◇4 コウスケ、一世一代の日──トキが!

文字数 1,807文字

 ──どういう風に渡そうか?
 昼休みに連れ出してさりげなく手渡す。
 仕事帰り、バイクの後ろに乗せ夜景を眺めながら……
 ──待てよ、この街にも近隣の街にもそんなロマンチックな場所などない。
 トキをバイクでアパートの前まで送り届け、忘れた振りをしてそのまま走り去る。また引き返してアパートの呼鈴を押す。トキがドアの隙間から顔を見せた瞬間にすかさず目の前に差し出して驚かしてやろう。
 ツナギのポケットに手を突っ込んで、四六時中、何度も掌の中で転がしては想像してみる。トキの喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。いずれにせよ、今日が決行日だ。自ずと笑みが零れる。
 辺りを見渡してみた。
「いねえ!」
 やはり婆さんの姿はない。
 今朝、目覚めるとちゃぶ台の上にちゃんと朝食の支度は調えられていた。だが婆さんは布団に潜ったまま、ついぞ起きることはなかった。
「風邪でも引いたか?」
 尋ねても口を濁すだけだ。
「今日一日静かにしてるから、一人で決めてこい」
 ──なんと!!
 婆さんらしからぬ言い種だった。
 まあ、どっちみち邪魔者は消えた。心置きなくトキとの二人の世界を満喫できる。自ずと表情も綻んだ。
 12時になると職場を抜け出し、小走りにサンクチュアリへ向かった。
 玄関を入って、いつもの席に座るとトキを捜す。だが、トキの姿は店内には認められなかった。
 ──恐らくロッカールームに籠り、入念に化粧でも直しているのだろう……
 と、大して気にも留めなかった。
 が、昼休みもそろそろ終了の時刻になっても一向に現れる気配はない。時計と睨めっこを繰り返しながら、忙しなく仕事をこなしていたウエイトレスの一人を(つか)まえてトキの所在を尋ねた。そしたら、トキは欠勤している、それも無断欠勤だと告げられた。別の幾人かのウエイトレスに訊いても口を揃えて、
「あのトキちゃんがねえ……」
 とか、
「珍しいわねえ……」
 などと首を捻って、返ってくる答えは皆同じだった。
 トキには自分の連絡先は教えてある。何かあれば必ず連絡はあるはずだ。
 ──なのにどういうことだ!?
 胸騒ぎを覚え、結局昼食もそこそこに済ませて、気づけば店を出てメジロ石油に足は向かっていた。
 ──なにか一報でも入っているかもしれない!
 息を切らせ事務所に駆け込むと、そこにいたアルバイトの女子大生に尋ねた。だが、そんな電話など一本もないと言う。
 しばらく黒電話の前に陣取り、かかってくるのを待ち侘びた。虚しい睨めっこの時間だけが無情にすぎ去ったのみだった。トキのアパートの部屋には電話は引いてないし、須藤夫人のような世話好きの隣人もトキにはなかったので、ここにいても詮無いことだと悟り、トキから連絡があれば知らせてくれるよう女子大生に頼んで外にいた社長の元へ急いだ。事情を話すと、社長は二つ返事で承諾し、コウスケの尻をポンと叩いて、「今日は休め」と言ってくれた。
 鷹鳥駅へ走った。アパートまでバイクを取りに戻る暇はない。このまま駅へ直行した方が早いと判断したのだ。それに途中でトキと出くわすかもしれない。駅へはみどり公園を突っ切った方が近道だ。迷わずそちらへ足を向ける。
 公園の入口を入ってすぐ婆さんの姿を認めた。大銀杏下のベンチで休んでいる。コウスケはベンチの前で立ち止まり、両手を膝についた。汗が顎の先から滴り落ちる。
「どうした?」
 婆さんは目を丸くしてこちらを見た。
「い、いない……いないんだ!」
 喘ぎながら叫んだ。ツナギの袖で汗を拭う。
「誰がだ?」
「トキ……ちゃんが……」
 真っすぐ立つと、もう一度袖で顔の汗を拭った。「無断欠勤してるんだ……なんかあったのかも……」
「無断……欠勤?」
「うん、連絡もねえし、オレ、トキちゃんのアパートに行ってみようと思う。バアさんよ、悪いがオレのアパートに戻って連絡待っててくれねえか、頼む」
 息も絶え絶えに捲し立てるや、一目散に駆け出した。
 こんな時はよからぬ想像が浮かんでしまうものだ。
 ──どこかで倒れて……
 ──誰にも気づかれずにいるのかもしれない!?
 胸に不安がよぎる。
「待ってろよ、トキちゃん! オレが必ず見つけてやる! この腕で抱き締めてやるぞ!」
 コウスケは走った。力の限り一心不乱に走り続けた。そうすることがトキへの愛の証である、と疑わなかった。
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