◆3 爺さんの気配──爺さんに見守られて世直しだ!

文字数 2,590文字

「ヘーックション!」
 朱鷺は耳を澄ました。今、爺さんの声が聞こえたような気がした。傍にいるような気配も感じる。目を凝らしてもう一度柿の木を見た。
「ジイさんだ! 今、オラの顔に息吹きかけた。オラには分かる」
 鼻を鳴らしながら辺りを嗅ぎ回った。「ジイさんのにおいだ」
「まさか……」
 お春は微笑みながら首を傾げ、取り合わない。
「間違いねえ、オラに会いにきたんだ。近くにいる。はっきり分かった」
 己が心は、あの青空のように晴れ渡った。爺さんは死んでも尚、自分を愛してくれていると疑わない。自分の傍を片時も離れたくはないのだ。
 ──ジイさんは生まれ変わっても……
 ──また、オラと一緒になりたがっている!
 ──きっと心は一つなんだ!
 朱鷺は奇声を上げながらその場で小躍りを始めた。
「トキちゃん、あんたどうかしちまったのかい?」
「どうもしねえよ。お春さんもどうだ。一緒に躍るかい?」
「あたしは遠慮しとくよ。でも……トキちゃん、若いねえ」
「オラ、そんなに若えかなあ?」
「若いよ」
「お春さんもだよ。そうだ!」
 突然躍るのをやめ、お春の傍に歩み寄ると、金ピカ入れ歯を引ん剥いて笑いかける。
「フフフ……なんだい? もう見たよ」
「せっかくジイさんが、オラのために遺してくれたんだ。これを使わねえ手はねえ!」
「どういうこと?」
「お春さん、美人局(つつもたせ)やろう!」
「ええっ!」
「お春さん、一度経験済みだろう?」
「お義父(とう)さんのこと?」
「二人でやろうでねえの」
「こんな婆さん二人でかい?」
 お春は少々呆れ気味に笑っている。
「まだまだイケる」
「どうだか……」
「若え、派手な格好してさ、化粧ベタベタ塗ったくってスカーフで顔隠せば、まさか婆さんだなんて誰も思わねえよ」
「無理があるんじゃないかねえ……」
「お春さんならイケる。オラが保証する」
「そうかい?」
 お春も満更でもない顔を見せた。
「お春さんが男引っかけてきて、いよいよっつう時になって、こうすんのさ」
 朱鷺は大きく口を開いて金ピカ入れ歯を見せると、ガタガタと鳴らした。「どうだ?」
「いいねえ、でもさあ……」
「なんだい?」
「手が後ろに回るよ。覚悟ある?」
「大した罪じゃねえよ」
「いいや、重いよ」
 お春は大きく首を横に振った。
「なしてさ、法律変わったんかい?」
「殺人罪だよ」
「ええっ?」
「それ見たら死ぬわね」
「またか……やっぱ死ぬかねえ?」
「トキちゃん、人殺しで捕まったら死ぬまで出てこられないよ。それでもやるかい?」
「やる!」
 迷わず即答した。「茂三みてえな悪党捕まえて、お仕置きだ!」
「面白そうだね……」
 お春は天を仰ぐと微笑んでプウッと吹き出した。「やろう。世直しだ!」
「イーッヒッヒッヒッ……」
 朱鷺の頭の中に妄想が膨らんだ。
「お春バアちゃん、電話だよー」
 縁側に鴻太郎が立っている。
「今行くよ~」
「いや、もう切ったよ。息子さんの家族、今、駅に着いたんだって……全員」
「はあ、嫁まできやがった。これから駅で待ち合わせなのよ」
「お春さん、嫁とうまくいってねえのかい? オラ、政権交代済ましたばっかだ」
「ええっ! 政権放棄したのかね? 勇気あるねえ、トキちゃん」
「そっちの方がええ。煩わしいことは、みーんな与党に任しとけばええ。野党の方は自由にやらせてもらうだけだ。気楽なこった」
「そう、それもそうだね。不信任決議採択される前に、あたしも政権返上しようかねえ。そしたらトキちゃんと(つる)んで……」
「美人局だ!」
「人生、娯楽でもなきゃ、生きてられないもんね」
「そういうこった」
「トキちゃん、アドバイスありがとう。さすがだねえ、だからあたし、昔からトキちゃんが好きなのよ」
「お春さん……オラもだ。お春さんが大好きさ!」
 朱鷺の胸は熱くなった。
「名残惜しいけど、もう行かなきゃ……またすぐくるからね」
「ああ、待ち遠しいよ」
「今日はホントに楽しかったよ」
「オラもだ。お春さんといる時が一番楽しいよ」
「フフフ……じゃあね」
 お春は一旦縁側に上がって廊下を玄関へ向かった。
 しばらくお春の後姿を見送っていた朱鷺だったが、急に呼び止めると、寝室へ素っ飛んだ。爺さん愛用の文机の引き出しを漁って書類封筒を探す。探すまでもなく三段目の引き出しの一番上に載っていた。ひもを解いて大学ノート13冊であることを確認し、お春の待つ玄関へ直行した。
 少々息を弾ませながら差し出すと、お春は受け取り、首を傾げながら目で問いかけてきた。
「ジイさんの夢なんだ……できれば、お春さんに小説書いてもらいてえって」
「随分と大作じゃないの……どんな内容なの?」
 お春は真顔で中身を覗く。
「なんでも、オラと出会った頃の話みてえなんだ」
「あれま、それじゃあ……恋愛小説ってわけなの? 妬けるねえ」
 楽しそうに微笑みながらお春は一冊引き抜いて表紙を確認する。「『鬼婆観音』……そんな観音様、いたかしらねえ? タイトルはホラー小説みたいだけど……」
「どうかねえ? ダメかい?」
 遠慮がちに尋ねる。
「とにかく一度、目を通してみないと……それからでいい?」
「ああ、ええとも。けんど、迷惑だったら、無理強いはしねえよ」
「迷惑だなんて……鴻助さんの遺言じゃないの。大切に読ませてもらうわよ。だけど、いつになるか分からないけど、それでもいい?」
「ああ、ええとも。ジイさん、喜ぶよ」
「じゃあ、これ、大切にお預かりします」
 お春は、丁寧に封を閉じると、大事そうに胸に抱いてくれた。
「ありがとうございます」
 無二の親友に対して朱鷺が深々と(こうべ)を垂れ、心からの感謝を伝えると、お春は暇乞いを言って踵を返し、慈悲深い観音様のような微笑を残して去って行った。
 すぐさま玄関を出て庭に回り、鉄柵越しに坂を下りて行く大親友に手を振った。お春も何度か手を振り返してくれた。お春の影が見えなくなるまでその場に立っていた。
 お春を見送って仏間に上がると、仏壇の引き出しを開けた。爺さんからの最後の恋文を手に取り、縁側に座る。モンペのポケットから老眼鏡を出してかけ、封筒から便箋を引き抜くと、丁寧に広げてゆっくりと読み返した。
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