大っつうのは、はったりじゃねえの? 勉強よりガラクタ作って金儲けしたいってさ、いつかそんなこと言ってたっけ……」
「ガラクタってなんだ?」
「詳しいこた知らねえけど、アッカンベーオヤジみたいに電球でもこさえてえんじゃねえのか?」
「電球はエジソンだ、あのポスターのオヤジじゃねえ。ヤツは相対……ヘーックション、コンチクショー!」
 婆さんは大きなクシャミでこちらを威嚇してきた。「──性理論だ」
「ヤツは、そうたい……ああ博多弁か。性理論? なーんだ、あのおっさん医者だったのか!」
「あの人、発明家か……なるほど、そういうことか! それなら、オツムは相当のもんでねえか、きっと」
「どうだか?」
 コウスケは肩を竦めた。
「そうか。したら、おめえは用済みだ。さっさと消えな」
「バアさんじゃあるまいし、化け物みてえに消えられるか!」
「ナニッ!」 
 婆さんは振り返って睨む。「また数学の問題解くか? カラーンコローン、試してみっか?」
 婆さんはじりじりと距離を縮めてくる。拳を握り締め息を吹きかけながら。
 コウスケは後ずさってスニーカーの上に足を乗せた。ドアを後ろ手に大きく開け、スニーカーを外に蹴り出した。自分も後ろ向きに玄関を出るとドアを閉めた。バタン、と比較的大きな音が響いてその音に驚くと、キーを口に咥え廊下に散らばったスニーカーをそれぞれ両手ですくい上げる。片方ずつ小脇に抱え爪先立ちで階下へと走った。階段を下りた所で、上目遣いに階上を見ながら慌ててスニーカーを履く。その間ずっと激しく打つ心臓の鼓動が鼓膜を振動させ続けた。追っ手の姿はない。それを確認するとバイクの傍へ急ぐ。口元からキーを右手に持ち替え、差し込んでメットを被り路地までバイクを転がす。気も急きながらシートにまたがりエンジンをかけると、バイクは滑り出す。やっとの思いで逃亡劇の幕は下りた。
「なんでオレが追い出されるんだ……オレ様の家じゃねえか!」
 アクセル全開に大声で悪態をつきながらトキの待つサンクチュアリとは逆方向へ巣籠もり線を南下した。ナナハンもコウスケの魂が乗り移ったかのように猛り狂っていた。

   *

 バイクは沿岸道路を唸り続けた。デートの予行演習である。風を切って走る心地よさをトキにも味わわせてやろうと己が心も躍り出す。
 しばらくたった一人のツーリングを楽しんだあと、灯台の傍にバイクを停め、メットを脱いで潮の香を胸いっぱい吸い込んだ。目の前には空と雲と海以外何もない。見えるものは遠く水平線の彼方に小さく浮かぶ漁船だけだった。空と海とが溶け合う境界に目線がある。
 バイクを降り、灯台を背にして腰を下ろした。
 その場所からしばらくぼんやりと眺めていると、海と空の只中に浮かんでいるような錯覚がする。この感覚が好きだ。雄大な海に抱かれると、何もかもどうでもいいじゃないか、と寛容な気持ちにもなれるのだ。
 ──しかし……?
 と自ずと疑問が湧く。
 ──いったいなにを企んでいるのか?
 胸騒ぎがしてならない。
 ふと、あの皺くちゃ顔が瞼の裏に浮かぶ。拳を握り締めると激しくかぶりを降り始めた。面影を振り落とそうとしても、いつも脳裏につきまとい、決して離れようとはしない。ババアの顔はたちまち頭の中に蔓延(はびこ)ってしまうのだ。気づけば思わず叫んでいた。
「ババア、テメエ、クタバリヤガレー!」
 ──忘れよう、忘れなければ、あんなケダモノの姿など。
 目を閉じて必死に頭から婆さんを追い出しにかかった。
 ──そうだ!
 ──トキの顔を思い浮かべればいい!
 そんで婆さんの代わりにトキの愛らしいあの顔に差し替えて完全に婆さんの面影を消し去ることに成功した。
「トキちゃん」
 呼びかけたら、トキが耳元で応えてくれた。
「なーに?」
 その声に静かに目を開けた。ハッとした。両の目をこすって瞬く。目の前に婆さんの顔が浮かんだような気がした。 
 ──いや錯覚だ。
 ──そんなはずはない。
 もう一度目を閉じ、トキの名を呼んでみる。パッと目を開ける。消えかかった婆さんの顔はトキの顔に……
 ──ババアのまんまだがや!
 ──そんなはずは絶対にあり得ない。
 もう一度同じ動作を繰り返す。
 ──気のせいだ!
 ──もう一度、もう一度……
 何度繰り返しても結果は同じだった。
 コウスケは念を込め目を閉じたあと、大声でトキの名を叫んだ。目を開ける。目の前にトキが微笑みかけていた。ホッと息をついて一旦俯くと真っすぐトキの方を見た。愛らしいトキの顔は一瞬で婆さんの顔に差し替わった。脊髄は頭蓋に突き刺さった。その瞬間後ろに倒れ込み、後頭部をコンクリートの土台に打ちつけた。脊髄は折れ、前屈みで頭をさすりながら顔をしかめると何度も思いっきり首を横に振った。鼓膜に「ウイーンウイーン……」と、何やら信号音のような異様な音が脳ミソから漏れてきた。婆さんにかけられた呪いのせいかもしれない。首を振るのをやめると音はおさまったが、クラッときた。
 ──もう一度トキを呼んでみよう。
 心を落ち着けて深呼吸を繰り返す。と、胸の奥につっかえた異物を吐き出すように力いっぱい一気に叫んだ。
「トキちゃーん!」
「あいよ!」
 巨大な酢ダコが現れた。口を尖らせ真っ赤な化け物が襲いかかる。
 コウスケは悲鳴を上げながら灯台の周りを四足動物よろしく這いずり回り始めた。二足歩行を試みても足腰が立たないのだ。追っ手から逃れること以外の思考は最早働かない。なりふりなんて構っちゃいられない。
 コウスケが静止できたのは、目の前に黒猫が現れ威嚇してきたからだ。
 ようやく我に返ると息を切らしていた。乱れた呼吸を整えようと息を吸い込んだら肩がヒクヒクと痙攣した。四つん這いの姿勢を崩しその場に正座した。辺りを見回すと左手に海原が見える。
「ここはどこ? オレは誰? なにをしている?」
 茫然自失して大海原の彼方を首だけを左に回して眺め続けた。ふと頭の中いっぱいに声が響いてきた。誰の声かは分からない。
「輪廻転生」
 コウスケは悟った。たとえ生まれ変わろうとも、婆さんからは決して自由になどなれないのだ、と。
 いつしか体はガタガタと震え出した。

   *

 怖ろしい体験をしてサンクチュアリに着いたら既に昼をすぎていた。
 店に入るとすぐにトキが傍にきて、
「一時までよ」
 と告げ、忙しなく店内を動き回る。
 混んだ店内を見渡し席を探した。今、紺のスーツを着たサラリーマンが立ったあとにすかさずその席に着く。傍を通ったウエイトレスを呼び止め、カレーを注文した。カレーだと左程待つ必要もないからだ。彼女は銀盆にほかの客の注文を載せたまま頷き、すぐにコウスケの前から消えて行った。
 別のウエイトレスがテーブルを片づけにやってくると、目の前に無造作に広がる食器類をコウスケ自ら幾つか盆に載せてやる。骨と尻尾だけになった鰺の干物の成れの果てが、皿から逃げかけたのをヒョイとすくい上げ一番上に置く。彼女は微笑んで「ありがとう」と言った。布巾でテーブルを拭きながら、幾分ポッチャリとふくよかな頬が揺れている。いかにも人の良さそうな女の子だ。見たところトキより歳下のようにも見えるが、この店ではトキが一番若いはずだ。歳を尋ねると、
「20歳はとうにすぎ、もうすぐ三十路なの」
 と顔をしかめておどけてみせる。
「オレより年下かと思った」
 真顔で喜ばせてやると、彼女は大声で笑いながら注文を聞いてきた。
「あの子に」
 さっきのウエイトレスを指差して既にカレーを注文したことを告げた。
「あたしとつき合うか?」
 彼女が去り際、尋ねてきたので、ドギマギしながら首を傾げると、
「女心をもてあそんだのか?」
 と態度を一変し、睨みながら顔を覗き込んできた。咄嗟にリーゼントをいじくり始める。彼女の鋭い目がコウスケのそれを捉える。コウスケは後ろに身を引きながら視線を外すこともできない。と、彼女は接近したお互いの顔の間に自分の左手を挟み込んだ。じっとその手を見つめる。何の変哲もない女性らしいふくよかな手だ。薬指に指輪が光るだけだ。その意味が全く分からない。彼女が急に手をのけるとコウスケの目の前でプウッと吹き出した。彼女は姿勢を正すと、豪快な高笑いを残しその場を離れて行った。
「オレ、気に障るようなことしたっけか? 女って分かんねえなあ……」
 コウスケは呟くと、彼女を目で追いながらしばらく首を捻り続けた。
 注文を受けたウエイトレスがカレーを運んでくると、大急ぎで腹ごしらえを済ませ、駐車場まですっ飛んだ。サンクチュアリの玄関付近に停めておいた愛車にまたがりエンジンをかけ、裏口が見える場所まで移動してトキを待った。
 トキは計ったように1時丁度に裏口から姿を現し、コウスケの元へ駆け寄った。トキはジーンズに黒の皮ジャンを羽織っていた。コウスケの胸は浮き立つ。ペアルックというもんだ。トキが意識して合わせてくれたに違いない。
 コウスケがメットを手渡し、前方を真っすぐ見たまま親指で後部座席を指すと、トキの両腕がコウスケの胴体を包み込んだ。コウスケの頬が緩む。唇からよだれが零れそうになったのを咄嗟にすすって阻止した。トキは一層コウスケの背中に体を押しつけてくる。一心不乱に背中に神経を集中し、二つの膨らみを感じ取るのに躍起になった。コウスケはそのまま微動だにしなくなった。
「コウスケさん、どうしたの?」
 トキが異変を察知したらしく声をかけてきた。
 ──心を見透かされたのか?
 コウスケはビクッとして、訝しんだ。
 ──まさか、それはあるまい……
 と確信すると胸を撫で下ろす。
 ニンマリしながらエンジンを吹かす。マシンの方もコウスケのスケベ魂が乗り移ったかのように下品な雄叫びを上げ、二人の密着した体を振動させた。
「行くよ、しっかりつかまって!」
 トキは尚一層腕を巻きつけ、コウスケの上半身を締めつけてきた。
 マシンは唸りを上げた。一瞬マシンが自分とトキの密着した体を引き離そうとする無情な力に抵抗すると、アクセルを全開にした。マシンは駐車場を左折して巣籠もり線を南へと路面を滑るように進んだ。
 背中にトキの温もりと息遣いを全身に受け止めながら、幸せな気分で沿岸の国道を目指した。
 トキは「キャーッ!」と小さく叫び声を上げる。
 左手に大海原を望み、しばらく潮風に身をさらしながら国道を西に向け、マシンを滑らせた。途中、例の灯台が見える場所ではスピードを上げ、真っすぐ前を向いてやり過ごすことができた。
 15分ほど走らせたあと、右折して再び街なかへ入る。ほどなくして正面に鳥居が見えてくる。その先に神社へ続く幅の広い長い石段が延びている。神社はこの丘の中腹辺りに位置する。石段の手前に頂上まで延びる狭い林道が口を開けている。躊躇なくマシンを左に倒し坂道を上る。木立が後方へ遠ざかって行った。ここは桜の名所だ。四月ともなると花見客でごった返すのだが、師走の寒空の中を訪れる者など滅多にいそうもない。
 曲がりくねった細い道を二分ほど上ると突然開けた場所に出た。マシンを停め、メットを脱いで冷たい空気を思い切り肺に充満させる。肺が締めつけられ少し苦しかった。まだトキはしがみついてその腕でコウスケの胴体を締めつけていた。コウスケが「エヘヘッ!」と振り向き様トキに笑いかけると、トキはゆっくりと腕を解いた。
 トキはバイクを降り、メットをコウスケに渡すと、誰もいない広場の端まで行き木柵の前で伸びをする。
 コウスケもあとからトキに従って、その横に立ち、下界の景色を望む。真昼の日差しにくっきりと冬枯れの街並みが浮かび上がる。思い切り伸びをしてもう一度息を吸い込むと、傍らに寄り添って立つトキの肩にそっと右腕を回し視線を送った。
 トキがコウスケの方へ顔を上げる。コウスケはトキを抱き寄せる。トキは一旦コウスケの胸に顔を埋め、すぐにコウスケを見上げた。コウスケはトキを抱き締めた。二人は密着したまましばらく見つめ合った。
 トキは目を閉じる。
 トキの両肩にそっと手を添え、もう一度街並みに視線を落としたあと、目を閉じて天を仰いだ。目を開け、ゆっくりとトキの唇に己がそれを寄せ、まさに重ねようとした瞬間だった。
「ん?」
 コウスケは激しく瞬きを繰り返す。掌で両方の瞼をこすって目を閉じ、また目を開けトキを見つめる。しばらくその動作を繰り返した。
「おめえ、なにやってんだ? 早くしねえか」
 婆さんの声が耳をつんざいた。
 トキは口を尖がらせ迫ってきた。
 コウスケは悲鳴を上げながら寸でのところでトキをかわした。後ずさりすると、足がもつれ地面に尻を打ちつけてしまった。目の前に婆さんの顔が迫ったからだ。思わずその場に正座して背筋を伸ばした。
「ごめんなさい」
「おめえ、なーに謝ってんだ?」
 目を凝らしてトキを見つめた。しかし、トキではなく婆さんだった。
「ババア、テメエ、クタバレ!」
 頭をかき毟りながら悪態をついた。すると、誰かの泣き声が聞こえてくる。声の方を見ると、トキが泣いていた。
「ヒドイわ!」
 コウスケは立ち上がりトキの傍へ寄った。
「トキちゃん、違う! ご、ごめん。トキちゃんのことじゃない……ないんだよ……」
 トキは顔を両手で覆って嗚咽する。その肩がヒクヒクと痙攣し始めた。
 コウスケは優しくトキの両手を取って自分の手で包み込み顔を覗いた。
「おめえ、ただじゃおかねえ!」
「ウエッ!」
 トキの手を力いっぱい放り投げた。
 ──いや違う。
 ──トキじゃない。
 ──今のは確かに婆さんだ!
「痛えでねえか! ひでえことしやがって……」
 咄嗟に婆さんの前から走り去っていた。
 遠巻きに婆さんの様子をうかがいながら恐る恐る近づいて顔を覗き込んでみる。トキだった。トキはしゃくり上げていた。トキは婆さんじゃなかった。トキはトキのままだった。ホッとして一つ溜息をついた。
 ──とうとう化け物に取り憑かれてしまった。
 恐れおののいた。
 ──今度、御払いに行こう、婆さんの呪いを解いてもらいに。
 コウスケは決心した。
「トキちゃん、ごめんよ。オレ疲れてるみたいなんだ……」
 優しくトキを宥めると、トキは涙で濡れた顔をコウスケに向けた。頬に涙の跡が二筋くっきりとついていた。そこだけ化粧が落ちてしまったのだ。
 ──意外と厚化粧だな……
 と感心しながらトキを見つめた。
 トキに微笑みかける。ようやくトキも笑顔を見せ始めた。もう一度トキの手を握り締めた。二人は見つめ合う。
 ──可憐だ!
 おしとやかなトキを見つめ、幸せな気持ちになる。トキはまた目を閉じた。
 ──今度こそ決めるぞ!
 コウスケは意気込んだ。静かに唇を寄せた。トキは鼻をピクピク動かし始めた。
「ヘーックションッ! コンチクショウ!」
 コウスケは思わずトキの手を放り投げた。
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