◇10 祝宴──ふるチン、だってファッションよ!

文字数 4,388文字

 仕事場を出たのは8時半頃だった。
 コウスケは帰り際、社長夫人からお裾分けのイカの塩辛を拝領し、今夜は寄り道せず真っすぐ帰宅しようと思ったが、途中酒屋で角打ち客で大賑わいの狭間を縫って一升瓶を張り込んだ。
 ──今宵は祝いの宴だ!
 ──ささやかな贅沢だ。
 ──酒のあてもこの通り向こうからやってきた。
 ──鴨がねぎ背負って、というわけか……
 ──なんと幸運な男なのだ!
 頬は緩みっぱなしだ。
 ちゃぶ台に一升瓶とイカの塩辛を並べ、風呂釜に火を点けて戻ると、畳の上に仰向けに倒れ込む。と、悶えながら大声で笑っていた。
 ──久しぶりにリラックスできる。
 ──もう、誰にも邪魔される心配はない。
 ──久々に今夜はゆったりと湯船に浸かろう。
 ──ほんでもって、塩辛でチビチビ一杯やりながら……
 ──一人きり、婆さんはいない!
 ──たった一人きりだぞ!
 ──一人しんみり楽しめるんだ。
 そう思えば自ずと表情も綻ぶというもんだ。顔の筋肉を動かしてみた。多少強張ってはいたが、それでも自然な動きで言うことを聞いた。このところ緊張のあまり身体のいたるところが引きつって思うように動かせなかった。今、その疲れがきたらしい。顔、首、腰、ふくらはぎ……、全身が凝っていた。
 もう二度とこんな目に合うことはない。そう安堵した時、
「果たして終わったのか?」
 と疑問が湧いてくる。
 激しくかぶりを振り、たった今頭によぎったおぞましい思考を振り落としにかかる。
「終わったんだ!」
 何度も何度も呟いてやっと心の平安を取り戻すことができた。
 頭を空白にして風呂が沸くまで瞑想に耽った。
 パッと目を開き、上体を起こした。
 ──風呂は沸いた!
 直感で分かる。
 立ち上がりながら身に着けていたものを全て剥ぎ取り風呂場へ向かった。
 湯船に浸かりながら思い切り手足を伸ばし、戦闘の疲れを揉み解した。こんなにゆったり湯に浸かったのは、もう遠い過去のような気がする。
 長い時間をかけて入浴を済ませ、髪をバスタオルで拭きながらスッポンポンで冷蔵庫からビールの小瓶を握り、冷蔵庫の上に置いておいた栓抜きで栓を開ける。まずはビールで喉を潤す。風呂上りの常識だ、とばかりに一気に飲み干しゲップで締め括る。また汗が噴き出してくる。汗を拭き拭き空きビンを冷蔵庫横のビン入れに放り込んで、全身の汗を拭き取り、ちゃぶ台の前で立ち止まると、また大きなゲップが出た。火照った身体を冷まそうと肩にかけたバスタオルで扇ぎながらちゃぶ台に視線を落とす。
「お先に御相伴に預かっとりますよ」
「おう」
「塩辛か……」
 笑みを送り、コウスケも腰を下ろし箸を取った。既に善の用意はしてあった。塩辛を口に運んで舌鼓を打つ。長崎県対馬産の最高級品だ。社長夫人の実家から届いた逸品だ。夫人の実家は漁師だ。新鮮な魚介類が手に入るらしい。コウスケの口にも何度となく届いた。
 ──有難いことだ。
 欲を言えば、鰐浦(わにうら)産の“塩うに”もまた味わいたいものだ。一度しか口にしたことはないが、あれは絶品中の絶品だった。ま、これ以上贅沢を言ってもしようがない。もう一度塩辛を口に放り込む。余分な調味料など何も加えていない。砂糖もサッカリンも。天然のはらわたの甘味だ。口の中からうま味が広がって脳みそに刻み込まれる。 
 ──味の記憶だ!
 最早スーパーの大量生産のヤツでは満足できないだろう。舌が肥えてしまった。それはある意味不幸なことかもしれない。
 ──しかし、どうしようもないじゃないか!
 ──知ってしまったのだから……
 存分に堪能するしか術はないのだ。
 もう一摘まみ口に入れると、燗のついた徳利の首を摘まんでお猪口に注いだ。グイッと一杯煽る。潮の匂いが鼻から抜けた。フーッと息を吐く。
「クゥーッ! これよこれ、きくねえー」
「塩辛、オラにも一口くれろや……」
「一口だけだぞ……」
「あーん……」
 自分の箸で塩辛を挟むと、少し上を向いて大きく開いている口の中に落としてやった。自分ももう一口頬張る。徳利を摘まむ、猪口に注ぐ、一杯煽る。クゥーッ、と舌鼓を打つ。
 突然動きを止め、考え込んだ。
 ──変だ?
 ──なにかがおかしい?
 頭の中は真っ白で、それが何によるものなのか分からない。今放り込んだ塩辛を噛んでみる。
 ──いい味だ。
 ──何の問題もない。
 酒をもう一杯。五臓六腑に染み渡る。
 ゆっくりと顔を正面に向けた。婆さんがウインクする。
 ──ありふれた光景だ。
 ──だが、何だこの違和感は?
 ──この不吉な予感は?
 じっと婆さんの顔を見つめた。向こうもこちらを見つめ返す。何がおかしいのか婆さんに訊いてみよう。
「なんか気づかねえか?」
「いんや」
「なーんかおかしんだよな?」
「風邪でも引いたか?」
「いいや、どうして?」
「おめえ、ちょっくら立ってみろ」
「こうか?」
 コウスケはその場に立ち上がった。
 婆さんはコウスケの横にきて座り直すと、顔を上げて微笑みかける。コウスケも「へへへ」と笑った。次の瞬間、コウスケの“威厳”は粉砕された。
「チーン!」
「イッテーし!」
 婆さんはまた指で弾きやがった。コウスケは思わずその場に座り込む。
「おめえ、丸出しでねえか、風邪引くぞ」
「そういえば……? おおっ……」
 コウスケはブルッと震え、婆さんと視線を合わせた。婆さんの顔が目と鼻の先に迫る。しばらく睨み合いは続いた。
「ズンズラケッケーッ!」
 いきなり婆さんは奇声を上げた。
 コウスケは飛び跳ね、足を投げ出しながら、思わず両手でちゃぶ台をひっくり返した。尻で後ずさりして婆さんから逃げる。婆さんはカッと目を見開いたまま合掌する。コウスケは放心してなす術を知らない。
「い、いつ、いつから……いる?」
「ずっとだ」
「な、なんで、ここに……いる?」
「おめえ、馬鹿か? オラが帰る場所はここしかねえだろうが、なに寝ぼけたことを……」
「帰る……って……言った……のに」
「ああ、飛ばなかった。失敗してよ……」
「離陸に失敗した! バアさん死んだのか!」
 コウスケは絶叫した。
「人を化け物呼ばわりすんでねえ! オラ、ピンピンしてるでねえか」
「い、生きてる……のか?」
「あたりめえだ。お向かいさんも当てにはなんねえよな……」
「な、なんでここに戻った?」
「おめえよ、なん度オラに同じこと言わせるつもりだ? オラに野宿しろってか? オラが戻るのはここしかねえんだ! 分かったか! オラの言ってることは理にかなってるだろう? おめえはなーんも考えるな。苦手なんだから、オラが頭使ってやっから安心しな」
「わ、分からねえ……」
 コウスケはボソッと呟いた。
「なんだ? 聞こえねえぞ……」
 婆さんはひっくり返ったちゃぶ台を見た。「あーあ、もったいねえな。ビチョビチョでねえか……塩辛は……? おう、大丈夫だ。おめえ、フタしながら摘まんでたもんな、偉えぞ、零れてねえ、セーフ」
 婆さんは大事そうに塩辛のビンを両手で包むとフタを開け指を突っ込んだ。右手の人差し指と親指で摘まめるだけ摘まんで口に放り込んだ。頬っぺたが膨らみモグモグするうちに唇に辛うじて引っかかっていた細切れの何本かを掌で受け止めると、口を尖らせ物凄い吸引力で吸い込んだ。酢ダコがイカを捕食した瞬間だった。入れ歯がガタガタと噛み合わさる。婆さんは顔を綻ばせ、指と掌を丁寧に舐めまわして舌鼓を打った。
「オレのだ、あんまり食うな!」
 コウスケは思わず立って声を荒げた。
「おめえ、独り占めすんのか? その根性気に食わねえな。あとで叩き直してやる!」
 婆さんはこっちを睨む。「独占禁止法、知らねえな。ドッキンホウだ」
「ドッキン……? また小難しい科学理論持ち出しやがって、もうその手に乗るか!」
「バーカ、法律だ、法律。法律違反は刑務所行きだぞ。ええのか?」
「えっ! どんな法律なんだ?」
「年寄り虐待するんでねえ、なんでも平等に分けろ、っつう法律だ。分かったか、このアンポンタン!」
「いつ成立したんだ?」
「おめえ、政治面読んでねえのか?」
「とってねえし……」
「先月だ。じゃあ文句ねえよな……」
 婆さんはまたフタを開けて、もう一口摘まんでニッコリ微笑みかける。
「チェッ、なにが法律だ! 妙な法律通しやがって……」
 コウスケはボソッと呟くと、なす術もなくその光景を傍観するだけだ。法律とあっては手も足も出ない。政治家なんてろくな仕事しねえくせに、また厄介な法律をこさえたものだ、と国会議員に腹を立てた。今度の選挙は自分にも選挙権がくる。
 ──絶対に棄権などせぬ!
 と固く決意した。
「おめえ、パンツ被るか? 穿()くもんだと誰が決めたんだろな? それもええ……常識には囚われねえこった。一度は疑う必要がある。そこに真理が隠れているかもしれねえ」
「どういう意味だ?」
「ふるチン、だってファッション……ちゅうことよ!」
 コウスケは突っ立ったまま婆さんの視線の先を俯いて見た。慌てて両手で押さえて隠す。
「なに見てやがる、エロババア!」
「この、バカチンが!」
 今の婆さんの言葉に傷ついた。バカ、バカタレ、アホ、トンマ……はまだしも、バカチンだと? 男のプライドが……許せん! どうしてくれよう。押さえたまま婆さんを睨みつけた。
「オレのは、バカチンじゃねえ!」
 両の拳を握り締めた。
 ──オレは男だ!
 ──本気を出せば、こんなババアごときに負けるわけがない。
 ──見ろ、威風堂々たる真の男の迫力を!
 コウスケはキッと目に力を込めて睨み続ける。
 コウスケの威勢に負けて婆さんがひるんだような気がした。今度こそやっつけた、と思った。勝ち誇った顔を婆さんに向け、腰に手を当て“威厳”たっぷりに胸を張る。高いところから婆さんを見下ろしてやった。
 婆さんは口を半開きの状態で呆けたようにこちらを見ていたが、突然ニヤリと片方の口角を持ち上げた。その瞬間、コウスケは咄嗟に半歩だけ身を引いた。婆さんは素早い動きで近寄るとまた弾きやがった。
 あまりの痛みに耐えかねて、咄嗟に両手で押さえた。慌てて、威厳を失った独楽鼠(こまねずみ)を内股に挟み込んで死守すると、畳に膝をつき背を丸め涙目で婆さんを見た。
「バーカチーン!」
 婆さんは言い放つと、こちらを見下ろしながら下品な高笑いを繰り返す。



†††「九太郎参上!」†††

判定:ステージ3 クリアならず!「バーカめ!」

クリアに失敗した朱鷺!
果たして帰郷は叶うのか?
次なるステージへ、いざ行かん!
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