◆21 腹に据えかねた朱鷺──この“バカちん” めが!
文字数 3,498文字
朱鷺はちゃぶ台を挟んで、濡れ鼠と相 対 する。腕を組んで、胡坐をかいた片方の膝を忙しくバタつかせた。
「おめえ、男か! さっき蹴り上げてやりゃあよかった」
コウスケがあれから一度もサンクチュアリに行かなかった、と聞いて腹に据えかねた。朱鷺は我も忘れて思わずちゃぶ台を掌で叩いていた。
「ま、おさえて、おさえて……血圧上がるし……」
「だ、ま、れ! このロクデナシヤローめ!」
「そ、そこまで言わなくったって……」
「ウスノロ、トンマ、バカちん!」
「バカちん? もう怒った。バアさんに言われる筋合いはねえ! オレはオレの道を行く。もうオレに構うな!」
「ふん、度胸もねえくせに。そうはさせねえ!」
「もう勘弁してくれよ……オレにつきまとってなんの得になる?」
朱鷺はカッカしてコウスケを見据えた。
──どうしたものか?
頭を悩ます。
自分が二人の仲を取り持たねば、一生らちは明かない。
──最早、手段は選ばぬ!。
──悠長なことは言ってはおられぬ!!
──早く決めなければ、コイツはフラフラとほかの女に現 を抜かすに違いねえ!!!
朱鷺は唸り続けた。
「なあ、おめえ、あの娘が嫌いか?」
優しい口調で微笑んだ。下手に出ることにした。
「嫌いもなにも、よく知らねえし……」
朱鷺は俯 いてしばらく無言で眉根を寄せた。名案を求めたが脳細胞は停滞気味だった。仕方なく膝をポンと叩くと、コウスケを真っすぐ見つめた。
「よし、分かった!」
「なにが?」
「なんだ?」
「なにが分かった?」
「ハテ? なにも分からねえよ」
「紛らわしいこと言うな」
そう言いながら、コウスケは右肘をついて横になった。
「詳しく話してみな。オラが消えたあとどうなった?」
「どうも……」
「あの娘となんかあったか?」
「さて?」
コウスケは目を泳がせる。「あっ、そうだ! おかしなことあった」
「どんな?」
「バアさんが消えたあと、あの娘転びそうになってよ……」
「ふんふん……」
朱鷺はちゃぶ台に身を乗り出して両肘をつく。
「オレが支えてやった。こんな風に……」
コウスケは横になったまま手振りで再現して見せた。
「それで?」
「あの娘の手取ってやってよ……それが、大笑いよ」
「なして?」
「あの娘の顔が、目の前にあったのよ……」
「それが、なして大笑いなんだ?」
「これが笑わずにいられるかって……」
コウスケはクスクスと笑い出した。
「こらっ! 早く先を話せ!」
「そう、急かすな」
コウスケは起き上がり胡坐をかいた。
「あの娘の顔がな……」
「どうした?」
「あの娘の顔が……」
コウスケは鼻先で笑う。「バアさんに見えたのさ。驚いたぜ、全く……」
「バアさんって誰だ?」
「あんただ」
「オラにか?」
「おかしいだろう?」
「なして? あたりめえでねえか。本人だもの」
「本人?」
「そうだ」
「どういうこと? また、わけ分かんねえことを……」
「めんどくせー。つべこべ言うな!」
「はいはい」
コウスケは欠伸をした。
朱鷺は胡坐をかいて座り直すと、もう一度腕組みをして首を傾げる。若かりしあの日を必死に思い出そうとした。
──昭和50年11月17日月曜日。
お春と藤九郎の悪だくみを耳にした、あの日。
70年前の錆 びついた記憶の断片を脳ミソの片隅から引っ張り出すのも容易ではない。仕方なく側頭部を掌で一発はたいた。薄ぼんやりとしたセピア色の映像がポツリポツリと目の前を横切っては消えてゆく。一瞬浮かんだ映像の欠片を素早く前頭葉に落とした。
確かにコウスケの言った通りだった。後ろから誰かが自分にぶつかった。朱鷺はよろけてコウスケの方へ倒れ込んだ。そしたらコウスケが手を差しのべてきたので、
──シメタ!
と思ってしっかりとその手を握り締めたのだ。
──ウッシッシ~!
内心ほくそ笑みながら。
実は全て故意だった。朱鷺は思い出しながらコウスケを見てニンマリとする。
「ヒッヒッヒッ……」
「お、おい。気持ち悪い笑い方すんな!」
「あの時と全くおんなじだ……」
朱鷺は後ろに両手をついて天井を仰いだ。「おめえ、この一週間どうしてた?」
「普通」
「変わりねえってか?」
「普通」
「進展もなんもなしか……」
朱鷺は肩を落とす。
「普通」
「ハサミあっか?」
「あそこ」
コウスケは流しの引き出しを指差した。
朱鷺は立ち上がって引き出しを開け、両手でコチョコチョまさぐって奥の方から20センチほどのハサミを握った。ずしりと重みを感じる。真新しい刃に独特の光沢を放つそれをまじまじと見つめた。これは今も籠野家に残っている。何度も研ぎに出して少々短くはなったが、紛れもなくその一品だ。
「これ、博多鋏 でねえか……懐かしいなあ……どれ、ためしてみっか?」
朱鷺はコウスケの横に膝をついてその髪の毛をつかんだ。
「な、なにする!」
コウスケは朱鷺の手を払い除けた。こっちを見て目を丸くする。
「普通にしてやんのよ」
もう一度ヤツの髪をつかんで引き寄せ、ハサミを当てる。
「や、やめろ!」
「普通でええのか?」
コウスケの髪を握ったまま顔を覗き込んだ。「己を恨め。横着な物言いすっからだ」
「わ、分かったから、イテーしよ……降参だ、降参!」
朱鷺は髪を離してハサミを見つめる。
「ええハサミだ」
「そんなに気に入ったんなら持ってけよ」
急に切っ先をコウスケの目先につきつけた。と、乱れたリーゼントをせっせと整えていたコウスケは上体を後方に倒した拍子に頭と尻が入れ代わった。朱鷺はその尻を軽くひっぱたき、
「天地無用」
と一言放ってハサミをちゃぶ台の上に置いた。「大事に持ってな」
朱鷺は大きく溜息をついてその場にへたり込んだ。
コウスケは、起き上がりこぼしよろしく胡坐をかくと、朱鷺の顔を覗き込んできた。
「どうしたの……かな?」
「食いもんあっか?」
「腹減ったのか? 冷蔵庫開けてみな」
「ええのか?」
「しおらしいことを……遠慮ねえくせに」
「あんがとよ」
早速お言葉に甘え、腰ほどの背丈の冷蔵庫を開け物色する。めぼしいものは何もない。しゃがんで首を突っ込んでみる。卵二個とコンビーフの缶詰が見えた。缶詰を鷲づかみにすると、戸をバタンと閉めてちゃぶ台の前に座った。向かいの濡れ鼠をうかがって笑みをみせながら、
──もっと食いもんねえか?
心に念じてみる。
「フランスパンがあるだろうが……」
以心伝心、ツーと言えばカーだ。
──さすが我が亭主!
朱鷺は感心しながら、
──やっぱり夫婦だな。
と思った。
コウスケは流しの方を指差した。まな板の上に手つかずのフランスパンが載っていた。朱鷺は膝で歩み寄って、素早い動作でつかむとちゃぶ台の上に転がした。
「食うか?」
「いらねえ。半分残しとけよ、オレの朝めし……」
「もっとちゃんとしたもん食わねえか」
「大きなお世話だ」
「ピーピーだもんな。あれが全財産か?」
「なにが?」
「二万円だ」
「ん? なんで……あっ!」
コウスケは慌てて積み重なった雑誌の中から一冊引き抜いてパラパラと捲り始めた。例のバイク雑誌だ。と、聖徳太子が一人だけ寂しくヒラヒラと舞って畳に落ちた。コウスケは尚も飽きずに何度も捲っている。
「どうかしたか?」
「ない! 足りねえ、一万!」
「ふーん」
「あのよおー……」
「なんだその目は。コイツ、オラが盗んだとでも?」
「い、いや、だって、バアさん知ってたし……オレの全財産だと……」
「で、オラを疑ってんだな?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「オラ、泥棒でねえ!」
「わ、分かった。ゴメン」
「分かりゃええ。もう二度とそんな目するんでねえ。今回は許してやる」
「はあ……」
「オラ、コソ泥みてえなマネは好かねえ、やる時は堂々とやる!」
朱鷺は胸を張った。「いづれ返してやっから、心配するんでねえ。あんなはした金」
「ん? ん? ん?」
「なんだ? 文句あんのか!」
朱鷺はいきなり立ち上がって、コウスケに詰め寄って凄んだ。
「な、ない!」
「それでええ。人間素直さが肝心だ」
朱鷺は早速コンビーフとフランスパンに交互にかぶりついた。コウスケが何かぼそぼそ言っているが、全く朱鷺の耳には届かない。朱鷺は夢中であっという間に平らげた。
「オレの朝めしが……」
コウスケが何やら呟いた。
「おめえ、男か! さっき蹴り上げてやりゃあよかった」
コウスケがあれから一度もサンクチュアリに行かなかった、と聞いて腹に据えかねた。朱鷺は我も忘れて思わずちゃぶ台を掌で叩いていた。
「ま、おさえて、おさえて……血圧上がるし……」
「だ、ま、れ! このロクデナシヤローめ!」
「そ、そこまで言わなくったって……」
「ウスノロ、トンマ、バカちん!」
「バカちん? もう怒った。バアさんに言われる筋合いはねえ! オレはオレの道を行く。もうオレに構うな!」
「ふん、度胸もねえくせに。そうはさせねえ!」
「もう勘弁してくれよ……オレにつきまとってなんの得になる?」
朱鷺はカッカしてコウスケを見据えた。
──どうしたものか?
頭を悩ます。
自分が二人の仲を取り持たねば、一生らちは明かない。
──最早、手段は選ばぬ!。
──悠長なことは言ってはおられぬ!!
──早く決めなければ、コイツはフラフラとほかの女に
朱鷺は唸り続けた。
「なあ、おめえ、あの娘が嫌いか?」
優しい口調で微笑んだ。下手に出ることにした。
「嫌いもなにも、よく知らねえし……」
朱鷺は
「よし、分かった!」
「なにが?」
「なんだ?」
「なにが分かった?」
「ハテ? なにも分からねえよ」
「紛らわしいこと言うな」
そう言いながら、コウスケは右肘をついて横になった。
「詳しく話してみな。オラが消えたあとどうなった?」
「どうも……」
「あの娘となんかあったか?」
「さて?」
コウスケは目を泳がせる。「あっ、そうだ! おかしなことあった」
「どんな?」
「バアさんが消えたあと、あの娘転びそうになってよ……」
「ふんふん……」
朱鷺はちゃぶ台に身を乗り出して両肘をつく。
「オレが支えてやった。こんな風に……」
コウスケは横になったまま手振りで再現して見せた。
「それで?」
「あの娘の手取ってやってよ……それが、大笑いよ」
「なして?」
「あの娘の顔が、目の前にあったのよ……」
「それが、なして大笑いなんだ?」
「これが笑わずにいられるかって……」
コウスケはクスクスと笑い出した。
「こらっ! 早く先を話せ!」
「そう、急かすな」
コウスケは起き上がり胡坐をかいた。
「あの娘の顔がな……」
「どうした?」
「あの娘の顔が……」
コウスケは鼻先で笑う。「バアさんに見えたのさ。驚いたぜ、全く……」
「バアさんって誰だ?」
「あんただ」
「オラにか?」
「おかしいだろう?」
「なして? あたりめえでねえか。本人だもの」
「本人?」
「そうだ」
「どういうこと? また、わけ分かんねえことを……」
「めんどくせー。つべこべ言うな!」
「はいはい」
コウスケは欠伸をした。
朱鷺は胡坐をかいて座り直すと、もう一度腕組みをして首を傾げる。若かりしあの日を必死に思い出そうとした。
──昭和50年11月17日月曜日。
お春と藤九郎の悪だくみを耳にした、あの日。
70年前の
確かにコウスケの言った通りだった。後ろから誰かが自分にぶつかった。朱鷺はよろけてコウスケの方へ倒れ込んだ。そしたらコウスケが手を差しのべてきたので、
──シメタ!
と思ってしっかりとその手を握り締めたのだ。
──ウッシッシ~!
内心ほくそ笑みながら。
実は全て故意だった。朱鷺は思い出しながらコウスケを見てニンマリとする。
「ヒッヒッヒッ……」
「お、おい。気持ち悪い笑い方すんな!」
「あの時と全くおんなじだ……」
朱鷺は後ろに両手をついて天井を仰いだ。「おめえ、この一週間どうしてた?」
「普通」
「変わりねえってか?」
「普通」
「進展もなんもなしか……」
朱鷺は肩を落とす。
「普通」
「ハサミあっか?」
「あそこ」
コウスケは流しの引き出しを指差した。
朱鷺は立ち上がって引き出しを開け、両手でコチョコチョまさぐって奥の方から20センチほどのハサミを握った。ずしりと重みを感じる。真新しい刃に独特の光沢を放つそれをまじまじと見つめた。これは今も籠野家に残っている。何度も研ぎに出して少々短くはなったが、紛れもなくその一品だ。
「これ、
朱鷺はコウスケの横に膝をついてその髪の毛をつかんだ。
「な、なにする!」
コウスケは朱鷺の手を払い除けた。こっちを見て目を丸くする。
「普通にしてやんのよ」
もう一度ヤツの髪をつかんで引き寄せ、ハサミを当てる。
「や、やめろ!」
「普通でええのか?」
コウスケの髪を握ったまま顔を覗き込んだ。「己を恨め。横着な物言いすっからだ」
「わ、分かったから、イテーしよ……降参だ、降参!」
朱鷺は髪を離してハサミを見つめる。
「ええハサミだ」
「そんなに気に入ったんなら持ってけよ」
急に切っ先をコウスケの目先につきつけた。と、乱れたリーゼントをせっせと整えていたコウスケは上体を後方に倒した拍子に頭と尻が入れ代わった。朱鷺はその尻を軽くひっぱたき、
「天地無用」
と一言放ってハサミをちゃぶ台の上に置いた。「大事に持ってな」
朱鷺は大きく溜息をついてその場にへたり込んだ。
コウスケは、起き上がりこぼしよろしく胡坐をかくと、朱鷺の顔を覗き込んできた。
「どうしたの……かな?」
「食いもんあっか?」
「腹減ったのか? 冷蔵庫開けてみな」
「ええのか?」
「しおらしいことを……遠慮ねえくせに」
「あんがとよ」
早速お言葉に甘え、腰ほどの背丈の冷蔵庫を開け物色する。めぼしいものは何もない。しゃがんで首を突っ込んでみる。卵二個とコンビーフの缶詰が見えた。缶詰を鷲づかみにすると、戸をバタンと閉めてちゃぶ台の前に座った。向かいの濡れ鼠をうかがって笑みをみせながら、
──もっと食いもんねえか?
心に念じてみる。
「フランスパンがあるだろうが……」
以心伝心、ツーと言えばカーだ。
──さすが我が亭主!
朱鷺は感心しながら、
──やっぱり夫婦だな。
と思った。
コウスケは流しの方を指差した。まな板の上に手つかずのフランスパンが載っていた。朱鷺は膝で歩み寄って、素早い動作でつかむとちゃぶ台の上に転がした。
「食うか?」
「いらねえ。半分残しとけよ、オレの朝めし……」
「もっとちゃんとしたもん食わねえか」
「大きなお世話だ」
「ピーピーだもんな。あれが全財産か?」
「なにが?」
「二万円だ」
「ん? なんで……あっ!」
コウスケは慌てて積み重なった雑誌の中から一冊引き抜いてパラパラと捲り始めた。例のバイク雑誌だ。と、聖徳太子が一人だけ寂しくヒラヒラと舞って畳に落ちた。コウスケは尚も飽きずに何度も捲っている。
「どうかしたか?」
「ない! 足りねえ、一万!」
「ふーん」
「あのよおー……」
「なんだその目は。コイツ、オラが盗んだとでも?」
「い、いや、だって、バアさん知ってたし……オレの全財産だと……」
「で、オラを疑ってんだな?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「オラ、泥棒でねえ!」
「わ、分かった。ゴメン」
「分かりゃええ。もう二度とそんな目するんでねえ。今回は許してやる」
「はあ……」
「オラ、コソ泥みてえなマネは好かねえ、やる時は堂々とやる!」
朱鷺は胸を張った。「いづれ返してやっから、心配するんでねえ。あんなはした金」
「ん? ん? ん?」
「なんだ? 文句あんのか!」
朱鷺はいきなり立ち上がって、コウスケに詰め寄って凄んだ。
「な、ない!」
「それでええ。人間素直さが肝心だ」
朱鷺は早速コンビーフとフランスパンに交互にかぶりついた。コウスケが何かぼそぼそ言っているが、全く朱鷺の耳には届かない。朱鷺は夢中であっという間に平らげた。
「オレの朝めしが……」
コウスケが何やら呟いた。