◇6 鬼のいぬまに──ドンブラッコー!

文字数 5,317文字

 コウスケはどうにかこうにか泣きじゃくるトキを宥め賺かして、トキのアパートまでバイクを走らせ送り届けてやった。別れ際、12月20日土曜日のトキの誕生日にプレゼントを用意している、と明かした。
「楽しみにしてるわ」
 トキは目を輝かせた。
 師走の日没は早い。既に日は暮れかかっていた。が、どうしても自宅には足は向かず、もう少し黄昏時の街なかをバイクでぶっ飛ばして時間を潰そうと考えた。
 ──世のサラリーマン達もこんな気分なのだろうか?
 サラリーマンの気持ちを想像しながら、
「時間よ止まれ」
 と念じてみる。
 駅前の食堂でカツ丼をかっ込んで、ようやく帰宅の意志を強固にする。
 タバコ屋の角で一旦バイクのエンジンを切って下車した。そこからは静かにアパートまで押して歩いた。
 アパートの階段をゆっくり上ると、廊下をドアの前まで足音を忍ばせ、息を潜めて耳をドアに押しつける。耳に伝わる冷たい感触に思わず肩を竦め顔をしかめた。玄関横の流しの上の窓からは明かりは漏れてこない。
 ──ということは、まだ帰っていない!
 確信はしたものの油断は禁物だ。
 細心の注意でカギを差し込んで、音を一切立てず中へ忍び入る。ノブを回したまま固定し、しっかり握り締めると、軋まないよう少し持ち上げるようにゆっくりドアを閉める。そっとノブを回し静かにポッチリを押してカギをかけた。両手を泳がせ、手探りしながら室内の方へ首だけを左に回し、一旦動きを停止する。屈んでスニーカーのひもを緩め、踵を踏む。中腰の後ろ向きのまま振り返って、しばらく暗闇に目が慣れるまでその場で待った。街灯の薄明かりに窓際のちゃぶ台の影がぼんやり浮かぶ。
 やっと目が慣れたところで両腕を広げ飛行体勢をとり、今度は体ごと旋回した。額の上に両手をかざし目を引ん剥いたり細めたりして、くまなく部屋の隅々まで確かめ、左足で一歩を畳の上に踏み出した。半径50センチメートル先までを目安に少しずつ探りながら最後は大股で踏み込む。もう一方の足も浮かせたもののスニーカーがまとわりついて脱げない。畳に両手を突き、犬のように右足を上げ振り落とそうと試みた。何度か試すうちに突然スニーカーは爪先から滑り落ちそうになった。それを持ちこたえ地面にそっと着地させ爪先を抜く。その足で同じように畳をまさぐって、二歩目を大きく踏み込む。
 ──ナニもない。
 目が完全に闇に慣れた。人の姿も気配さえもない。部屋の真ん中へ進んで二股ソケットを回して明かりを灯す。ゆっくりと部屋中を見渡した。
 ──やはりヤツはいなかった。
 無意識にコウスケの口から吐息が漏れる。安堵したのも束の間、ハッとした。
 ──いや、風呂場だ!
 ──便所は?
 体は思考よりも速く行動を起こした。気づくと風呂場にいた。どうやって移動したのか記憶にはなかった。水を張った風呂桶も覗く。
 ──大丈夫だ!
 次に便所に跳んだ。
 ──ここにもいない。
 ホッとして戸を閉めかけてまた中へ入る。
「おーい!」
 便器の中に顔を突っ込み叫んでみる。いくらなんでもこんな所からは顔は出すまい。
 ──いや、あのババアのことだ!
 どこからヌウッと出没するか分かったもんじゃない。一応確認すべきだ。だが大丈夫のようだ。
 今度こそ安堵して畳の上に大の字に転がった。風が吹き込んでくる。確か、窓は閉まっていたような気がする。窓の方を向くと開いていた。
 ──思い違いだ。
 自ら開けたに違いない。
 ──きっとそうだ!
  気を取り直して窓を閉める。念のため後ろを振り返る。誰もいない。溜息をつき、もう一度大の字に寝転んだ。窓際で何か音がしたような気がする。だがコウスケには自信があった。絶対に気のせいだと。身を起こしてゆっくりと窓の方へ首を回した。
「お帰んなさいよ。待ってたぜ!」
「ウウッ!」
 全くの不覚だった。婆さんが上から見下ろしている。「い、いつからいた!」
「ずうっと」
「ど、どこに……?」
「おめえの後ろに……」
「まさか、ずうっと、張りついてたのか!」
「そうだ」
「ヌ、ヌウッと出るな、ヌウッと!」
「人を化け物みてえに……」
「化け物じゃねえか」
 ぼそっと呟いた。聞こえるはずはない。
「聞こえたぞ!」
「えっ! やっぱ耳いいんだ……」
「おめえ、自分で分かってんだろうな……今言ったことをよお?」
「化け物って、深え意味はねえし……」
「なんだと、オラのこと、化け物呼ばわりしたのか!」
「あっ! きったねえ、誘導尋問じゃねえか」
「ここは法廷でねえ。おめえ、オラに判決下してほしいのか? だったら、どんな罪にすっかなあ……?」
 婆さんは指を一本ずつポキポキと鳴らした。
「い、いや、結構……」
「おめえ、今日はどうだった? ま、そんなとこいねえで、こっちゃこいや。話し辛えでねえか」
 婆さんはちゃぶ台の前に移動し、頬杖をつきこちらをうかがうと、明るい声で手招きする。
「どう……っていうこともねえけど……」
 仕方なくいつもの場所で婆さんと対峙する。ちゃぶ台に左手で頬杖をつき、右手の人差し指でトントンと叩き始めた。「やっぱ、やめた」
「話を途中で切るな。最後まで話せ」
「んんー……あの娘……んんー……」
 コウスケは口ごもる。
「じれってえ! 唸ってねえで、男らしく言え、なんだ?」
 婆さんをまじまじと見る。向こうもちゃぶ台に身を乗り出してコウスケを覗き込んでくる。お互いの視線が重なってしばらく見つめ合った。
「そんなに見つめちゃ、イヤーン! 息苦しいわ……」
「ウッ! 寒気する」
 咄嗟に視線を逸らした。畳に両手をつくとしばらく天井を仰いでトキの顔を想像した。
「早く言え、コノヤロー!」
 婆さんはちゃぶ台を拳で叩いた。
「わ、分かったって。そういきり立つな」
 深呼吸して今日の出来事をかい摘まんで話し始めた。「トキちゃんと景色見てたんだ。そして、トキちゃんが目閉じたのよ。そしたら、トキちゃんが……トキちゃんが……」
 婆さんをじっと見つめながら目を瞬く。
「目にゴミでも入ったか? オラが吸い取ってやるぞ、チュウだ!」
 酢ダコが出現した。
「ウンギャーッ!」
 コウスケは叫びながら頭をかき毟り激しくかぶりを振った。今、婆さんの顔とトキの顔がまたダブって見えたのだ。
「どうした? その先、言ってみろ!」
「バアさんかと思った!」
「そんなこと、当たりめえだ。オラだもの」
「はあっ、なに言ってんだ……?」
「どうでもええこった」
「よくねえって!」
「おめえ、あの娘が嫌いか?」
「そんなんじゃねえ!」
「なら、クヨクヨするんでねえ! ウジウジしてねえで胸張らんかい! 自信ば持て、そうすりゃ人生開ける。オラ、おめえのそこんとこ正すためにやってきたんだ」
「なにっ、誰に頼まれた?」
「それは言えねえ、約束だもの」
「オレの知ってるヤツか?」
「よーく知ってる。なあ、あの娘を泣かせるんでねえよ。オラもうすぐいなくなるんだし……」
 婆さんは寂しそうな表情を見せた。
「帰るのか?」
「いつまでもいられねえしな……オラにはオラの人生があるんだもの。孫にも会いてえしよ」
「バアさん孫いたの?」
「一人な」
「ああ、プロレスごっこの相手してやってる……家族いたんだな……」
「当たりめえだ」
「どんな家族だ、亭主は?」
「死んじまった……」
 婆さんは悲しい目を向ける。
「戦争でか?」
「戦争……湾岸か、イラクか?」
「太平洋戦争」
「いんや、オラ戦後生まれだ」
 婆さんは胸を張る。
「87だろうが、なにが戦後生まれだ」
「あ、そうかそうか。いんや、病気でな、コロッと……こないだ」
「そうか、どんなジイさんだった?」
「なに言ってんだ? おめえでねえか」
「オレじゃねえって、ジイさんのこと……」
「ジイさん? オラのジイさんだな……そうか、うん、優しい男だった。おめえみてえによ」
「バアさん辛えなあ。じいさん亡くしたばっかりだったのか……」
「いんや、おめえに会えて幸せだったよ」
「そんなに強がるもんじゃねえぜ。辛え時は思いっ切り泣きゃあいいんだ」
「おめえは優しいヤツだな」
「そんなんじゃねえよ。周りに悲しんでるヤツ見るとこっちも辛えし……」
「そうか……」
「いつ帰るんだ? 寂しくなるな」
「そうか? そんならずっといてやってもええのよ」
「い、いやあ、悪いし……」
「あら、どうして? 寂しいんでしょ? あたしが慰めてあげても……」
 婆さんは目を輝かせ腰を浮かせた。
「よ、よせ! ち、近寄るなよ……」
 コウスケは頭に逃亡の手順を描いてなぞった。「やっぱ、一日、いや、一秒でも早く帰った方が身のためだ!」
「身のため?」
「オレの身が危ねえ」
 コウスケは呟いた。
 婆さんは立ち上がって傍へ寄ってきた。しまった、と後悔した。聞こえたらしい。婆さんはコウスケを見下ろしている。
「飯食ったか?」
 優しい口調だった。
「食った食った」
 慌てて返答する。
「そうか、風呂入るか?」
「そうだな……」
 いっとき考えてみる。また襲われでもしたら事だ。「今日はやめとく」
「なして?」
 ドギマギしながら答えを探した。リーゼントを整え額を撫で上げると突然閃いた。咄嗟に額に手を当てる。
「カ、カゼ気味かな? ゴホン……」
 婆さんはしゃがんで顔を寄せてきた。コウスケの後頭部に婆さんの手が回されグイッと引き寄せられる。コウスケは力を込めて後方へ首を引くが抵抗もむなしく、額と額が密着し鼻と鼻がこすれ合う。異様な温もりがコウスケの脳髄を襲ってくる。相手の方が体温は高かった。互いの温度差が次第に平衡を保とうとし、仕舞いには同一の体温で溶け合ってしまったかのような感覚に襲われた。コウスケは大きく目を見開いた。婆さんの顔の輪郭はぼやけて見えない。
 婆さんが突然力を緩め立ち上がったため、コウスケの上体は大きく後ろへなびいてよろめいた。咄嗟に手をつき上目遣いで婆さんを見ると、何度も頷いている。
「熱はねえようだ。早く寝な」
 コウスケは小刻みに首を縦に振り続けて頷く。
 そのまま婆さんはコウスケの傍を離れ便所に入った。それを確認して、その場に仰向けに倒れ込んだ。心臓が激しく波打つ。胸に手をあてがって動悸が治まるのをやり過ごそうとしていると、突然けたたましい警報音が部屋じゅうに鳴り響いた。驚いて転がり、四つん這いでその場を何度かグルグル回ったあと、音の正体を探ろうとした。音はちゃぶ台の方から聞こえている。ちゃぶ台の下を覗いてみると、目覚まし時計を見つけた。
 ちゃぶ台の下に潜り込んでスイッチを切った。11時半。目覚ましを7時にセットし直し、ちゃぶ台の上に置いて後ずさった。だが、どうしてもちゃぶ台の下から抜け出せない。もう一度後ずさる。今度は前進。ちゃぶ台がどこまでも追いかけてくる。畳に頬杖をついてどうしたものか考えると、両膝を抱え背を丸めちゃぶ台の中に完全に体をおさめた。ちゃぶ台を背中に載せるとその場で右回りを始めた。目が回った。そこで次は逆回転する。だがどうしても足が見えない。婆さんの仕業ぐらい見当はとうについている。そのままの格好で首だけを尻の方へ向けてみる。だがやはり見えない。諦めてまた頬杖をついた。
「おーい、顔出せー!」
 耳を澄ます。返事はない。
 窮屈な中、仰向けになると、ちゃぶ台の縁を両手でつかんで顔をゆっくりと出してみる。ちゃぶ台の上には誰も乗ってはいなかった。ちゃぶ台を持ち上げてみる。軽い。すぐさま横へのけると上体を起こして部屋の隅々を見回した。婆さんの姿はない。首を捻りながら立ち上がり、風呂場を確認した。もちろん風呂桶の中も。洗面器でかき混ぜてみても異物には当たらない。いない。
「さては?」
 と便所を覗く。いなかった。玄関のドアにはカギがかかっていた。流しの中を見る。人の隠れるスペースはないようだ。しばらくコウスケは立ち尽くした。もう一度便所へと急いだ。もよおしてきたからだ。
 便所の前で地団駄を踏んだ。ギリギリまで我慢しようと決めた。顔にジットリと油汗が滲み出す。
 ──もう限界だ!
 便所の戸を開け、中へ入った。引っかけカギを落とし、また指で弾いて戸を開け外にヤツの気配がないのを認めると、慌てて戸を閉めカギをして、震えながらベルトを緩めてしゃがむ。脳裏に不安がよぎった。
 ──まさか?
 ──ありえない!
 確認済みだ。そうは思ったもののゆっくりと後ろを振り向いた。
「ドンブラッコー!」
「ウッ!」
 婆さんもしゃがんで頬杖をついている。その目が尻を狙っていた。
 コウスケは慌てて一旦尻餅をついたが、すぐに立ち上がってジーンズを上げ、チャックを閉めた。また挟んでしまった。
 婆さんの顔が“威厳”の前で動きを止めた。目をカッと見開いたまま拝み始める。やっぱり指で「チーン」と弾いた。
「イッテーし!」
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