◆11 鷲や猿との戯れのあとに──いけ好かねえババアがベンチの隣に!

文字数 11,893文字

 いくら呼びかけても揺すっても爺さんは目覚めようとはしない。その顔をじっと見つめながら涙が止め処なく溢れ出る。今、感謝の気持ちで心はいっぱいに膨れた。
 床を踏み締める足音が響いた。誰かがこちらへやってくる。話し声が段々近づいてきた。朱鷺の家族の声だ。
 咄嗟にベッドの傍から離れ、隣のベッドと隔てた背後のカーテンを手繰り上げ、潜った。隣の装置の影に身を低くして隠れ、息を潜める。家族が中に入るのを待って、気づかれぬうちに外へ出ようと考えた。カーテンの下から皆の足元だけが見える。
 医師をはじめとした病院スタッフの脚のあとから、家族のそれが次々と爺さんのベッドを取り囲んだ。
 朱鷺は真っすぐ立ち、注意深くカーテンの隙間から家族の様子をうかがった。長男の鴻之助がベッドの向こう側から神妙な面持ちで医師の説明を受けていた。こうして見ると、爺さんによく似ている。
 胸は締めつけられた。もうじき、医師のあの常套句を聴くことになるのだ。耐え切れず耳を塞いだ。
 ──もうここには一分、一秒たりともいたくねえ!
 気づかれぬよう細心の注意を払いつつ誰もいないベッドの横をすり抜け、一歩を踏み出す。慌てて一歩後ずさった。すかさずカーテンに(くる)まる。危く自分と鉢合わせしそうになったのだ。
 そっと自分の後姿を目で追った。悲しげな背中だった。あの自分は爺さんと一言も言葉を交わすことなく見送るだけなのだ。哀れだった。しかし、爺さんはさっき一旦意識を取り戻してくれた。この自分は最後に言葉を交わすことが叶ったのだ。本当に幸せな一瞬だった。二人だけでこの一瞬を過ごすために待っていてくれたとしか思えない。感謝を込めてそっと指輪に右手を添えた。
 後ろ髪を引かれつつ、家族とあの自分自身を残して一人ICUを出た。一旦振り返り、爺さんに頭を下げた。
 病院をあとにした朱鷺の足は方向も定まらない。勿論、家になど戻るわけにもいくまい。とりあえず、みどり公園にでも行ってみようと思い立ち、歩を進める。

   *

 街は随分と様変わりしていた。さっきまでいた70年前の街並みがこの目に焼きついている。忘れかけていた古い風景もはっきりと目の前のそれに重ねることができる。
 街の東の外れにある病院から公園を目指した。20分ほど行って巣籠もり線へ出ると左に折れ、メジロ石油のあった場所までやってきた。しばらくその場に佇んだ。今は20階建てのマンションがそびえ立つ。1階にコンビニ、2階が爺さんのバイクショップだ。建物の横にバイクショップへと続くバイク専用のスロープが延びている。このマンションの所有者は長男の鴻之助だ。土地は爺さん名義だったが、もうじき鴻之助が相続する運びと既に決めてある。
 爺さんは死ぬ直前までここでバイクショップを営んでいた。メジロ石油を1985年に譲り受け、30年続けたが時代の潮流には逆らえなかった。ガソリンの時代から電気の時代へと移行してゆく、と踏んだ爺さんの潔さは天晴れだった。あっさりガソリンスタンドをたたみ、60代で中古バイクばかりを扱ったショップを立ち上げ転進を図ったのだ。これがちっとも儲からない。儲かったためしがない。だが、爺さんも朱鷺もそんなことなどお構いなしだった。
 ──長年、家族の為に尽くしてくれた褒美だ!
 と朱鷺も心から祝福したのだ。
 二人してよく古いバイクをいじくったものだ。儲けはなくとも、夫唱婦随でのこの上なく楽しかった光景が瞼の裏に浮かんだ。
 そんな道楽を資金面で支えてくれたのが鴻之助だった。鴻之助は自動車会社のエンジニアから今は社長にまで上り詰めた。父親譲り、母譲りのバイク好きが高じて、というわけではない。バイク好きではあったが、幼少の頃より父の後姿を見るにつけ、こりゃいかん、と奮起して勉学に勤しんだのだ。こと理数系にかけては、その才を持て囃されたものだ。
 ──反面教師としての面目躍如たる爺さんの技量?
 とでも言ってやろう。数学の才は自分を受け継いだのだ、と朱鷺は自負しているが。
 爺さんは口では「人は地位じゃねえ」と鴻之助には豪語していたが、そこは人の親、内心では「よくやった」と心から喜んで祝福していたのは当然だ。だが、爺さんが偉いのは、地位、名誉、権力など意に介さぬところだ。分け隔てなく人とつき合える才能だ。人としてつまらん人間なら社長だろうが大臣だろうが矢でも鉄砲でも持ってきやがれ、と威勢がよかった。
「蟻ん子は蟻ん子。蛙見て区別つくか? 蛙の子は蛙。決して鳥にはなれねえ。人間は所詮人間だってことよ。お利口だろうと阿呆だろうと。人間以上でも以下でもねえやい! 偉そうにするんじゃねえ! ま、蛙の子はオタマジャクシだけどよ」
 爺さんは一度だけ客を殴ったことがある。客が整備の為ガソリンスタンドに車を預け、爺さんがタクシーを捉まえてやった直後だ。その客が運転手に向かって暴言を吐いたらしい。客が何と吐き捨てたのか朱鷺には話さなかったが。爺さんは客をタクシーの後部座席から引きずり下ろし、運転手に詫びを言えと迫った。運転手は二人の間に割って入ってくれたが、客の発言がどうしても許せなかった。爺さんは若かった。勢い、爺さんの振り上げられた拳は振り下ろされてしまった。そのまま留置場送りとなった。
「職業に貴賎の差別はねえ!」
 爺さんは常々言っていた。
 朱鷺にはそんな爺さんが眩しかった。爺さんは男だった。人間としては上等だ、と皆に自慢できた。辺りを見渡してみる。
 ──この国に日本人は、九州男児はもういなくなったのか!
 と寂しくなる。
 その爺さんも最早いないのだ。太陽はもうあんなに高くなった。ということは、爺さんは既に逝った。
 70年前の面影を残すものはみどり公園の一角だけだ。あの大銀杏の木陰のベンチのみだ。足は自ずとその場所へ向いていた。
 ──花を買おう!
 ふと閃いた。赤いバラの花を買って、もう一度爺さんに手向けるのだ。向きを変えて巣籠もり線を北上した。しばらく行った先の最初の角を右へ曲がり路地を入ったばかりのところにある花屋を目指す。

   *

 花屋の店先に立つ。バラの花を見つけると、時間も忘れ真っ赤なバラに見入った。通夜の席での光景が目に浮かんだ。
 爺さんが息を引き取ったあと、寝室に横たわる亡骸の傍に寄り添って、いっときたりとも離れることができなかった。親戚連中からは赤いバラなんて不謹慎だ、と咎める声も上がったが、夫婦間のことは誰にも分かるはずはない。何食わぬ顔で、バラの花を一輪、爺さんの手にそっと握らせたのだ。その行為が通夜の席で余計に涙を誘ってしまったようだ。お春婆さんも嗚咽していたし、寺西も黙って俯き、唇を噛み締めながら目頭を押さえていた。
「おバアちゃん。どうしたの?」
 若い男の声がした。「なんの花探してるの?」
 我に返り、声の方を見た。20歳そこそこの店員だった。爺さんの若き頃を彷彿とさせる。こっちを見て優しく微笑んでくれた。朱鷺もゆっくりと店員に顔を向け、微笑んだ。
 一つだけ腑に落ちないことを思い出した。バラの花をどこの店で手に入れたのか全く記憶になかったのだ。どうして自分がバラを握っていたのかさえ分からない。恐らく爺さんを亡くしたショックのあまり、自分の行動すら把握できなかったのだろう。
「バラがきれいだなあと思って……」
「バラ、好き?」
「ああ、とっても」
「昔、おジイさんにもらった……図星でしょう?」
「ええ勘だ」
「またおジイさんにもらえば?」
 店員は笑う。
「そうはいかなくなったのさ……」
「どうして?」
「死んじまったのさ」
「そうか……残念だね……」
 彼は眉根を寄せ、悲しい表情を見せた。
「随分元気だったのに、コロッと……」
 遠くを見つめながら笑った。
「一人で寂しいね……」
「そうでもねえよ。たっぷり思い出作ってきたから……ええこと教えようか」
「うん、なんなの?」
「ジイさんが若かった頃の時代にタイムスリップして、たった今帰ってきたとこさ」
 彼にウインクした。
「そう、それはよかったね」
 彼は笑顔で朱鷺に合わせてくれた。
「二人で力いっぱい生きた証を確認してきたのさ」
「そう……羨ましいなあ……」
 彼は真顔で大きく頷いた。「いつか僕にもそんな女性現れるかなあ?」
「ああ、きっと! 人間は一人でこの世に生れたわけでねえんだよ。あんたにもいるはずさ、この広い青空の下のどこかにさ。心配はいらねえよ」
 澄み切った空を仰いで、もう一度彼に視線を送って微笑んだ。
 若者は真剣に朱鷺の言葉に耳を傾けていた。と、赤いバラを何本か引き抜くと束ねて朱鷺に差し出した。
「持って行っていいよ」
「いや、ええよ」
「僕からのプレゼントさ。いい話聞かせてくれたお礼だよ。おジイさんに手向けてあげて、遠慮しないで……」
 若者は微笑んで朱鷺の胸元へバラの花束を近づけた。
「いやいや……そうかい、それじゃ……一本だけ、一本だけでええんだ」
「そうなの? でも……」
 若者は手にした中から二輪を引き抜いて朱鷺の手に握らせた。「もう一本は、僕からおバアさんへ……」
「ありがとな。優しいなあ、あんたは、オラのジイさんみてえに……」
 目頭が熱くなる。
「ええっ、そんなこと……ありがとう……」
 若者は頭をかいてはにかんだ。「おジイさんによろしくね」
「ああ、ここの花屋が繁盛するように祈っとくよ。それとあんたの幸せもな、ジイさんに頼んどくからな」
「ありがとう。元気出してね」
「ありがとよ。オラ元気さ。あんたと出会って益々元気出たよ、この通り……」
 ガッツポーズを決めてみせる。「あんた、学生さんかい?」
「そこの大学に通ってるんだ。ここでアルバイトしながら……」
「そうかい、また寄らしてもらうからね、あんたの顔見に……」
「いつでもどうぞ、話し相手ぐらいなら僕にも務まるかも……」
 照れながらそう言った時の若者の表情と仕種の中に少年と大人が同居していて、それが朱鷺に若かりし頃の感情を思い起こさせた。清々しさなどと一言では片づけられぬ、どうにも表現しようのない、寂しくもあり哀しくもあり、ありとあらゆるものが入り交じった複雑な感情だった。
 二輪の真っ赤なバラを携え、花屋をあとにした。
 ──なんと爽やかな青年だろう!
 ──まだまだこの国も捨てたもんじゃねえ!
 心から思った。
 ──大の大人の方が見習うべきだ!
 いつしか気分も和んでいた。
「さてと、これから一週間どう過ごそうか……」
 独りごちながらとりあえず再びみどり公園へと足を向けた。

   *

 路地を直進し、角を左に折れ、巣籠もり線をしばらく南へ歩いていたら、後方からバイクの音が近づいてきた。立ち止まって振り返る。
 6、7台のバイクの集団が縦一列に白バイに先導されてやってくる。先頭はハーレーのサイドカーだ。後続にはナナハンが連なる。このご時勢にいずれもガソリン車だ。歩行者の安全を図るため装備された電気自動車特有の合成音ではなく、本物の唸りに朱鷺の胸も躍り出す。朱鷺が手を振ると、ハーレーは減速しピタリと横で停車した。
「よう、あんた乗るか?」
 ハーレーのサイドカーに颯爽(さっそう)とまたがって朱鷺に声をかけてきた。さすがに精悍(せいかん)さは過去に置き去りにして、声も少々震えぎみだが、紛れもない90歳をとうにすぎた鷲生英雄だ。
 ──目つきの鋭さだけは、若かりし面影をにおわせるのかな……?
 まあ、首を傾げたくもなるが、そういうことにしといてやってもいいのかもしれない。
「あんた、相変わらずだな。白バイに先導させるなんざ、さすがだ。どこをぶっ飛ばしてきたんだ?」
「ハイウエイさ。150キロ超えだぜ」
「へえ、その歳でかい、よくやるよまったく……」
 ハイウエイは自動運転が主流の時代だ。法律上は許可されているのだが、今では誰も手動運転は滅多にしない。擬態老人花盛りの中、こんな年寄りがまだ生息しているとは朱鷺も嬉しくなる。
「オレの女にしてやろうか?」
「ええっ、ハハハ……遠慮しとくよ……」
「そうか、じゃあな」
 鷲生は後ろを振り返った。「みんな、行くぞ!」
「おう」
 昔は揃っていた声も、それぞれワンテンポ、いやツーテンポ半ほど遅れ、ばらばらに聞こえてきた。
 ──ま、これも味があっていいか……
 と寛容な気持ちで老人ライダー達を見守った。
 鷲生は朱鷺に手を振ると、皮ジャンに身を(つつ)んだ不良老人の黒い固まりを引き連れて朱鷺の前から消えて行った。
 ──なにはともあれ、老人が元気なことはいいことだ!
 愉快な気分のまま自分の歳は棚に上げ、胸を突き出し反っくり返って大股で朱鷺は歩き出した。

   *

 公園の北口から中に入り通路を南へ行くと、お気に入りの大銀杏前のベンチの端っこに誰かが座っていた。朱鷺はベンチのど真ん中に堂々と腰を下ろす。隣の男を横目でうかがう。
 ──ハテ?
 見覚えのある顔だった。随分年を取ってはいたが、この猿面は忘れようにも忘れられるものではなかった。
 猿野は密造酒を煽っていた。若い頃のいでたちと何ら代わり映えしていない。下駄履きに相変わらずのつんつるてんだ。
「あんた、元気そうでねえか……」
「なんですな? あんた、だれ?」
 猿野のろれつは回らない。朱鷺の方にゆっくり顔を向けた。「アッ! あんた……」
「あんた、あれからどうしてた?」
 猿野は呆けた猿面で口を開けたまま固まってしまったので、その顔の前で手を叩いた。相撲の『ねこだまし』だ。
「あーん!」
 猿野は驚いてベンチから一瞬尻を浮かせた。
「あんたも成長したか?」
「な、なにを言う!」
 猿野の顔がより赤くなった。酔いが覚めたのか、ちゃんと人間の言葉を喋っている。「あ、あんたのせいで、人生メチャクチャだ! どうしてくれるんだ!」
「ハテ? オラ、あんたに、なーんか悪いことしたか?」
「あんたのせいで、ずっと一人ぼっちだ! あんたが、『オナゴに縁はない』とさえ言わなければ、未来を教えられなければ、もっとましな人生を……」
 猿野は拳で自分の膝を叩いた。「クッソーッ!」
「あんた自身がそうしむけたんでねえか……己が選んだ人生でねえのか? 他人を恨むなんざ筋違いもええとこだ」
「な、なんとな!」
「自分で撥ね退けようと思えば、いくらだって行く手は明るいもんだ。道は開けたものを……」
「あ、あんたが言った。『運命は変えられない』と……」
「オラの運命はオラが辿ったようにしかならなかったさ。だがよ、オラ、なんとかして変えようとした結果なんだ。オラ、自分の力で決着つけたんだ。オラ自ら努力しなかったら運命なんてどうなっていたか知れねえ。これだけは、はっきり言える。ええことも悪いことも己のせいだってことだ。全て己の為せる業なんだ。誰のせいでもねえ。オラ悟ったね。あんた、他人のせいにしねえで、己を顧みるこった。そうすりゃ道は自ずと見える。道は一通りでねえ。目の前には無数にあるんだ。それを選ぶのが己自身だ。選んだ道だけがたった一つというだけの話さ」
 猿野は真顔で朱鷺の話に耳を傾けている。
「でも……」
「つべこべぬかすんでねえ! ええ歳ぶら下げて悟らねえか!」
 聞き分けのない猿野を睨みつけてやる。「あんたは猿か?」
「と、とんでもない!」
「だよな。あんたは、れっきとしたホモでねえか!」
「と、とんでもない! 断じてホモではなーい!」
 猿野は慌てふためく。
「なんとな?」
 朱鷺は首を捻った。「あんた、まだそんな子供じみたことを……猿だと認めんのか?」
「あーん! 違いますって!」
「そうだろう? あんたはホモだ! 猿とは違う、似ているだけだもの……」
「わ、分かりましたから……」
 猿野の声は尻すぼみに小さくなる。「大きな声でよしましょう、また噂にでもなったら、ホモだなんて……」
「あんたには、まだまだ学習が必要なようだ。ええか、人は学ぶことをやめたら人間ではなくなるんだ。あんたは猿に育てられたのか? あんたの親は猿なのか?」
「い、いいえ! 断じて、人間です!」
「そうか、俄かには信じがたいが、そういうことにしといてやろう」
 猿野に疑惑の目を向ける。「狼に育てられた人間は心は狼なんだ。見た目は人間だがよ。四つん這いで歩き、狼のように食らう。ある日、文明にどっぷり浸かった別の人間に見つかり、人間社会に放り込まれる。どうなったと思う?」
「ええっと……人間らしく幸せに……」
「とんでもねえ、すぐに死んじまったんだ。ストレスでな。確かに見た目は人間よ。だがよ、心は狼のままだ。どう足掻こうと、人間社会に適応し切れねえんだ」
「かわいそうに……」
「そうよ、悲劇よ、残酷よ。あんた、よっく気持ちが分かるんだな。さすがだ。猿の顔だけのことはある。褒めてやる」
「なんと? はあ、わたしは猿野夏央です……」
 猿野はしばし首を捻りながら考える。「──ありがとう……ございます、と言うべき……でしょうか?」
「猿には猿の……」
 猿野を指差し、そこんとこを強調しながら先を続ける。「人生があるように、その子には狼の生活が幸せだったんだ」
「はあ……そうですか……?」
 猿野はまだ腑に落ちぬ表情を見せる。
「人は生れ落ちた瞬間から学ぶことを始める。まず、母親から学び、家族という社会で生活する。そして、色々な刺激を受けながら学ぶことで全てを理解してゆくんだ。学ばねえ人間は人間にはなれねえ。そこでだ。あんたに問う。あんたはなんのために学ぶんだ?」
「えっ、ええっ! そ、そうですね……いきなり訊かれましても……」
「人よりもええ暮らしをするためか? 人に先んじるため、勝つためか? 理由は様々だろうよ。全部正解さ。泥棒だって、学ばねえとできやしねえよ。ヤツらにだって道理はあんのさ。それもある意味正解なんだろうよ。学べば、知れば、それだけ生きやすくなんのさ。知識がつくだけ思考の幅も広がる。視野も広がる。さあ、そこでだ。生きやすい人間とは? 逆に、生きにくい人間とは、どういう人間だ?」 
 朱鷺は叫んだ。「答えてみんしゃい!」
「ああーんちょっちょっ!」
 猿野は驚いて目を引ん剥いた。
「あれはダメ、これはイヤーン、あいつはああだから除け者だ……なんてヤツァ、生きにくいだろうよ。本人は決してそうは思ってねえがな。かわいそうな人間だぜ全く。逆によ、なんでも受け入れるヤツってえのは、生きやすい人間よ。懐が深いっちゅうか、許容量が大きいのよ。ちっぽけなことには(こだわ)らねえ。泰然自若っちゅうか、大人(たいじん)よのぉ。あんた、そういう人間をなんと呼ぶか知ってるか?」
「──い、いえ……」
「偏見のねえ人間さ。偏見、こいつが巨悪の根源さ。人間はな、偏見をなくすために学ぶのさ。広い意味での学びだぞ。机上のお勉強だけでねえのよ。相手を知る、理解するっつうのも含めてだぞ。学ぶこと、よく知ること、理解することによってしか偏見は拭い切れねえ。偏見のねえ人間とは……バカだ! 人間はバカになるために学ぶんだ。人間の究極の生きる目的だ。大バカがこの世で一番賢く、偉いんだ。バカは人と争わねえ。だがよ、人間、そうそうバカになれるもんでねえ。バカになろうと思っても、小賢しい知恵が邪魔しやがる。偏見のねえ人間なんざ、この世に一人だっていやしねえ、ということだ。もしそんな人間がいたら、お目にかかりてえもんだぜ。きっとそいつは神だろうよ。あんたも、もうちょこっと真剣に学習して大バカになる努力をしなせー!」
「はあ……」
 猿野は頭をかきながら首を捻る。
「パンツを穿()かかねえ猿は立派だ。パンツを穿いた猿はみっともねえ。パンツを自ら穿く猿は独創的だ。あんたはどれだ?」
「な、な、なんですな?」
「あんたはパンツを穿いた猿だ。早く自ら穿くようにしねえか。肝に銘じとけ。人生これからよ。オラだって、もう一花も二花も咲かせようと思ってんだ。あんたもええオナゴでも見つけたらええよ」
「この歳で?」
「そうよ、恋に歳は関係ねえ!」
「はあ、そうですね。そうか! 若いオナゴでも見つければいいですね……20代のオナゴでも……」
「あんた、自分の歳を考えねえか!」
「えっ、今、恋に歳は関係ないと……」
「限度っちゅうもんがあんだろうが……どれ、オラでどうだ?」
「い、いやあ……」
「ジイさんに先立たれ、オラ未亡人よ。オラと接吻でもすっか?」
 じりじりと猿野に迫ってみた。猿野は突然ベンチから落ちた。
「け、結構!」
 猿野が金切り声で叫んだ。  
「遠慮はいらねえよ。その気になったらいつでも言ってくれ」
 猿野は立ち上がり、尻をはたいて埃を払いながら朱鷺を見て引きつった笑みを見せる。
 一旦そっぽを向き、猿野が油断したところを見計らって猿野の前に躍り出た。
「ウーワンッ!」
 と吠えたら、猿野は驚いて跳び上がり、歳に似合わず機敏な動作で朱鷺に踵を返すと、その場を走り去った。その逃げる後姿は相変わらず若い頃と同じだった。
 ──やはり猿野は……
「ホモではねえ!」
 朱鷺は確信した。

   *

 猿野が去ったあと、ベンチに腰を落ちつけて、70年目にようやくゲットした指輪を眺めつつ、これから一週間いかに過ごすべきか頭を巡らせていると、隣に人の気配を感じた。だが、そんなことなど意に介さない。自分の世界に浸り切った。脳裏には夫婦で辿ってきた懐かしい映像が浮かんでは消える。さっきまで若い二人を見守っていたのだった。二人の姿がはっきりと瞼に焼きついて決して離れようとはしない。何度も溜息をつく。
 隣人は何やらブツブツ呟き始めた。
 ──耳障りだ!
 ──思い出を汚された気分だ!
 舌打ちして耳をそばだててみる。
「どうすりゃええんだ……死んじまった……どうして死んだんだ……どう生きりゃええんだ……死にてえ……」
 年寄りの声だ。
 ──年寄りの戯言にはつき合ってられねえ!
 ──なんだ、ウジウジしやがって……
 ──だから年寄りは嫌いだ!
 朱鷺は腹の中で呟きながら聞き耳を立てていたが、いっちょ発破でもかけて元気づけてやろうか、と決心した。これも人助けの一環だ、とばかりに。
 もう一度舌打ちするとソッポを向く。くたばり損ないのババアの面など見るのもご免だ。
「あんた、どうしたんだ? 落ちこんでるみてえだな……」
「一人でどうすりゃええんだ? あんた、分かっか?」
 隣人はボソッと呟いた。
「分かんねえ!」
「そうだろうな……誰にも分かってもらえねえよなあ……」
「そうさ、ウジウジしてんじゃねえぜ」
「ウジウジしてるわけじゃ……あんた、ダンナに先立たれたら、どうする?」
 カチリと頭にきた。
 ──何て無礼極まりないんだ!
 ──夫を亡くしたばかりのオラに!
 ──いちいち気に障るババアだ!
「死ぬしかねえだろうよ!」
 朱鷺は増々苛立って、腹立ち紛れに吐き捨てた。
「あとを追うのか、あんた?」
「そうさ、あんたも死んだらええ!」
「あんた、そう思うのか?」
「あんた、さっき『死にてえ』って言ったな」
「ああ」
「できもしねえクセに、軽々しく口にすんな!」
「そんなわけじゃ……」
「じゃあ、あんた死ぬのか?」
「いやあ……」
「ふんっ! あんたみてえな煮え切らねえ女房で、さぞかしご亭主は気の毒なこった!」
「な、なんだと!」
「ふんっ、威勢だけか。から元気ってか!」
「コノヤロー! 喧嘩売ってんのか!」
「できもしねえクセに、死ぬなんてぬかすからだ。ああ、虫唾が走るぜ!」
「もう一度言いやがれ!」
「なん度でも言ってやる。死ねるもんなら死んでみな。死ね! 死ね!」
「もう許せねえ、立て!」
「上等だ、受けて立ってやる!」
 ベンチから腰を上げると、いけ好かねえババアと対峙する。「ん……?」
「おめえ、薄汚ねえババアだな? なんだそのモンペ……イヤにくすんだ色だ。ははあ、おめえも擬態老人の仲間だな? 情けねえ、世も末だ。おめえのような年寄りのせいで、オラ達も社会の隅っこにそっちのけされるんだ!」
 目を疑った。
 ──この声!
 ──この佇まい!
 ──紛れもねえ!
 目の前に自分が立っている。こっちを睨んで。
「おめえ、オラが……見える……のか?」
 己に問うてみた。
「おめえ、バカか! ボケてんのか?」
 己に帰ってくる。
「見えるんだ……な!」
「なんだ、おめえ、それでも生きてんのか? 影、薄いでねえか……」
  (おの)が頭のテッペンから爪先まで舐め回すように(おのれ)の視線が這い回って何とも全身がこそばゆいような……。尻の穴がむず痒くなった。
「そ、そんなに薄いのか?」
「ああ、死人かと思ったぜ」
 ──なるほど……
 ──ここまでくれば、薄いにせよ向こうからもこちらが見えるんだ!
「そ、そうかい……」
「おめえ、どっかで会ったか? 見覚えある顔だ……」
 向こうさんは首を捻る。「ハテ? よーっく知ってんだが……思い出せねえ……」
「いんや、会ったこたねえよ。さ、帰るとすっか。あんた、元気出しな。じゃあな……」
 朱鷺は後ずさる。
「なんだ、今度は励ましてくれんのか……? 変なババアだ。それにしても……おい、よく顔見せろや」
 向こうさんがこっちに近づいてくる。と、また後ずさった。
「近寄るんでねえ!」
 向こうさんはじりじりと距離を詰めてきた。
 朱鷺は逃げようとしてまたまた数歩後ずさる。
 ──間に合わねえ!
 咄嗟に判断した。相手は自分だ。狙った獲物はトドメを刺すまで逃がさないのが信条だ。自分のことは自分がよく知っている。踵を返し向きを変え逃走しようと、まさに行動を起こしかけた時、相手は猛スピードで突進してきた。既に目前に迫りつつある。
 ──遅すぎた!
 60センチの距離まで詰め寄られた瞬間、目を閉じた。
 ──今度はどこへ飛ばされたのか?
 と目を開ける。
 目の前に鏡があった。自分が映っている。手を振る。鏡像も同じ動作をした。
 ──当たり前だ、鏡だもの。
 胸を撫で下ろし、鏡に向かって微笑んだ。「イー」と入れ歯を剥き出しにして笑う。鏡の自分も入れ歯を剥き出しにする。
 ──当然ではないか!
 ちゃんと上下噛み合わさってガタガタ鳴った。首を捻る。
 ──なにかがおかしい……
 ──ハテ?
  口の中を舌でまさぐってみる。ちゃんと入れ歯は外してある。鏡に向かって満面の笑みを見せる。鏡像はこちらを睨みつけた。もう一度首を傾げた。
「おめえ、オラをバカにしてんのか?」
 鏡像から放たれた声に目を瞬き、辺りを見回した。大銀杏が目に入った。その木陰にベンチがある。公園の中だった。
「今日は、なん月なん日なん曜日だ?」
 自分に問いかける。
「11月2日木曜日だ」
「なん年のだ?」
「2045年に決まってんだろ……おめえ、やっぱボケてんのか?」
「おめえは誰だ? オラ、なにしてたんだ?」
「オラは籠野朱鷺、87だ、文句あっか!」
「オラ、消えてねえのか?」
「なんだ……おめえ、消えてえのか? それで幽霊みてえに影薄いのか……」
 目の前に向こうさんの顔が迫る。相手との距離は最早数センチしかない。どういうわけか何も起こらなかったらしい。
 ──シメタ!
 と心の中で叫ぶと、いきなり踵を返し走った。だが、安心したのも束の間、敵は己自身だ。執拗な追跡が始まった。
 朱鷺は全速力で走った。相手も同じスピードで追いかけてくる。全く距離は開かない。これではイタチゴッコもいいとこだ。追っ手の位置を確認しようと振り返って躓いてしまった。一瞬の気の緩みだったかもしれない。前方につんのめり、頭を地面に打ちつけそうになると、両手をついてクルリと前転を決め、後方を見ながら立ち上がり、また走ろうとした。が、足がもつれ相手に正面を向けてその場に座り込んでしまった。向こうさんも同じ箇所で躓き、そのまま勢いよく突進してきた。相手の体が一瞬宙に浮いたかと思えば朱鷺に覆い被さろうとする。朱鷺はその場に仰向けになりながら相手の身体を受け止めようと、咄嗟に手を広げた。その時、バラが一輪朱鷺の手を離れ、宙を舞った。宙を突進してきた相手は手を伸ばし、それを受け取った。と、朱鷺の額に激痛が走った。目の前に小さな点が一つ現れ、たちまち同心円を描きながら幾重にも視界に広がった。まるで波紋のように見える。額を打ちつけたせいだ。
 額に手を添えてさすってみる。不思議なことに痛みは消えていた。瘤もできてはいなかった。体には何ら異常は認められない。だが、足元が不安定だ。突如、ユラユラと揺れ始めた。俯くと、丸椅子の上で今にも転びそうだ。朱鷺はバランスを取って耐えた。



†††「九太郎参上!」††† 

判定:ステージ4クリア! 

   朱鷺、見事お宝ゲット。
   帰りなん、いざ!
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