◇2 暖かい贈り物──顔面に張りついた!

文字数 15,315文字

 目が覚めると、婆さんの姿はどこにもなく、ちゃぶ台には既に膳立てがしてあった。
 鬼のいぬまに朝食を済ませ、くつろいでいたら、玄関の扉が開き、婆さんが顔だけを覗かせた。
 数十年ものの干からびた梅干同然に、どこが目で鼻か判別に迷うほど、ご丁寧に皺をこさえ、入れ歯を剥き出しにする。口角を持ち上げているところを見ると……、
 ──笑っているのか?
 ──なんとおぞましい微笑(びしょう)だ!
「おい、なにニヤついてやがる?」
「ちょっくら、こっちゃこいや」
 婆さんは手招きする。
 嫌な予感はするが、逆らってもっと酷い目に遭うよりここは素直に従うのが賢明だろう、と判断して不承不承にドアの前まで歩み寄った。いつでも難を逃れる手段を模索しつつ身構える。神経を尖らせ、読み取ることが極めて困難な梅干ババアの表情をうかがった。
「なんか用か?」
「おめえにプレゼントだ」
 ──ほーら、おいでなすった!
 ──バアさんの拳を今度こそかわしてやるぞ!
 頭の中でシミュレートする。想像ではいつも成功する。が、実践では未だ嘗て思い通りに叶ったためしがない。
 ──今日は、今までに学んだことを総動員して事をおさめてやる。
 ──学習能力は高いことを見せつけねばならぬ。
 ──窮鼠(きゅうそ)猫を噛む……
 ──それを絶対に思い知らせるのだ!
 コウスケは意気込んだ。鼠の目をギラギラと輝かせ、敵を見据えた。
「ほう、俺にどんなものを……くれるのかな?」
 冷静に穏やかな口調で言うと、コウスケはニヒルな笑みを唇に浮かべた。
「湯たんぽ、持ってきてやったのよ」
「湯たんぽ……それだけか?」
「そうだ。おめえが凍えねえようにな。要らねえか?」
 コウスケはしばし考えた。この部屋には常に隙間風が剥き出しの肌を突き刺してくる。寒さを凌ぐ工夫はしてきたが、どれも決定的な方策は見つからなかった。暖をとるものがあれば有難い。
「へへへ、湯たんぽなら、ありがたく頂戴しようじゃねえか」
 コウスケは戦闘態勢を解いて、
 ──オチョウダイ!
 と婆さんの方に重ねた()を差し出した。
「そうか、なら……」
 婆さんは湯たんぽを放り投げた。「ほーれ、受け取れ」
 湯たんぽは一旦コウスケの掌に着地、せず、掌を蹴って顔面めがけ襲ってきた。
「ウンギャーッ!」
 コウスケは悲鳴を上げ、両手で払い除けようとしたが、間に合わず、湯たんぽは顔面に張りついた。頭を前後左右に激しく揺さぶり、振り落とそうと躍起になったが、却って顔に食い込んでくる。咄嗟にそいつを引っつかむと、痛みを堪えながら強引に顔から引っぺがした。
 お互い一瞬見つめ合う。と、いきなりコウスケの鼻頭に噛みついた。また悲鳴を上げ、手を離す。と、湯たんぽは、見事な身のこなしで畳に着地を決めると、何食わぬ顔で婆さんの足元に擦り寄り、甘え出す。婆さんは抱き上げた。
「気に入ったか?」
「コ、コノヤロウー! 騙しやがって……なにが湯たんぽだ、イッテーし……」
 コウスケは顔じゅうの引っかき傷と鼻頭を順番にさすりながら、しかめっ面で婆さんを睨んだ。
「人聞きの悪いことぬかすんでねえ。おめえのために誘拐してきたんだぞ。こいつと添い寝してみろ、あったけえぞ」
「今すぐ捨ててこい! 薄汚えノラ猫め! イッテーし !」
「なーに言ってんだ? おめえ、猫好きでねえか」
「誰が? 俺は、犬派だ! 猫は好かねえ!」
「そんなはずは、ねえ!」
 婆さんは声を荒げ、コウスケに詰め寄った。
「そんなはずは、ねえ、こたねえ!」
 コウスケも婆さんを見下ろし、やり返す。
「だってよ、ジイさんは愛猫家だ」
「オレは愛犬家だ! バアさんよ、オレはジイさんじゃねえ!」
 婆さんはしばらく呆けたように口をあんぐり開け、コウスケを見上げる。首を傾げながらぼそぼそと何やら呟き始めた。
「初めてこの部屋に遊びにきた時、ミーちゃんはいたんだ。70年前のジイさんの誕生日だった。オラ、ミーちゃんとすぐに仲良しになってよ。あれ以来、ミーちゃんが死ぬまで30年かわいがったんだ」
 婆さんは腕を組んで唸り出す。「おめえ、猫飼わねえのか?」
「ありえねえ」
「予定もねえのか?」
「ねえ」
 きっぱりと言ってやった。
 婆さんはノラのヤツをあやしながらまた独りごちる。
「ミーちゃんは三毛だ。しかも三毛の雄だぞ。オメエも三毛だな……オメエもしかして?」
 婆さんはノラを抱きかかえたまま股間をまさぐり始めた。
「おい、バアさんよ。あんたヘンタイ趣味か?」
「こいつの性別しらべてるだけだ……」
 婆さんは目を凝らしノラの股間を入念に観察する。「アッタ! ちゃんと玉ついてるでねえか。ということは……オメエがミーちゃんか? ミーちゃんだな! 間違いねえ。そうか、そうだったのか、オラがここに連れてきたのか。ミーちゃん、久しぶりだなあ。これからここでかわいがってもらうんだぞ、ええな」
「な、なんてことぬかす! 捨ててこい!」
「おめえこそぬかしやがれ! これからはおめえとミーちゃんは一心同体だ。てめえ、ミーちゃんに危害加えようなんぞ、これっぽっちでも思うなよ、ええか!」
 婆さんはどすの利いた凄みのある声でコウスケを威嚇してきた。 
 薄汚いノラの野郎を見ると、婆さんに甘えながらも、時折威嚇するような目つきでこちらをうかがっている。
 コウスケは、部屋をかき乱される前に、この厄介者を追い出す策を練り始めた。
 ──バアさんと一緒にどこかに消えてくれるといいのに……
 心の中で切に祈った。

   *

 三毛の子猫は婆さんから餌をもらい、今は部屋の隅で満足そうに丸まっておとなしく眠っている。
 ──まずは安心だ。
 コウスケは昨日の出来事を振り返ってみる。
 路上にうずくまって婆さんに制裁を加えられながらのた打ち回っていると、トキが現れ青い顔をした。
 足と腰を怪我した、と告げると、トキはコウスケを背負って駆け出し、近くの上田整形外科医院へ運んでくれた。
 トキの足は速かった。
 ──華奢(きゃしゃ)な体のどこにあんな力が潜んでいたのか!?
 70キログラムのこの体を軽々と背負うと、あっという間に加速していった。顔に強風が当たり、風圧で呼吸が苦しくなるんじゃないか、と錯覚するほどだった。
 コウスケは骨折を疑わなかった。が、幸い軽い捻挫で済んで内心ホッとした。捻挫と分かってからは不思議なことにケロリと痛みも和らいだ。あまりにも大袈裟にのた打ち回ったことを今更ながら後悔した。
「いやあ、骨折したかと……」
 なんて思いつくだけの言いわけを並べ立て、男の威厳を保とうと取り繕えば却って醜態をさらしてしまう羽目になった。だが、こんな醜態をトキは左程気にする様子もなく、医院からタクシーでアパートまでつき添ってくれた。別れ際、トキの眼はどこか愁いに沈んだ色でこちらを見つめた。美しいと思った。
 ──そこまで心配してくれるのか?
 ──罪な男だ!
 とほくそ笑む。
 夕べ婆さんにも話して聞かせると、激しく首を横に振って、また怒鳴られた。
「バカッタレ! あの目は、おめえを恨んでんだ! 楽しみにしてたのによ、おめえがあんなザマだ!」
 ──フンッ、バアさんになにが分かる?
 ──トキちゃんのことはオレがよく知ってるんだ! 
 そう思っても口には出さない。もうとばっちりは御免被りたい。自分にも学習能力はある。猿以下ではないのだ。
 今、婆さんはちゃぶ台の向こうで虚空を見つめながら、何やらブツクサ言っている。そっと婆さんの顔色をうかがった。
「どうした?」
「んー、帰りてえ……」
 婆さんはポツリと吐いた。
「んっ、どういうこと?」
「帰りてえ」
「どこへ……帰るんだ?」
「我が家に決まってんだろうが」
 コウスケは耳を疑った。
『帰りてえ』
『我が家』
 ──どういう意味だろう?
 しばらくその言葉の意味を考え続けた。
『帰りてえ』 = 『帰りたい』
『我が家』 = 『てめえの家』
 ──帰る……帰る?
 ──帰る!
 ──てめえの家に帰りてえ……ってか? 
「シメタ!」
 と思わず大声で叫んでしまった。心の中でだが。
「そうか、遠慮はいらねえ、へへへ……」
 己の声は心なしか弾んでいた。それを悟られまい、と至って冷静を装って、真顔で必死に取り繕おうと試みる。「寂しくなるな……」
「オラと別れたくねえのか。安心しな、これからずっと一緒だ」
「ん! どう……いう……意味?」
 恐る恐る尋ねてみる。
「そういう意味だ。おめえとオラは、これから死ぬまで一心同体っつうこった」
「イヤだ!」
「イヤもなにも、そういう運命なんだオラ達は」
 コウスケは激しく首を横に振りイヤイヤをする。頭が一瞬クラクラして上半身がよろめいた。体勢を立て直すと同時に尋ねてみる。
「今、帰りてえ、って……?」
「方法が分かんねえのさ」
「なんの?」
「帰る方法だ」
「そんなもん、バス、電車、タクシー……なんでもござれだ。なんなら、バイクで送ってやるぜ?」
 興奮して思わずちゃぶ台に身を乗り出した。
「そんなもんで済むなら、とっくに帰っとるわい。そう、単純でねえのさ」
「飛行機か? あっ、まさか国外か?」
「うんにゃ」
 婆さんは畳に寝っ転がって悶え出す。「んー、分かんねえ」
「なにが『分かんねえ』んだ?」
 コウスケは婆さんの口真似で尋ねた。
 婆さんはこちらの問いかけに口を閉ざして、うんうん唸るばかりだ。コウスケはイラついて、怒鳴ってやろうか、と息を吸い込んだ。声を吐き出そうとした寸前、婆さんはすっくと起き上がり、胡坐をかいて腕組みをした。
「紙と鉛筆貸せや!」
 コウスケは出しそびれた大声を飲み込んで、室内を一通り見渡すと、雑誌入れの中をあさり始めた。くしゃくしゃになった、裏が白紙のチラシを引っ張り抜くと、ゴミ置き場から失敬してきたみかんの木箱を逆さにした文机の上から鉛筆を数本握って一番尖ったヤツを抜く。ほかは机の上にばら撒いた。コウスケ厳選の逸品を言いつけ通り婆さんの目の前に無造作に置いた。
「ほらよ」
 婆さんはチラシの皺を掌で延ばし終えると、鉛筆を握り何やら書き始めた。
「オラと初めて会った時のこと覚えてっか?」
「当たり前だ!」
「11月8日土曜だったな。二回目はどこだ?」
「二回目? どこだっけ……?」
「ここの便所だ。11月17日日曜だ。大きな桃尻が、どんぶらっこ、見えたもんな……」
「あっ、どっから入りやがった? ちゃんと戸締りしたのによお」
「三回目は?」
「ん? 風呂場だ! オレの大事なとこ、指で弾きやがって! 忘れねえ、11月24日月曜……いや、25日火曜の零時すぎだ」
「その次は?」
「えっと……?」
「12月8日月曜。記念日じゃねえか」
「なんの? あっ、真珠湾か!」
「なして太平洋戦争だ! てめえの記念日でねえか!」
「分かんねえ」
「初めてホテルに行ったろうが」
「あっ! このエロババア。つけてきやがっただろう!」
「最後は? 五回目だ」
「覚えてねえな、そんな昔のことは」
「昨日だ、バカッタレ! 12月15日月曜」
「そうだった、思い出した」
「まったく、ボケてんじゃねえ! ええか、整理してみっから」
 婆さんは鉛筆を取って書き始めた。書き終わるとちゃぶ台の上を滑らせた。チラシはコウスケの目前でピタリと止まった。チラシを覗き込んで首を捻る。

11/10月曜日 …… 11/17月曜日(2回目、便所)
11/17月曜日 …… 11/24月曜日~25火曜日(3回目、風呂場)              
12/1月曜日  …… 12/8月曜日(4回目、ホテル)   
12/8月曜日  …… 12/15月曜日(5回目、メジロ石油)

「なんだこりゃ?」
「左の日付がオラが消えた日だ。よーっく思い出せ。どれもサンクチュアリだったろうが」
「うん、そうだな。右が婆さんが突然湧いて出た日だ。鋭いだろう?」
「誰でも分かる。湧いて出ただと! 人を化け物みてえに……ま、ええ、計算してみろ」
 コウスケはチラシと睨めっこして結論を出した。
「分からん! なにをどうやって計算するんだ?」
「おめえ、察してやろう、なんて芸当できねえのか? 一年生の算数だぞ」
「オレ、算数苦手だったし……」
「引き算だ、引き算!」
「んんー……ええー……ああー……」
 コウスケは腕組みしておどおどと考え続ける。婆さんの執拗に責め立てる舌打ちが、ガラス細工の脳ミソを砕き、思考力は極限まで削げ落ちる。
「じゃあ問題を出しまーす。分かったら手を上げて、指されたら答えなさい」
「はーい」
「それでは、17マイナス10は?」
「先生、マイナスは英語ですからまだ習っていません」
「つべこべ言うな! 計算しねえか!」
「こ、怖え先生だこと。えーっと……あっ7です」
「正解。24ひく17。8ひく1。15ひく8は?」
「先生、一問ずつにしてくださーい」
「てめえ、コノヤロー! バカにしてんじゃねえ、全部7だ!」
「あっ、そう」
「オラが消えて、おめえの前に現れるまで……」
「違う! 前じゃねえ。オレのケツ狙ってやがるだろうが!」
 コウスケは婆さんの言葉尻を取って、尻をさすりながら婆さんを睨む。
「ナニを! なにもおめえの尻、狙ったわけでねえ。仕方ねえだろう、そういう風になってんだから……7日だ、7日!」
「そんなこと分かってたさ。だから、便所での一件以来、消えてから7日目は戸締りを怠ったこたねえぜ。なのに、いっつも、ヌウッと湧き出やがって、どっから入ったんだ?」
「まーた人を化け物みてえに……」
 婆さんは何やら小声でブツクサ言いながら睨み返してきた。
「化け物より怖えぜ」
「なんだと……まあええ、7日間隔だ」
 いきなり婆さんはちゃぶ台をポンッと叩いた。「7の法則だ!」
「小難しい法則こさえるんじゃねえよ。わけ分かんねえし……」
 婆さんを鼻先で笑ってやる。「フンッ、ただの引き算じゃねえか」
「コイツ、刺すぞ!」
 婆さんは、鉛筆を頭上に高々と振りかざした。と、コウスケは一瞬体をビクッとさせ、無意識に防御の姿勢で身を強張らせた。その動作の素早いこと。
 ──これが“条件反射”というものか?
 その意味は全く知らないし、違うような気もしないではないが、最早些細なことなどどうでもいい。
 ──いや、“無条件反射”だ!
 雷に打たれたように突然閃いた。自分だって法則の一つや二つ、見つけ出せるのだ、と胸を張る。我ながら感心する。満足すると、一つ息を吐いて次の言葉を用意する。
「脅かすな!」
 憤怒の叫びをぶつけてやったが、婆さんに動じる素振りは微塵もない。
「ええか? 60センチメートルの法則、7の法則……ええい、面倒だ。まとめて、607《ロクマルナナ》の法則だ!」
 婆さんは呪文か念仏のように「ロクマルナナ」と繰り返し唱え出した。
 しばらくして婆さんの唱える念仏を耳にしながらコウスケは大欠伸をした。自ずと瞼は重たくなる。次第に婆さんの声が遠ざかる。ガクンと首が垂れると一瞬目が開く。婆さんはちゃぶ台に頬杖をついて窓の外を眺め口をパクパクと動かしている。婆さんの無意味な声の響きが子守歌代わりに安らかな眠りを誘った。畳に横になると、右肘を立て掌に頭を乗せた。頭部が規則正しく前後に揺れ、時たま大きく、掌から転がり落ちそうになる。やがてガクンと肘は折り畳まれ、頭は右の前腕に吸いついた。膝を折り曲げ背中を丸めると、左手は股の間に挟み込んだ。
 寝入り端直前の心地よさに包まれ幸福な気分になる。婆さんの抑揚のない声が微かな振動を起こし体を揺らす。揺りかごの中で次第に意識は遠退いていった。逆に婆さんの声は段々と近づいてくる。
 足の裏に激痛が走った。と、思ったら違う。こそばゆい。コウスケは咄嗟に足を引っ込めようとした。だが大きな力がそれを許さない。足の裏をかき毟られて眠気も一瞬にして吹っ飛んだ。
 コウスケは奇声を上げながら魔の手から逃れるため、相手の隙を衝いて、足を奪還した。咄嗟に正座して尻の下に足の裏を敷くと完璧に死守した。
「寝かせろ、ババア!」
「ええ若えもんが朝っぱらから情けねえ!」
「今日は休みだ。なにしようがオレの勝手だ!」
「オラを手伝え」
「イヤなこった!」
 婆さんが四つん這いでコウスケの元へ忍び寄る。咄嗟に体を強張らせ、頭部を防御するため両手を顔の前にかざす。
「そんなもん役にはたたねえよ」
 婆さんは立ち上がり、素早い動作で青シャツの襟首を右の人差し指一本で引っかけて引き下ろした。木綿の生地が首を締めつけ、今にもボタンが千切れそうになる。抵抗もむなしく、コウスケは勢いよく後方へ倒され両足を投げ出した。そこを婆さんは、すかさずコウスケの両足の間に体を潜り込ませ、脇に左右の膝辺りを固めた。そのままクルリとコウスケの体を半回転させ胴体をまたいでジワリとその上に腰を落としてゆく。コウスケは堪らず呻き声を上げ、畳を二回掌で叩いた。
「ギ、ギブ……アップ!」
「どうだ! いつも孫とプロレスごっこやってんだ。思い知ったか!」
「ウッ! ヒ、ヒト……ゴロシー!」
「滅多なこと言うんでねえ! オラ、まだ殺しはやってねえ!」
「マ、マイッタ!」
「オラを手伝うか?」
「ワカッタ!」
「分かりゃええ」
 婆さんはいきなり力を緩めた。コウスケの膝から下がストンと畳に叩きつけられる。
 コウスケは荒い息遣いで額の油汗を手の甲で拭いながら仰向けに寝た。顔から手をのけると、婆さんの顔が目の前にデカデカと迫ってくる。反射的に体を左回転させ、慌ててハイハイしながらすっくと立ち上がった。
「へへへっ……」
 ──オレはなんで笑ってるんだ?
 と思いながら窓を背にして横方向に行ったり来たりを繰り返す。
 婆さんは正座でコウスケの動きに合わせて、目玉だけを横にスライドさせる。
「おめえはカニか?」
「へへへっ……」
「おいで」
 婆さんは不気味に笑いながら手招きする。
「イヤッ!」
 コウスケは小刻みに激しく頭を横に振ってイヤイヤを繰り返す。
 婆さんは立ち上がった。自然とコウスケの横方向のすり足が速さを増す。いつでも逃れられるよう腰を深く落としながら相手の隙をうかがう。捻挫した足の痛みもすっかり治まっていた。と思ったら、踏ん張った拍子にまたこねくって痛み出す。左足を少々引きずりながら尚も同じ動作を繰り返した。婆さんがにじり寄る。いよいよ決戦の時か、と身構えたら、意外にもこちらに背を向けて、ちゃぶ台の前に胡坐をかいた。
「肩……揉んでくれや」
 婆さんは交互に自分で両肩を叩きながら首をグルグル回した。
 コウスケは動きを止め、いっとき婆さんの後姿を見つめる。と、無防備になった婆さんの背後から手で輪っかを作りゆっくりと近寄った。大きく目を見開いて、頬がピクリと痙攣する。
 ──絞め殺してやる!
 首に手を回しかけた寸でのところで、婆さんがクシャミをして思わず手を引っ込めた。コウスケの気持ちはたちまち萎えてしまった。
 婆さんはチラッとこっちを振り向き、左肩を激しく叩いて催促し始める。
「クッソー! もうちょっとで殺せたのに……」
 歯ぎしりしながら思わず口を衝いて出てしまった。
「なんだ? 文句言ってねえで、早く揉めや」
「分かったよ、はいはい、分かりました」
 仕方なく吐きすてると、要求通り肩を揉む。「どうだ?」
「おうおう、うめえもんだ」
「なに、手伝うんだ?」
「オラの傍にいてくれるだけでええ」
「それだけ?」
 手を止めて訊く。「本当に?」
「手がお留守だぞ」
「なにもしねえな!」
 また仕事を再開する。
「オラがなにするんだ? 見届けてくれるだけでええ」
「ん、なーんか裏がありそうだな?」
「なんもねえよ」
「ホントにホントだな?」
「ちょっくら、オラの横に座んな……」
 婆さんは右手で畳を何度も叩いた。「ホレ!」
「こうか?」
 コウスケは躊躇いながらも渋々その場所に正座した。
 婆さんはじっとコウスケを見つめ続ける。
 コウスケは息苦しくなって視線を逸らしながら、そっと立ち上がろうと試みた。ところが突然左腕に重力が作用し体のバランスを崩すと、尻を畳に押しつけられた。重力の方向に酢ダコの化け物がしっかりと己の腕を絡みつけて獲物を引き寄せようと躍起になっている。今、大きな質量の物体がデカデカと目前に迫りつつある。口を尖らせた真っ赤な妖怪は上目遣いでこちらに熱い視線を浴びせかける。怖ろしい、と思いながらも、コウスケも次第にその妖術にでもかけられたように視線を逸らすことも、身動きすることもままならなくなり、全身硬直してしまった。今なら蛇に睨まれた蛙の気持ちがよく分かる。目と目が合う。しばらく見つめ合う。酢ダコの化け物はそっと目を閉じた。
「ええよ、思う存分吸ってくれ……」
 コウスケも目を閉じる。酢ダコに従うためではなく催眠状態から目覚めるためだった。やっとの思いで慌てて触手を振り解くと、その場から一目散に玄関へ跳んだ。ドアノブに手をかけ、逃亡の手順を脳裏に刻みつける。
「ナナナ……ナニナニ……考え……てんだ!」
 声を振り絞って叫んでみる。ドキドキしてうまく発音できない。
「テレるこたねえよ。せっかく、オラが接吻さしてやろうっつうのに、遠慮はいらねえよ、もったいねえ」
「遠慮なんかするか! あっ、なに赤くなってる。こ、このエロババア!」
「あーあ、乙女心を分からんヤツだなあ……嫌われるぞ」
「ババアに好かれたかねえ!」
 きっぱりと言ってやった。
「ふん、まあええ。おめえ、分かるか?」
「な、なんだ!」
「高二の数学だ。簡単な問題だぞ。おめえのオツムを試してやる」
「ゲッ!」
「やっぱりな、聞いたオラがバカだった……」
「ルート2、イコール、ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ。サインコサイン……」
 コウスケは手櫛で髪を整える。「リーゼント」
 婆さんの冷たい視線が突き刺さる。
「なにがリーゼントだ。おめえの寿命はあと数年だ」
「なにが?」
「なーんも残らねえ。29で突然くるんだ。おめえは、ハゲる。間違いなくハゲる!」
「隔世遺伝だって! 親父がハゲてたから孫にくるんだ」
「ま、楽しみにしときな。せいぜい今のうち、たんと鏡と睨めっこしとくんだな。想像して慣れろ。その時になってアタフタすんじゃねえよ、みっともねえから」
 コウスケは玄関ドアに貼りつけた鏡を覗く。
「いんや、大丈夫だ。あと、70年はもつ!」
「人は、叶わねえことを夢と呼ぶ」
「なんだ?」
「おめえに頭の体操さしてやる。ハゲ予防になるぞ。数列の問題だ」
 婆さんは急に話を変えてきた。「初項7、公差7の等差数列の一般項は?」
「今の日本語か?」
 コウスケはドアの前で立ち尽くす。
「こっちきて、この白紙(しらがみ)に書き出してみろ」
「オレが?」
 婆さんは頷くと手招きする。
 コウスケは婆さんの横を跳躍して、いつも婆さんが定位置に陣取る場所に腰を下ろした。
「ええか言うぞ。エー、イコール、ナナ。書いたか?」
「書いた」
「公差ディー、イコール、ナナ。次、一般項エーエヌ。見せろ」
 婆さんはコウスケの目の前から紙をさらい、それを見て目を丸くしたまま固まった。
「バカッタレ! カタカナで書いてどうすんだ……全く」
「バアさんが言った通りに書いただけだ」
「救いようがねえな。おめえ、足し算、引き算だけだなあ。足し算はまあ普通なんだが、掛け引きは苦手だもんな。割り算となると必ず間違えっからなあ……」
 婆さんはコウスケを見てゆっくりと首を横に振る。
「割り切れねえことは、納得いかねえ」
 また、冷たい視線が容赦なくコウスケを貫く。
「おめえの辞書には算数も数学も、ま、科学全般なんぞ載ってねえんだな」
「なくても生きられる」
 大きく頷いてやる。
「ここまでとは……」
 婆さんは、やれやれと言わんばかりに頭を横に振りながら呆れ顔でコウスケを見る。コウスケから鉛筆をもぎ取ると何やら書き始めた。そっと覗いてみる。
「なんだ、それ?」
「見てろ!」
 婆さんは書き終えると紙を手渡した。コウスケはそれを受け取って呆然と眺め続ける。完全に意味不明だ。

 一般項:an 初項:a 公差:d

 an=a+(n-1)×d   

    a=7,d=7  を代入して 

 an=7+(n-1)×7

 an=7n    
   
「お初にお目にかかります。なーんかな、これ?」
「情けねえ。今度はおめえにも分かる簡単なヤツ出してやる」
「まだやんの?」
「ええか、いくぞ! 70年はなん日だ?」
「んっ?」
 コウスケは腕組みして唸り続ける。「難問だ!」
「よーっく考えろ、一年はなん日だ?」
「365日」
「そしたら、70年は? 小学生でも分かる」
「一年が……サンビャクとロクジュウゴにち……2年が……」
「365に70を掛けんかい!」
「イッテーし!」
 不意に頭を小突かれた。
「早よ、やれ!」
 婆さんの怖い顔に渋々計算してみる。
「で、できた! 25550、どんなもんだ」
 三分ほど経ってやっとコウスケは鉛筆を置き、得意気に顔を上げた。途中二度間違えてやり直したのが悔やまれた。
「できて当たりめえだ。7で割ってみろ」
「頭使いすぎると薄くなりそうだ。やめとく」
「鉛筆よこせ。全く、おめえは……薄くなるんじゃねえ、全部なくなるんだ。ツルッパゲだ……」
 婆さんはブツクサ言いながらコウスケの目の前で別の計算を始めた。
「なんの計算やってんの?」
 コウスケはちゃぶ台に頬杖をついて首を傾げる。
「70年は25550日。エーエヌが25550か。エヌ、イコール……」

  an=7n

∴ n=an÷7   

    an=25,550 日(70年) を代入して 

  n=25,550÷7=3,650 回

「すっげー!」
「日数を……70年を7日で割っただけだ。数列なんぞ持ち出す必要もねえ。ただの割り算だ。小学生の算数だ」
「割り切れねえこたあ精神的に参っちまうよな」
「割り切れたでねえか」
 婆さんは薄ら唇に笑みを浮かべる。
「割り切れることも……たまにはあらあな……」
 コウスケは言葉に詰まる。
 婆さんの様子をうかがうと、こちらには見向きもせず、完全に無視して自分の世界に閉じこもった。
「1回で7日。3650回で70年。3650回、60センチまで近づかねえとなんねえのか……」
「ところでおバアさん、さっきからなんの計算してるのかな?」
「オラが帰るまでには、3650回っちゅうこった。この際、閏年(うるうどし)はええ、誤差はつきもんよ」
「ハーテナ?」
 コウスケはお手上げのポーズで引き下がった。
「もっと効率のええ方法を考えにゃなるまい。身がもたねえ。連続で飛ぶのは疲れっからなあ。3650回となると……死ぬかもしれねえ」
 婆さんは頭をかき毟った。
 コウスケはミカン箱の上の手鏡に手を伸ばすと、婆さんの顔と計算式の間に差し挟んだ。
「なんだ? ええオナゴでねえか……」
「舌出してみろ」
「いきなりなんだ?」
 婆さんは顔を両手で覆って赤くなった。
「うっ! 赤くなりやがった」
 背筋に何か走った。ぞくっとする。
「おめえのせいでねえのさ、イヤーン」
「へ、変な声出すな! ドキドキする……」
 コウスケの額に薄ら汗が滲んだ。それを手の甲で拭いながら恐る恐る婆さんの顔をうかがってみる。こっちに熱い視線を送っている。
「オラにどうして欲しいんだ?」
「い、いや……ただ、舌出してみろって……も、もういい」
「遠慮はいらねえ。オラとおめえの仲でねえのさ」
「も、もういいって……」
「テレなくったって……もうイヤーン! 恥ずかしがり屋さんねえ。分かったわ、ええわよ」
 婆さんはちゃぶ台を挟んでコウスケの目前で立ち上がる。
「な、なにしてんだ?」
 コウスケはそびえ立つ赤鬼を見上げながら嫌な予感が頭をよぎった。
 婆さんはモンペのゴムひもを両手で摘まんでウインクした。コウスケの背筋はいよいよ凍りつき全身が硬直する。婆さんはゆっくりと体を回転させながら尻を振り始めた。とコウスケに背を見せたまま尻をこちらに突き出し突然顔だけを向け、ニタッと笑った。
「いくわよー!」
 婆さんはかけ声一つで、ゆっくりとずり下げにかかる。モンペの腰辺りが幾度か上下動を繰り返したあと、突然畳に吸い寄せられるように一気にずり下がった。
 コウスケは身震いして強張った体をぎこちない動作で解凍すると一目散に逃げようとした。が、婆さんは素早く玄関のドアの前に立ちはだかり行く手を遮った。コウスケはあたふたと避難場所を求めて右往左往を繰り返す。茹で上がった化けダコはじりじりとその距離を縮め、確実にその触手でコウスケを捕獲しようとする。突然、コウスケの脳ミソに60センチメートルの法則が閃いた。コウスケはその場に踏みとどまり、敵が傍まで近づくのを待った。
 敵は依然迫り続ける。
 コウスケは堪えに堪え、必死に限界まで我慢して敵が自分との距離を60センチメートルまで詰めた瞬間、まさに触手で捕獲される寸前、ここぞとばかりに便所を目指して跳んだ。
 便所のドアを開けようとして何度か失敗を繰り返すうちに敵の影が背後まで忍び寄っていた。振り返って確認したわけではなく、気配だけで感じ取った。
 ようやくドアは開き、中へ入ると同時に引っかけカギを落とし、取っ手を両手で押さえ死守する。と間髪置かずに敵の力が指先から腕、肩へと伝わってきた。危うい賭けだったが、
 ──ここまでくれば最早こっちのもんだ!
 と胸を撫で下ろし、厳重に密閉状態を保持し続けた。
 いっときして両手に作用していた力は軽くなっていた。コウスケはドアに耳を押し当てそばだてる。ドアの向こうでヤツの気配がする。だがもう安心だ。
「どうだ、60センチメートルの法則だ!」
「どうしたのさ、出ておいで、ええ子だから」
「あっち行け! しっしっ!」
「恥ずかしがらねえでも……おめえが言ったのに、下出せって……イヤーン、恥ずかしいわあ……」
「バ、バカッ! し、舌だ!」
「だから、おめえの言う通りに……」
「ち、違う! し、した……じゃねえ。ベ、ベロだ!」
「ベロって……なーに?」
「く、口の中に入ってるヤツだ!」
「ハテ? そんなもんあったか?」
「アッカンベーしてみろ!」
「アッカンヴェーッ」
「今、口の中から出たのはなんだ?」
「アッカンヴェー、アヴェヴェー」
「それがベロだ!」
「ヴェー。なーんだ、舌でねえか」
「はじめから言ってるだろうが!」
「そんならそう言えばええでねえか、オラ、てっきり……」
「黙れ! その先は言うな!」
 ババアが放とうとしたおぞましい言葉を咄嗟に遮った。
「あーあ」
「おいっ!」
「なんだ?」
「あっち行け!」
「なして?」
「襲われる!」
「オラ、襲やしねえよ」
「いいや分からん、しっしっ!」
「バカッタレ! オラ、ケダモノか?」
「ケダモノか……だと。それ以上……いや、それ以下だ! しっしっ!」
「失礼な! こんな上品なオナゴつかまえて……」
「なにが上品だ! いいからあっち行け!」
「あーあ、分かったから早よ出てこい」
 コウスケはまだドアに耳を押し当て様子をうかがう。気配を察知すべく全神経を張り詰める。
「行ったか? おーい」
 小声で呼びかけてみたが、反応はない。「フウーッ! どうやら……」
 引っかけカギに指をかけ弾こうとして躊躇い、三度目にようやく思い切ることができた。
 恐る恐るそっとドアを押してみた。辛うじて開いた隙間から左目は瞑り右目だけで覗く。グルリと目玉を動かしてみる。便所と風呂場の前の板張り廊下の節が、右手の板壁から数センチメートルの箇所に二つ並んでこちらを見ていた。
 ──人の顔みたいだ。
 コウスケはビクついて一旦ドアを閉めた。もう一度、意を決してドアを動かしてみる。ゆっくり、ゆっくり左手でドアを開けながら、同時に顔を少しずつ出す。
 右の壁を確認。
 ──いない。
 そっと首まで出し、左を向いてドアの裏手も確認。
「よし!」
 小さく叫んで爪先立って便所の外に出る。後ろ手に静かにドアを閉めると、一度溜息をついた。
 障子戸の陰からそっと部屋を見回してみた。
 ──誰もいない。
 首を捻る。
 コウスケが抜き足差し足で、左へ一歩踏み出した時、足首に何かが当たった。俯いてそっと足元を確認する。
「ニャーオーッ!」
 化け猫がしゃがんで見上げていた。
 コウスケは身を翻し、便所のドアに両の掌と胸と左頬を吸いつけた。
「い、いつから、そんなとこにいた!」
「おめえが便所に入ってからずっとだ」
「な、なんで見えなかったんだ? やっぱ、この世のもんじゃねえな……」
 婆さんは舌打ちしながら立ち上がってその場を離れようとした。
「やっぱ、おめえはカベチョロ(ニホンヤモリ)の親戚みてえだな」
 婆さんはお返しとばかりに去り際に言い放つ。「張りついてねえで、こっちゃこいや」
「なにもしねえか?」
「なんもしねえよ。度胸ねえヤツだな……」
 婆さんの後姿を目で追った。何か脚にピタリと張りついている。真っ赤なタイツのようなヤツだ。その上にピンク色の短パンを穿いていた。注意深く婆さんとの距離を一定に保ちつつ、ちゃぶ台の前までくると、自分の定位置に立ち尽くす。
 婆さんもいつもの位置に「どっこいしょ」と言って胡坐をかいた。婆さんがおとなしくなったのを見届けると、コウスケもその場に腰を下ろしかけた。そのとき無造作に脱ぎ捨てられたままのモンペが視界に飛び込んだ。それを右足の指で摘まんで婆さんの方へ放ると、自分もようやく畳の上に尻を押しつけ、陣を構えることが叶った。
「よお、その下……」
「なんだ、まだ下に興味あんのか?」
 婆さんはまた立ち上がってポーズをとる。
「派手なモモヒキはいてんな?」
「スパッツ、いうもんだ」
「騙しやがって……」
 舌打ちして婆さんを睨む。
 婆さんは平然と座り直すと、ちゃぶ台に頬杖をついて一度空を見上げ、突然腕組みをして唸り出す。
 コウスケは婆さんが動く度にビクついた。
「なんなんだ? ほれ、ヴェー」
 婆さんはコウスケに舌を出して見せた。すかさず手鏡を向けると、婆さんはアッカンベーの間抜け顔で鏡を覗き込む。
「もういいから、舌……じゃなくて、ベロ引っ込めろ」
「なんなんだ? じれってえ」
「あのオヤジ」
 向かいのアパートの二階の部屋を指差した。
「オヤジ?」
「──みてえだって言いたかったの」
「なして?」
「似てるだろう?」
「オラがか?」
「ほら」
 もう一度指差した。二階の部屋の窓からアッカンベーオヤジのポスターがこちらを覗いている。婆さんは窓際に寄ってその指し示す方向に視線を向けた。
「ああ、あのおっさんのポスターか。オラ、ヒゲなんぞ生えてねえよ。誰の部屋だ?」
「浪人生だ」
「どこ目指してる?」
「東大だろ……」
「学部は?」
「知らねえよ」
「あのポスター貼ってるってことは……物理学者志望か?」
「どうだか」
 コウスケは吐き捨てた。
「頭ええんだろう?」
「五浪だぞ」
「五浪?」
「今度で六回目の挑戦だ。毎年落ちてんだ」
「東大だからか?」
「私立も……なん校だっけ?」
 コウスケは空を仰いで指折り数えてみる。「10校ぐらい受けてんじゃねえか? オレの知ってる限り……」
「そりゃあ受けるだろう?」
「全部桜散る、だ!」
「東大目指してんのにか?」
「目指すだけならオレにもできる」
「どんな人だ?」
「気さくな、いい人さ」
「そうか……今いるのか?」
「夕方か夜でないと……」
「あの人に聞いてみっか」
「なにを?」
「数学だ」
「分かるのかなあ?」
「おめえよりはマシだろうよ」
「そうか?」
「疑り深えなあ……」
「似たり寄ったりじゃねえのか」
「へへへ……」
 婆さんはニヤニヤしながら拳に息を吹きかけている。
「なーにしてんの?」
「なんでもねえよ。試してみっか?」
 婆さんは満面の笑みをこちらに向けてきた。「あっ! 百円落ちてる!」
 コウスケは反射的に畳に這いつくばった。それと殆ど同時に硬いものが頭を直撃して撥ね返った。
「イッテーし……このヤロー!」
 頭をさすりながら婆さんを睨みつけた。だが、婆さんは窓際に寄り、外を眺めながら知らん振りをする。コウスケは婆さんから目を逸らしてしばらく患部をさすり続けた。すると、どこからともなく耳に何やら響いてきた。両耳をそれぞれの人差し指でほじくってみる。
 ──耳鳴りか?
 音は窓の方から聞こえてくるようだ。窓際に寄って外をうかがってみた。婆さんを見ると依然とソッポを向いていた。もう一度耳を澄ます。音は既に止んでいた。コウスケは空を見上げた。
 ──いい天気だ。
 ──明朝は放射冷却で冷え込むだろう。
 と予測を立てた。と、耳元で雷鳴が轟いた。
「カラーンコローン!」
 婆さんが隣でコウスケの頭を突っついてきた。
「ほっとけ!」
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