◆1 旅路の果てに──皆、どうなった?

文字数 32,688文字

「アイターッ!」
 結局堪え切れなかった朱鷺はバランスを失って足を踏み外した。尻餅をついて、思い切り尻を打ちつけてしまった。「ああ、死ぬかと思った!」
 尻をさすりながら周囲に目を配った。窓から柿の木が見える。横にはぶら下がり健康器が天井すれすれまでグリップを伸ばし高々とそびえ立つ。丸椅子が部屋の隅っこに転がっていた。
 ──ここは……?
 まるで長い夢から覚めた時のように頭はぼんやりしている。もう一度視線を巡らせてみる。
 ──ここは寝室だ! 
 何かが首に巻きついていた。それをゆっくり解いて手繰り寄せる。ゴムひもはほぼ中央で切れていた。結び目はしっかりと結ばれている。もう一度ぶら下がり健康器のグリップを見上げた。そのまましばらく呆然と見つめる。
 頭の中に様々な光景が自然と蘇る。あたかも映画さながらに登場人物達が、てんでんばらばら、勝手気ままに役を演じているかのように。
 ──ナニがナニやらわけが分からねえ!
 ──ぶら下がり健康器。
 ──ゴムひも。
 ──丸椅子。
 ──なしてこの部屋にある?
 朱鷺は考え続けた。
 突然、寝室の鳩時計が鳴った。反射的に目をそちらに向ける。午後3時の時を告げたのだ。
 ──そうだ、死のうとしていたのだ!
 ようやく我に返った。
 映像の最初の場面が蘇ると、あとは芋づる式に次から次へと断片が整然と筋道立てて流れていった。
 爺さんのあとを追おうとした。それは殆ど無意識の為せる業のような気がする。途中で頭がはっきりしてくると、どうして死のうとしているのか全く理解できなくなった。バカらしくなり死ぬのをやめた。
 ──それが……?
 若い女が叫びながら庭先から部屋に入ってきて、そのせいでバランスを崩してしまったのだ。そのあと、女とぶつかりそうになって……。
 ──なぜ死のうとしたのか?
 それも今、ようやく明らかになった。朱鷺は全てを思い出した。
 みどり公園のベンチで薄汚い、影の薄い死人同然の婆さんと出くわした。口論になり、何度も「死ね!」と言われたのだ。なぜか知っているような気がして、逃げる婆さんを追いかけてようやく追い詰めた途端……
 ──そうだ、向こうは転んだ!
 近寄ってよく顔を見てやろうと思った矢先、こっちも蹴躓き転んでしまったのだ。そのあとのことは、すっかり記憶から消え失せていた。気がつけば公園の通路に寝転んでいた。額を打ちつけて気絶していたことを、ようやく思い出した。手には一輪のバラの花を握り締めていた。今、全ての断片のつじつまが合う。
 ──あの婆さんに出会ったのが発端だ!
 それ以来、頭の中で声が囁き始める。それで暗示にかかったように死ぬ気になった。
「そうか!」
 全てを悟った。
 ──きっかけは皆、自分だ!
 ──あの若い女!
 ──公園の薄汚いバアさん!
 ──あれは己自身なのだ!
 今、左手にはもう一輪のバラの花を握っていた。
 ハッとして右手を左手に添えた。右手の指先に硬いものが触れた。左手を目の前にかざしてみる。窓から差し込む陽光を反射して指輪は輝いた。爺さんが約束してくれた18歳の誕生プレゼントがおさまるべき薬指にちゃんとおさまっていた。
 ──そうだ!
 ──仏壇の引き出しだ!
 隣室の仏間へと一目散に跳んだ。
 仏壇の前に座るとバラを花瓶に挿し、一度合掌して引き出しを開けた。奥の方から紫色の袋が出てきた。中に箱のようなものが入れてある。両手にすっぽりおさまるぐらいの袋の口は、同色の房で閉じられていた。それを解いて中の箱を手に取った時、白い封筒が畳の上に落ちた。封筒をテーブルの上に置いて箱を揺すってみる。カタカタと鳴る。桐箱だった。
 ──なにか大切な物でも入れてあるのだろう……
 桐箱を目の高さまで持ち上げると、そっと蓋を開けた。
 中身も紫の布で包んであった。丁寧にゆっくりと布を広げてみる。黄金(こがね)色だ。窓の方へかざす。キラキラと輝きを放ち、とても美しい。逆光でそのものの正体はうまくつかめない。光の差し込む方角とは反対方向へ手を動かした。中身を上から覗き込む。首を捻る。何とも異様な形をしたものだ。金で覆い尽くされてはいたが、どこかで見覚えがある。確かにある。箱をテーブルに置き、中身を手に取り左の掌に載せ、目線に掲げつぶさに観察する。
 思わず手を引っ込めた。今、それが掌で上下綺麗に噛み合わさってキンキラキンと笑ったのだ。それは畳の上に散らばった。
 ──入れ歯だ!
 それも金でこしらえた入れ歯だった。
 畳の上に散らばったそれぞれを手に取ると、上下きちんと噛み合わせ、元の桐箱におさめて蓋をした。封筒の中から便箋を引き抜く。丁寧に便箋を開き、テーブル上の老眼鏡をかける。爺さんの直筆で綴られていた。
 文字を指でなぞりながら読み終えると、涙が一滴頬を伝って畳を濡らした。畳の上にくっきりと放射状の染みが広がる。便箋を封筒に戻し、仏壇の引き出しに仕舞う。もう一度遺影に手を合わせた。三人の写真が、朱鷺を優しい眼差しで見守っている。爺さんを中央に挟んで左側に舅の鴻吉、右側に姑のテン子。三人仲良く並んで微笑んでいる。今一度はテン子に向かって合掌した。心から詫びと礼を言って、せめてもの恩返しとばかりに、長男の嫁の千鳥には自分のような思いはさせまいと固く心に誓う。
 一連の挨拶を済ませて立ち上がり、襖を開けると廊下に出て耳を澄ました。トントンと包丁がまな板を叩く音が聞こえる。夕食の支度中のようだ。
「千鳥さーん、ちょっと!」
 台所の方へ叫んだ。テーブルの前に正座して千鳥を待つ。
「お義母(かあ)さん、なにか御用……かしら?」
 ほどなくして千鳥は、濡れた手をエプロンで拭きつつ襖の陰から半身を覗かせた。
「さあさあ、入っておいで。そんなとこに突っ立ってないで、そこにお座りよ」
 満面の笑みを向けながらテーブルの向こうを視線で指し示した。
「なにか気に障りました?」
 千鳥は渋々といった表情で従った。中に入ると廊下側の襖を背にして腰を下ろし、朱鷺とテーブルを挟んで面と向かった。
 孫の鴻太郎の快活な声が玄関から飛び込んできた。中学から帰ってきたのだ。いつもの習慣で真っ先にこの仏間に顔を出すはずだ。
「バアちゃん、ただいま。おっ、カアちゃん! またやり合ってんのか?」
「そうじゃねえよ。オラ、千鳥さんにちょっくら大事な話があんのさ」
「やっぱ、開戦か? 面白えぞ」
「鴻太郎、やめなさい!」
 千鳥が一喝する。
「へーい……」
 鴻太郎は千鳥の後ろに突っ立ったまま交互に朱鷺と千鳥を見ている。
 朱鷺は千鳥の顔を真剣に見つめた。
「お義母さん、すみません、気に障ったなら謝りますけど……お義母さんもお義母さんじゃないですか、また私達の寝室に黙って入ったでしょ?」
「丸椅子借りにな」
「ついでに……」
 千鳥は言いかけて途中でやめ、テーブルに身を乗り出して朱鷺の耳元で囁いた。「私のブラ、()ったでしょ?」
「げえっ、バアちゃんあんなハデなヘンチョコリンなヤツつけてんの? 悪趣味だぜ……」
 鴻太郎は顔をしかめながら両手で胸の膨らみを強調した。鴻太郎の顔が千鳥の顔と並んでいる。いつの間にか千鳥の横に座っていた。
「鴻太郎、はしたないことしなさんな!」
 千鳥は横目で鴻太郎を睨んだ。「あんたいつ覗いたの! 油断も隙もあったもんじゃないわ、誰に似たのかしら?」
「ジイさんだ!」
 すかさず朱鷺は口を挟むと大きく頷く。「そっくりだ」
「バアちゃん、誰に見せんのさ? ジイちゃん、もういないんだぜ」
「鴻太郎、あっち行って!」
「まあまあ、千鳥さん、あとで洗って返すから……いや、新しいの買って返すからさ、堪えておくれよ。このとおり……」
 深々と三つ指ついて詫びを入れると、千鳥はキョトンとした。
「お、お義母さん……どうしたんです? お義母さんらしくないわ」
「バアちゃん、大丈夫か?」
「ああ、オラ、いたって平気さ」
 千鳥と鴻太郎は顔を見合わせ、首を傾げる。
「お義母さん、大事なお話というのは……?」
「政権交代の相談だ」
「日本の首相……代わるんでしたっけ?」
「あんたに政権明け渡すんだ」
「はあっ?」
 千鳥は口をあんぐりと開けたまま目を瞬かせる。
「オラ、引退だ。あんた、これから思い通りにやってくれ。口出しは一切しねえから。それだけだ」
「ええーっ!」
 千鳥は怯えた表情で後ろに手をついた。その拍子に後頭部が襖に当たって襖が揺れた。
「今まで、よーっく、このオラに尽くしてくれたな、あんがとよ、このとおりだ」
 再び畳に手をついて千鳥に頭を下げる。「オラ、自由にやらせてもらう。オラに構うこたねえよ。あんたも自由にやってくれ。和平交渉成立だな。オラの宣言、受諾してくれっか? そうしてくれたら、籠野家も永久に不滅だ」
「それじゃ面白くねえよ。なにを楽しみに生きりゃいいんだ? バアちゃんとカアちゃんの嫁姑バトル以外に面白いもんあるかよぉ、この世に!」
「なにぬかす!」
「フンッ。あーあ、一つ生きがい失った!」
 鴻太郎は肩を落として悔しがる。
「ギャーッ!」
 千鳥が突然悲鳴を上げた。「お、お義母さん、おかしい! こ、怖い!」
「千鳥さん、なーんもおかしいこたねえよ。これから仲良くやっていこうでねえか、な?」
「イ、イヤーッ!」
 千鳥は血相変えて仏間を飛び出した。
「ありゃりゃ……カアちゃんの怯えよう普通じゃねえな。バアちゃんがおかしなこと言うからだぞ。カアちゃん大丈夫か?」
「ま、そのうち慣れる。それより……」
 鴻太郎を手招きする。「ええもん見せてやる」
「なんだなんだ?」
 鴻太郎は興味津々に近寄ってきた。
「ちょっくらあっち向いてろ。オラが合図するまでだ」
「分かった」
 鴻太郎は素直に庭の方を向いた。
 テーブル上の桐箱の蓋を開け、入れ歯を左の掌に載せると、一旦目を閉じ右手で拝んでから口に入れた。口をモグモグと動かす。入れ歯はピタリと噛み合わさった。
「よっしゃ、ええぞ」
 鴻太郎はゆっくり首を回し、こっちを向く。
 口を固く結んだまま鴻太郎を見据える。いきなり鴻太郎の首根っこを引っつかまえ、その顔を自分の方へと引き寄せた。歯を食いしばり力いっぱい口を開いて笑った。
「ウワアッ!」
 鴻太郎は朱鷺の手を振り解いて後ずさった。
「どうだ! イーッ」
 入れ歯を思いっきり引ん剥く。
「ヒェーッ! この世のモノじゃねえ」
「オラ、まだ死んでねえや、バカッタレ!」
「なんだ、それ? 気色悪い……」
「ジイさんからのプレゼントだ。ええだろう? 金だぞ」
「化け物だ! 食われるかと思った」
「コイツ! せっかくの形見の品にケチつけやがって……」
「ジイちゃんが作ったのか? すげーぜ……器用だったもんな……」
「オラの入れ歯に金メッキしたのさ」
「へエー、なんで?」
「愛の証だ!」
「ウエッ。いい年寄りが、愛だとさ……」
「愛に歳は関係ねえ!」
「すげえ顔だな……でも、まあ、似合うよ」
「あんがとよ」
「鏡見たか?」
「いんや、まだだ」
「ちょっと待ってろ」
 鴻太郎は隣の寝室に素っ飛んで行くと手鏡を片手に戻ってきた。窓を背にして横に腰を下ろした。膝を突き合わせ、じっとこちらをうかがう。
「早く見せろや」
「バアちゃん、一つだけ忠告しとくぞ」
「なんだ……?」
「人には見せるな、絶対に!」
「なして?」
「バアちゃん、人、殺してえのか?」
「なんだと!」
「心の準備はいいか?」
「早くよこせ!」
「ほれ」
 鴻太郎は朱鷺に手鏡を向けた。朱鷺は鏡をそっと覗き、歯を引ん剥いてみる。
「おおっ! すげえ顔だ!」
「だろう?」
「金ピカだ! 高級だなあ……」
「鬼婆みてえ……」
「ウ、ウウーッ……!」
 突然腰に手を当てて呻き出す。
「どうした、バアちゃん! 鏡見て卒倒したのか?」
「アイタタターッ!」
 鴻太郎に尻を向けて四つん這いになった。「腰だ……ああ、もうダだ!」
「あっ、ぎっくり腰か? 大変だ! 待ってろ、カアちゃん呼んでくるから!」
「ええから、ちょっくら見てくれ。もう我慢できん!」
 立ち上がろうとする鴻太郎を制して指示を出す。
「分かった、どこだ?」
「ケツのとこだ。尾てい骨のとこ見ろや!」
 尻をポンッと一つ叩いた。「もうちょこっと顔近づけて、よっく見てくれ!」
「見てやるから、辛抱するんだぞ! こうか?」
「ええか?」
「いいよ!」
「せーの、あーらよっと!」
 鴻太郎が尻に顔を近づけた瞬間を見計らって、鴻太郎の鼻に照準を合わせる。下腹に力を込めて噴霧器の口から臭いの微粒子を一発噴霧した。大音響と共に放たれた微粒子は瞬く間に仏間中に充満してゆく。
「なんてことするんだよぉ~……」
 鴻太郎は鼻を摘まんで自分の周りから微粒子を手扇で払い除けようと躍起になっている。
「ふんっ、仕返しだ。ダレが鬼婆だ!」
「ウワアーッ、たまらん! なに食った?」
「ハテ? 生玉ねぎ一個丸ごとかじって、生ニンニク、石焼イモたらふくな」
「そんなもんいっぺんに食うなよ……いかん、死ぬ!」
「大袈裟なヤツだなあ……」
「キョーレツだぞ! 孫が死んだらどうするんだ?」
「明日の朝刊に載るだろうよ……『中学生、祖母の屁で中毒死』ってな」
「ハ、ハナが……もげる!」
「しょうがねえなあ、窓開けな」
 鴻太郎は鼻を摘まんだまま這って行き、縁側の窓を全開にした。窓から顔を出すと大きく深呼吸を繰り返す。
「はあーっ! 生き返った……」
「参ったか? ハッハッハッハッ……」
「マイッタ! すげえ屁だったな」
「出もん腫れもんじゃもの。仕方ねえじゃろう? 所嫌わずよ」
 朱鷺も立ち上がって窓際へ行くと、ツッカケを履き庭に下りた。頬を掠める晩秋の風が実に心地よい。思い切り空気を吸い込み伸びをした。「もう一発どうだ?」
「わあー、もういい。今度こそ死ぬ! オレ用事思い出した。じゃあ……」
 鴻太郎は仏間からビバーク(緊急避難)した。
「なんだ、情けねえ。屁の一発や二発で……」
 一発後の爽快な気分でラジオ体操を始めた。「おいちにー、おいちにー、鴻太郎の通信簿はおいちにー……」
 折り返し鴻太郎の声が玄関先から聞こえた。声はこちらに向かっている。鴻太郎は縁側の窓から顔を出す。
「バアちゃん、お客さんだぞ」
「誰だ?」
「お春バアちゃん」
「お春さんか……」
 呟きながら自ずとお春の涙が脳裏を掠めた。「上がってもらえ」
 早速、庭先から仏間へ戻ってお春を待った。心臓の鼓動が高鳴る。ハッとして慌てて入れ歯を外すと桐箱に戻す。

   *

 お春はすぐに襖の陰から顔を覗かせた。
「トキちゃん、大変だよ。九太郎どうしたのかね? ハゲちゃってさ……」
 ──九太郎のヤツ、どうやら家出から戻ったのか……
 お春の姿を認めると同時に熱い視線を送った。いっとき、その顔を見つめ、目を背けることができなかった。深い皺がお春の人生の歩みを物語っていた。
 ──苦労したんだろうなあ……
 これほどまでにこの生涯のライバルを愛おしく思ったことはない。胸に熱いものが込み上げてくる。深く息を吸い込んでお春に微笑みかける。
「アイツは自業自得なのさ」
 お春は玄関の方を向いて九太郎を慮っている。こちらに顔を向けた時、目を丸くして訊いてきた。
「どういうこと? 九太郎、悪さでもしたかね?」
 お春があまりにも心配げな表情を見せるので九太郎夫婦、いや九太郎の不倫劇の顛末を話して聞かせた。
「はあーっ、よし子がねえ……人間様も顔負けだね、嫉妬するなんて……よっぽど悔しかったのかねえ? ほかの女に亭主を寝取られて……」
「女のプライドっちゅうヤツでねえかなあ……」
 お春は隣室にいるよし子の元へ行き、まじまじとその顔を見て感じ入る。
「よし子、許してやれないのかい?」
「キュータロー、バカヤロー、バカタロー、キューヤロー、ハイイロオカメブス、ヨシコアカイキレイ」
「強情だこと……」
 お春が仏間に戻ると、座布団を自分の隣に用意してやった。お春は「ありがとう」といつもの穏やかな口調で礼を言って座った。
「今日は、ありがとうございました。おかげさまで無事初七日の法要を済ますことができました」
 朱鷺はすかさず三つ指をついてお春に深々と頭を下げた。
「いやだよ、あたしになんて真似するの! 水臭いだろう……」
「日頃から世話になってんのに……今日ぐらいは頭下げさせてもらうよ。オラ感謝してんだ……」
「およしよ。改まって感謝される覚えはないよ」
「あの人も喜んでるよ、きっと。お春さんがきてくれて」
「早いねえ、もう一週間だよ……トキちゃん、大丈夫かい? 少し元気取り戻したようだけど……」
「ああ。オラ、もう平気さ。そりゃ少しばかり寂しいよ。だけどいつまでもウジウジ引きずっちゃいられねえし……」
「そうだよね、トキちゃんが元気でいないと鴻助さんも成仏できやしないものね」
 お春の言葉に深く頷いた。この前まで、いや違う、ここの世界ではついさっきまでお春を忌み嫌っていたし、憎んでもいた。酷い女、悪女だと信じて疑わなかった。今ようやくお春の声に素直に耳を傾けることができた。仏壇の夫の遺影を覗く。爺さんは笑っている。畳の上をすり寄って蝋燭(ろうそく)に火を点け、線香をあげ、今一度拝む。
 お春が横に正座して線香を立てると、合掌するその横顔をじっと見つめた。
 合掌を解いて目を開けると、お春は一点に目が釘づけになっている。
「そうか、お春さんももらったんだよな、ジイさんから……」
 朱鷺もバラを見つめながらぼそっと呟いた。
「えっ、なにをなの?」
「い、いんや、なんでも……」
 咄嗟に供えた一輪の真っ赤なバラから目を逸らした。「ねえ、お春さん……」
「なに?」
 お春は優しい眼差しを朱鷺に向ける。
「幸せだったかい?」
 お春は目を瞬いた。唇に笑みを湛えるとゆったりした動作で体ごと朱鷺に向き直った。
「あたしみたいに幸せな女、ざらにはいないね!」
 お春は胸を張って言い切った。「トキちゃんはどうなの?」
「オラだって、もちろん……」
 お春はああ言ったが、気がかりなことが一つだけ残っている。
 ──お春の亭主だ!
 ──あの男に、人生を踏みにじられたに違いねえ!
 そう思うと、この胸は張り裂けんばかりになる。
 お春に直接尋ねるのも憚られる。口の中で言葉を吐いては呑み込んだ。何度か繰り返すうちにお春も悟ったらしく、表情を強張らせる。
「トキちゃん、言いたいことあったら……はっきり、お言いよ。あたし、気に障ること言ったかい?」
 優しい口調だった。
「い、いんや、そうでねえよ。お春さんから……その……()っただろう……あの人を……」
 お春は呆けたように口をあんぐり開け、しばらく固まった。突然合点したように大きく頷くと表情を崩した。皺の数が一層増えた。
「トキちゃん、あんた、まさか気にしてんじゃ……?」
 身を縮めながら頷いて、お春の顔色をそっとうかがう。と、お春はいきなり腹を抱え大笑いする。
「だってよぉ……すまねえなあ……」
「呆れた……大昔だよ……ああ、おかしい。これが笑わずにいられますかって……」
 朱鷺は面食らった。恨まれてもしようがないと思っていたから。お春があの悪党亭主と所帯を持つ羽目になったのはこの自分の責任なのだから。
「お春さんよ、あんたの亭主……どんな人だった?」
 お春はまだ笑っている。
「あたしの亭主のこと訊いてんの? 名は体を表す……ってね。藤九郎って『アホウドリ』のことさね。お人好しもいいとこさ。こう言っちゃなんだけどさ、鴻助さんとどっこいどっこいだね……」
「雉牟田さん、あの時……すぐに釈放されたけど、捕まっちまっただろう。どんな経緯(いきさつ)だったんだ?」
「ああ、そんなこともあったっけねえ……鷲生さんや、船村さんの尽力でねえ……トキちゃんも知ってるだろう、あの二人?」
「よっく知ってる」
「うちの亭主って、とにかくお人好しでさ。鴻助さんから10万円借りたことがあってね、トキちゃんと結婚する前の話だよ。なにに使ったと思う?」
「トンと……?」
 朱鷺は首を横に振る。
「自殺した巡査いただろう? あの人に貸したのさ。あの人、母親の入院費を工面しててね、あっちこっちに借金こさえてさ、たちの悪いところからもね……返してもらえるはずもないさね。うちの人はあとでちゃんと鴻助さんには返したからね、これはうちの人の名誉に懸けて言っとくよ」
「そうかい、そんなことが……」
「母親は呆気なく死んで、借金だけが残ったのさ。かわいそうにねえ、あの巡査、ノイローゼになってね……」
「ノイローゼ? 幽霊みてえだったもんな……」
「よりによって、拳銃持ってんだよ、あの人達。うちの人が交番の前通りかかった時、丁度拳銃をこめかみに当てて自殺しようとしてたのさ。それで慌てて拳銃取り上げて……それを偶然目撃されて110番に通報されて捕まったってわけ」
「あれま! そういうことだったのか……」
 思わず天を仰いだ。天井の節が目に留まった。
 ──後悔先に立たずか……
 心の中で手を合わせてお春の亭主に詫びた。
「どこのおっちょこちょいだろうね。トキちゃんもそう思うだろう? バアさんだったってさ……」
 お春の顔が険しくなった。
「そ、それで……?」
 一層身を縮めた。声も自ずと縮こまる
「鷲生さんや船村さんがいなかったら、間違いなく刑務所行きだったよ。うちの人捕まえたの、あの西脇っていう組織暴力対策課の悪徳刑事だったからさ。見るからに悪党面だったよね。あいつ、誤認逮捕だって分かっても、うちの人釈放してくれなかったのよ。なにがなんでも犯人に仕立てて手柄あげようって寸法さね。今考えても虫唾が走るね。あの面思い出しただけで寒気するよ」
「そういうわけだったのかい」
「あの巡査、うちの人がせっかく助けてやったのに、結局自ら命絶ってねえ……うちの人、そりゃあ、酷く悔やんでたね……」
「そんな人だったのか。ええ人だったんだな。オラ、てっきり、お春さんを引き込んだのかと……」
「なんのこと?」
美人局(つつもたせ)
「ああ、逆だよ。あれは、あたしがあの人を引き込んだのさ。悪い女だろう、あたしって? ね、トキちゃん……」
 お春は朱鷺を見て笑った。「丁度あの頃知り合ってね、あたしの言うことなんでも聞いてくれてさ……あたしを救おうとしてくれてたんだよ。バカだよ、あの人って……」
 お春の目が薄ら濡れている。
「雉牟田さん、亡くなってなん年だい?」
「かれこれ……13年かね……? そうだった、去年13回忌したばかりだった。コロッと忘れてたわ。早いねえ、時の流れって……」
「人生なんてアッという間だよ。オラ、70年をひとっ飛びしてきたばかりさ」
「ええっ、面白い例えだね」
 微笑みかけるお春に朱鷺も笑みを返す。
 ──みんな自分の誤解だったのか!
 喉のつかえが取れたようにフーッと息を吐いた。今更ながら後悔もした。もっと早く二人への誤解を解いていたなら、親密につき合えたはずだ。自分の浅はかさが何とも腹立たしかった。
「オラ、てっきりお春さんから恨まれてるとばかり……だけど、ちょっとはそんな気持ちもあったんでねえか? オラがいなけりゃ、うちのジイさんと一緒になってたはずなのに……」
「ええっ! そうだねえ……あたしも鴻助さんのこと思ってたよ。うん、恨んだよ、その女のこと。相手がトキちゃんだと知って、ショックだった。あたし、あんたのことも気に入ってたしね。初めてあんたと出会った時、なんとなく、ああこの人は、あたしのこと分かってくれる、この娘はあたしの人生に一生関わってくるって直感したのさ。もちろんいい意味でだよ」
 お春は懐かしむような目でどこか遠くの方を見つめた。
「そう、それから……?」
「そうだ! 妙なおバアさんに会ってね。誰だったんだろう? 鴻助さんに訊いても話してくれなかったし……今思い出すと、どっかで会った気がするよ。見覚えあるような……うん、確かに! あたし、そのおバアさんに諭されて立ち直ったのよ。小説家になったのも、あのおバアさんのお陰なのよ」
「初めっから……小説家志望だったんでねえのかい?」
 改めて訊いてみる。
「全然」
 お春は首を横に振る。「あの時の助言がなかったら……どうなってたのかねえ? とにかく救われたのよ」
「やっぱし、全て、オラのせいだったのか……」
 口の中でモグモグと囁きながらお春を見ると、その目はまたどこか遠方を見つめていた。
「懐かしいねえ、もう一度会いたかったけど、結局会えず仕舞いさ。恩人なのにねえ……もう大昔に死んじまったんだねえ」
「いんや、死んじゃいねえよ!」
 お春は朱鷺の顔に視線を向けた。じっと見つめる。激しく瞬きを繰り返した。
「そんなはずは……」
「どうしたんだい? オラの顔になんかついてんのかい?」
「ピンクのモンペ……痩せのトカゲ……? い、いや……なんでも……気のせい、気のせいだわ……」
 お春はしきりに首を横に振りながら徐に赤いハンカチを差し出した。
「ハテ?」
 首を捻る。何か見覚えがある。
「これ、お守り代わりに肌身離さず持ち続けてるの。もう70年になるけど……」
 なるほど自分がお春の涙を拭ってやった木綿のハンカチーフに間違いない。
「涙拭ってやったハンカチか……」
 思わず口を衝いて出た。
「そうなのよ。察しがいいね、トキちゃんは」
「色んなことがあったもんだなあ……」
「そうねえ、人間この歳まで生きてたらね……」
 いっとき黙りこくってお春をまじまじと見つめる。
「幸せだったんだね?」
 満面の笑みで改めて問い直す。
「ああ、とっても、胸張って言えるとも、トキちゃんは?」
「オラだって……でも、今が一番幸せだ!」
「そう、安心したよ。今日訪ねてみてよかった。トキちゃんの元気な顔見られて……」
「お春さん、これからも仲よくやっていこうでねえの」
「こちらこそ」
 お春と手を取り合い見つめ合った。青春を取り戻した気分だ。
 永遠の友情を誓い合っていると、どこからともなくケータイの着信音が聞こえてくる。二人は友情の絆を解くとケータイの在り処を探り始めた。
 耳を澄ますと、どうやら隣の寝室から鳴っているらしい。隣室に置き忘れた覚えはない。お春と共に音源を求めて隣室に入る。今度は仏間から聞こえてくる。お互い顔を見合わせ、再び仏間へと足を踏み入れる。そしたらまた音源は隣へ移る。仕方なく手分けして探っていると縁側の方からお春の声がした。
「お春さん、どうかしたかい?」
 縁側へ行くと、お春が犯人を取り押さえていた。
「悪戯っ娘だ」
「よし子だったのか……」
 既に着信音は鳴り止んでいた。が、すぐにまた鳴り出した。ストラップをよし子のくちばしから外すとケータイを耳に当てる。
「もしもし……寺西さんかい……うん大丈夫だよ、ありがとよ。あんたの方こそ養生するんだよ……うちの人の葬儀の時はお世話になったね。あんたには若え時分から随分世話になっちまって……ああ、そんなこと、ええから、体だけは大事にな……それじゃ、わざわざありがとよ……」
 寺西からだった。持病のリウマチが悪化して今日の初七日の法要に出席できなかった詫びと朱鷺を気遣っての電話だった。お春にも事情を説明してやった。お春は廊下側の襖を背にして座っていた。ケータイの電源を切ってテーブルを挟み、お春の正面に腰を下ろす。
「寺西さんって……鴻助さんの下で働いていた人だろう?」
「オラのこと心配してくれてさ……有難いことだよ」
「そうなの。トキちゃんの周りにはいい人が大勢いるね」
「ジイさんを慕ってね……」
 爺さんの遺影を視線で示した。「お春さん、みんなどうなったのかねえ……?」
「みんなって言うと……?」
「船村さんや南国さん……」
 船村は崖から落ちて死んだことは知っていたが、その詳細までは分からない。事情通のお春ならそこのところをより詳しく知っている、と朱鷺は踏んでいた。
 お春は静かに二人のその後の人生を聞かせてくれた。

   *

 南国渡巡査は一課の刑事になって係長止まりだったが、鷹鳥中央署に“その人あり”と謳われるほどの名刑事として名を馳せた。最終的な階級は警部補である。南国の人柄、才覚を鷲生英雄が見込んで、鷲生たっての願いを強引に上司に聴き入れさせた形で、最後まで刑事になるのを固辞し続けた南国を鷲生自ら説得したとのことだった。
 南国は仏と鬼の二つの顔を使い分けたという。巨悪には断固たる態度で臨む鬼の顔、だが、犯人に対しても時折情も見せることもあった。それは朱鷺にも頷ける。そちらの方が実像に近いだろう。20年前、74歳で胃癌のため他界した。朱鷺の脳裏に若々しく優しげな南国の面影が浮かんだ。
 ──もう一度、一目だけでも会いたかった……
 と悔やまれて仕方がない。

   *

 さて、船村鶴雄巡査だが……。
 あの悪徳刑事、西脇善行の汚職が発覚するや、事件は殺人にまで発展した。
 西脇の周囲には黒い噂が絶えなかった。だが、それは捜査目的のカムフラージュとの声も確かに強く囁かれてはいた。ところが西脇は自らが金を強要して懐に入れたあと、贈賄側の組織の幹部を口封じの為に崖から突き落とし殺害したのだ。西脇は何食わぬ顔で 組織暴力対策課・第一係係長として君臨し続けていた。
 しかし、鷲生には目星はついていた。殺害された幹部の情婦が鷹鳥中央交番の船村に連絡を取ってきたからだ。
 西脇は逃亡の手助けをする、と約束して幹部を人通りの絶えない繁華街のバス停のベンチの前に呼び出した。当然、幹部の方も警戒は怠らなかったようだが、相手の方が一枚も二枚も上手だった。よもやこんな場所では何もできはしまいと高を括ったのが運の尽きだったのかもしれない。
 西脇も裏の裏まで読み、周到な計画でほんの少しだけ幹部を安心させると、背広のポケットからウイスキーの携帯用の小瓶を取り出して煽り始める。と、そこに母娘(おやこ)連れが現れ、バスの時刻表を確認してベンチをうかがった。すかさず西脇は端に寄り「ここへどうぞ」と母娘を促して座らせる。これも前もって西脇が警察手帳に物を言わせ、仕組んだ三文芝居だった。
 己の保身の為、一般市民を巻き込むとは許しがたい行為だ、とのちに正義感が制服を纏ったような船村は怒りを露にしていたそうだ。
 己の身が母娘の陰で丁度幹部から死角になったのを見計らって、西脇は睡眠薬入りのウイスキーの瓶とすり替え、立ち上がる。一口だけ飲む振りをして幹部にそれを渡すとタバコに火を点け一服吹かして女の子に視線を送る。慌てて「ごめんね」と言いながらタバコを捨て足で踏み消すと、しゃがんで女の子に歳を訊く。女の子が指を三本立てるのを微笑みながら見て立つと、頭を撫で手を振ってその場を離れた。
 幹部は西脇の行動の一部始終をうかがいながら立ち去った背中を見送ると、一瞬鼻先で笑う。ウイスキーの小瓶をしばらく眺めてから一口だけ口に含んだ。喉仏が上下するのを、女は反対車線に停めておいた幹部の車の助手席から確認していた。女がドアを開けて外に出ようとした時、幹部の様子がおかしいことに気づく。幹部の上体が大きく前後に揺れ出したのだ。すると背後からまた西脇が姿を現した。その時、バスがきて停まった。バスが走り去ったあと、ベンチから二人の姿は消えていた。女は辺りをくまなく見渡すと、西脇が幹部を抱きかかえるように路地へと入る後姿だけが辛うじて見えた。と、ほどなくして黒塗りの車が路地から出てきて大通りを左折すると、運転席から手が伸び、赤色灯を屋根に載せた。
 女は咄嗟に運転席に移りUターンして覆面パトカーを追跡したのだ。しかし相手はパトカーだ。こちらは信号無視などできはしない。捕まっては元も子もない。警察が相手では味方などいるはずもない、と必死に先を行く西脇に食らいついて、一度は見失いかけたが、やっとの思いで見つけ出し、追いついたのだった。パトカーは坂道を登り続けた。遥か前方のパトカーがフロントガラスから時折姿を消す。女は見失うまい、とガタガタと上下する身体をシートに無理矢理押さえつけながら十分な車間距離を保ち、尚も食らいついた。
 パトカーが停まると、運転席のドアが開き、黒い影が助手席側に回って幹部を引きずり出すのが見えた。西脇は意識を失くした幹部を肩に抱え木立の中へ消えて行った。
 女は車をパトカーの後ろに停める。注意深くうかがいながらドアを開け、降りた。そっとパトカーに近づく。中を覗くともぬけの殻だ。辺りを見渡し西脇のあとを辿る。二人を捜して木立が並ぶ細い砂利道を抜けると、突然開けた場所に出て目の前に海が広がった。
 右を向くと二人の影が見えた。女は叫びかけたが、それを目の当たりにして身動きも声を出すことも叶わなくなった。呆然と立ち尽くし、脚がガタガタと震え出す。西脇は身を翻してこちらに近づいてくる。女は西脇に気づかれぬよう震えながらきた道を走った。途中何度も膝をつき、血だらけになりながら車に乗り込むと急発進させ、その場から猛スピードで逃げ出した。
 自宅へ戻った女は幾分冷静さを取り戻したのち、鷹鳥中央交番へ電話したのだ。
 たまたま電話に出た船村が、女の言葉を真剣に受け止めてやったのだ。船村は迅速に行動した。
 普通なら悪戯で片づけられてもおかしくはない。どうしてそれほどまでに船村は素性も一切明かさぬ女の言に真剣に耳を傾けたのか、とお春は訝った。船村は、後に婆さんがどうのこうのと漏らしていたという。婆さんの言ったことが現実になった、とか何とか。
「オラのお陰だな」
 朱鷺は合点してほくそ笑んだ。自分がこの物語を話して聞かせてやったことが役に立ったのだ。誇らしげに胸を張る。
「トキちゃん、どうかしたの?」
 お春が首を捻った。
「いやいや、オラのお手柄さ……」
「どういうこと?」
「いやいや、なんでもねえよ、気にしねえで先を続けてええよ。で、どうなったんだ?」
「じゃあ、続けるよ……」
 その日のうちに船村は鷲生の元へ走った。事情を説明すると、鷲生は捜査を開始し、女の所在を知っていた船村は女のアパートを訪ねた。
「お春さんよ……」
 朱鷺はまた話しの腰を折った。「船村さん、女の居所知ってた……なしてだ?」
「それについちゃ、なにも話してくれなかったよ。そうだよね、そこんとこ腑に落ちないねえ。予め知っていたとしか思えないよ。ほかの刑事も組織の幹部にそんな情婦がいたことすら気づいちゃいなかったしね。あとで鷲生さんが話してくれた。鷲生さんも感心してたよ、『船村は凄いぜ』って。あの人予知能力でもあるのかねえ?」
 朱鷺には分かった。船村は朱鷺が与えた数少ないヒントから情婦の全情報を前もって割り出していたのだろう。只のポッチャリハゲ面オツムではなかったのだ。毛はなかったが、中身のほうは、どうしてどうして、ぎっしりと詰まっていたらしい。栄養は毛に届かず、中身に殆どもっていかれた、というわけだ。
 ──船村という人物は、なんと抜け目のねえ用意周到な男だろうか!
 少々恐れをなした。
 ──恐らく、オラとて例外ではあるめえ!
 朱鷺は危ぶんだ。船村にかかっては己の全てが白日の下にさらけ出されてしまいかねないのだから。
 ──だがよ、安心だ。
 船村は既にこの世の者ではない。だから自分に危害が及ぼされることはまずない。
 お春は先を続ける。
 鷲生と共に捜査に当たった船村は、身の安全の保障を約束した上で女から証言を引き出すことに成功した。状況証拠を積み重ね、次第に西脇を追い詰めて行った。決定的な物証と目撃証言を西脇に突きつけ、自首を促した。   
 西脇は一旦承知したかに見えた。だが、それは時間稼ぎだと船村には分かり切っていた。またしても西脇の現れる場所を知っていた船村は鷲生と南国を引き連れて船着場に先回りしていた。案の定、西脇は現れた。鷲生と南国が顔を見合わせながら見守るなか、フェリーに乗り込む寸前の西脇の前に船村は立ち塞がり、行く手を遮った。
 ここまでは朱鷺の知っている物語と何ら変わったところはない。
 呆気にとられ、あたふたする西脇に手錠をかけるよう南国に指示したのも船村だった。警察内部では南国の手柄ということになっているらしい。
「ハテ?」
 つい疑念をお春に漏らした。「船村さんの手柄じゃねえとな……? ハテ? ハテハテ……? あれほど刑事になりたがっていたのに……手柄を明け渡すとは……」
「そうだよねえ。どんな心境の変化があったのか、あたしにも分からないけど……『身内を捕まえるとは、やり切れない』って、船村さんらしいと言えばらしいけど……」
 お春は首を横に振ると再び語り始めた。「そう言えば、鷲生さんも腑に落ちない顔してたねえ……『手柄を人にくれてやるなんて』って。最初、鷲生さんは船村さんを推してたんだよ。結局、南国さんが代打に出たんだけど。捜査一課船村刑事が叶わなかったんで、南国さんを、ということでもないけど……南国さんだって船村さん以上に大した人物だよ……」
 朱鷺は首を傾げながらお春の語る船村物語の顛末に聴き入った。
 西脇が逮捕されたあと、船村は被害者が殺害された現場を訪れた。愛犬を連れて。その御霊に花を手向けようと崖の上に立った。その時、一匹の大型犬に飛びかかられ崖から、
 ──転落……死!
 ──やはり災難は避けられなかったか……
 朱鷺は悔いた。
 ──オラの言うことを聞いておけば……
 ──小型犬にしとけばよかったものを!
 ──例えば、シーズーぐれえにしとけばよかったのに……
 朱鷺は船村を哀れんだ。亡き船村の御霊に心の中で手を合わせた。
 ──成仏してくだされ、船村警部補殿!
 朱鷺は船村に二階級特進の称号を与えた。
 船村は愛犬をかばって転落した、という。大型犬、ジャーマンシェパードが船村の愛犬にいきなり突進してきた。このままでは愛犬が転落する、と判断した船村は身を挺して阻止したのだ。その勢いで船村は崖の下に転落した。愛犬は怪我もなく、仰向けに倒れた船村の胸の上で元気よく吠えていた。その声を誰かが聞きつけ、崖下に横たわる船村は発見された。
「お春さん、船村さんの愛犬って……」
「シーズーだよ。ペチャンコのかわいい顔してるやつさ」
 朱鷺は愕然とする。
 ──もしや、オラのせいか?
 ──船村さんは、オラの言うことを聞いたせいで……死んだ!
 何ともあと味の悪い物語の結末だった。今更、後悔しても最早あとの祭りだ。船村は帰ってはこないのだ。
 朱鷺は窓の方を向いた。船村が勤務していた鷹鳥中央交番の方向だ。そちらに向かって合掌した。
「成仏してくだされやぁ、南無阿弥陀仏、ナームー……」
「トキちゃん……誰のために拝んでんの?」
「そりゃあ、死んだ船村さんのためさ……」
「ええっ! 船村さん、いつ死んだのさ!」
「いつって……今、お春さん言ったでねえの、船村さん、転落死したって……」
 お春は目をパチクリする。
「トキちゃん、まさか船村さんがあの時に死んだ……と、今の今まで思ってた?」
 今度は朱鷺が目をパチクリする。しばらくお春の顔を見つめたあと、口を開いた。
「死んだ……よな?」
「呆れたよ。ハハハ……船村さん、まだピンピンしてるよ」
「この世のお人かい!」
 思わずさえずった。
「ああ、世界中を飛び回ってんだよ、あの歳で。もうじき100歳だよ。今年確か白寿だよ。満の98歳だわ。元気なもんさね」
「生き返った……まだ生きてんのかい……100歳……」
 呆然とお春を見つめる。が、その目はお春を通り越して船村の幻影を見ていた。
 お春は、朱鷺が知らぬ船村のその後を教えてくれた。
 船村は刑事志望だったが、結局刑事にはならなかった。あの事件後、郷里に帰り教育者となった。教育に身を捧げた船村の人生は尊敬を集めて止まないという。その功績を称え、郷里には銅像も建立された。
 警官から教育者へと見事な転進を遂げた理由は、警察官に愛想が尽きたわけではなく、悪人を捕まえるより、善人をつくり増やす方が先だという固い信念が芽生えたからだった。
 ──立派な心がけだ!
 と深く感心して、
 ──物語もそろそろハッピーエンドが見え始めたか……
 と朱鷺の期待を裏切り、まだ先があった。真の理由は、
『こんな人間がこの世に存在することが許せない』
 ことだった。
『教育で、こんな人間をつくらないことこそ、この国にとって最も重要なことだ!』
 と公言して憚らなかった、と言う。
 ──こんな人間?
 どんな人間を指しているのか皆目見当もつかなかった。お春から聞くまでは。
 その時の船村はまるで人が変わったように怖ろしかった、とお春は漏らした。拳を握り締め、いかにも憎たらしい、という表情を見せたという。「殺してやりたい」と船村らしからぬことをボソッと呟くこともあった。苦痛に顔を歪ませながらハゲ頭の傷を撫でるのが船村の癖だった。その傷のことを訊くと「犯人と格闘した時に……」と鋭い目つきで睨まれるのだ。皆、その迫力に押されっ放しだった。だから傷に触れぬことがいつしか暗黙の了解となったのだ。話の最後には決まって「あのクソババア!」と叫んで締め括った。顔を真っ赤にして猛り狂う姿は、とても正気の沙汰ではなかった、とお春はつけ加えた。
 今まで得意げに胸を張っていた朱鷺の身は、またまた縮こまった。お春に愛想笑いを注いだが顔がピクピク引きつってうまく笑えない。
「トキちゃん、どうかした……目にゴミでもはいった?」
「い、いんや、別に……」
 朱鷺は船村巡査劇場をお春から聴いて落ち込みはした。急に奈落の底に突き落とされた気分だ。すべて自分のせいだったから。だが、立ち直りも早かった。
 よく考えてみると、
 ──愛犬のシーズーにしても、あれが大型犬のシェパードであったなら助かっていなかったかも!?
 朱鷺は大きく頷いた。
 ──大型犬なら別の犬も襲ってこなかったかも?
 とは朱鷺は考えない。
 ──まあ、教育者として出世して今でも元気でいるんだから……
 ──感謝されても恨まれるこたねえ!
 ──100歳の誕生日を迎えられるんだ、オラのお陰じゃねえか!
 ──めでてえやい!
 と朱鷺は高を括った。
 ──船村は遠いお国の空の下だ。
 ──最早、鷹鳥町くんだりまできやしねえ。
 ──だから、船村を恐れ、気を揉むことは無駄骨にすぎねえ。
 ──だが待てよ……?
 ──船村よりも、オラの方が上手(うわて)のような気もする……
 ──いや、絶対にそうだ!
 朱鷺には自信があった。もし船村と対決することになれば、また撃沈してやるだけだ。いつかまた船村と対決できる日を夢見て暮らすのも一興ではあるまいか。
 ──是非そうしよう!
 と心に誓った。
 人生いつ何時も夢を抱くことは大切だ。また一つ生きがいを見つけた喜びに打ち震えた。

   *

「鷲生さんだけど、こないだ面白いことがあってさ……」
 お春は含み笑いをする。
「面白えこと……なんだい?」
 興味津々にテーブルに肘をつき身を乗り出した。「オラ、鷲生さんと会った。あの人ハーレーのサイドカーにまたがって、爺さん連中引き連れて颯爽としてたなあ……白バイに先導させるなんざ、さすがだ」
「ええ? それって、いつのこと?」
「さっき……いや、ジイさんが死んだ日の……」
「トキちゃん、面白いことって、そのことだよ」
 お春はクックッと笑い出した。
「ハテ? オラにはトンと……」
 爺さんが倒れた、と千鳥から一報を受け取ったお春は、取る物も取りあえずお春の長男のスポーツタイプの電気自動車を断りもなしに失敬して病院へ向かった。ハイウエイをぶっ飛ばしていたら、一昔や二昔の連休ではあるまいに段々混んでくる。しばらくすると渋滞につかまり立ち往生した。2045年現在、ハイウエイでは自動運転が主流だ。手動運転するものなど滅多にいないのだ。いたとしても身動きできぬほどの渋滞などまず考えられない。だからハイウエイでこれほどの渋滞なんて全国でも稀で、十数年振りだとか。当日、テレビの全国ニュースはその報道で持ち切りだった。
 だが朱鷺には初耳だ。爺さんを亡くしたばかりの朱鷺にとっては些細な出来事だったので聞き逃していたか、たとえ聞いていたとしても耳に入るはずもなかろう。
 お春は、てっきり大事故でも起きたのか、とノロノロと進む車列の前方をウインドウから首を出して確認した。すると十台ほど先に黒ずくめの一団が目に飛び込んだ。白バイ警官と何やら揉めているではないか。鷲生とその仲間達だった。数分かけてようやくその横を通り抜けることができた。お春は白バイ警官の指示を押し切って一団のすぐ先に車を停め、彼らのやり取りをうかがった。
 白バイ警官の方はまだ20代半ばだ。鷲生との年の差はゆうに70を超えている。
「やり合ってたのよ、そのお二人さんが」
「ケンカか! やるでねえの鷲生さん。気が若えなぁ」
 お春は首を横に振りながらまた含み笑いをする。一度呼吸を整えると先を続けた。
「渋滞の原因……なんだと思う?」
「んー?」
 腕組みをして原因究明に励む。「鷲生さん、すっ飛ばしてたのかなぁ……だったら、渋滞はしねえ……よな?」
「そうだよ」
 お春はゲラゲラ大口を開けて笑い出した。「自分ではそのつもりだろうよ……」
「どういうこった?」
「鷲生さん、ハーレーにご執心でさ、しかもサイドカーだよ……」
「ああ、ごっついよなあ、あれ」
「ごっついよねえ、あれ」
「凄えでねえの……」
「なんてことはないのさ。あれだと転倒しにくいしね」
「安定してそうだもんなあ……やっぱ、スピード出してたんだなぁ……」
「猛スピードでハイウエイを突っ走ってさ……」
 お春は肩を揺らして笑う。「時速15キロの猛スピードさね、補助輪つきのハーレーで……」
「ん、時速15キロ……猛スピード?」
「分かるかい?」
「んー、なんとなく……そういうことか!」
「『オレを誰だと思ってる! お前らの先輩だ。このひよっ子ヤローめ。ここの初代市長ってえのはこのオレのことだ。恐れ入ったか!』てな具合に大見得きってさ」
 お春は鷲生を演じてくれた。
「若僧を引き連れて暴走、だね……」
「そうだね、鷲生さんからすれば若僧ってことになるね。あの人幾つだっけ?」
 お春は考え込む。
「今年……丁度、100でねえかなあ……」
 すかさず朱鷺が答える。70年前の30歳だった鷲生に会ってきたばかりだ。即答できる。
「100かね!」
 お春は目を丸くした。
 今年100の(よわい)に手が届こうかという男が年寄り軍団の先頭に立ってハイウエイを暴走(?)する様を想像してみた。しかも時速15キロのトボトボのスピードで道を塞ぎ、後続車の行く手を遮りながら猛り狂うハーレーにまたがった姿を。
「さぞかし壮観だったろうに……」
 想像するにつけ、思わず笑みが漏れた。
 災難だったのは、何も渋滞に巻き込まれた者だけではない。白バイ警官だって被害者と言えるのだ。
「スピード上げてもらえませんか?」
 この発言がいけなかった。“白バイ野郎ひよっ子”は職務を忠実に遂行したつもりだろうが、鷲生の逆鱗に触れてしまった。
「スピード違反して、もっとスピード上げろだと! 貴様、それでも警官か! オレを逮捕しねえか!」
 鷲生はハーレーを降り、おぼつかない足取りで“白バイ野郎ひよっ子”に詰め寄った。
 その時、お春は車を降り、二人の間に割って入って小競り合いは収束した。
「本人にしてみりゃ、体感速度はゆうに150キロは超えてんのよ」
「ああ、そうだ。オラにも言ってた。150キロ超えだぞって」
「フフフ……そうなの。それから、延々と自分の職歴やらなんやかやと聞かせてやってんのさ。『オレは一課の刑事(デカ)だ。今、殺人事件の捜査を続行中だ。君、手伝ってくれ』、仕舞いには『オレの銅像が市役所の広場にある。よく見てみろ、オレの顔を、同じだろう?』、そう言われてもねえ……あれ、若い時分の顔だよ。今の顔と比べろって言っても、面影ないしねえ……それに今の若い人には銅像の主が生きてるかなんて知りもしないやね。若い人にとっては、鷲生さんの英雄ぶりは時代劇さね」
「あの鷲生さんがねえ……」
 朱鷺はしみじみと流れた時代の長さ、いや、鷲生の重ねた年齢の重さを思った。「あの人、頭の方はしっかりしてんだよな?」
「いやいや、少しばかりボケも入ってるよ、ありゃ。あたしの顔見て最初は分かってたけど、別れ際には忘れてたもの。『どこのどなたか存じませんが……』、突然『オレの女にしてやろうか』だとさ。笑っちゃったよ。笑えない話だけどね」
「オラも言われた」
「フフフ……そう」
 お春は手で口覆う。
「面白え話聞かせてもらった。ああ愉快だ。ありがとな、お春さん」
「そう? 生きてたら面白いことに出くわすねえ」
「まったくだ。これからオラ達、一花も二花も咲かそうでねえの。死んでられねえよ」
「そうだね、そうしようね、二人で……」
「あれっ、お茶も出さねえで……オラ、お春さんの話に聴き入ってしまって……」
「構わないさね、あたしに気は使わないでよ」
 居間の方から何やら騒々しい空気の流れが湧き上がった。と思ったら、突然この仏間にも流れ込んできた。鴻太郎だった。鴻太郎が大声で叫びながら血相変えて飛び込んできたのだ。

   *

 お春は後ろを振り返って鴻太郎を見た。
「鴻ちゃん、どうしたの?」
「大変だ! テレビテレビ、テレビつけてみろ、ニュースやってるから」
「なんだ鴻太郎、お客さんの前だぞ……」
「そんな場合か、早くつけてみろ、バアちゃん」
 朱鷺は鴻太郎の言う通り、テーブル上に置いてあったテレビのリモコンのスイッチを入れた。隣室とを隔てた襖に貼りつけられた紙のように薄っぺらなモニター画面に映像が映し出された。ニュース専門チャンネルに合わせる。
 ニュースによれば、今年の大変権威ある科学賞に日本人男性の受賞が決まった、とのことだ。その人物のインタビュー映像が流れていた。レポーターは今人気絶頂の若い美人アナウンサーだ。
 受賞者の映像に切り替わった瞬間、三人は仏間のテレビに釘づけになった。
「こちらが、今年の受賞者のサルノカオさんです。サルノさん、今のお気持ちをお聞かせ願いますか?」
「あんた、オナゴか? オナゴだな、オナゴだ。イナゴじゃねえ、若いオナゴだ……」
 猿面がレポーターの顔を覗き込む。と、彼女は笑って誤魔化す。
「テレポーテーション装置、凄い発明です。それでは早速ここで実験を披露してもらいましょう」
 一旦カメラは猿面からレポーターに切り替わる。カメラ目線でニッコリ笑う。再び、画面は猿野に切り替わった。猿野は実験装置をいじくり始めた。
 朱鷺は目を見張った。装置は二台置かれていた。片方はジューサーミキサーの化け物みたいなヤツで、もう一方は押入れの中にあった装置に間違いない。少々改良したようだ。
 猿野はリンゴを一個、ジューサーミキサーの蓋を開け、落とした。蓋を閉め、猿面をカメラに向ける。レポーターが何度も合図を送るが、猿野は全く気づく様子がない。業を煮やしたレポーターが猿野に近づき耳元で「スイッチをどうぞ」と叫んだ。
「ああーんちょっちょっ!」
 猿野は驚いて上体を躍らせながらレポーターの顔を見る。
「さ、猿さん……スイッチを……」
 レポーターは笑いを押し殺して指示を出した。
 今度はちゃんと人間の言葉を理解した猿野は、ジューサーミキサーのスイッチを入れると、血相を変え2メーターほど離れた位置に置かれた装置の片割れの蛇口にコップを据えた。
 両方の装置が轟音を上げ揺れ出した。画面は装置の映像を捉え続けた。が、何も起こらない。一旦カメラはその場に集まった野次馬の映像に切り替わる。皆が固唾を呑んで見守るなか、数分が経った。テレビの画面に釘づけだった三人もそれぞれ退屈し始め、画面から目を逸らす。と、突然テレビから爆発音が仏間に響き渡った。三人の目は再び画面に向く。画面は装置の蛇口のアップを映し出した。ポトリポトリと白濁した液体が滴り落ち、コップに溜まる。
 一滴ずつ長い時間をかけてようやくコップに三分の一ほど溜まった。
 猿野はコップを手に取り、猿面の横に掲げると、カメラ目線でポーズを決める。
 レポーターが首を捻りながら猿野に近づくと、マイクを向けた。猿野はポーズを決めたまま身動きしない。
「な、なにが……起きたの……でしょう?」
 レポーターは恐る恐る猿野に質問をぶつけた。
「それでは……」
 猿野は得意げに実験の詳細を説明した。
 かい摘んで言うと、物体を瞬間移動させた、とのことだ。装置は初期の段階で、移動した物体は、つまりリンゴは原形をとどめず液体になった、という。まだまだ改良の余地があるとのことだった。この装置を使えば瞬時に空間を移動できる、と猿野は断言した。
「あのう……瞬間……というのは……」
 レポーターは腕時計を覗き込む。「20分ほどかかりましたけど……」
「あーん!」
 猿面は泣きっ面になる。「オナゴよ! この場所から地球の裏側まで20分しかかからなーい」
「宇宙空間航行飛行機と同じ時間で行けるのですね?」
「ん?」
 猿野は首を傾げた。
「凄い発明……かどうかは私にはトンと理解不能ですが、どうやら画期的な発明のようです」
 レポーターは正面を向いてコメントし、また猿野に質問をする。「どうしたらこんな素晴らしい発明がおできになるのですか?」
「そ、そりゃあ、あんた……簡単なことよ……」
 まだ猿野は、腑に落ちぬ、という表情で首を傾げながら答えた。「肝臓よ肝臓。肝臓で思考するのよ」
「カンゾウ?」
「私が発明したこの液体を飲めばいいだけのこと。あんたも飲んでみますか?」
 猿野は、瞬間移動を遂げた哀れなリンゴの成れの果て、平たく言えばリンゴジュースの入ったコップを差し出した。
「はあ、大丈夫でしょうか?」
「私は毎日()っておる」
 猿野はそれを一口だけ口に含んで彼女を安心させたあと、強引に彼女の手にコップを握らせた。
「そ、それでは……」
 レポーターはドギマギしながら上目遣いで猿面を見ると、仕方なくといった風にコップを口元に近づけた。
「一気にどうぞ、さあさあ」
 猿が急き立てると、レポーターは躊躇いがちに唇を少しだけ濡らし、味を確かめたあと、一気に煽った。液体は彼女の口から喉を通って胃袋へと流れ落ちた。空になったコップを見つめ、舌を鳴らす。
「美味しい!」
 彼女は一言だけ放って、後ろに引っくり返ってしまった。
「あーん! オナゴー!」
 猿野はしゃがみ込むと、倒れた女を見下ろしながら人差し指で女の頬を突き始めた。「オナゴ、オナゴ、オナゴ~……縁がなかった。クソババアー!」
「ありゃりゃ、やっちまった……あの猿」
「トキちゃん、あの人知ってんの?」
「若え時、ちょこっと……」
「お春バアちゃん、知らなかったのか?」
「鴻ちゃんも知ってるの?」
「ああ、有名人だよ。猿野夏央って」
「猿の顔?」
「あの人の名前だよ」
「そう言えば、猿そっくりだね」
「名は体を表すのさ。オラ、せっかくホモだと認定してやったのに。やっぱ、ホモでねえ」
 テレビから鴻太郎に視線を移す。
「バアちゃん、ホモって……ゲイのこと言ってんのか?」
「どういうこった? ゲイ……ってなんだ?」
「男性同性愛者のことさ。ホモって、侮蔑的、差別的表現ってことになってるのさ」
「なして?」
 朱鷺は腕を組んで大きく首を傾げる。「人間をさす学名がなして差別的なんだ? 法律変わったのか?」
 鴻太郎とお春はキョトンとした顔で目を瞬かせると、お互いに顔を見合わせ笑い出した。その光景に今度は朱鷺がキョトンと二人の顔を交互に見る。
「バアちゃん……」
 鴻太郎は笑うのをやめ、真剣な眼差しで朱鷺を見つめる。「『学ばねえヤツは人間になれねえ。学ぶことで人は人間になる』バアちゃんの口癖だな」
「そういうこった」
 朱鷺は大きく頷く。
「その言葉、バアちゃんにそっくりそのまま返すよ」
「なんだと! こしゃくなこと、ぬかすんでねえ!」
「バアちゃんは、もう少し英語学習しねえと人間にはなれねえよ。理数系だけだもんなぁ……」
「な、なにを、コノヤロー!」
「痛いとこつかれたな、バアちゃんよ」
 鴻太郎は畳に両手をつき、反っくり返ってまたゲラゲラ笑い出した。「とんだホモ違いだ。オレの言ってるのは、ホモ・セクシャル……サピエンスじゃねえっつうの」
「ホ、ホモ……しぇくそぁる……?」
「発音もなってねえ。リピートアフタミー!」
 鴻太郎はテーブルに手をついて顔を寄せてきた。「ホモ・セクシャル」
「ホモ……しぇ、しぇ、しぇくそぁ……アイタッ!」
  舌を噛んだ。反射的に悲痛な叫び声を漏らした。が、入れ歯は入ってなかったので痛くはない。「ええい、シャラクセー!」
「うん、こりゃ、かなり重症だ。どーれ、オレが家庭教師してやろう。バアちゃんが、立派なホモ・サピエンスになれるように。今なら月謝は格安にしとくぜ」
「お春さんよ……」
 さっきから祖母と孫の会話を穏やかな笑みを浮かべながら見守っていたお春に助けを求めた。
「鴻ちゃんに一本取られたようだね。どうやら、勉強に励むしかなさそうだよ、フフフ……」
「お春さんまで……」
 ──ハテ?
 ここで新たな疑問が湧いた。今のことを整理してみると、ホモには二つの意味がある。『人間』と、今一つは『同性愛者』。
 ──初耳だ!
 自分は前者の意味でしか用いたことはない。
 ──が、もしかすると、ほかの者は、後者の意味で捉えていた……というわけか?
 とすると、あの猿面が女からぜーんぜん相手にされなくなったのは、
 ──オラの一言のせいなのか?
 ──ヤツの人生を台無しにしてしまったのは……
 ──無知なこの自分の仕業だったのか?
 しばらく熟考してみた。
 ──だが、待てよ。
 確かに噂はたちまち広まった。人の口に戸は立てられぬ、という。だが、人の噂も75日だ。何れそんな噂など下火になって忘れ去られるのが人の世の常だ。それをいつまでも根に持ち、ウジウジ引きずって人を恨み、全てを他人のせいにするのは筋違いだ。そんなもん、撥ね退けようと思えば、いくらでも手立てはある。必ず叶う。己の人生は己で切り開くしか術はない。自分が70年前に遡ってそうしたように。そこんとこを悟らぬ猿野はまだまだ進化の途上にあるということだ。朱鷺は思い切り息を吸い込んだ。
「やっぱ、ヤツはホモ! もとい。ホモ・サピエンスでねえ!」
 大いに納得し、鴻太郎に顔を向けると、大きく頷いた。「鴻太郎、おめえ、なしてヤツを知ってんだ?」
「あのジイさん、女のケツばっか追っかけてんだ。こないだ警察に通報されて逮捕されてた。オレ目撃したんだ」
「ということは、ゲイではなさそうね。でも、変人なんだねえ……天才となんとかは紙一重って言うし……」
 お春が感心すると、朱鷺と鴻太郎は顔を見合わせて笑う。
「はったりだ!」
 朱鷺が吐き捨てると鴻太郎も頷いた。
「でも、賞取ったんだよ。はったりで取れるもんかねえ? どんな化粧品なのかね、テレなんとかローションって……使ってみたいね」
「お春バアちゃん、化粧品じゃないよ。テレポーテーション。瞬間移動する装置だよ」
「あたしにはお手上げだね」
 お春は首を横に振る。「でも、あの液体で発明できるんだから、あれボケ防止に有効じゃないかねえ、あたしも一度飲んでみたいよ」
「お春さんよ、レポーターのオナゴ、引っくり返ったよな?」
「ああ、そうだった。効きすぎたのかねえ。量、間違えたんだろう……」
「あれ、只の酒だよ。イヤ、只の酒でねえ、限りなく純度100パーセントに近え酒だ。殆どアルコールだよ。自分で造ってんのさ、押入れの中で」
「ええっ、それって……?」
「密造酒だ!」
 鴻太郎が叫んだ。「よく今まで無事だったなあ。テレビで公開したんだから、手入れ入るかも……」
「酒税法違反じゃないか!」
 お春が目を丸くする。
「うわぁー、そんなジイさんに賞やってもいいのかなぁ? 犯罪者だぞ。捕まるのも時間の問題だな」
 鴻太郎が呆れ顔で言い放つ。
 朱鷺はリモコンの電源スイッチを押してテレビを切った。

   *

「鴻太郎、お茶と茶菓子、お春さんに持ってこいや」
「分かった。ついでにオレも一服するかな」
 鴻太郎は尻を浮かせて立ち上がった。
「こらっ、生意気ぬかしやがる」
 朱鷺の声に背中を突き押されて鴻太郎は台所へとすっ飛んだ。
「鴻ちゃん、素直ないい子だね。鴻助さんに似てるね、若い時の……」
「お春さんもそう思うかい?」
「ああ、瓜二つだよ。あたしがもう少し若けりゃ……」
 お春はそう言って笑い出す。「こんなバアさんでどうだろう、鴻ちゃんの相手に……」
「鴻太郎に言い寄ってみるかい? 卒倒するだろうよ」
 若かりし頃の爺さんが87歳の自分に会った時のことを振り返って鴻太郎と重ねてみた。
 ほどなくして鴻太郎が盆に茶と菓子を載せ戻ってきた。それぞれの前に湯呑を置き、テーブルの真ん中に菓子の群れを豪快にドサッとぶちまけた。朱鷺が、品よくしねえか、と目で鴻太郎を射抜くと鴻太郎は舌を出し、お春の隣に胡坐をかいた。朱鷺が菓子を取り分けて二人の前に置いてやると、いきなり鴻太郎が声をかけてきた。
「バアちゃん、その指輪どうした?」
「これか、ええだろう、ジイさんからの贈り物だ」
 鴻太郎は朱鷺の手を取ってじっと見入っている。鴻太郎の背後からお春も覗き込む。
「なんだこれ、鬼婆みてえだ。なあ、お春バアちゃん」
「あたしは、なんとも……」
「コイツ、せっかくのお宝にケチつけんのか!」
「なんなのさ、これ? バアちゃんに似てるような……」
「ジイさんが作ってくれたんだ」
「鴻助さんが……」
「若え時分に、オラをモデルにしてな……」
「ウソ言え、今の顔だ。なあ、お春バアちゃん」
「ああ、ホントだね」
「お春さんまで……鴻太郎の肩持つのかい?」
「ホントに若い時に作ったのかい?」
「そうさ」
 自慢げに手を高々とかざし、微笑んだ。
「だったら、ジイちゃん、今のバアちゃんの姿、想像して作ったんだな。そうとしか思えねえ。想像力豊かだなあ、ジイちゃん」
「コイツ、なんてこと……失礼なことぬかすんでねえやい!」
 舌打ちすると指輪をよく観察してみる。言われてみればそんな気がしてきた。首を捻りながらしばらく指輪に見入った。
「そうだ、バアちゃん、もう入れ歯見せたのか?」
「余計なこと言うんでねえ!」
 鴻太郎を睨む。
「鴻ちゃん、入れ歯って?」
 お春は鴻太郎を一瞥して朱鷺の方を見た。「そう言えば、入れてないね……」
「バアちゃん、見せてやんなよ」
「うるせえ。おめえ、あっち行け。ここからは大人の時間だ」
「ババアの時間の間違いだろう? へへへ……」
「コノヤロー! さっさと行け」
 拳固をかざすと、鴻太郎は自分の湯呑と菓子を鷲づかみにし、立ち上がって廊下へ出た。振り向き様、含み笑いをしながら中腰でお春の耳元に口を寄せる。
「お春バアちゃん」
「なんだい?」
「救急車呼んどいてやるよ」
 鴻太郎はそう吐き捨てると姿を消した。
「しゃらくせー!」
「ねえ、どんな入れ歯なの?」
 お春が朱鷺の顔をじっと見ている。
「お春さん、見てえかい?」
「ああ、興味あるよ」
「ちょっくら、向こう向いててくれっか?」
「分かった」
 お春は廊下の方を向いた。「これでいいかい?」
 朱鷺は入れ歯を入れると、お春が見やすいようにテーブルに両手をついてお春の方へ身を乗り出した。
「もうええよ」
 お春がこちらを向いた瞬間、朱鷺は入れ歯を引ん剥いて見せた。
「あっりゃーっ!」
 お春はのけ反った。「ああ、ビックリした。なに、その金ピカは……?」
「ジイさんからの最後のプレゼントだ。オラの入れ歯に金メッキしたのさ」
「どうして、そんな……?」
「愛の証でねえのかなあ?」
 朱鷺はとぼける。
「愛の証とは……はあーっ、妬けるねえ」
 お春は微笑んだ。「それにしても……トキちゃん、人に見せるんじゃないよ」
「なしてだ?」
「人……殺したくないだろ?」
「お春さん、鴻太郎と同じこと言ってるよ」
「鴻ちゃんも? 年寄りも若い者も考えることは皆同じだね」
「そんなに、凄えかね?」
「凄いよ」
「イーッ!」
 もう一度入れ歯を引ん剥いた。
「ああ、怖い怖い、死ぬー!」
 お春は大袈裟におどけた。それに応えて朱鷺も入れ歯と目を引ん剥いてお春に顔を近づける。いっとき睨めっこしたあと、二人は思わず吹き出した。しばらくお互い腹を抱えて大笑いした。

   *
 
「ごめんなさいよ」
 玄関の方から声がした。来客らしい。
「はーい」
 鴻太郎が応対してまたこちらへやってきた。
「バアちゃん、お客さんだ。昔、ジイちゃんに世話になったとか世話したとか……」
 鴻太郎は首を傾げる。「ジイちゃんに貸した千円、まだ返してもらってないって」
「誰だ?」
 嫌な予感が朱鷺の頭をよぎる。
「田村って言ってた」
「ナニィッ!」
 予感は的中した。最も好ましくない来客だ。
 ──ジイさんの訃報をどこで嗅ぎつけてきやがった!?
 ヤツを最後に見かけてから、かれこれ20年振りぐらいだろう。
 ──どの面下げてノコノコと……
「バアちゃん、どうする?」
 一つ息を吐いて腕を組み、しばし頭を巡らした。突然名案が浮かんだ。右手で右膝をポンッと一つ打つ。
「ちょっくら、待ってもらえ。オラが合図すっから、そしたら仏間に通せ」
 内心「ウッシッシッ」と笑いながら勢いよく立ち上がり、二人を手招きして縁側の障子の陰に身を隠す。ここからだと玄関前がよく見通せる。
「鴻太郎、オラの姿が見える所で合図を待て、分かったか?」
「分かった」
 鴻太郎はそう言うと玄関へ急いだ。
 朱鷺とお春は身を屈める。
「誰なの? 千円返せって言ってたね、なんだい、みみっちい……」
「コソ泥さ。昔メジロ石油で働いてた、寺西君と同期の……これが小悪党でさぁ、隙見つけちゃぁ、やっちまうのさ。ジイさんも従業員の給料やられてさぁ、寺西君に立て替えてもらったことがあったんだ。30万円だよ。まだ取り返しちゃいねえよ。あの時の30万は大きかったよ」
 朱鷺は声を潜めてお春に説明した。
 モンペのポケットを探ってみた。札が一枚手に触れた。それを引っ張り出す。聖徳太子が出てきた。
 ──しまった!
 ──返すのを忘れた!
 気づくのが遅すぎた。
 バイク雑誌に挟んであった二万円のうちのもう一枚だ。所持金が乏しくなってきたので保険として拝借しておいたのだ。すぐに返すつもりでいたのだが、爺さんが死んでから思い出してもなす術もない。
 ──納骨の日に、墓に入れるわけにもいくまい。
 ──しかし待てよ……?
 ──ジイさんのものはオラのものだ。
 ──籠野家の為に使うんだから同じことだ!
 朱鷺はあくまでも前向きの姿勢を崩さない。
 ──ま、ええや……
 ──許せ、ジイさん!
 仏間に足を踏み入れながら仏壇の方をチラッと見て、爺さんの遺影に向かって手を合わせた。
 灰皿をテーブルの下からテーブルの上に置いた。その下にわざと聖徳太子が見えるように二つ折にして敷く。
 ──これで準備万端だ!
 仏間から縁側に出て、今後の展開をお春に耳打ちし、了解を得ると、二人して障子の影にじっと身を潜めた。
「トキちゃん、面白そうだね、ワクワクするねえ」
「頼んだよ、お春さん」
「まかしときなって」
 二人は小声で意思の疎通を図るとクスクスと笑った。
 縁側と仏間の前の廊下は直交して玄関前へとつながっている。障子の影からそちらの方向を覗くと、合図を待つ鴻太郎の姿が見える。鴻太郎はチラチラとこちらをうかがっていた。朱鷺はお春を見て頷くと、手を伸ばし鴻太郎にOKサインを出して、すぐに手を引っ込めた。
 鴻太郎はすかさず客を案内してこちらへ向かう。
 客の声が近づいてくる。仏間の前の廊下に客は立った。
「どうぞ、ここでお待ち下さい」
「ああ、ありがとう。君、鴻助さんのお孫さんかい?」
「はい、そうです」
「なんて賢そうなんだろう、おジイさんに似たんだね」
「ありがとうございます。どうぞ、ごゆっくり」
 朱鷺とお春は、茂三が仏間に入ると同時に廊下側の襖の陰に移った。障子に自分達の影が透けて見えると計画は台無しになるからだ。気づかれぬよう襖を少しずらし、中の様子をうかがう。
「フン。鴻助に似て、孫もアホ面だ。えーっと、隣の部屋からだ、ウッキッキッ……てか」
 鴻太郎が引っ込むと、茂三はしかめっ面で舌打ちして独りごちた。首を突き出し、肩を揺らして笑いながら、まず寝室に侵入した。すかさず物色し始める。
「バカヤロー、コロスゾ、キュウタロー」
 茂三はよし子の声に恐れおのいた様子で飛び上がると、慌てふためいて寝室から仏間へ戻った。
「驚かせやがって……焼き鳥にしてやるぞ。このままじゃ割りに合わねえ。しけた家だ、まったく。なにもねえや……」
 悪態をつきながらキョロキョロと仏間を見渡すと、仏壇の前に座った。隣の遺骨を覗く。「こんな狭いとこにおさまっちまって、ご愁傷さんなこった、チーン、ナンマンダー。ん、あった! とりあえず、ありがとさん。はあ、聖徳太子様ってか、年代もんだ。いくらになる?」
 茂三は一万円札を見つけると、小躍りしながら仏壇の鐘をそっと鳴らした。
 「茂三よ、覚悟しな!」
 と鐘の音は朱鷺の耳に囁く。
 テーブルの前に座って一万札を背広のポケットにおさめた。再び仏壇の方を向く。供えられた栗饅頭を一つ口に放り込み、幾つかを背広のポケットに忍ばせた。
「トキちゃん、呆れたジジイだ」
 お春の問いかけに頷くと、準備運動に余念がない。お春の方を向いて、何度も入れ歯を引ん剥いて顔の筋肉をほぐした。
「頼んだよ。今だ!」
 朱鷺は囁いてOKサインを出した。と、お春はガタガタと襖を揺らし、思い切り滑らせた。襖の縁と縁がぶつかり、大きな音が響いた。
 朱鷺は障子に指で穴を開けて茂三の様子を覗き見る。
 茂三はビクついて襖の方に注意を取られている。ゆっくり立ち上がると、襖の前に移動して襖の開け閉めを繰り返しながら首を傾げる。
 隙を見て姿勢を低く保ち、大きく弧を描きながら茂三の視界に己が映らぬよう細心の注意を払いつつ、その背後へとそっと近づいた。茂三の背後に立つと、障子の陰からこちらをうかがいながら指示を待つお春に、もう一度OKサインを送った。
 お春は障子を力の限り滑らせた。障子は柱にぶつかり、大きな音を立てて止まった。もう一枚を同じように滑らせる。
 茂三は障子の方へ視線を向けた。視界に朱鷺の姿を認めたのだろう。俯き加減でこちらを向きながら朱鷺の足元からゆっくりと上へ視線を這わせる。
 視線同士がぶつかった時、朱鷺はアルカイクスマイルでコソ泥野郎を見上げた。大きく目を見開き、いきなり顔を近づける。ヤツの鼻と己の鼻がぶつかりそうな距離まで近づくと、両手をその首に巻きつけた。
 茂三は逃れようとして身を縮めると、そのままストンと畳に尻をついた。朱鷺の両手は解かれた。
 高みから見下ろしながら尚も迫った。両手を腰の後ろに組み、中腰で茂三を見据える。
「茂三、覚えてるか~、金返せ~、70年間おめえがやってくるのを今まで待っていたぞ~、よく顔を見せろヤ~、背広のポケットの中身出せ~、栗饅頭ひと~つ、ふた~つ、み~っつ~、聖徳太子さま~……アッ! いちま~ん、に~ま~ん、さんじゅうま~ん、返せ~……エッ!」
 茂三は震えている。明らかに怯えていた。
 ──今だ!
 心の中で叫んだ。
 第一段階。姿勢を正し、目を引ん剥く。顔は真っすぐ前方を向いたまま、黒目を下方に落とす。
 第二段階。大きく口を開け、金の入れ歯を見せる。でき得る限り怖い顔で。身を屈め入れ歯をガタガタ鳴らす。
 最終段階。茂三の首を絞めつける。少しばかり強めに絞めつけた。
 茂三はようやくポケットの栗饅頭を全部出した。が、聖徳太子はまだだった。
 渾身の力で首を絞めた。思いっ切り揺さぶってやる。茂三の頭部が首から下とは逆方向に前後に揺れた。
「ウンギャーッ! やめやめ……やめてー……ごめんな……さーい」
 茂三の顔面が蒼白になってきた。目は血走っている。
 ここは籠野家の敷地だ。こんな場所で殺してしまってはあと味が悪すぎる。化けて出てこられては、おちおち生活できやしない。朱鷺は仕方なく少しだけ力を緩めた。
「オラのこと覚えてるか~……アッ!」
「は、はい!」
「オラ、黄泉(よみ)の国からきたぞ~……オッ!」
 ──積もりに積もったこの恨み、今晴らさでいつ晴らす!
 とばかりに、もう一度両手に力を入れて絞めつけた。今度は微笑んでやる。そしたら怖い顔を見せた時よりも効果覿面(てきめん)だった。茂三の歯が小刻みにガタガタ鳴った。
「も、もう……しましぇーん!」
 茂三の甲高い悲鳴が朱鷺の鼓膜を襲った。
 ゆっくりと力を緩めてやると、手を離し仁王立ちで茂三を見下ろした。しばらくその姿勢を保ったあと、突然その場にドスンと尻を落とし胡坐をかく。と、茂三の身体がピクリと大きく痙攣した。口を大きく開けてよだれを零している。朱鷺は虚空を見つめ、無表情で顔をそっと茂三の顔の方へスライドさせると、入れ歯を引ん剥いて目をカッと見開いた。
「イーッヒッヒッヒッ……」
 奇声を上げて笑った。
 すると、茂三はあたふたと這いずり回り、右往左往する。出口を探しているらしいが、中々見つけられないようだ。頭を何度か襖にぶつけると、猫のように襖を引っかき始めた。偶然取っ手に指が引っかかり、襖は開いた。ようやく廊下に出た茂三は玄関へと這い(つくば)って行った。
 茂三が仏間からいなくなると、お春が朱鷺の横にきて襖の陰から玄関方向を覗く。二人して客のお帰りを見送った。客の姿が見えなくなると、一度顔を見合わせ笑う。お互い肩を抱き合い健闘を称え合った。
「あれっ? 財布だよ!」
 お春が叫ぶ。
 その声に、朱鷺はお春の視線の方向を見た。廊下に黒い財布が落ちていた。
「ホントだ。茂三のヤツ、落として行きやがった」
「幾ら入ってんのかねえ?」
 お春は財布を拾って中身を確認する。「ひい、ふう、みい……ありゃ! 30万丁度だよ。どうするね?」
「30万かい?」
「元々ここん()の金だよね?」
「汚らわしい金だよ、それ」
「もらっときなよ、有難く……」
「オラ、イヤだね」
 朱鷺は一旦は首を横に振った。が、少し考えを巡らすと、いい使い道を見つけた。「そうだ、ええこと思いついた」
「どんな?」
「これ、あくどい金さ。だがよ、お春さん。使い道一つでええ金になる。生きた金になるんでねえか」
「で、どうするの?」
「寄付する!」
「名案だ!」
 二人の意見は一致した。早速朱鷺は小銭だけを残して札を財布から抜き取り、お春に財布を預けた。急いで庭に下りると、枯葉を30枚集めてお春に手渡した。
 以心伝心。ツーといえばカー。最早二人はそういう仲だ。お春は頷くと、それらを財布の中におさめた。
「茂三のヤツ、必ず戻ってくるよ」
「落とし物探しにかい……くるかねえ?」
「ああ、賭けてもええ。そこに放って置きなよ」
 お春は仏間の前の廊下に財布を落とした。
 ──細工は流々、あとは待つだけ……
 二人は茂三を待ち侘びた。
 ほどなくして茂三は性懲りもなくまた舞い戻ってきた。玄関からこちらを覗いている。
 朱鷺とお春は襖の陰に隠れ、茂三の様子をうかがった。茂三の首だけが見え隠れする。相手に悟られぬよう朱鷺は顔を引っ込め、襖に背中を張りつかせ耳をそばだてた。
 どうやら茂三は財布を確認したらしい。板張りの廊下に衣類がこすれる音がする。茂三はすぐ傍まで這ってきたのが、その音で分かる。そっと廊下を覗いてみた。手だけがヌウッと伸びて財布をつかむと、方向転換した。茂三の足が覗く。土足だった。すかさず廊下へ躍り出て、はいはいする茂三の背後にピタリと張りつく。茂三の尻を目がけ、追いかけた。玄関の前までやってくると、いきなり叫んだ。
「ウラメシヤー!」
 茂三は手を踏み外し、30センチほどの段差から玄関のモルタルの床に額を思い切り打ちつけた。
 朱鷺はしゃがみ込んで小悪党を見守ってやった。
「テメエ、コロスゾ、コロスゾ」
 九太郎がタイミングよく茂三を脅した。
 茂三が顔を上げると、額のど真ん中にくっきりと見事な瘤をこさえていた。朱鷺と目が合う。朱鷺は一度だけアルカイクスマイルで仏の慈悲を演出してやると、今一度入れ歯を引ん剥いてガタガタと鳴らした。
「ウヒェーッ!」
 茂三は声にならぬ叫び声を上げながら籠野家を出て行った。
 朱鷺は急いで庭へと向かった。庭先からは坂を下る客の姿がよく見通せるのだ。お春を誘って縁側から庭へ下りると、坂を一目散に下る茂三の滑稽な走りを眺めた。
 茂三は何度も後ろを振り返りつつ走った。背を丸め首を突き出し、ガニ股で坂道に足を取られながら逃亡する。
 朱鷺は急いで柿の木の下へ移動した。熟れかけた柿を一つもいで両手で十分こねくると、モーションを起こした。大きく振りかぶって左足を上げ、右足に体重を預けた。右肘を後ろに引くと同時に胸を張り、上体を沈み込ませ、大きく左足を踏み出す。体重を徐々に左足に移しながら左腕を折り畳むと、思い切り右足を蹴り出した。その反動で右腕を振り下ろすと、円運動の接線方向へと柿は一直線に押し出された。柿は朱鷺の矢のような投球で茂三の後頭部を直撃し、破裂した。その衝撃で茂三は一度前転を決めると、あとは惰性で坂道をクルクルと転げ落ちて行った。
「ストラーイク!」
 お春が叫んだ。「さすが、いいコントロールだ」
「よっしゃ!」
 朱鷺はガッツポーズを決めた。
「ああ、爽快な気分だ。面白かったー」
 お春が満足げに言い放つ。
「人生、予測つかねえことが起きるもんだよなあ……」
 縁側の方へ移動しながら、しみじみとお春に頷いて見せる。
「そうだねえ、長生きはするもんさね」
「おちおち死んでられっかって。なあ、お春さん」
「そうだよ、死んだらお仕舞いさね。生きて、生きて、二人で楽しもうじゃないの」
「オラ、あと50年は生きるかも」
「幾つだい? 137だよ。トキちゃんなら……」
 お春は朱鷺の顔をまじまじと見る。「死なない気がするよ」
「まだまだ、オラ、死なねえー! 死んでも死ぬもんかー!」
「あたしだって、死ぬもんかー!」
 二人は夕暮れの街に向かって大声で叫ぶと、お互い顔を見合わせてゲラゲラ笑った。
「ヘーックション!」
「ん?」
 朱鷺の顔に風が当たった。咄嗟に振り返る。
「どうしたのさ、トキちゃん?」
「あれっ、なーんかいるよ……? あっ、今動いた。柿の木の陰に隠れた!」
 ピンポン玉ほどの適当な庭石を一つつかんで、柿の木めがけて投げた。石は幹に当たり跳ね返ると、芝生の上に転がった。
 朱鷺は確かに何かの気配を感じ取ったのだ。
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