◆7 別れの予感──別れの場所を目指す二人

文字数 12,985文字

「ハテ、どうしたものか?」
 走りながら考えた。
 自分捜しの旅に慌てて出たけれど、当ても手立てもトンと見当がつかぬ。分からないなら考えるしかない。コウスケの姿はとうに見えなくなった。トキのアパートに行くと言った。が、アパートにいるはずがない。己のことは己自身がよく知っている。一旦立ち止まり、もう少し考えを巡らせてみる。
 ──そうだ、やっぱりアパートから始めてみよう!
 あの日の行動を順に辿れば思い出すかもしれない。これまでも大抵そうだったように。朱鷺はまた走り出した。線路沿いの道路を下り電車と競い合うかのように、西に二駅走り抜けた。
 15分足らずでトキのアパートの最寄駅を通過し、更に2分ほどでアパートの前に立ち、ベランダを見上げた。
 いっときして階段を上り、ドアの前に立ち尽くした。向かって右側は空き部屋で、左側の角部屋にはどこかの三流キャバレーのホステスが暮らしていた。
 廊下の手すり越しにアパートの裏手を見渡した。右はここと同じような木造二階建てアパート、左には木造平屋建ての一軒家が、トキの住むアパートとそれぞれ直角をなして、目下の狭苦しい土と砂利だらけの広場をコの字に取り囲むように建っている。広場は裏の砂利道と連絡しており、その先は1メートルほどの段差で落ち込み、畑が一面に広がる。定期的に耕運機で耕されていたものの、作物など栽培されておらず、子供らの格好の遊び場と化していた。正月ともなれば、凧揚げの子供達の湧き立つ声が風情をかき立てた。土の匂いがここまで漂ってくる。畑の向こうに小川を挟んで民家群が見える。左手遠方に望む高台には大学の鉄筋コンクリート造の学舎がそびえ立ち、街を見下ろす。高い建造物といえばそれだけだった。もう一度広場に視線を落とすと、隣の一軒家の物干し竿にかかるシーツの白が眩しかった。
 皆懐かしい。景色も時代のにおいも。何もかもここから始まったのだ。しばらく感傷に浸りながら風景に見入ってしまった。
「こうしちゃいられねえ!」
 我に返り、一声叫んで駆け出すと、階段の上に立った。「おっとっと!」と一歩踏み出しそうになって片足を宙に浮かせたまま急に方向転換した。
 ──大事な用件を忘れるところだった!
 ゆっくり奥の角部屋へと歩を進めた。
 ドアの前に立ち、呼鈴を鳴らす。中々出てこない。続け様に10回ほど鳴らしたら、ようやくドアは開き、寝起きの不機嫌な(まなこ)が朱鷺を睨みつける。
「ナニ! あんた、なんのつもり!」
「オラ、組織のもんだが……」
「組織! どこの組合よ、全くもう、こっちは疲れてんの! 押売はお断りよ!」
「オラの亭主……知らねえのかい?」
 ドスの利いた声で凄む。
「なんでアタイが……ちょっとおかしいんじゃない?」
 ふてぶてしい態度で欠伸をする。
「そんなはずは……ねえ!」
 俯いて目に力を込め、下から上へと視線を這わせながら怒鳴った。「この国の首領(ドン)だ!」
「この国の……ドン……? なんなのよ!」
「組織のドンだ」
「組織……? ドン……」
「この国のドンだ!」
 あんパンに三文判ほどの焼き鏝で三箇所押し当てたような目と口は中央に集まり、南京豆の殻を一回りだけ縮め、縦割りにして横向きに裏返した小鼻は顔のど真ん中から生えている。鼻の穴は小々天井を向く。
 ──メガネをかけた時、どこに引っかけるんだ?
 朱鷺は極端に低い鼻を心配してやった。
 顔の中央付近から放射状に広がる黒ゴマかケシの実はそばかすだ。普段厚化粧で隠された実体が今、露になる。 
 どこかに置き忘れてきたのか、目を凝らさないと見落としがちな産毛同然の眉根を寄せ、隣人は視線を一旦横に滑らせた。しかめっ面でこちらを見る。
 ──英国のチャーチルとて……
 ──睨めっこでは、この女にはお手上げだろう!
 朱鷺は、ふと、そんな風に思った。
「ドン……って?」
「そういうこった」
「まさか!」
 開いたか否か判断に苦しむ目を力いっぱい見開いているのか、狭い額に皺ができた。ようやく悟ったらしい。
「そういうこった」
「アアーン、どうしましょ、アタイったら、あ、あのう……アタイにどういう……ご用件で……ございましょうか?」
「孫娘が、あんたに……」
 穏やかな口調で途中まで言うと言葉を切った。
「ま、まご……孫娘……」
 隣人の喉が大きく上下してゴクリと鳴った。「い、いえ、お孫様……?」
「えれえ世話になっとるみてえで……」
「──と申しますと?」
 水かきのような手を胸に当てる。
「ほれ、隣の……」
 顎をしゃくってトキの部屋をさした。
「となり? あ、あの、もしかして……隣のお部屋でございましょうか?」
「そういうこった」
「エーッ! お隣のお嬢様が、お孫様ですと!?」
 牛蛙が吠えた。
「そういうこった」
「あ、あの、有名なお方の……でございますですでしょうね?」
 隣人の声にビブラートがかかる。
「わけあって、隣に住まわせてんだ。あんたには、ひとかたならぬ世話になっとるようで……」
 朱鷺は腕を組み、目を細め首を突き出す。
「い、いいえ。お、お世話だなんて……こ、こちらこそ、ご親切にして頂きましてです……」
 明らかに動揺が見て取れる。
「ええ娘じゃろう?」
「は、はい、それはもう、とっても!」
 隣人は揉み手をする。
 ──ウソつきやがれ、心にもねえことを、コノヤロー!
 心の中で叫ぶ。
「これからも、よろしく頼んだぜ、ええか?」
 あくまでも穏やかな口調で微笑んでやった。
「は、はいっ!」
「今日はな……」
 しばらく相手の顔を真顔で見つめる。と、片方の口角を持ち上げた。その場の空気を思い切り吸い込み、次の発声の準備に入る。
「今日は………? な、なんなりと……」
「お礼参りだー!」
 叫んだ拍子に入れ歯が外れそうになり、思わず右手で口元を押さえた。
「はっ、ははあーっ!」
 隣人は朱鷺の怒鳴り声に大きく一歩下がって、突然毬のような体を床板に弾ませ土下座してひれ伏した。「お、お見それ………致しやしたー!」
「ほんじゃ、ゆっくり休みな。あばよ!」
 ドアを思い切り閉めると、いっときしてまた開けた。
 あんパンよりも多少薄めの焼き色の顔が眼前に迫った。ツッカケを履いた背丈が丁度朱鷺と同じで、もう少しで鼻がこすれ合うところであった。
 隣人は後ずさり、玄関の段差に踵を引っかけて尻餅をつき、足を投げ出し後ろに倒れ込んだ。薄桃色のネグリジェの裾ははだけ、パンツを穿いたかぼちゃから巨大な二本の大根は天に向かって生育を始めた。しばらくして隣人は尻をさすりながらその場に正座した。朱鷺に愛想笑いをする。
 しゃがんで相手に目線を合わせると、ゆっくりと顔を近づけてみる。隣人の顔が次第に遠ざかる。朱鷺が動きを止めるとあんパンも静止した。
「な、なにか?」
「このことは他言無用。シーッ!」 
 人差し指を口に当て、キッと睨みを利かす。と、アルカイクスマイルで仏の慈悲を演出してやった。「ええな? さもなくば……」
「さ、さ、さも、さもさも、さもなくば……?」
 隣人はどういうわけか怯えた表情でこちらを見る。身体も小刻みに震え出す。
 表情を崩さず朱鷺は立ち上がった。隣人から視線を逸らさず後ずさりながらドアを尻で大きく押し開け、後ろ向きに外へ出ると、そっと閉めつつドアの隙間から隣人を覗く。
「ウーッ!」
 唸りながら腰辺りで右手人差し指と親指でピストルをこさえると、いきなりドアを大きく開けた。銃口をあんパンの中央部に向け構える。左目を瞑り照準を合わせた。「バーンッ!」
 一発で仕留めた。
「ギャーッ!」
 牛蛙の親玉は仰向けに倒れ込んだ。
 ──もう二度と、起き上がることはなかろう……
 朱鷺はドアを思い切り閉めた。
「これですっきりしたわいな、ワッハッハッ!」
 高笑いすると、アパートをあとにする。
 常日頃、何かと朱鷺を目の敵にした隣人だ。朱鷺が美人だからって嫌味なことばかりしてきたヤツだ。いつも負かされてきたのだ。
 ──だが、もう負けやしねえ!
 完膚無きまで叩きのめしてやった。
 ──これで安心して暮らせるだろう。
 いつか仕返しを、と心に秘めつつ暮らしていた。それが今ようやく果たせた喜びを噛み締めた。
「美人は辛え、(ねた)まれるんだなあ……」
 なーんて思いながら、一目散に駅へ直行した。

   *

 木造の駅舎が見えてくると、スピードを上げそのまま突っ込んだ。
 窓口で切符を買い、息を整えながら改札口を抜け、ホームに立つ。
 電車を待つ間、辺りをくまなく見渡してみる。木製ベンチに腰を下ろし、背中を背もたれに押しつけながら伸びをして天井を見上げた。当時と何ら変わったところはない。
 上り電車がホームに進入してくる。腰を上げ停まるのを待った。シューッと音がしてドアが開いた。だが足は動かず、ホームから車内を見つめたまま立ち尽くしてしまった。すぐにドアは閉まり、くすんだ薄桃色と茶の二色の車体が目の前から消えた。東島(さきしま)鉄道の昔のカラーだった。温もりのある色だ。変遷を繰り返し、現在は光沢のあるシルバーに定着した。たった今通りすぎた車体に比して冷たい感じの色だ、と朱鷺の瞼の裏には映った。
 朱鷺は、まだすぎ去った車体の残像を見つめていた。真っすぐ視線を向けていたら、ふと線路沿いに連なる看板の一枚に目が留まった。白地に手書きの黒い文字が浮き立つ。下部に小さく赤い字で電話番号も記されている。その真白な部分に、あの日あの時の光景の断片が自ずと浮かび上がる。時間をかけ記憶の糸を手繰り寄せ、断片同士をつなぎ合わせようともがき出した。
 突然地面が揺れた。連続して三度揺れ、地震はおさまった。左程大きな揺れではなかった。ホームの時計は丁度3時を指している。
 仕切り直して、もう一度あの日を呼び起こそうともがく。
 電車に乗り込んだら、いつもの車両の感じとは全く違っていた。木の床ではなかったし、油臭さもなかった。どこかモダンで真新しく艶やかな光沢のある明るい車内の風景に、外国にでも行った気分で心も浮き立っていた。
 鷹鳥駅に降り立った時、いつもの見慣れた風景とは一変していた。確かに車内アナウンスは「たかとりえき」と告げていたのに。ホームで駅名を確認しても間違いなかった。改札を抜けようとしたら、駅員の姿はなく何か妙な機械が切符を吸い込んでいた。どうしていいか分からず、前を行くスーツ姿のサラリーマンがやるように見よう見真似で切符を吸い込み口に入れ、「あっ」と声を上げ、驚きながら跳ぶように機械の横を抜けた。
 駅舎の外に出ると、行く先は定まっていた。なぜかは分からないが足は自ずとその方向へ進んだのだ。朱鷺は何かに導かれるように小高い丘に建つ民家の庭先に入った。不思議なことに、何がどこにあるか、その家の間取りまで全てが手に取るように分かった。
 庭からは仏壇が見える。窓は閉まっていた。隣の寝室へ足は向いた。窓は開いていて室内がよく見える。誰かがいた。老婆だ。
 ──なにをしているのだろう?
 椅子の上に立ち、首に白い物を巻きつけて……。
「キャーッ!」
 朱鷺はハッとして咄嗟に室内に上がり込むと、思わず叫んでいた。
 老婆はゆっくりとこちらを向き、バランスを崩しかけた。慌てて老婆を支えようとしたが、間に合わず、椅子は老婆の足元からすっ飛んでしまった。朱鷺は、老婆の身体を抱きかかえて助けようとした。
 記憶はそこで途切れている。次の瞬間、爺さんの顔が目の前に迫っていた。朱鷺は爺さんに抱きかかえられていたのだ。
 今、全てを思い出した。いつも車内でウトウトと居眠りしていたから、あの時もてっきり夢だとばかり思っていた。だが、夢ではなかったのだ。あの時、向こうの世界、つまり朱鷺が現在暮らす本来の時代に行った。
 ──恐らく電車の中で……
 ──ナニがナンでナンとやら、になってしまったのだろう!
 と朱鷺は仮説を立てた。
 向こうでお互い60センチメートルまで接近して飛ばされた。朱鷺は初めて爺さんと出会った日に。
 ──もう一方は……?
「あそこだ!」
 突然、朱鷺は我に返った。と、自分が目覚めた場所を目指そうと決心した。
 ──そうだ、コウスケも連れて行かねばなんねえ!
 ──まずは、コウスケの元へ急ごう……
 気づけば西日が顔を照らして眩しい。幾本もの電車が次々と通りすぎた。この駅で大分時を費やしてしまった。ホームの時計は既に4時半を回っていた。日に手をかざし目を細める。
 ──なにかがおかしい?
 手を動かしてみる。思わずハッとして下を向いた。
 ──影が!
 ──朱鷺の影が!!
 太陽とは逆方向にちゃんとできている。
 ──なるほど、今、ここには、この時代にはトキはいねえ!
 ──オラ自身しか存在してねえんだ!
 くっきりと浮かび上がった我が影を見つめた。今、自分はトキの影ではないのだ。
 後続の電車がホームに入ってきた。
 ドアが開くのと同時に乗り込むと、一度大きく深呼吸をした。ほんで、悟るのだった。
 ──別れは、もうすぐそこまできているんだ!
 電車は、別れの場所へ向けてゆっくりと加速して行った。

   *

 電車は我が街、鷹鳥町に戻ってきた。
 これからコウスケを連れてあの場所へ行かねばならぬ。
 これから先、どんな過酷な事態に巻き込まれるやもしれぬ。元の時代へ飛ぶとなると、体力の消耗も尋常ではないはずだ。スタミナをつけねばなるまい。まずは腹ごしらえだ。
 下車すると早速、鷹鳥駅前の八百屋で玉ネギとニンニクを一つずつ買い、その場で貪り食らう。だが、これだけでは到底足りぬ。ふと、駅前通りを挟んだ歩道橋の階段の陰に、焼きイモ屋のリヤカーが目に留まった。迷わず歩道橋を渡る。
 巨大なヤツを二つ選ぶと、両手に握り、走りながらテンポよく右、左と交互に食らいつく。と、ガスも勢いよく噴き出し、反動でリズミカルに足取りも軽くなる。結果、加速も自ずと増してゆく。
 朱鷺は自分が目覚めた時のことを今一度振り返ってみた。
 爺さんに抱きかかえられ、夢から覚めた。どういうわけか悲しかった。涙が止め処なく流れ落ちた。爺さんがどこか遠くへ行き、自分の前からいなくなるような不安に駆られた。それで朱鷺は、離してなるものか、と必死に爺さんの腕にしがみついたのだ。ようやく落ちついて爺さんに促されるまま表に出ると辺りはまだ明るく、爺さんは何度も首を傾げながら腕時計を覗いていた。朱鷺が時間を尋ねると、3時丁度だった。朱鷺はそこまでしか覚えていない。それまで感じたこともないような倦怠感と眠気に襲われた。気絶したのだと、あとから爺さんに聞いた。爺さんが背負って山を下り、アパートまで運んでくれたのだ。
 アパートに着くと一旦目覚め、ぼんやりする中、隣室の意地悪ホステスが意外にも親切に介抱してくれたことを改めて今思い出した。
 一晩、いや二晩だ。次に目覚めたのは翌々日の朝だった。目覚めた時、全てこの日の記憶は消え失せてしまったのだ。というより、夢としか認識していなかったのだ。爺さんも詳しくは話してくれなかったし、自分も爺さんをモノにした喜びで心が浮き立っていたから過去など振り返る余裕はなかった。未来しか見えていなかったのだ。
 頭の中を今、時の流れが一気に駆け巡った。
 ──しかし、3時だと?
  とうにすぎていた。朱鷺は考え続けた。
 ──ええい、めんどうだ!
 朱鷺が諦めかけた矢先、ふと、さっきの三度の地震を思い出した。かっきり3時だった。
「もしや、震源は鳥の巣山かもしれねえ?」
 直感的にそう思った。
 恐らく時空の裂け目が開いたのだ。そうに違いない。朱鷺は自分の都合のいいように解釈した。
 朱鷺は走った。みどり公園を突っ切り、メジロ石油へ飛び込むと、寺西にコウスケの行方を尋ねた。既に帰った、と寺西は言った。が、コウスケが帰宅するはずがないことは分かっている。今頃どこを捜しているのか。まずはトキの職場からコウスケを捜そうと考え、そちらへ急ぐ。
 一足違いでコウスケはサンクチュアリを既に出たあとだった。コウスケを知るウエイトレスによれば、コウスケは5時頃、この日三度目の来店でトキの消息を尋ねただけで店をあとにした、ガックリと肩を落として何だか寂しそうだったという。
 朱鷺はサンクチュアリを出ると、鷹鳥中央交番に飛び込んだ。船村が警戒態勢で朱鷺を迎えた。船村の鋭い視線が朱鷺を突き刺す。今は船村とのんびり遊んでやる暇はない。用件を早口で切り出すと、コウスケの行方は知らないがトキを捜し回っている、と言う。
「寝ぼけたこと抜かすんでねえ、そんなこと百も承知だ、バカヤロー!」
 と叫んで、たじたじの船村に背を向け交番を出た。交番の前で左右を交互に見て、クルリと身を翻し、船村を睨む。無言で右の親指で駅の方角を指す。人差し指で鳥の巣山方面を指す。朱鷺は視線だけで船村に圧力をかける。
 朱鷺の眼力に負けた船村の両腕が空中で泳いでいる。
 朱鷺は尚も大見得を切った。すると、やっと船村は首を傾げながら駅の方を指差した。もう一度親指でその方向を指し示して、こっちでいいのか、と目で合図を送る。と、船村は何度も頷いた。首の動きは、大柄な体躯に似合わず、まるで地べたを疾走する鳩のように小刻みで素早い。
 朱鷺は大きく頷くと、直立不動で敬礼した。船村も椅子から腰を浮かせながら敬礼を返す。
 朱鷺は一旦は交番を離れたが、すぐにまた顔だけを入口から覗かせ、船村に感謝の意を思い切りぶつけた。
「あんがとよー!」
 船村は椅子に座ろうとしたが、咄嗟に腰を浮かせ、机の縁に膝を引っかけて体勢を崩すと、バランスを失い体ごと沈んでしまった。そのまま椅子の縁に尻を掠め床に尻餅をついた。椅子は横滑りに壁にぶつかって止まった。
「アイターッ!」
 すかさず船村の傍まで歩み寄り、そっと帽子を取り、禿げ頭にくっきりと刻まれた傷を、もう一度心を込めて人差し指でなぞってやった。別れのひとかきだ。
 船村は呻きながら頭を抱える。
 朱鷺は自己流の別れの挨拶を交わして交番をあとにすると、鷹鳥駅方面へ走った。
 公園を抜けてしばらく走っていると、ふと、あの時の光景が再び蘇ってくる。一旦立ち止まり、鼻をクンクンと鳴らしてみる。
 ──なーんか臭う?
 あの場所、あの埃っぽい中で爺さんの方から臭いは放たれたような気がする。
 ──なんの臭いだ?
 最近どこかで嗅いだばかりだ。だから、あの時あの場所での朱鷺の鼻の記憶を呼び覚ましたのだ。それがどこだったのか、思い出せない。
「ハテ? ハテ、ハテ、ハテ、ハテ……?」
 朱鷺は左右の側頭部を両の掌で交互に軽く叩き始めた。グルグルと首を回しながら、バラバラになった記憶のピースをジグソーパズルのように一つひとつつなぎ合わせ、瞼の裏に映像を投影してみる。いっときして押入れの映像が浮かび上がった。
 ──どこの部屋だ?
 コウスケの部屋の押入れに頭を突っ込み、鼻を鳴らしてみる。湿ったかび臭さだけだ。ほかに何も臭わない。この部屋ではない。ブルブルとかぶりを振って、今の映像を振り落とした。もう一度同じことを試みる。押入れに関係あることは間違いない。息を潜めて玄関のドアを開けた。抜き足差し足でそっと足を踏み入れる。部屋の中央まで進み腰を下ろした。
 ──臭うぞ!
 ──この部屋に間違いない……なにが見える?
 ──窓、机、目覚まし時計……
 ──シャラクセー!    
 コウスケの部屋と同じだ。もう一度かぶりを振って整理した。今度は集中して部屋を見渡す。
 ──なにが見える? 
 朱鷺は唸り出す。しばらく唸り続けた。突然目の前に何かが立ちはだかった。
 ──今のはなんだ?
 思わず目を開けてしまった。また目を閉じ、今度は押入れを開けてみることにした。静かに襖を引く。中を覗く。真っ暗で何も見えない。集中力を高め、じっと暗闇に視線を送り続ける。次第に目が慣れてきた。
 

は突然全貌を露にした。それはコップを握り、液体を煽っている。人間ではない。
 ──猿だ!
 ──猿が人の真似をしている!
 ──猿が喋っている!
 ──猿が喋るはずはないのに……
 ──ハテ?
 ──なにか臭うぞ!
 鼻に神経を集中させる。今一度、側頭部を叩き、海馬と大脳皮質に埋もれた記憶を呼び起こし、鼻へ送り込む。朱鷺の脳に微弱電流が走った、ような気がして、新しい記憶と古い記憶が一致した。においは猿野の部屋の押入れから漂っていた。それがあの時あの場所で嗅いだ爺さんのにおいと同じだったのだ。
 ──そうか、猿野の密造酒の臭いか……
 ──ジイさん、酒飲んでやがったんだ! 
 これでコウスケを捜す場所は自ずと決まった。酒場しかない。この方向でよかったのだ。朱鷺はまた駅方面へ足を向けた。繁華街へ直行だ。脇目も振らず走った。風を切って走った。すれ違う人々が皆朱鷺を振り返った。感嘆する声に声。
「年寄りのくせに、なんという健脚だ」
 中年太りのサラリーマンが朱鷺を羨んだ。
 朱鷺は不健康極まりないサラリーマンを尻目に飲み屋という飲み屋を片っ端から制覇していった。
 コウスケを見つけ出すのは容易(たやす)い。青いヤツを捜せばいい。青いのを見つける度に襟首を引っつかみ顔を確かめた。
 ──明らかに違うかな?
 と思ったが、そいつもついでに血祭に上げてやることにした。
「なにしやがる! このババア!」
 横柄な態度のトドが、朱鷺の手を振り払い、立ち上がって迫った。
 朱鷺は腰の後ろに右手を隠し、むすんでひらいてを何度か繰り返した。ギュッと拳を握り締め、人差し指と中指を伸ばした。片方の口角を持ち上げ一瞬だけ笑って真顔に戻る。己の顔の前で相手に

は見せず、手の甲を見せる。それをクルリと裏返し、勝利のVサインを送った。
 トドは尚も迫ってくる。はだけた青シャツの胸元から、肌に直接描かれた絵画が覗いた。
 ──鱗のつもりか?
 狙いをつけると、素早い動作でトドの目ん玉めがけ、ピースサインを見舞ってやった。
 平和の訪れは近い。トドは両目を手で押さえ、もがいた。すかさずトドの右袖を己が左手でつかみ、ズボンのベルトを右手で握り締め、トドの股に右足を潜らせると同時に己が足を思い切り天に突き上げながら、つかんだ相手の右袖を引く。トドの腰を吊り上げ、肩にトドの出っ張った、カラスミでも身篭っているのか、と見紛うほどの立派な腹辺りを乗せ、自分もそのまま前向きに床すれすれまでお辞儀すると、トドは自然と床に叩きつけられた。と、朱鷺も一回転して、倒れたトドの腹の上に乗った。朱鷺はすぐに立ち上がり、トドを見下ろした。
「いっぽん!」
 誰かが叫んだ。
 朱鷺はその声に高々とピースサインを掲げた。この店にも平和がもたらされた。
 店内から拍手喝采の嵐が巻き起こる。
「痛えよう……」
 朱鷺の足元に転がるトドの口から異様な音が漏れた。
「黙らっしゃい! みっともねえ声出すんでねえ!」
 コイツが何をしたかったのか、朱鷺には全く理解不能だ。“トドの詰まり”、ボラの親玉は泣き言を口走っただけなのだ。
 朱鷺はその店をあとにした。店を出てもまだ拍手は鳴り止まなかった。
 これで駅前の飲み屋は全て制覇した。辺りは薄暗くなっていた。朱鷺はまた考える。
 ──どこで飲んでる?
 ──酒を出す店と言えば……? 
 初冬の冷たい風が頬を突き刺した。さっきの運動で少々汗ばんだ体に心地いい。背を丸めながら歩く人々の姿が目に映った。
 ──そうか、寒いのか!
 ──この季節の定番……
 ──コウスケが、よく通い詰めた店と言えば……
「さよなら三角またきて四角、満々満月口開けて一杯やって行きませう」
 標語を口ずさみながら脳ミソの神経回路がつながった。コンニャクの三角、はんぺんの四角、大根の丸……。
 ──間違いねえ!
 自ずと足はそちらへ向かってフル回転した。

   *

 巣籠もり線を鳥の巣山方面へメジロ石油の二軒先の空地に屋台は出ていた。おでんのいい匂いが漂っている。コウスケの後姿が見える。その背後にそっと近づいた。
「おやじ、もう一本つけてくんな」
 コウスケは空の徳利を摘まんで目の前で揺する。「コンニャク、はんぺん、それと……大根」
「へーい」
 どこもかしこも角ばった大将の低い声が木霊のように朱鷺の耳に届いた。
 コウスケのツナギの襟首をつかむと力の限り手前に引き下ろした。コウスケの尻が長椅子の手前の角ばった石ころだらけの地面に落ちた。両足は長椅子の上に引っかけたままだ。
「イッテーし……コノヤロー!」
 大将が目をまん丸にしてこちらを見る。
「大将、(ひや)でオラにもくれ」
「ヘ、ヘー……ただいま……」
 大将からコップ酒を受け取ると、一気に喉の奥へ流し込み渇きを潤した。コップを置いてコウスケを見下ろす。コウスケは悲しい目でこちらを見上げた。
「なにしにきた?」
「行くぞ、立て!」
 コウスケのツナギの袖をつかまえ、立たせようとした。だが、コウスケは朱鷺の手を振り解いて拒んだ。
「どこへ?」
「おめえ、贈り物渡すんでねえのか?」
「フラれたのにか? フンッ、終わったんだ!」
「なに言ってんだ! なにが終わった!」
「オレ、トキちゃんに嫌われたみてえだ。なんでかな……?」
「なに言ってる。そんなこと……」
「だってよ、あれほど言ったのに。今日必ず渡すって……楽しみにしてるって……トキちゃん。なのに、なのによぉ……」
 コウスケはガックリと肩を落とした。
「ええから、ついてこい!」
「どこへ?」
「あの娘のいるとこに決まってんだろうが!」
「エッ! バアさん、トキちゃんの居場所知ってんの?」
「おめえを待ってる」
「どこ、どこ、どこで?」
「くれば分かる。おめえ持ってんだろうな? 見せてみろ」
 コウスケはツナギのポケットに手を突っ込むと、指輪の箱を差し出した。朱鷺はそれを手に取り蓋を開ける。
「大したもんだ。おめえは器用だな。ほか探してもどこにもねえ代物だ! オラ、とっても嬉しいんだ」
「バアさんに喜んでもらってもなあ……」
「あの娘も大喜びだ」
「そうかな?」
「そうだとも、こんな心のこもった贈り物だ。大好きな男からの初めてのプレゼントだ。喜ばねえわけねえ!」
「でもよ……」
「えーい、シャラクセー! つべこべぬかしてねえで、ついてこい!」
 コウスケはまだ立ち上がろうともしないので、苛立ち始めた朱鷺は箱の蓋を閉じ、モンペの右のポケットに仕舞い、息を思い切り吸い込んだ。「立て! おめえ、玉、引っこ抜くぞ!」
 朱鷺が叫び終わった時、上下とも入れ歯が飛び出して情けなくしょぼくれるコウスケの額に喝を入れた。
「イッテーし……」
 コウスケは額をさすりながら地面に落ちた入れ歯を睨む。「噛みつきやがったな!」
 コウスケの煮え切らぬ態度に無性に腹立たしくなった。俯いて散らばった入れ歯をそれぞれ拾い、上下を揃えモンペの左ポケットに突っ込んだ。
 魂を抜かれたカベチョロ野郎のツナギの襟首をつかんだら、引きずってその場を去ろうとすると、コウスケの両足が長椅子から勢いよく地面に落ち、踵を打ちつけた。しかめっ面のコウスケにはお構いなしに強引に引きずり回す。ガリガリと尻と地面がこすれる音が耳障りだ。
「あっ、ちょっと……お客さんお客さん!」
 不意に大将の声だけが追いかけてきた。
「なんだ!」
 朱鷺は振り返って大将を睨んだ。
「あ、あのう……お勘定を……へえ」
 大将は愛想を振りまいている。
「あんた、男だよな?」
「ええ、まあ」
「察してくれ! 今、そんな場合か? 勘定がどうのこうのって……」
「はあ……でも……」
「細けえこと言うもんでねえ! あんた、嫌われるぞ。商売っつうのは、信用が第一だ、な? 信用なくしたら商売あがったりだ。分かるよな?」
「はあ、ごもっとも……」
 大将は愛想笑いをしながら頭をかく。
「オラの言うこと復唱してみな」
 朱鷺は体ごと大将に向き直った。「勘定は要らん!」
「エッ、エエッ! そ、そのう……」
 二人は屋台を挟み対峙する。
「で、どうする!」
 朱鷺は凄む。
「あ、あのう……かんじょう……」
「要らん!」
 大将の気持ちを察して代弁してやった。「そうか、それでこそ男だ! あんたは偉い!」
「い、いやあ、どうも……」
 大将は頭をかきかき満足げに微笑んでくれる。「おかんじょうは……?」
「あんがとよ、達者でやんな」
「おやじ、悪いな。サービスしてもらって……」
 大将はいっとき狐につままれた顔で瞬きを繰り返した。
「えーい、ヤケクソだい! 持ってけ泥棒!」
 さすが、この人は男の中の男であった。朱鷺は感服した。折角の好意を無にしたのでは人として恥というもの。バチでも当たったら事だ。ならば、感謝を込めて、
「そうですかい」
 と一言放ち、快く受けてやる決意をした。
 屋台に近寄ると、竹串を摘まんで身を乗り出し、大将に手渡す。
「大根、がんも、玉子、こんにゃく。早くしねえか、こっちは忙しいんだ」
 朱鷺が自分の好みの具を並べ立てると、大将は渋い苦みばしった表情で従う。
「まいど……」
 大将は仕事を終え、そう言うと何度も首を傾げた。
「あんた、気前がええんだなあ、そんじゃ遠慮なく……」
 感心して大将を見つめながらもう一本串を差し出した。「同じでええよ」
 大将は体を大きくビクッと震わせた。
 ──冷え込んできたせいだ!
 と朱鷺は見た。
「ほれ、おめえの分だ」
 大将から串に刺さったおでんを受け取るとコウスケに差し出す。
「あんがと」
 コウスケはようやく立ち上がって串を受け取り、口をつけた。
 朱鷺も瞬く間に平らげると、コップを取り大将に差し出す。無言のまま大将に熱い眼差しを送り続ける。と、大将は一升瓶を傾けてなみなみと日本酒を注いでくれた。一気飲みしてコップを置くと、手刀を切って大将に礼を尽くす。
「馳走になった、あんがとさん」
 朱鷺はクルリと大将に踵を返した。
「すまねえな、またくるぜ」
 コウスケも礼を言った。
 朱鷺は顎をしゃくってコウスケを促し、歩き出す。振り返ると、コウスケも朱鷺のあとに従う。
「おめえ、ええ屋台見つけたな」
「だろう。へへへ……それで?」
「なんだ?」
「どこへ行くんだ?」
「オラのいる場所だ!」
「ここか?」
 コウスケは辺りを見回し始めた。「トキちゃん、どこにいる?」
「違う、シャラクセー! 黙ってついてこい、このボケ!」
「ボケてんのは、そっち……」
「なんか言ったか?」
「い、いいや、別に……へへへ……」
「そんならええ、ヘヘヘ……」
 朱鷺はしゃがみ込んで靴紐を結び直す。
「どうした、解けたのか?」
 コウスケは前に立ち、こちらを覗く。相手が油断した隙を衝いてコウスケのまたぐらに手を伸ばすとギュッと握り締める。
「オラ、ボケてねえ!」
「マイッタ!」
 朱鷺は握ったまま立ち上がり、ゆっくり力を緩めた。
「バカチン!」
「きったねえ、不意を()きやがって、バカチンじゃねえ!」
「もいっぺんどうだ? 今度は目一杯力込めてやるぞ」
「い、いいえ、結構……」
「そんなら黙ってついてこい!」
「は、はーい……」
 二人はまた歩き出した。
 朱鷺は背中にコウスケの息遣いを聞きながら、一歩踏み出す毎に胸が締めつけられる思いを堪えて足を速めた。
 西の空に夕焼けが赤々と燃えていた。
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