◆23 60センチメートルの法則──一番ええ関係を保てる!
文字数 7,150文字
「ラベンダーか? オラ、なんもにおわなかったぞ……」
読了後、欠伸をしながら仰向けになった。快晴だ。秋空が目にしみる。日は既に高く、窓際に浅く差し込んでくる日差しが眩しくて、大きなくしゃみが出た。鼻をクシュンと指で擦 りながらまた欠伸をした。左の目尻から涙が一粒零れ、耳の中に入り込んだ。耳に指を突っ込んでかき回したのち、思い切り伸びをした。開け放たれた窓から吹き込む昼下がりの秋風が心地いい。
気がつくと辺りは真っ暗で、空には星が瞬いていた。冷たい風が頬を刺してくる。朱鷺はブルッと身を震わせると、横向きに膝を抱えた。
──ここはどこだ?
──今度はどこに飛ばされたのか?
心の中で呟いて上体を起こした。
しばらく辺りを見渡しながら頭を捻るうちに、眠っていたことにようやく気づいた。目覚まし時計は、もうすぐ9時だ。そろそろコウスケが帰る時刻だった。ひんやりとした外気に身を縮めながら立ち上がると窓を閉め、玄関先で帰りを待つことにした。暗闇の中、ドアの前に膝を抱え、じっと正面を向いて自分が辿ってきた道のりを振り返ってみる。
どうして遥々 こんな所まで飛ばされたかは分からない。が、己の恋の結末を見届ける義務がある。
──うんにゃ、そうでねえ。
──決着をつけるのだ!
あのフラフラと風船のように行方の定まらぬコウスケを自分に振り向かせる。いかなる手段を使ってもそう仕向ける。それがこの時代に自分が存在する意義かもしれない、と朱鷺は結論づけた。
──でねえと……未来はねえ!
朱鷺の種族は完全に絶滅の一途を辿るしか道はなくなるのだ。
耳を澄ました。遠くで足音が聞こえたような気がしたのだ。
──間違いねえ!
足音は一瞬途絶えてから小さくなり、ゆっくりと近づいてくる。
ドアの前で止まった。
しばらく何の振動も伝わってこない。朱鷺はドアの向こうの気配に睨みを利かす。と、かさこそと、何かを探る微かな衣擦れを鼓膜は捉えた。鍵穴に何かが差し込まれる音がしてガチャガチャやったあと、鍵穴から何かを引き抜く音。何れも音を立てぬよう息を殺し、細心の注意で行動しているようだ。なれど微細振動すら朱鷺の感覚器官は感知した。その場の空気を読んで解析し、行動を予測する。
朱鷺は耳をそばだて数を数える。ドアノブが回転して止まるまで30まで数えた。ゆっくり数えたので、30秒以上はかかっただろう。
ドアが開き始める。
──1、2、3、……、30。
白いスニーカーの爪先が覗いた。次にブルーのジーンズ。のっそりと滑り込んでくる。ドアが静かに閉まる。ドアノブを握る手がゆっくりと回った。
朱鷺は暗闇に慣れた目で様子を探った。
侵入者は部屋の中をうかがっているようだ。しばらく部屋を見回したあと、こちらに背を向け座り込んだ。
朱鷺は気づかれぬようにそっと立ち上がって、忍び足で部屋の中央まで行き、二股ソケットの裸電球に手を伸ばし、静かに回して明かりを点けると、素早い動作で侵入者の背後に立った。
「うっ!」
侵入者は振り向き様、低い呻き声を上げた。
「ヒーヤーハーマタコンネー……ハッ!」
ガタガタと入れ歯を鳴らす。
「ウワアーッ!」
ヤツは悲鳴を上げ、こちら向きに体を捻りながら立ち上がろうとした。左足のスニーカーのひもを右手で握ったままだったので、左足が浮き、右足だけで後ずさると、そのままドアを尻で押し開け、後ろ向きに転がり出た。ドアは完全には閉まっていなかったようだ。廊下の手すりの格子の間に左足を引っかけ、股の隙間から顔を覗かせた。右手はまだひもを握ったままだった。
「おめえ、笑わせやがって……」
「バ、バッカヤロー! ビックリするだろうが!」
「オラ、てっきり泥棒かと……あんまりコソコソしてんだもの……」
朱鷺はゲラゲラ笑いながらコウスケを見下ろした。「おめえ、自分の家に泥棒に入るつもりだったのか?」
「チェッ!」
「早く入れ。人に見られるぞ。まあ、恥ずかしい格好だこと……」
「助けろ!」
「人を頼るんでねえ」
「薄情者!」
「手、離せや。ほれ、靴ひもつかんでる方だ」
コウスケはひもを離すと、左足を両手で握って格子の隙間から外した。ストンと廊下のモルタル床に踵は叩きつけられ、顔をしかめる。立ち上がるとムスッとした顔で部屋へ入った。
朱鷺はその光景を眺めながら、腹が痛くなるほど大笑いする。
*
「最初は? そうだ、サンクチュアリでオラとぶつかりそうになって……その次もだ。なしてだ?」
朱鷺は首を捻る。「待てよ、そうか! 自分とは接触できねえんだ。宇宙がなくなっちまう。なーるほど……ラベンダーは関係ねえ。あれはフィクションだからな」
「さっきからなにブツクサ言ってる?」
コウスケはちゃぶ台の向こうから訝 しげにこっちをうかがってきた。
「バッカ・トー・チャン・ヒーチャンよ」
「ん、中国語か?」
「おめえ、心理学の勉強……したこたねえな。聞いたオラがバカだった」
「ほほう、バカだって認めたな」
「バカはおめえのオツムよ。ま、そんなこたあ、どうでもええ。今に始まったわけでねえしな」
「ほっとけ!」
「60センチメートルの法則。60だ!」
「なんだ?」
「ええか、人はな60センチメートルの距離が一番ええ関係を保てるのさ。それ以下でも以上でもダメだ。相手に不快感を与えてしまうからな。分かっか?」
「そうなのか?」
「そうだ。覚えとけ」
「60センチか……」
「どんな交渉する時も60センチの法則だ。そうすりゃうまくいく。忘れるな!」
「ホントか?」
朱鷺は頷いた。
「そうか、60センチまでなら近づけるのか……」
朱鷺は自分の知識の範囲で法則を発見した。満足して大きく頷く。一つの問題は解決した。さっそく次の難題に取りかかる。コウスケを見据える。
「な、なんだよ。そんな目で見るな!」
「今日はどうだった?」
「普通……じゃなくて、いつもどおりだ」
コウスケはリーゼントに手櫛を入れた。
「普通か?」
「い、いやあ……まあ、そう……」
「それはなんだ?」
朱鷺は、コウスケが膝に抱えた白い包みを目ざとく見つけた。
「こ、これか、えっと……あっ、そうそう、社長の奥さんからだ、うん……」
「なんだ?」
「な、なにかな? いつもご苦労さん、って……」
「開けてみねえのか?」
「い、いや……」
「せっかくだから好意を無にするんでねえ。開けてみろ」
「そ、そうだなあ……」
コウスケは結び目を解くとまた結び直して、横に置いた。
「なにしてんだ? 早く開けねえか」
「わ、分かった……」
「なんなんだ?」
「さあ?」
コウスケは結び目をいじくり回すだけで一向に開けようとしない。
「じれってえヤツだな。オラに言えねえもんか?」
「い、いや、そんな……」
「いったいなんなんだ?」
「べ、弁当だ」
「只のか?」
「うん、た、只の、弁当だった」
「食ったか?」
「い、いいや、まだ……」
「丁度ええ、晩飯に。オラの分は今朝の残りを握り飯にしといたから、それでええし」
「あっ、そう……」
「晩飯にすっか」
「そ、そうだな」
「開けてみろ」
コウスケは包みを解いて、二段重ねの重箱をちゃぶ台の上に置いた。フタを少しだけ開けて中身を確かめると、すぐにまたフタを閉じた。
「へへへ……」
「早く食え。どれ、見せてみろ」
朱鷺は自ら上の段を持ち上げ、二段を並べて置いた。「ハテ?」
「ど、どうした?」
「どっかで見たな……」
首を捻りながら手を伸ばす。「一つもらうぞ」
「どうぞどうぞ……」
遠慮なくダシ巻玉子を摘まんで口に放り込んだ。味わううちに五臓六腑が拒否反応を引き起こした。背筋から脳天に電流が突き抜け、嫌悪感に苛 まれる。
「ごちそうさん」
「もういいのか?」
「たくさんだ」
「そ、そんなら、オレ……い、いただきます……」
コウスケは手を合わせると、箸を取り食らいついた。嬉しそうな表情だ。
「うまいか?」
コウスケの顔をじっと見つめた。
「ああ、うまい。こんなうまい弁当初めてだ。奥さん料理上手だな……」
コウスケはこっちを見て笑う。
「そうか」
朱鷺も笑みを返す。
瞬く間に夕食を平らげたコウスケの様子を朱鷺は笑顔でうかがった。
「ああ、食った食った……ごちそうさま」
コウスケは、また丁寧に手を合わせる。
「おめえ、オラが作ってやっても、全く手合わせねえのに、よっぽどありがてえんだなあ、この弁当はよ……」
「まあ、な」
「嬉しそうだこと……」
「まあ、な」
「昼飯どこで食った?」
「いつものサンクチュアリだ。決まってる」
「なに食った?」
「カレーだ」
「あの娘……どうしてた?」
「働いてたさ」
「見たのか?」
「ああ。それが、どうかしたか?」
「いんや、なんでもねえよ」
朱鷺は腕組みをして大袈裟に首を傾げた。「おかしいなあ……」
「なにが?」
「今日はなん曜日だ?」
「火曜日」
「11月……なん番目の火曜日だ?」
壁の酒屋のカレンダーに視線を向けた。百恵ちゃんが笑いかける。毎月第4
火曜日がサンクチュアリの定休日だ。
「今日は11月の25日、火曜日……」
コウスケもカレンダーを覗いて、急に目をパチクリさせ始める。「1、2、3、……ん? 1、2、3、……4」
朱鷺はコウスケの顔を覗き込んで頬を緩めて微笑む。と、コウスケもヒクヒクと頬を痙攣させた。
「オラ、なんも言ってねえよ」
「あれっ? あっ、そ、そうか、昨日だった……オ、オレ間違えてた」
「あれっ? 一週間お休みじゃなかったのかい? そんなこと聞いたことあるような、ないような……」
「んっ? あっ、そうか。な、なに、勘違い……してんだろう……」
コウスケはリーゼントを両手で何度もかき上げる。目が激しく泳ぐ。
「オラ、ピンときたね。弁当見た時、玉子焼き食ったとき……いつか食ったことあるとな」
「え、ええっ!」
「お春の味つけとそっくりだ。オラも女だからな……」
「へへへ……」
コウスケは目を見開き、糊で固めたような頬を、無理矢理引きつらせる。
「まあ、ええ。お春のヤツが押しつけたんだろう」
「そ、そうなんだ。オ、オレも、驚いてよ……」
「嬉しそうだったな」
「うん。い、いや、そうじゃねえ……よ」
「あの女の手だ。そうやってたらし込むのよ」
「そ、そうか、なあ……」
コウスケは上目遣いでこっちを見ながら首を傾げる。
「まだヤツの怖さをしらねえから、涼しい顔してられんのさ。ヤツの毒牙にかかった男はみーんな……ああ、おぞましい!」
朱鷺は身震いする。「火傷 くれえならええが、命も危うく落としかねねえのさ」
「まさか!」
「お春のバックに誰がいると思ってんだ?」
「あの雉牟田藤九郎のことか?」
「あいつはチンピラよ。大物がついてんだ。おめえなんぞ、ズタズタ、ポッキンよ。そしてよ……」
「そして、なんだ?」
「口では言えねえ、残酷すぎて」
朱鷺はコウスケに顔を近づけてブルッと身を震わせた。「ま、命は……捨てる覚悟しときな」
「どっかの親分か?」
「知らん方が身のためだ!」
「信じられねえな。あんな人が……」
「まあだ、未練あんのか?」
「うん。い、いや、別に……」
「おめえ、九州男児だったな?」
「まあ」
九州男児かと訊かれて、コウスケは誇らしげに胸を張った。
「男だな」
「まあ」
「だったら、試してみろ。オラ、口出さねえから」
「なにを?」
「お春とつき合ってみろ」
「えっ! いいの?」
コウスケの目が輝いた。
「ああ、今言ったろう、口は出さねえ」
「へへへ……」
「度胸あるよな?」
「どんな?」
「一人、二人……いや、それ以上だ。おめえ、やれるのか?」
「なにを……やるんだ?」
「人をだ!」
「人を?」
コウスケは眉根を寄せ、ちゃぶ台に身を乗り出した。「どう、やるんだ?」
「決まってる。消すのさ」
「ああ、手品か。バアさんの十八番 だな……天功みてえにか?」
「こ、ろ、し、だ」
「こ、ろ、し、だ……って、なに?」
「人殺しだ」
「ひ、人……殺し?」
「そうよ。やれねえなら、やられるだけだ」
「やられる?」
「やるか、やられるかの世界だ。それが組織の掟よ」
「バアさん組織に詳しいのか?」
「ああ、オラもかつては組織の一員だった」
鷹鳥町老人会だ、と心の中で呟いた。「『むれず かたらず いきるのみ』、己の信条を貫き通して、足を洗ったのさ」
「女の身でか?」
「男女雇用機会均等法だ!」
「難しい組織だな。どんなことしてた?」
「知りてえか? だがな、知らぬが仏よ。おめえ、震え上がっから」
「冗談だよな? 信じねえ、ハハハ……」
「そう思うか? おめえの勝手だ。だがな、組織は甘っちょろいもんでねえよ。絶対にかかわらんことだ。これだけは言っておく」
真顔をコウスケに向け、キッと目を見開いて、視線で射抜く。
「ウ、ウソだな。そ、そうだろう?」
片方の口角を持ち上げ、ニヒルな笑みを零すと、動揺を隠せぬコウスケに鋭い視線を浴びせ続けた。
しばし二人の間に沈黙が訪れた。コウスケは決まり悪そうにリーゼントに手櫛を入れながらチラチラとこちらをうかがっている。
「おめえは九州男児だ!」
いきなり膝を立てると、コウスケの頭の上から吠えた。
「ウッ! ま……まあな」
コウスケは驚いた表情で背筋をピンと伸ばすと、そのまま胸を張った。胸を張りすぎてそっくり返る。
「親父がな。おめえはその血を引いただけよ」
「あれっ、知ってたの?」
「全てお見通しよ。なん度も言ってんだろうが」
「バアさん興信所の回し者みてえ……」
「探偵か……オラにぴったりの仕事かもしれねえ」
朱鷺は片眉を吊り上げ、ハードボイルドを気取りながら横目でコウスケを見据えた。「おめえの親父はハゲだ。テッペンだけな」
「そうだ」
「籠野家の伝統だな。おめえも、つるっぱげだ。なにも残らねえ、産毛一本もな」
「なんで分かる? 見てきたようなこと言うな。ふんっ、オレはハゲねえよ。息子にくるんだ。かわいそうだがな。隔世遺伝つうやつだ」
「ま、今のうちにせいぜいいたわってやんな。リーゼントもあと数年の寿命だ」
朱鷺は自分の頭を撫でながら声高に笑った。
「笑いすぎだ……チクショー」
「おめえの髪が一本でも無事残るように拝んでやる。ナンマンダー……」
「拝むな! 人の頭をなんだと思ってんだ、全く……」
コウスケは頭に手を乗せた。「本当にハゲたらどうしよう……」
「心配すんな。間違いなくハゲる。今から慣れとけ。鏡見て、想像してみろ。その顔にテカテカオツムをよ」
朱鷺は腹を抱えて笑い出す。コウスケを見ると、憤然とした顔でこっちを睨みつけていた。
*
夜も次第に更けてきた。
隙間風が吹き込むこの部屋に暖を取るものはない。風呂に浸 かるか布団に潜り込むか、はたまたお湯を飲むか、それしか術はない。
じっとしていると、体の芯まで冷えてくる。真冬でもないのにブルブルと震え出す。おまけに、じめっとした空気がカビ臭さを伴って室内に充満している。畳を踏んだ先から足の裏に湿気がまとわりついて気色が悪かった。
両手を揉みながら白い息を吹きかける。太腿を掌で力いっぱいこすってみる。何れにしても体を温めることはできない。
決心して立ち上がった。両足を肩幅に広げて踏ん張る。頭の後ろに両手を組んでゆっくりとした動作で腰を深く沈めて、また立ち上がる。朱鷺はスクワットを始めた。
横になって膝を抱え丸まっているコウスケは、さっきから不思議そうな目でこっちをうかがっていた。
「おめえもやってみろ。温まるぞ」
「こっちは疲れてるんだ」
「情けねえヤツだ。なんかもう一枚羽織ったらどうだ?」
「できねえ」
「なしてだ?」
コウスケは洗濯物を指差した。
「まとめてすっからだ。分けてやらあええのに。ほかには?」
「ねえ」
「全く、このぐうたらめ! 風呂入って寝ろ」
「嫌だ!」
「どうして?」
「バアさん、また、デバガメする気だろう?」
「オラ、出っ歯でねえ」
「減らず口、叩きやがって……」
「だったら、布団敷いて寝ろ」
「ああ、そうする」
コウスケの眼球も、朱鷺の上下動に合わせて規則正しく同じ動きを繰り返す。次第に瞼の動きが鈍くなり、仕舞いには完全に閉じた。
100回ほどスクワットを続けて汗ばんできた。肩で呼吸を繰り返しながら、布団を敷いて、寝息を立てるコウスケの傍へ寄る。軽々とコウスケを抱きかかえると、その上に降ろす。掛け布団をそっとかけ、顔を覗き込んで横に腰を下ろし、部屋を見回す。余分なものは何一つとしてなかった。最低限生きてゆけるだけのものしかない。朱鷺の胸に昔の貧しかった頃の生活が去来した。
お互い、こんな貧しい時代に巡り合い、恋に落ち、そして結婚した。子供ができ、夫婦で一生懸命働き、今の地位を築き上げてきたのだ。
「おめえもよっく頑張ってくれたな。あんがとよ……」
朱鷺はコウスケの寝顔を覗きながら、爺さんに感謝した。布団の上からコウスケの腕を撫でてやる。自分も横になると目を閉じた。瞼の裏に爺さんの顔が浮かんだ。爺さんは笑っている。自分もそれに応え、笑みを返す。目頭が熱くなり、流れ出た滴を手の甲で拭った。
読了後、欠伸をしながら仰向けになった。快晴だ。秋空が目にしみる。日は既に高く、窓際に浅く差し込んでくる日差しが眩しくて、大きなくしゃみが出た。鼻をクシュンと指で
気がつくと辺りは真っ暗で、空には星が瞬いていた。冷たい風が頬を刺してくる。朱鷺はブルッと身を震わせると、横向きに膝を抱えた。
──ここはどこだ?
──今度はどこに飛ばされたのか?
心の中で呟いて上体を起こした。
しばらく辺りを見渡しながら頭を捻るうちに、眠っていたことにようやく気づいた。目覚まし時計は、もうすぐ9時だ。そろそろコウスケが帰る時刻だった。ひんやりとした外気に身を縮めながら立ち上がると窓を閉め、玄関先で帰りを待つことにした。暗闇の中、ドアの前に膝を抱え、じっと正面を向いて自分が辿ってきた道のりを振り返ってみる。
どうして
──うんにゃ、そうでねえ。
──決着をつけるのだ!
あのフラフラと風船のように行方の定まらぬコウスケを自分に振り向かせる。いかなる手段を使ってもそう仕向ける。それがこの時代に自分が存在する意義かもしれない、と朱鷺は結論づけた。
──でねえと……未来はねえ!
朱鷺の種族は完全に絶滅の一途を辿るしか道はなくなるのだ。
耳を澄ました。遠くで足音が聞こえたような気がしたのだ。
──間違いねえ!
足音は一瞬途絶えてから小さくなり、ゆっくりと近づいてくる。
ドアの前で止まった。
しばらく何の振動も伝わってこない。朱鷺はドアの向こうの気配に睨みを利かす。と、かさこそと、何かを探る微かな衣擦れを鼓膜は捉えた。鍵穴に何かが差し込まれる音がしてガチャガチャやったあと、鍵穴から何かを引き抜く音。何れも音を立てぬよう息を殺し、細心の注意で行動しているようだ。なれど微細振動すら朱鷺の感覚器官は感知した。その場の空気を読んで解析し、行動を予測する。
朱鷺は耳をそばだて数を数える。ドアノブが回転して止まるまで30まで数えた。ゆっくり数えたので、30秒以上はかかっただろう。
ドアが開き始める。
──1、2、3、……、30。
白いスニーカーの爪先が覗いた。次にブルーのジーンズ。のっそりと滑り込んでくる。ドアが静かに閉まる。ドアノブを握る手がゆっくりと回った。
朱鷺は暗闇に慣れた目で様子を探った。
侵入者は部屋の中をうかがっているようだ。しばらく部屋を見回したあと、こちらに背を向け座り込んだ。
朱鷺は気づかれぬようにそっと立ち上がって、忍び足で部屋の中央まで行き、二股ソケットの裸電球に手を伸ばし、静かに回して明かりを点けると、素早い動作で侵入者の背後に立った。
「うっ!」
侵入者は振り向き様、低い呻き声を上げた。
「ヒーヤーハーマタコンネー……ハッ!」
ガタガタと入れ歯を鳴らす。
「ウワアーッ!」
ヤツは悲鳴を上げ、こちら向きに体を捻りながら立ち上がろうとした。左足のスニーカーのひもを右手で握ったままだったので、左足が浮き、右足だけで後ずさると、そのままドアを尻で押し開け、後ろ向きに転がり出た。ドアは完全には閉まっていなかったようだ。廊下の手すりの格子の間に左足を引っかけ、股の隙間から顔を覗かせた。右手はまだひもを握ったままだった。
「おめえ、笑わせやがって……」
「バ、バッカヤロー! ビックリするだろうが!」
「オラ、てっきり泥棒かと……あんまりコソコソしてんだもの……」
朱鷺はゲラゲラ笑いながらコウスケを見下ろした。「おめえ、自分の家に泥棒に入るつもりだったのか?」
「チェッ!」
「早く入れ。人に見られるぞ。まあ、恥ずかしい格好だこと……」
「助けろ!」
「人を頼るんでねえ」
「薄情者!」
「手、離せや。ほれ、靴ひもつかんでる方だ」
コウスケはひもを離すと、左足を両手で握って格子の隙間から外した。ストンと廊下のモルタル床に踵は叩きつけられ、顔をしかめる。立ち上がるとムスッとした顔で部屋へ入った。
朱鷺はその光景を眺めながら、腹が痛くなるほど大笑いする。
*
「最初は? そうだ、サンクチュアリでオラとぶつかりそうになって……その次もだ。なしてだ?」
朱鷺は首を捻る。「待てよ、そうか! 自分とは接触できねえんだ。宇宙がなくなっちまう。なーるほど……ラベンダーは関係ねえ。あれはフィクションだからな」
「さっきからなにブツクサ言ってる?」
コウスケはちゃぶ台の向こうから
「バッカ・トー・チャン・ヒーチャンよ」
「ん、中国語か?」
「おめえ、心理学の勉強……したこたねえな。聞いたオラがバカだった」
「ほほう、バカだって認めたな」
「バカはおめえのオツムよ。ま、そんなこたあ、どうでもええ。今に始まったわけでねえしな」
「ほっとけ!」
「60センチメートルの法則。60だ!」
「なんだ?」
「ええか、人はな60センチメートルの距離が一番ええ関係を保てるのさ。それ以下でも以上でもダメだ。相手に不快感を与えてしまうからな。分かっか?」
「そうなのか?」
「そうだ。覚えとけ」
「60センチか……」
「どんな交渉する時も60センチの法則だ。そうすりゃうまくいく。忘れるな!」
「ホントか?」
朱鷺は頷いた。
「そうか、60センチまでなら近づけるのか……」
朱鷺は自分の知識の範囲で法則を発見した。満足して大きく頷く。一つの問題は解決した。さっそく次の難題に取りかかる。コウスケを見据える。
「な、なんだよ。そんな目で見るな!」
「今日はどうだった?」
「普通……じゃなくて、いつもどおりだ」
コウスケはリーゼントに手櫛を入れた。
「普通か?」
「い、いやあ……まあ、そう……」
「それはなんだ?」
朱鷺は、コウスケが膝に抱えた白い包みを目ざとく見つけた。
「こ、これか、えっと……あっ、そうそう、社長の奥さんからだ、うん……」
「なんだ?」
「な、なにかな? いつもご苦労さん、って……」
「開けてみねえのか?」
「い、いや……」
「せっかくだから好意を無にするんでねえ。開けてみろ」
「そ、そうだなあ……」
コウスケは結び目を解くとまた結び直して、横に置いた。
「なにしてんだ? 早く開けねえか」
「わ、分かった……」
「なんなんだ?」
「さあ?」
コウスケは結び目をいじくり回すだけで一向に開けようとしない。
「じれってえヤツだな。オラに言えねえもんか?」
「い、いや、そんな……」
「いったいなんなんだ?」
「べ、弁当だ」
「只のか?」
「うん、た、只の、弁当だった」
「食ったか?」
「い、いいや、まだ……」
「丁度ええ、晩飯に。オラの分は今朝の残りを握り飯にしといたから、それでええし」
「あっ、そう……」
「晩飯にすっか」
「そ、そうだな」
「開けてみろ」
コウスケは包みを解いて、二段重ねの重箱をちゃぶ台の上に置いた。フタを少しだけ開けて中身を確かめると、すぐにまたフタを閉じた。
「へへへ……」
「早く食え。どれ、見せてみろ」
朱鷺は自ら上の段を持ち上げ、二段を並べて置いた。「ハテ?」
「ど、どうした?」
「どっかで見たな……」
首を捻りながら手を伸ばす。「一つもらうぞ」
「どうぞどうぞ……」
遠慮なくダシ巻玉子を摘まんで口に放り込んだ。味わううちに五臓六腑が拒否反応を引き起こした。背筋から脳天に電流が突き抜け、嫌悪感に
「ごちそうさん」
「もういいのか?」
「たくさんだ」
「そ、そんなら、オレ……い、いただきます……」
コウスケは手を合わせると、箸を取り食らいついた。嬉しそうな表情だ。
「うまいか?」
コウスケの顔をじっと見つめた。
「ああ、うまい。こんなうまい弁当初めてだ。奥さん料理上手だな……」
コウスケはこっちを見て笑う。
「そうか」
朱鷺も笑みを返す。
瞬く間に夕食を平らげたコウスケの様子を朱鷺は笑顔でうかがった。
「ああ、食った食った……ごちそうさま」
コウスケは、また丁寧に手を合わせる。
「おめえ、オラが作ってやっても、全く手合わせねえのに、よっぽどありがてえんだなあ、この弁当はよ……」
「まあ、な」
「嬉しそうだこと……」
「まあ、な」
「昼飯どこで食った?」
「いつものサンクチュアリだ。決まってる」
「なに食った?」
「カレーだ」
「あの娘……どうしてた?」
「働いてたさ」
「見たのか?」
「ああ。それが、どうかしたか?」
「いんや、なんでもねえよ」
朱鷺は腕組みをして大袈裟に首を傾げた。「おかしいなあ……」
「なにが?」
「今日はなん曜日だ?」
「火曜日」
「11月……なん番目の火曜日だ?」
壁の酒屋のカレンダーに視線を向けた。百恵ちゃんが笑いかける。毎月第4
火曜日がサンクチュアリの定休日だ。
「今日は11月の25日、火曜日……」
コウスケもカレンダーを覗いて、急に目をパチクリさせ始める。「1、2、3、……ん? 1、2、3、……4」
朱鷺はコウスケの顔を覗き込んで頬を緩めて微笑む。と、コウスケもヒクヒクと頬を痙攣させた。
「オラ、なんも言ってねえよ」
「あれっ? あっ、そ、そうか、昨日だった……オ、オレ間違えてた」
「あれっ? 一週間お休みじゃなかったのかい? そんなこと聞いたことあるような、ないような……」
「んっ? あっ、そうか。な、なに、勘違い……してんだろう……」
コウスケはリーゼントを両手で何度もかき上げる。目が激しく泳ぐ。
「オラ、ピンときたね。弁当見た時、玉子焼き食ったとき……いつか食ったことあるとな」
「え、ええっ!」
「お春の味つけとそっくりだ。オラも女だからな……」
「へへへ……」
コウスケは目を見開き、糊で固めたような頬を、無理矢理引きつらせる。
「まあ、ええ。お春のヤツが押しつけたんだろう」
「そ、そうなんだ。オ、オレも、驚いてよ……」
「嬉しそうだったな」
「うん。い、いや、そうじゃねえ……よ」
「あの女の手だ。そうやってたらし込むのよ」
「そ、そうか、なあ……」
コウスケは上目遣いでこっちを見ながら首を傾げる。
「まだヤツの怖さをしらねえから、涼しい顔してられんのさ。ヤツの毒牙にかかった男はみーんな……ああ、おぞましい!」
朱鷺は身震いする。「
「まさか!」
「お春のバックに誰がいると思ってんだ?」
「あの雉牟田藤九郎のことか?」
「あいつはチンピラよ。大物がついてんだ。おめえなんぞ、ズタズタ、ポッキンよ。そしてよ……」
「そして、なんだ?」
「口では言えねえ、残酷すぎて」
朱鷺はコウスケに顔を近づけてブルッと身を震わせた。「ま、命は……捨てる覚悟しときな」
「どっかの親分か?」
「知らん方が身のためだ!」
「信じられねえな。あんな人が……」
「まあだ、未練あんのか?」
「うん。い、いや、別に……」
「おめえ、九州男児だったな?」
「まあ」
九州男児かと訊かれて、コウスケは誇らしげに胸を張った。
「男だな」
「まあ」
「だったら、試してみろ。オラ、口出さねえから」
「なにを?」
「お春とつき合ってみろ」
「えっ! いいの?」
コウスケの目が輝いた。
「ああ、今言ったろう、口は出さねえ」
「へへへ……」
「度胸あるよな?」
「どんな?」
「一人、二人……いや、それ以上だ。おめえ、やれるのか?」
「なにを……やるんだ?」
「人をだ!」
「人を?」
コウスケは眉根を寄せ、ちゃぶ台に身を乗り出した。「どう、やるんだ?」
「決まってる。消すのさ」
「ああ、手品か。バアさんの
「こ、ろ、し、だ」
「こ、ろ、し、だ……って、なに?」
「人殺しだ」
「ひ、人……殺し?」
「そうよ。やれねえなら、やられるだけだ」
「やられる?」
「やるか、やられるかの世界だ。それが組織の掟よ」
「バアさん組織に詳しいのか?」
「ああ、オラもかつては組織の一員だった」
鷹鳥町老人会だ、と心の中で呟いた。「『むれず かたらず いきるのみ』、己の信条を貫き通して、足を洗ったのさ」
「女の身でか?」
「男女雇用機会均等法だ!」
「難しい組織だな。どんなことしてた?」
「知りてえか? だがな、知らぬが仏よ。おめえ、震え上がっから」
「冗談だよな? 信じねえ、ハハハ……」
「そう思うか? おめえの勝手だ。だがな、組織は甘っちょろいもんでねえよ。絶対にかかわらんことだ。これだけは言っておく」
真顔をコウスケに向け、キッと目を見開いて、視線で射抜く。
「ウ、ウソだな。そ、そうだろう?」
片方の口角を持ち上げ、ニヒルな笑みを零すと、動揺を隠せぬコウスケに鋭い視線を浴びせ続けた。
しばし二人の間に沈黙が訪れた。コウスケは決まり悪そうにリーゼントに手櫛を入れながらチラチラとこちらをうかがっている。
「おめえは九州男児だ!」
いきなり膝を立てると、コウスケの頭の上から吠えた。
「ウッ! ま……まあな」
コウスケは驚いた表情で背筋をピンと伸ばすと、そのまま胸を張った。胸を張りすぎてそっくり返る。
「親父がな。おめえはその血を引いただけよ」
「あれっ、知ってたの?」
「全てお見通しよ。なん度も言ってんだろうが」
「バアさん興信所の回し者みてえ……」
「探偵か……オラにぴったりの仕事かもしれねえ」
朱鷺は片眉を吊り上げ、ハードボイルドを気取りながら横目でコウスケを見据えた。「おめえの親父はハゲだ。テッペンだけな」
「そうだ」
「籠野家の伝統だな。おめえも、つるっぱげだ。なにも残らねえ、産毛一本もな」
「なんで分かる? 見てきたようなこと言うな。ふんっ、オレはハゲねえよ。息子にくるんだ。かわいそうだがな。隔世遺伝つうやつだ」
「ま、今のうちにせいぜいいたわってやんな。リーゼントもあと数年の寿命だ」
朱鷺は自分の頭を撫でながら声高に笑った。
「笑いすぎだ……チクショー」
「おめえの髪が一本でも無事残るように拝んでやる。ナンマンダー……」
「拝むな! 人の頭をなんだと思ってんだ、全く……」
コウスケは頭に手を乗せた。「本当にハゲたらどうしよう……」
「心配すんな。間違いなくハゲる。今から慣れとけ。鏡見て、想像してみろ。その顔にテカテカオツムをよ」
朱鷺は腹を抱えて笑い出す。コウスケを見ると、憤然とした顔でこっちを睨みつけていた。
*
夜も次第に更けてきた。
隙間風が吹き込むこの部屋に暖を取るものはない。風呂に
じっとしていると、体の芯まで冷えてくる。真冬でもないのにブルブルと震え出す。おまけに、じめっとした空気がカビ臭さを伴って室内に充満している。畳を踏んだ先から足の裏に湿気がまとわりついて気色が悪かった。
両手を揉みながら白い息を吹きかける。太腿を掌で力いっぱいこすってみる。何れにしても体を温めることはできない。
決心して立ち上がった。両足を肩幅に広げて踏ん張る。頭の後ろに両手を組んでゆっくりとした動作で腰を深く沈めて、また立ち上がる。朱鷺はスクワットを始めた。
横になって膝を抱え丸まっているコウスケは、さっきから不思議そうな目でこっちをうかがっていた。
「おめえもやってみろ。温まるぞ」
「こっちは疲れてるんだ」
「情けねえヤツだ。なんかもう一枚羽織ったらどうだ?」
「できねえ」
「なしてだ?」
コウスケは洗濯物を指差した。
「まとめてすっからだ。分けてやらあええのに。ほかには?」
「ねえ」
「全く、このぐうたらめ! 風呂入って寝ろ」
「嫌だ!」
「どうして?」
「バアさん、また、デバガメする気だろう?」
「オラ、出っ歯でねえ」
「減らず口、叩きやがって……」
「だったら、布団敷いて寝ろ」
「ああ、そうする」
コウスケの眼球も、朱鷺の上下動に合わせて規則正しく同じ動きを繰り返す。次第に瞼の動きが鈍くなり、仕舞いには完全に閉じた。
100回ほどスクワットを続けて汗ばんできた。肩で呼吸を繰り返しながら、布団を敷いて、寝息を立てるコウスケの傍へ寄る。軽々とコウスケを抱きかかえると、その上に降ろす。掛け布団をそっとかけ、顔を覗き込んで横に腰を下ろし、部屋を見回す。余分なものは何一つとしてなかった。最低限生きてゆけるだけのものしかない。朱鷺の胸に昔の貧しかった頃の生活が去来した。
お互い、こんな貧しい時代に巡り合い、恋に落ち、そして結婚した。子供ができ、夫婦で一生懸命働き、今の地位を築き上げてきたのだ。
「おめえもよっく頑張ってくれたな。あんがとよ……」
朱鷺はコウスケの寝顔を覗きながら、爺さんに感謝した。布団の上からコウスケの腕を撫でてやる。自分も横になると目を閉じた。瞼の裏に爺さんの顔が浮かんだ。爺さんは笑っている。自分もそれに応え、笑みを返す。目頭が熱くなり、流れ出た滴を手の甲で拭った。