◇6 愛の証──コウスケは気づいてしまった……

文字数 5,252文字

 コウスケは鷹鳥駅構内を一通り捜し回ったが、トキの影はどこにも見当たらなかった。
 ──これ以上モタモタはできねえ!
 窓口で急いで切符を買って、釣りも受け取らず、特急待ちの鈍行列車に飛び込んだ。
 乗降客など殆どない時間帯で、この車両は空席のみだったが、乗降口に陣取った。手すりの上端に左手首をかけ、握り拳でコツコツ車体を叩き、左足の爪先を忙しく上下した。右手はツナギのポケットの指輪の箱をギュッと握り締める。発車までまだ2分の猶予がある。
 ホームの時計の長針が1分だけ時を刻んだ。特急列車がホームに烈風を置き去りに通過した。まだあと1分も残っている。右足の踵で木の床を蹴り始める。
 ようやく発車のベルが鳴った。ドアが左右からゆっくり滑る。中央付近で滑らかさを失いカクカクとぎこちなく左右の(へり)が合わさった。一度ガタンと音をたて、進行方向に逆らって体は右になびき、ノロノロと滑り出す。次第にスピードを上げホームを離れた。
 ひと駅、そして、ふた駅目。僅か5分足らずの旅が今日に限って数十分もの長さに思われる。
 電車は軋みながら停車した。乗降口が進行方向に向かって左側に変わったことに気づくと、慌てて身を翻し反対側のドアに跳んだ。
 ドアが開くのと同時に両手で左右にこじ開けながら狭い隙間を横向きにホームに飛び降りる。蹴躓(けつまず)きながらも右に折れ、先の階段を目指す。電車も動き出し、張り合うかのようにコウスケは全力疾走した。階段を駆け上り、右に折れ直進する。途中、線路を見下ろしながら反対側のホームを目指す。左寄りに体重移動して左手で手すりをつかむと、大きく一歩を踏み出した。階段を数段ずつ飛び越えて躓きそうになりながらも、加速を続けた。あたかも落下するように下り切ると、改札口へ猛然と突っ込んだ。切符を目線にかざし改札をすり抜けながら駅員の手元に落とす。駅員はうまくキャッチしてくれた。そのまま速度を緩めずトキのアパートを目指した。
 駅から徒歩6、7分の距離を2分ほどでトキのアパートに着いたコウスケは、木造二階建ての階段を上り、三部屋並んだ中央の部屋のドアノブを回し、ガタガタと何度も引いてみた。カギはかかっている。ドアを叩きながらトキの名を叫ぶ。
 奥の部屋のドアが開き、住人がドアの影から顔を覗かせた。不機嫌な面持ちで、トキは既に出勤したと告げ、すぐにドアを閉めようとした。
「トキちゃん、出かけた? いつです?」
 一気に捲し立て、肩で呼吸を繰り返す。
 隣人は閉めかけたドアを再び少しだけ開け、顔だけを出した。
「ええ、今朝早くね。アタイが帰った時、ちょうど出勤するとこだったのよ。ウキウキしちゃってさあ……なにがそんなに楽しいのかしらねえ、まったく……イヤになっちゃうわ」
 蔑むように言い放つと、浅黒いくすんだスッピンの顔を上下させ、ねっとりとした視線でコウスケを舐めるように見る。一寸見(ちょっとみ)は30代、いや40といっても通じるかもしれないが、よく見ると肌のハリツヤからして、まだ30には手は届いていないだろう。きつい香水の臭いが廊下に立ち込める。
「そうですか、ありがとうございます」
「いいえ」
 牛蛙に似た声をあとに残し、ドアは勢いよく閉まった。
 しばらくトキの部屋の前でドアに耳を当てたり、郵便受けから覗いてみたりして中の様子をうかがっていたが、やはり人の気配はない。仕方なくその場を離れ、通りの反対側からトキの部屋のベランダを背伸びして覗いてみる。洗濯物が風に揺れる。
 ふと、アパートの並びにタバコ屋の赤電話が目に留まった。急いで、須藤夫妻宅とメジロ石油に交互に連絡を取った。だがトキからの言伝(ことづて)はなかった。
 それから一旦自宅へ戻り、バイクでトキが立ち寄りそうな場所を手当たり次第に捜した。二人で訪ねた店、デートした場所……。トキの気配はどこにもない。実家にも帰ってはいなかった。
 既に日は傾いていた。最後にもう一度サンクチュアリに立ち寄り、トキの消息を知る者はいないか、虱潰(しらみつぶ)しに同僚達に尋ねても結局徒労に終わった。
 肩を落とし自分の職場に戻り、社長に経緯を話し詫びを入れると、社長も心配して即座に交番の船村巡査にトキの行方を捜してくれるよう頼んでくれた。船村巡査もすぐに駆けつけ、慰めてくれる。
 事務所に入ると、最早、万策尽き果て椅子にぐったりとへたり込む。いくら考えても分からない。なぜ行く先も告げず姿をくらましたのか。
 ──もしや、誘拐か!
 激しくかぶりを振った。
 ──それとも……フラれたのか?
 ──そうかもしれない!
 ──オレは、フラれた……
 ──愛想を尽かされたのだ!
 頭には否定的な答えしか見つからない。
 力なく立ち上がる。気づけば脚は棒のようだ。空腹と脱力感で目の前がぼやける。肩で呼吸をしながらフラフラと表へ出た。スタンドの塀沿いの路地に停めたバイクの傍まで行こうとして一旦前の歩道へ足を踏み出した。カーラジオから3時の時報が聞こえた。その時どこからか、ゴォーッという音が響いてきた。足を止め聞き耳を立てると、突然地面が揺れ出した。バランスを崩し、スタンドの敷地と歩道の境界の側溝に右足がすっぽりはまってしまった。どういうわけかコンクリートの蓋の(へり)が割れていた。恐らく今の揺れで元々あったヒビが耐え切れず割れてしまったのだろう。足を突っ込んだ拍子に蓋が斜めに落ち込み、足首は溝に固定されてしまった。足を引っこ抜こうとしても、なかなかうまくいかない。
 左程強い揺れではなく、ほんの数秒でおさまった。フーッと溜息をつき、辺りを見渡してみる。通りの反対車線にプロパンガスの巨大なボンベを積載したトラックが目に留まった。
 ──もし、あれが勢いよく直撃したら……
 一瞬危ぶんだ。
 ゆっくりと注意深く足首を回しながら足の甲を伸ばし、左足を踏ん張り、蓋の割れ目に挟まった右足をもう一度力の限り引いてみた。だが、いかにもがこうとも甲斐はない。一旦諦めて誰かが近寄ってくれるのを待つことにして、ひとまずその場に腰を下ろした。と、もう一度揺れがきた。さっきよりも大きな揺れだ。頭上の電線が不規則に波打つ。10秒ほど続いておさまった。
 ──震度3、いや2ぐらいだろう……
 とコウスケは予想した。
 この程度の揺れは珍しくもないが、やはり目の前のボンベの怪物が気にかかる。
 ──だが、大丈夫だ。
 ピクリともしてない様子だ。
「どうしたんですか?」
 帰り支度を済ませた田村が、コウスケの異変に気づいて近寄ってきてくれた。
「足が挟まって抜けなくなっちまった」
「どれ、手伝いましょう」
 やはり田村はできたヤツだ。婆さんは、田村を毛嫌いしているが、
 ──人を見る目は、このオレにだって……
 コウスケは深く頷いた。
 田村はコウスケの足を襲っていたコンクリート蓋と隣の蓋の隙間に両手の人差し指を入れ、持ち上げようとしてくれた。辛うじて指が入るだけの余裕しかない。蓋は少し動いたが、田村の細腕だけではそこまでが限界のようだ。コウスケも少々体勢に難はあるものの二人してかかればどうということはないと確信した。もう一箇所の隙間を探したが、足首が挟まっているヒビ割れの部分しか見当たらない。そこに右手の指を差し込んでみる。二本しか入る余裕はない。人差し指と中指を強引に()し込み、それらと親指で厚みのある蓋をギュッとつかんで左足を立て尻を浮かせた。しゃがんだ体勢でコウスケが声をかけると同時に田村も指に力を込める。ゴリゴリと側溝と蓋の(へり)がこすれる音がして、さっきよりもだいぶ浮き上がったが、田村の指が滑って蓋はまたピタリと溝に食い込んだ。
「よし、もう一度頼む、せーの、ソレッ!」
「よいしょっ!」
 田村は歯を喰いしばる。
 また地面が揺れた。今度は一回目、二回目よりも小さく、たった数秒の揺れにすぎなかった。
 コウスケの耳に不吉な音が響いた。金属同士がぶつかる高い音だ。
 ──嫌な予感がする。
 すぐに前方のトラックを見た。荷台から一本がアスファルトを直撃した。と思ったら、コウスケの目の前で次々と大きな音をたて落下し、合計三本の巨大な鉄の塊が道路を転がり出す。
 最初の一本目は反対側の歩道の段差がストッパーとなり車道との狭間に横たわった。
 あとの二本は大きく曲線を描きながらこちらに向かってくる。スタンドの前の歩道には段差などない。コウスケは慌てふためいて田村に視線を送る。
 ──田村も状況を万事飲み込んでいるはずだ!
 ──なんとか策を講じてくれる!
 なーんて楽観視したのも束の間、己の考えは甘かった、と悟る瞬間は意外にも早かった。
「おい、手伝ってくれ!」
「ウワァーッ、こりゃダメだ、危ない危ない……」
 嫌に落ち着き払った口調だ。田村はコウスケとボンベを交互に見比べると、ゆっくりと立ち上がり、礼儀正しく会釈し別れを告げた。コウスケに踵を返すと、一度も振り返ることなくさっさと視界から姿を消してしまった。
 二匹の鉄の怪物は勢いを増しながら襲いかかる。
 ──もうダメだ!
 コウスケは観念して身構え、挑もうと決意した。そう思った矢先、目の前に何かが立ち塞がった。次の瞬間、怪物は次々にその物体を直撃し、手前に物体を押し込んで静止した。
 突然、物体は起き上がり、コンクリートの蓋を持ち上げようとした。蓋と側溝がこすれる耳障りな音とともに土煙が巻き上がり、コウスケは埃を避けようと反射的に顔を背けた。次に物体を見た時、蓋を持ち上げていた。コウスケはすかさず足を溝から抜き、その場に立ち尽くす。物体はスタンドの敷地内の方へ静かに蓋を置いた。
 寺西のツナギの左肘の部分が破れ、すり傷が覗く。両の手の甲にも血が滲んでいた。ボンベの下敷きになった左手の中指と薬指の第一関節が酷く腫れ上がっている。
「バカヤロー! お前が危ねえだろうが!」
「兄貴が……」
 低い声でボソッと呟いた。寺西は相変わらずふてぶてしい。
 寺西の尻を「コノヤロー!」と叫びながら叩いてやると、ヤツはコウスケの前から無言で姿を消した。
「だ、大丈夫っすか?」
 顔見知りのガス屋の若い兄ちゃんが詫びを入れにきた。
「大丈夫じゃねえぜ、死ぬかと思った」
 笑いながら冗談めかす。
「ホ、ホントにすまんこってす」
 ガス屋の兄ちゃんはコメツキバッタよろしく何度も頭を下げた。大したことはない、と告げてやると、申しわけなさそうな表情でまた頭を下げる。
「もういいからさ、早く片づけねえと……」
 そう促してやるとガス屋はもう一度深々と頭を下げ、ボンベを慣れた手つきで転がしてトラックに積み直した。
「すまんこってした!」
 運転席からまた声がしたので、手を振ってやると、ガス屋のトラックは駅の方角へと走り去った。
 ガス屋のトラックを見送って何気なく溝を覗くと、足元に白いタバコの箱が落ちていた。寺西がいつも吸っている銘柄だ。決まってコウスケの目前でわざと口に咥えるやつだ。初めはコウスケも激怒して寺西に詰め寄ったりしていたが、一度も火は点けなかったし、こちらが相手にすれば却ってつけ上がり挑発してくる始末だ。だから、忌々しいヤツめ、とはらわたも煮え繰り返るのだが、知らぬ振りが一番とばかりに、これまで無視を決め込んできたのだ。それを手に取り蓋を開けると、一本引き抜いて鼻に近づけてみる。甘い香が鼻腔から喉の奥へとしみ渡った。首を傾げながら喉を鳴らし匂いを鼻に抜き、ピチャピチャと口も鳴らしてみる。
 ──なんの匂いだろう? 
 子供の頃から親しんできた懐かしい味だ。確かによく知っている匂いだった。もう一度箱を確認すると、『チョコレート菓子』の文字を見つけた。
 ──そうだ、チョコレートの匂いだ!
 手にしたその一本を目線にかざしハッとした。寺西は勤務中、喫煙などしていたわけではなかったのだ。
 寺西に一杯食わされたことに、
 ──このままでは腹の虫はおさまらねえ!
 ──おさめてなるものか!
 といつか必ずこの仕返しをしてやろうと決意した。
 表面を覆ったタバコの紙を剥ぎ取り、中身を前歯で少しずつかじりながら『シガーチョコ』を味わった。舌で苦味をまさぐってみる。苦味を包み込んだ芳醇な甘い香が口の中一杯に広がり鼻に抜けた。
「兄貴だと……? 兄貴か……」
 思わず微笑んでいだ。そして口をへの字に結び直したあと、言い放った。「チクショウ! 田村め!」
 ──大丈夫だったろうか?
 すぐにトキの安否を気遣った。
 ──これから、どうすればいいのか……?
 トキのいない生活など考えられない。
 ──オレは、トキを心から愛しているんだ!
 コウスケはとうとう気づいてしまった。
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