◆7 “猿の顔”に託す帰郷──オナゴ嫌いの猿顔が……?

文字数 14,264文字

「あの娘さんですか? なかなか美人ですね」
 朱鷺は入店するや、若者の隣に腰かけ、さっきからずっとその横顔に見入っていた。
 ──見覚えあるのは、間違いねえ!
 だが、どうしても思い出せない。

   *

 5時に目覚めると朝食の支度を済ませ、『今朝は一人で食べてね、チュッ。トキ』とチラシの裏に書置きを(したた)めてちゃぶ台の上に置くと、急いで向かいのアパートを訪ねた。既に6時を回っていた。
 朱鷺に寝起きを襲われ、寝癖のついた髪を鷲づかみに頭をかきながら寝ぼけ(まなこ)で若者は顔を出した。
 玄関先に突っ立ったまま何ともだらしのない風体(ふうてい)のその顔に、目覚まし代わりだと言わんばかりに平手で軽く一発おみまいしてやった。朱鷺が薄ら微笑むと、左頬に左手を添え目を見開いた。
 ──ようやく目覚めやがったな……
 どういうわけか怯えた表情でしばらく身を強張らせ固まっていたが、
「早くしなせー!」
 と大声で一喝すると若者らしく素直に年長者に従った。ほんで、まだ明け初めし師走の寒空の下、二人仲良く連れ立ってアパートをあとにした。
 巣籠もり線に出ると、若者は左に折れ駅の方を目指そうとした。駅前のチンジャラを恋しがり無意識のうちにそちらの方へ足が向いたのだろう。今日ばかりはパチンコ三昧の生活から解放させてやろう、と強引に方向転換させここまで連れてきたのだ。
 ──これも人助けの一貫だ!
 朱鷺も満足げに胸を張る。
 10時の開店時間まで4時間ほどあった。
「よーし、ついてこーい!」
 朱鷺は駐車場の真ん中で手招きし、号令をかけた。
 サンクチュアリの玄関先でジャケットの襟を立て猫背で座り込みを続ける若者を見兼ねての、言わば親心からだった。引率者の職責を果たすべく、若者を鍛えてやろうと思ったのだ。
 若者は相変わらず猫背のままポケットに手を突っ込みダラダラとこちらへ歩み寄って、朱鷺の前で立ち止まった。二人は面と向かう。
「なんでしょう?」
 若者はキョトンと呆けた赤ら顔をこちらに向けた。
「ラジオたいそうーだいいちー! はじめっ!」
 朱鷺は口演奏で『ラジオ体操第一』を始めた。「さあ、オラに続け!」
 若者は躊躇しながらも朱鷺に従った。
 最後の深呼吸まで手を抜かず決めると、朱鷺はクルリと身を翻し駆け足を始めた。駐車場をゆっくりと五周してロードワークに出る。
 巣籠もり線を南下する。途中振り返って若者がちゃんとついてきていることを確認して颯爽と街なかを駆け抜けた。
「お……おバアさん……どこ……ハアッー……どこまで……行くんです?」
 4、5キロメートル走ったところで若者が尋ねた。
 朱鷺は何も答えず走り続けた。若者は何度も泣き言を吐いたが、当然それには目を瞑ってやった。男の体面を保つためにも知らぬ顔するのが礼儀であろうと考えたからだ。朱鷺の足は次第にスピードを増した。若者は必死の形相で尚も朱鷺のあとに続いた。その姿に朱鷺は嬉しくなった。
「それが男というもんよ。ならば、オラが必ず男にしてやるぜ!」
 気合も十分に加速していった。

   *
 
 鷹鳥町を右回りに一周して再びサンクチュアリの前に到着した時は、丁度開店直後だった。二人は約4時間のランニングを終えた。若者を見ると、ぐったりと正気が失せていたが、清々しい猿顔、もとい、赤ら顔の(おとこ)が現れた。
「よくついてきた」
 朱鷺は一言褒めてやり、ニンマリと満足げに頷いて見せた。
 呼吸を整え、汗が引くのを待って、自らも清々しい気分でようやく店内に入った。
 店内はガラガラだった。二人は中央のテーブル席に着くと、それぞれ心の赴くままに行動を起こした。朱鷺は若者の顔から目が離せなくなった。
 若者はトキの行動を目で追っている。あの腐った鰯の目ん玉はどこへやら、生き返ったように目を輝かせる。これも今しがたの鍛錬の賜物だ、と朱鷺は見た。
「ご注文は?」
 二人がそれぞれのターゲットに的を絞って観察を続けていたら、小太りのウエイトレスが寄ってきた。彼女はしばらく突っ立ったままこちらに愛想を振りまいていたが、二人してだんまりを決め込んでいたものだから、業を煮やしたらしく、
「恐れ入ります。お決まりになりましたらどうぞお呼びください」
 と早口で言い放ち、仏頂面でその場を離れて行った。
 朱鷺は彼女を一瞥してすぐにまた隣人の横顔を見つめる。隣人はトキから目を離そうとはせずチャンスをうかがっていた。
「こっちへやってきます!」
 隣人の上ずった声に、朱鷺はその視線の示す方向に目を向けた。トキがこちらに近づいてきて、そのまま通りすぎようとした。すかさず隣人がトキを呼び止める。
「はい、ご注文ですね?」
「お嬢さん、つかぬことをお尋ねしますが……これは心理学のテストです。お答え頂けますかな?」
 隣人は愛想を振りまいてトキを安心させようとした。
「なんなりと……」
 トキも笑顔で応じる。
「心理学……テスト……ハテ?」
 朱鷺は首を傾げた。
「なーに、簡単な質問です。では……」
 隣人は一度咳払いをして朱鷺の方を向いた。「私の隣に誰が座っていると思います? あなたの目に映るのは……人間じゃなくても結構。真剣に考えなくてもいいのです。お遊びですから」  
 トキはしばらく眉根を寄せ、銀盆を握った左手を右の脇の下に入れると、右手で顎を撫で始めた。
 隣人はトキに笑いかける。
 朱鷺はその様子に見入った。どこかで見た光景だと直感が教える。
 ──こいつは……どこの誰だっけか?
 この猿顔は忘れようにも忘れられるものじゃない。朱鷺は側頭部を平手で打ち続け記憶を手繰ろうと試みた。
 トキは隣人の顔を見つめつつ、今にも吹き出しそうな雰囲気だ。
 朱鷺は己が身体から魂だけを抜いて、トキの意識下に潜る(さま)を想像してみる。
 トキが口を開きかけ言葉を発するよりも先に、朱鷺は早口で隣人に耳打ちした。
「若い女性の方かしら、いえ、アホ(づら)のお猿さん、そうだわ、お猿さんね、フフフ」
 隣人は朱鷺の顔を怪訝そうな目つきで見た。
「若い女性の方……かしら? いえ、アホ面の……お猿さん。そうだわ、お猿さんね、フフフ……」
 トキはオウム返しに答えると、口を手で押さえ笑い出す。
 隣人は朱鷺の方を見て、口を半開きに両手を宙に浮かせたまま動きを止めた。朱鷺が肘で小突いてようやく我に返る。
「あ、あなたには……そう見えるの……ですね……?」
 隣人の顔はまだ朱鷺に向いたままだ。
「はい」
 トキは笑いを押し殺す。
 隣人はゆっくりと首を回し朱鷺からトキへと視線を向けた。
「素敵な笑顔だ」
 隣人は物欲しげな目つきでトキに微笑んだ。
「ありがとうございます」
 トキはクスクス笑いながら礼を言った。
「まさか、あんたオラに気があんのか?」
 隣人は椅子から尻を跳ね上げた。またこちらを向いて首を小刻みに横に振る。
 朱鷺は目を細め視線で相手のそれを射抜く。
「ご注文は?」
「ああーんちょっちょっ!」
 トキの声に驚いたのか、隣人はわけの分からぬ悲鳴を上げ、座ったまま跳び上がった。今度は意外と高く尻を宙に浮かせたものだから着地の際に大きな音がした。
 トキは堪らず声を上げ笑い出してしまった。
 隣人は朱鷺とトキを何度かキョロキョロと交互に見ながら目を丸くすると、もう一度トキに引きつった笑みを見せる。
「ああ、注文……ですね?」
「フフフッ……」
 トキは口を手で押さえたまま頷くのが精一杯だった。と、朱鷺は回顧した。
「『カツカレーにオムライスにモーニングセット、トーストは持ち帰るからラップで包んでちょうだいね。それにコーフィー』じゃな」
 朱鷺は隣人の口元をじっと見つめながら、開きかけるとすかさず先んじてその口真似で注文するメニューを答えた。
「カツカレーにオムライスにモーニングセット、トーストは持ち帰るからラップで包んでちょうだいね。それに……」
 隣人はこちらを向いたまま殆ど無表情で注文した。「コーフィー」
「は、はい……フフフ……」
 トキは笑いを堪えながら立ち去った。
「あんた、普通に『コーヒー』でええのに、変にカッコつけるから発音もイントネーションもおかしいんでねえか。語尾は下げるんだぞ、上げるんでねえよ、あんたの語学力は全くなってねえなあ……猿同然でねえか……もいっぺん、リピートアフターミー! コーヒー」
 朱鷺の語学力も似たり寄ったりだったが、これほど酷い語学力の持ち主を前にすると、ここぞとばかりにやり込めてやりたい衝動に駆られるのだった。
 朱鷺には苦い経験があった。中学、高校では教師や同級生らにいつも難癖をつけられ、
 ──英語なんぞ金輪際勉強してやるものか、ざまあみろ!
 と英語の授業だけはボイコットしてきたのだ。それでも奇跡的に辛うじて合格すれすれの成績だったから、高校は無事卒業できた。
「コーフィー……」
 隣人は猿真似でリピートしたが、結局発音もイントネーションも矯正は叶わなかった。朱鷺は、止む無く“不可”の評価を下した。呆然と朱鷺を見つめる悲しげな猿面が痛々しい。
「ヘヘヘッ……あんた確か……」
 朱鷺は隣人の顔をまじまじと見ながら思わず吹き出した。「サルノカオさん」
「いかにも。わたくし、申し遅れましたが……」
 猿の顔は上体だけこちらに向き直り、両膝をテーブルの下で綺麗に揃え襟を正す。「猿野夏央と申します。カオではなく、カオウです。夏の盛り、つまり夏の真ん中に生れましたもので、祖父が名づけてくれたのです。24歳の若輩者でございます。お見知りおきのほどを……」
 実際は朱鷺が6つ年下であった。
「いやいや、あんたの横顔眺めとったら、やっとこさ……。それにしても名は体を表すとは、よう言うたもんですなあ……お兄さん」
「はあっ?」
「ほんにええ顔しとられる」
「はあ、ありがとうございます」
「ヘヘヘッ……」
「ヘヘヘッ……」
「お待たせしました」
 猿野はトキの声に驚いて両膝をそろえたままテーブルの裏を膝蹴りした。ガチャンと食器同士がぶつかる音が響いた。テーブルには注文の品が全て並べられた。
 トキは二枚の銀盆を重ねながら必死に笑いを堪えている。極力、猿野の顔を見ないように心がけている。
「あーりがとうごじゃいまーす」
 猿野は取り繕おうとして平静を装ったが、日本語のイントネーションすら間違っている。
「ご、ごゆっくり……」
 トキはクスクスと頬を痙攣させ始めた。チラチラと猿野の方を覗き見る。と、仕舞いには声を押し殺して笑い出した。トキの肩が小刻みに揺れる。小脇に抱えた二枚の銀盆がガシャガシャと鳴った。これでも遠慮していたのだ。
「あのう、お嬢さん……なにがそんなにおかしいのでしょう?」
 猿が真顔を向けるものだから、トキは声高に笑ってしまった。おどけ顔よりも余計におかしい。最早堪え切れたものではない。腹を押さえつつ一礼するとその場を離れた。途中何度か猿の様子をうかがいながら大笑いを繰り返し戻って行った。
『笑う門には福来る』
 ──実にめでてえことだ!
 と朱鷺はトキを温かく見守った。
 ふと隣に視線を移すと、怪訝な猿面が朱鷺に向けられた。何度も首を傾げる。
「オラ知らねえよ」
「そんな! ご自分でしょう?」
「とても言えねえよ、人を傷つけるこたあ……」
 猿野はぶ然として眉根を寄せると、何度も「分からん」を連呼して大きく首を傾げた。
「気にするこたねえよ。人の顔はそれぞれでねえか。あんたの猿面も個性と思えばええ」
「さ、さるづら? まさか! 私は猿面じゃない。猿野です。全く近頃の若い連中ときたら、男の見分け方も分からんとは情けない……あの小娘、きっとバチが当たりますよ。当たりゃあいいんだ!」
「コムスメ……とな? オラの悪口言ってんのか?」
「なんですな?」
 幾分ぶっきら棒に言い放った猿野は、腕組みをしたまま、やれやれと言わんばかりにゆっくりと首を何度となく横に振っていたが、その赤ら顔から次第に血の気が引いていった。「さ、さて……と。い、いただき……ま……まーす……」
「朝から豪勢ですなあ。ところで、コムスメとはオラのことでしょうか?」
「は、腹が減っては……そ、それより……」
 猿野は話題を変えてきた。「気づきましたか?」
「なにをです?」
「あの娘さん、影がなかった」
「影が……ない、とな?」
「おバアさんと同じです」
「どういうこってす?」
「それは……あとで……説明することにして、まずは腹ごしらえを……」
 ──うまく切り抜けやがったな、コンニャロー!
 朱鷺は猿野の顔を下の方から覗き込んだ。いかなる角度から見ようとも、やはり立派な猿面だ。
「太りますぞ」
「いえ、私は太る体質では……」
 猿野は左手に握ったスプーンでカツカレーの土手を崩すと、大口を開け、一口目を放り込もうとしたまま手を止めた。「太るの……ですか?」
 ニヤッと入れ歯を引ん剥いてやる。
「いやいや、そりゃ、人生色々です。他人がとやかく言うことでねえよ。気にするこたねえ。太りすぎて、なにがなにで、仕舞いにゃなにしてなんとやら……」
 ここで猿野に真顔を向ける。「ええじゃねえですか、長え短えじゃねえもの。一度っきりの人生……お好きなように」
 銀のスプーンは猿の口辺りで右往左往を繰り返す。
 朱鷺はしきりに、「召し上がれ」とボディランゲージで強く促したが、スプーンを宙に浮かせたまま猿野の手は完全に止まった。一口も手をつけることなくスプーンを置いた。結局、それ以上動くことはなかった。
 ──それならば!
 朱鷺は仕方なくスプーンを受け取り、猿野に視線を送って感謝の意を表す。ざっと戦利品を眺め回したあと、ゆっくりと味わいながら、時折猿野の顔色をうかがっては、勝ち鬨を上げるかのように高笑いで猿面を見据えた。
 猿野の腹から虫の()が朱鷺の耳にも届いた。
 ──季節はずれもええとこだ……
 今はもう師走だというのに。しかもこの虫は騒がしすぎる。
 ──これではかなわんわい、餌でも与えて静かにさせねばなるまい。
 と、仕方なく朱鷺はラップを開いて、厚切りの一枚をトーストして半分に割った片方だけを差し出してみる。すると、猿野は取られてたまるか、とでも言わんばかりに辺りをキョロキョロと警戒しながら貪り始めた。
 ──やはりコイツの祖先は類人猿に相違ねえ!
 そう認識せざるを得なかった。
 あっという間に猿野は平らげ物欲しげに朱鷺を見る。
 ──ここで甘やかして餌を与えたのでは、コイツのためにはならん!
 朱鷺は心を鬼にして無視を決め込んだ。
 朱鷺もピッチを上げ、それほど時間をかけずカツカレーとオムライスを平らげると、横目で猿野を見ながらもう片方のトーストにかじりついた。こんがりと香ばしい焼き目の上にバターがたっぷり塗られたトーストを三口で食すと、手についたパンくずを払い落とし、コーヒーカップを口に運ぶ。丁度飲み頃の温度だ。口の中に残ったトーストの残骸を一気にコーヒーで胃袋へと流し込んで朝食を終えた。
「ごちそうさん」
 猿野を見て手を合わせた。
 猿野は元気なくガックリと肩を落とした。その反面、虫の声は元気づいた。

   *

 サンクチュアリを出た時には10時半近くになっていた。
 二人はみどり公園へ入り大銀杏の前で立ち止まった。猿野がそこで止まったから朱鷺も従っただけである。猿野は大木を見上げたあと、視線を足元に落とした。右手で顎をさすっている。左手の人差し指で宙に何かを描きながら。顔の()の部位は赤いのに、口の周りだけ不精髭が青々と育ちつつあるのが、何とも滑稽に思える。
 急にまた歩き出した。猿野のあとをついて行くと、しばらくして左に小さな池が現れた。池を臨むようにベンチが設えてある。
 猿野はベンチに腰かけると、途中藤野商店で買ったあんパンを、元は濃紺の、擦れて肘がテカテカになった、よれよれの上着のポケットから摘まみ出して、袋を両の掌で思い切り押し潰した。パンッと大きな破裂音とともに中のあんパンはペチャンコになる。これでもかこれでもか、とまるで敵でも絞め殺すかのようにまだ押さえ続けている。ようやく薄っぺらの変わり果てた姿になった中身を出して、丸めて丸めてギュッと握り締めると口に放り込む。頬が膨れ上がり、苔むした顎が規則正しく上下運動を繰り返した。喉につかえそうになったのか胸を叩きながら口をモグモグさせ、涙目でフーッと息をついた。短めの左脚を伸ばし尻を浮かべると上体が大きく右になびいた。グレーのスラックスの左のポケットから牛乳ビンを引っ張り出す。ポケットもひっくり返りアッカンベーと朱鷺を挑発し、腐りかけた桐の下駄が朱鷺の足元まで伸びてきた。(すね)毛が剥き出しになる。
 朱鷺は思う。
 ──確か……
「人は猿より毛が3本だけ多い」
 と昔聞いたことがある。
 ──果たして、コイツはどっちだろうか?
 と疑念を抱かずにはいられなかった。で、もう少しコイツを注意深く観察してやろうと決めた。
 膝が膨らみ、折り目の消えたグレーのスラックスの裾は、糸ではなく安全ピンだけで左右それぞれ四箇所留められていた。
 ──せめて、裾丈(すそたけ)でも合わせりゃいいものを……
 ──いくらなんでも、つんつるてんはなかろう!
 他人事(ひとごと)なれど腹が立った。座ったら脛の半分ほどしか隠れないのだ。
 猿野は牛乳ビンの飲み口を頬張り吸い込んだ。ポンッと音がして蓋は開いた。唇で円形の紙の蓋を咥え、そのまま下に落とすと、オフホワイトと言えば聞こえはいいが、実のところ着古して洗濯の甲斐もなく薄汚れただけの、恐らく元は純白だったはずのワイシャツの胸ポケットにうまくおさまった。
 ──全く器用なヤツだ!
 朱鷺を感心させはした。
 もう一度飲み口を頬張り上を向くと、一瞬で牛乳ビンは空になった。猿野は二口で朝食を兼ねた昼食の続きを終え、唸りながらまた顎をさすり出す。空きビンを握ったまま立ち上がると、クルリと身を翻し朱鷺を見た。
「影……どうしてない?」
「ハテ?」
 ──オラに質問してきたのか……?
 と思ったが、どうやら独り言のようだ。
 猿野は空きビンを後生大事そうに再びスラックスのポケットにおさめる。藤野商店で10円と換金するためだろう。
 猿野は池の縁を行き来し始めた。朱鷺の目には苦し紛れに右往左往しているだけにしか映らなかった。
 朱鷺は大欠伸をしてぼんやりと猿野を観察し続けると、次第に瞼が重くなる。
 猿野は屈んで小石を拾い上げると池に投げ入れた。ドボン、ポチャンと二回音がした。木柵に手をついて池を見入っている。と、突然右の掌でパチンと己が額を叩いた。
「そうか、そうかも、そうに違いない!」
 朱鷺にはおぼろげにその光景が目に映った。遠くの方から猿の声が聞こえる。
 ──ここは動物園の猿山の前だろうか?
 影がどうのこうの……。猿が喋っている。猿が喋るなんてありえないのに。朱鷺は前後左右に揺れながら意識は遠退いてゆく。
 ──誰だろう、耳元で囁くのは?
 ──不快だ!
 ──不愉快極まりない!
 せっかく今まで心地よかったのに、邪魔が入った。朱鷺は怒りに任せて右の拳を力いっぱい下から上へ振り上げた。
 ──眩しい。
 手をかざして光を遮った。目の前に池が見えた。光はそこから放たれていた。水面(みなも)に反射した陽光が顔に当たっていたのだ。欠伸をしながら辺りを見渡してみた。右隣に猿野が座っていた。怯えた表情でこっちを見ている。左手で左目を塞いでいた。
「なんだ……視力検査か?」
 朱鷺は指を二本立てVサインを送る。「なん本に見える?」
「い、いきなり、ヒ、ヒドイ……ヒドイじゃないですか!」
「なんとな?」
「覚えて……ないんですか?」
「ハテ? オラ、覚えとるよ……なして忘らりょか? あんたの顔、忘れようなんざ、できねえよ。猿野さんでねえか。なに寝ぼけてんだ、あんた……」
「寝ぼけてるのは……」
 猿野は何か言いたげだが、どうもはっきりしない。そのまま黙り込んだ。
「あんた寝ぼけてねえで、帰る手だて早く考えてもらえねえか?」
 朱鷺は大きく伸びをした。
「私を殴った……でしょ?」
「誰が?」
「おバアさんが……」
「誰を?」
「私を」
「なして?」
「分かりません!」
「あんたを殴るなんて……ありえねえ!」
「よくもまあ、寝ぼけてあんな力が出せますね……」
「オラ寝てねえ!」
 朱鷺はベンチに右足を立て膝に右腕を乗せると、横目で猿野に凄んで見せる。「文句ねえよな?」
「ハ、ハイッ!」
 猿野は背筋を伸ばした。
「あんたはええ人じゃな。それで、なんか分かったのか?」
「は、はい……」
 猿野は左目を左手で隠したまま先を続けた。「干渉しているんです。打ち消しあっているのです」
「ハテ?」
 猿野はベンチを離れ、キョロキョロと何かを探し回っている。屈んで小枝を一本握ると傍に寄り、しゃがんで地面に図形を描き始めた。
 朱鷺は土に浮かび上がった図形を、ベンチに腰かけたまま猿野の背中越しにそっと覗いた。意外と頭髪はフサフサしていた。コイツは歳を取っても毛だけには恵まれている。だが猿よりも3本だけ多いかは定かではない。
「つまり、こういうことです」
「どういうことでしょう?」
 朱鷺も猿野の隣にしゃがみ込む。
「波です。二つの同じ正弦波が重なるとします。波の幅は二倍になります。もし、これが180度ずれると……」
「打ち消し合ってゼロになる、ということですな」
「その通り。さすがですね」
「で、それが?」
「周期は70年です。なんらかの原因で、おバアさんとトキさんの間に時空の乱れが生じた。そして振動しなくなった。二人の間の時間の流れがゼロになってしまったのでしょう。だからおバアさんは時空を70年だけ自由に移動できたのです。お互いの波を元の波形に戻せばいいだけの話です」
「どうやって?」
「それには、おバアさんとトキさんの距離をゼロにすればいい」
「それはできません。オラ消えちまう」
「いいえ、可能なはずです」
 猿野は立ち上がった。「あのトキさんがこの時代の人間なら、これはまず間違いない。おバアさんが別の時代の人間ということになる」
「間違いねえです、ハイ」
「だから、おバアさんは影なんです」
「なんと、オラが影とな?」
「はい。70年後のおバアさんがこの時代にやってきた時、あのトキさんの影として存在し、それは一瞬の出来事だった。その後、影が実体化して我々の前に出現したというわけです。トキさんにとっておバアさんは影にすぎません。だから影としか認識できない。自分の影は己自身ですから、人は自分のことには中々気づかないものです。だが、他人は本人が気づかない欠点も分かってしまうものです」
「はあ、さすがですな。はったりも、まともに聞こえましたわ。それで、どうやって?」
「なんか引っかかりますね……ま、この際気にするのはよして、おバアさんが影に戻ればいいのです」
「で、どうやって?」
「身長はいかほどです?」
「昔は160センチあったんじゃが……ここ数十年測ったこたねえです。縮んどるでしょう」
「せいぜい4、5センチの誤差でしょう。トキさんの身長は160センチということですね」
「ハイな、オラですから。で、どうやって?」
「戻りましょう。帰ってやることがある」
「なにをです?」
「ちょっとした計算です。なーに、簡単な三角法ですよ」
「で、どうやって?」
 猿野は朱鷺の問いには一切答えず、笑顔を向け頷くだけだった。
 ──はぐらかしやがって!
 朱鷺は心の中で呟いた。だが、今はこの男にすがるしかない。朱鷺も猿野に笑顔を返した。この男の前で笑顔を作るのは容易(たやす)いことだ。目の前に猿面があるのだから。おまけに左目の周りに青あざをこしらえている。赤地に青黒いコントラストが鮮やかに浮き立つ。
 ──よりによってこの猿、どこにぶつけやがった?
 朱鷺は腹の底から笑いが込み上げて、堪え切れず、思わず入れ歯が飛び出しそうになるぐらい大口を開けて高笑いしてしまった。
「なにがそんなにおかしいのでしょう?」
 猿野は薄ら笑みを浮かべながら腑に落ちない顔だ。
「あんた、鏡持ってんのか?」
「鏡? はい、家にありますが……」
「いつも見てるのか?」
「はい、毎日」
 朱鷺はその姿を想像しながら一層おかしくなってきた。猿野は首を傾げ、目をパチクリさせながら朱鷺に猿面を向けていた。朱鷺は堪らず目を逸らした。
「睨めっこはよしなって。オラかなわねえ、あんたには……」
 朱鷺はまた吹き出してしまった。

   *

 朱鷺はコウスケのアパートに猿野を招き入れた。もう11時をすぎたというのに、まだコウスケは部屋でくつろいでいた。
「おめえ仕事は?」
「昼から」
「そうか、お向かいさん連れてきたぞ」
「お久しぶり」
「ああ、どうぞ、汚えとこだけど……」
「いんや、お向かいさんとこよりマシよ」
 すかさず朱鷺が口を挿む。
「いちいちごもっとも」
 猿野が頭をかく。
「へえ、そんなに……これよか汚ねえ部屋あんの?」
 コウスケは感心する。
「ちょっくら、ちゃぶ台貸せや」
「なにやるんだ?」
「お勉強よ」
「その歳でか、手遅れだ」
「勉強に早えも遅えもねえんだ。よく覚えとけ! おめえもそのうち分かる。そん時慌てふためいても誰も助けてくれねえよ。それこそ手遅れだ」
 コウスケは舌打ちしてそっぽを向いた。
 朱鷺は窓を背にしていつもの定位置にコウスケと並んで座る。朱鷺の目の前に猿野も腰を下ろし、三人はちゃぶ台を囲んだ。
「あのう、ものさしかメジャーはありますか?」
「あるよ。メジャーなら」
 コウスケは立ち上がって押入れの襖を開け頭を突っ込んだ。奥の方から錆びついた工具箱を手に提げ、畳の上に置いて蓋を開けたら、畳の上に錆が散らばった。中身をガチャガチャ引っかき回し金属製のメジャーを握ると、猿野に手渡し元の位置に胡坐(あぐら)をかいた。
「おバアさん、一応身長を測りましょう」
 朱鷺が、便所前の廊下と六畳間を仕切る障子戸の柱を背にして立つと、猿野はメジャーをのばし朱鷺の身長を測定した。
「バアさんよ。軍隊にでも入んのか?」
 コウスケなど無視して、身体測定を終えて戻った朱鷺は、定位置にどっかと腰を落ち着けた。朱鷺の左側にコウスケは足を投げ出して両手を後ろについている。横目でコウスケをうかがった。コウスケもこっちをうかがっている。朱鷺は猿野に笑いかける。と、コウスケの足をつかんで足の裏を力いっぱい何度もかき毟った。コウスケは後ろになびいて畳に両肘をつき、悲鳴を上げながら足を引っ込めようともがいた。
「ま、これぐらいにしといてやる」
 朱鷺が力を緩めると同時に、コウスケは上体を起こし足を取り戻すと、正座で尻の下に足の裏を完璧に隠し切った。
「仲がよろしいようで……」
 猿野が笑う。「おバアさん、縮んだとおっしゃいましたましたが、ちっとも縮んじゃいません。160センチ丁度です」
「あれま、牛乳が効いとるんじゃろか? 毎日2リットル欠かしたことはねえもんな……」
「2リットルも! きっとそうでしょう。カルシウムのおかげかと……」
 朱鷺は立ち上がって冷蔵庫をあさった。二人の視線が注がれる。
 スルメを一杯ガスコンロの上に載せあぶり始める。コンロの上でスルメはクルリと丸まる。そこを上手に摘まんで焦げないよう何度も素早く引っくり返す。あぶり終えたスルメをちゃぶ台めがけ放った。スルメは見事ちゃぶ台の上に着地した。
「んー、ナイス

! いい匂いです」
 猿野はスルメに鼻を近づけた。
 朱鷺は座ってスルメを裂く。
「いつの間に? 先をこされた。気づいてりゃ……クソッ!」
 コウスケは悔しそうに顔をしかめる。
 猿野は朱鷺から細く裂いたスルメを受け取って咥えると、上着のポケットから丸まった大学ノートをちゃぶ台の上でのばし、白紙のページを捲った。指を内ポケットにしのばせ万年筆をつかむと、キャップを開け図形を描いた。角Cが直角の、直角二等辺三角形だ。
「いいですか。簡単な数学の問題です」
 猿野は一旦万年筆を置いた。「さて、角Aと角Bはなん度?」
 朱鷺はコウスケの顔を覗き込む。
「な、なんだ!」
「答えてみろ」
「エッ! ええ……ええっとー……?」
「カラーンコローン」
 コウスケの頭を突く。
「ハーイ、分かる人?」
 猿野の声にコウスケはビクッと反応して背筋を伸ばした。
「ハーイ先生」
「はい、おバアさん」
「45度です」
「正解。じゃあ、ご褒美にスルメを」
 朱鷺は入れ歯を外してスルメを咥えた。
「うめえ! 一杯やりてえなあ」
「さてと、オレ……用事……思い出した」
 コウスケはスルメを咥えながら立ち上がる。
「どこ行く?」
「ちょっとな……」
 そう言うと、コウスケは屈んで朱鷺に耳打ちした。「左目の青あざ、バアさんの仕業か?」
「とんでもねえ。この人そそっかしいみてえだ。どっかにぶつけたらしいぞ……」
 朱鷺も口を覆ってヒソヒソとコウスケに答える。
「ま、ゆっくりしてってくれ」
 コウスケは猿野に目配せして、そそくさと部屋を出て行った。
「どうしたんでしょう?」
「なーに、頭でも痛くなったのさ」
「二日酔いですか?」
「数学アレルギーなんだ」
「あっ、なるほど」
 猿野は大きく頷く。
「さあ、続けようでねえの、それで?」
「はいはい。えーっと、どこまで……? あっ、そうか」
 猿野は指で図形をなぞった。「ACはトキさんの身長、BCは影の長さです。影の長さが丁度160センチになる時間を見計らって、すかさずおバアさんは影の位置に滑り込めばいいのです」
「それで帰れますかな?」
「おバアさんはトキさんの単なる影ですから、影に戻れば時空の裂け目が開いて……」
 最後の言葉は口を濁した。
「それで、帰れますかな?」
「いつ、実行しましょうか?」
 ──はぐらかしやがって……
「そうですな……これは、どういう理論ですかな?」
 意地悪な質問をぶつけてみる。
「ああ……ええ……うう……これは、つまり、そのぉ……」
 猿野は腕組みをして眉根を寄せた。目が泳ぐ。「い、一般相対性理論と量子力学との統一、つまり量子重力理論における時間軸のずれにおけるシュレーディンガー波動力学のあーたらこーたらの、エントロピーの増大がどうしたというんだ。対称性の破れは置いといて、猫は死んでいるし生きている。因果律の破綻が引き起こした流れを結果があって原因がある……ゴホンッ……を逆にして、因果律を元に戻す理論とでも……」
「あんた、自分でなに言うとるか、分かっとりますかな?」
「いつがよろしいでしょう?」
 猿野はすまし顔でやり過ごそうとする。
「オラ、別れを惜しむ時間がいる。明日でどうだ?」
「そうしましょう」
「あんた、はったりは時と場所を選んだ方がええよ。痛え目に合いとうなかったらな。怖ろしい目に合っても誰も助けてくれねえよ」
「えっ! 私はなにをしているんでしょうか? そちらでは……」
「聞かん方が身のためかもしれんが……」
「ええっ! そんな酷い人生なんですか?」
 猿野の人生については詳しくは知らないし、責任は持てぬ。だが、二、三知っている人生を明かしてやってもよかろうと思った。
「あんた、なんとかいう装置を発明したとか。ハテ? 確か……そうそう、テレコーローションとか言うとった。んっ、間違いねえ!」
「テレコーローション……化粧品でしょうか?」
「知らん。新しい移動手段とかなんとか……」
「なんでしょう、私は発明家なんですか?」
「自分のことでねえか、オラに訊かれても知らん」
「なんとも妙な物を、発明するんですねえ……」
「ろくでもねえもんばっかしだ!」
 朱鷺には想像もできないが、大した物でもないことだけは確信している。「そうだ、あんた、手が後ろに回るところだったんだぞ」
「えっ、私、逮捕される! なぜ?」
「そのテレコなんとかが原因だ。実験に失敗してな、大爆発よ。だがよ、幸い自分の部屋少し焦がしただけだ。安心しな、逮捕はされねえから。ボヤで済んだからええようなもんを、危うく死人でも出したらよ、あんたの人生もお仕舞いだったろうよ。人騒がせなこった、全く……」
 猿野はガックリと肩を落とした。
「私の人生はろくでもないんですね……」
「落ち込むこたねえよ」
「なにか希望が持てることでも?」
 猿野が若い時分から子供にバカにされ石をぶつけられている光景を、朱鷺は何度か目撃していたことを思い出した。
「あんた、子供に、えれえ人気者だ」
 猿野はちゃぶ台に身を乗り出し、猿面を朱鷺に向ける。
「そ、それで?」
「あっ、大事なこと言い忘れてた」
「はいはい」
 猿野は希望に満ちた表情だ。
「オナゴには縁はねえ、ぜーんぜん」
「オナゴ……とは、なんですか? イナゴの新種でしょうか?」
「オナゴはオナゴでねえか」
 朱鷺は両手で胸の膨らみを二度表現した。
「オナゴ……に……縁……ない?」
 猿野は口を半開きにうつろな目の色をしている。
「悲観せんでもええ」
「はあ、び、びっくり……しました。てっきり希望はないかと……やはり希望はありそうですね」
 猿野は安堵の表情を向ける。
 朱鷺は猿野を喜ばせてやろうと思い、真実を語ることにした。
「あるとも、大いにあるとも」
「そうですか、これで一安心です。私はてっきり、一生女気なしに過ごすのかと……」
 猿野の表情が一層明るくなった。
 ──どういうわけだ?
 朱鷺は首を捻った。何か誤解があったようだ。
「あんたは好きなことを思いっきりやればええ。あんたはそれで十分幸せなんじゃもの」
「そうですか、で、オナゴはどこに……?」
「オナゴ? あんた、オナゴに興味ねえんじゃ……?」
「そ、そんなこと、断じてありませーん!」
「諦めろ! あんた、いつも言うとるでねえか」
「なんと?」
「夢とロマンに生きる男の生き様を見るがいい。そこにオナゴの入る隙間はなーい……って」
「どうして、そんなこと言うんです!」
 猿野は泣きそうな顔をした。
「知らん! 男なら、自分の言うたことに責任持たねえかい!」
「私は、そんなこと言った覚えは……」
「ええいっ、つべこべ言うな! あんたにオナゴは必要ねえ。オナゴにうつつぬかすんでねえ。さもねえと……オラ、只じゃおかねえ!」
「オナゴ……オナゴ……」
 猿野の目から涙が零れた。
 朱鷺は悟った。この涙は、女との永遠の別れの涙だと。
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