◇2 改心したコウスケ──お春を蔑んだらババアに殴られた! なーんでか?

文字数 2,840文字

 コウスケは一睡もできなかった。
 ──まさか春乃があんなことを!
 ──自分はまだしも、トキにまで(やいば)を向けるとは!
 布団の上に身を起こし、窓に目を向けた。カーテン代わりの上着とTシャツの隙間から闇が覗く。枕元の目覚まし時計は6時を指していた。
「どうしたんだ?」
 さっきまで寝息を立てていた婆さんの声が、唐突に耳に飛び込んだ。
「なんだ、起きたのか」
「眠られねえのさ、一晩中」
「ウソつけ、イビキかいてたぞ」
「しゃらくせえー!」
「まだ寝てろ」
「ほう、優しいこと言うでねえか」
「平和な方がいいからよお……」
「なに、コノヤロー。減らず口たたきやがって」
「あーあ、少し寝ようっと」
 コウスケはもう一度、仰向けになった。
 次に目を開けたら、得体の知れぬ物体が視界を塞いでいた。それは段々遠ざかって実体を現し始めた。ぼやけた輪郭をよく確かめようと目を瞬く。
「お目覚めかい?」
「なーんだ、トキちゃんか……」
「あいよ、あんたのトキちゃんよ」
 目の前でトキが微笑みかける。こちらも笑顔で応えた。
「ん? そんなはずは……」
 激しく目をこすって、トキの顔をよく見た。
「おはようさん。今日も元気かい? ウゥー……ワンッ!」
「ウワッ!」
 コウスケは咄嗟に飛び起きてその場から避難した。
「なに驚いてんの? こっちおいで」
 もう一度目をこすった。確かに皺くちゃババアが手招きしている。
「分かんねえ?」
「なにがだ?」
「今、バアさんがトキちゃんに見えた」
「あたりめえだ。本人だもの。ウッフン……」
「ウエッ! そんな声出すな!」
「色っぽいかい? ウッフン」
「バカヤロー! 朝っぱらから気色悪い。ババアのくせに……」 
「誰がババアだ! 今、トキちゃんって呼んだでねえか」
「バアさんがトキちゃんに見えたり、トキちゃんがバアさんに……ありえねえのに」
 コウスケは首を傾げる。
「おんなじだもの、仕方ねえよ」
「なにが同じだ!」
「おんなじさ、あの()もオラになるのさ」
「バカ言え! トキちゃんが、あんなおしとやかな娘がバアさんみてえになるか! ありえねえ、絶対にねえ!」
「おめえ、なーんも分かってねえな。女が行き着く先はみーんな同じよ。ま、ええ、おめえにも悟る日が必ずくる。飯食えや、今日は休みか?」
 コウスケは目覚まし時計を見て慌てたが、すぐに冷静に戻った。婆さんがまた小細工したに決まっている。
 ──9時をすぎてるなんて……
 ほっと胸を撫で下ろし、ちゃぶ台の前に座った。

   *

「バアさんよ。春乃さんが、あんな女だとは思わなかったぜ」
 朝食を終えると、寝転がって婆さんに呟く。
「なに言ってんだ?」
「バアさんの言う通りだってこと。ありゃ性悪だ。とんだ女狐だな」
 婆さんはコウスケの傍まで膝で歩み寄ると、この頭を優しく撫でてくれる。と、次の瞬間、目に閃光が走った。頭のテッペンを押さえながら、のた打ち回る。
「イッテーし! なんてことしやがる!」
 怒鳴った勢いで起き上がった。
「お春の悪口言うからだ! 性悪だ、女狐だと……あんなええオナゴの悪口はオラが許さねえ!」
 婆さんのこめかみの血管がピクピクと波打っている。
「な、なにぃ? てめえが言ったんだぞ!」
「オラ、お春の悪口言った覚えはねえ!」
「はあーん?」
 コウスケは頭をさすりながら、思ったことをついつい口にした。「ボケてんだ……」
「ヘヘヘッ……」
「ヘヘヘッ……」
「ボケた……誰が?」
「い、いや……そんなこと、誰が言った?」
「しらばっくれるのか?」
「オ、オレが? と、とんでもねえ、バアさんのことじゃ、ねえんだ……よ」
 婆さんは細目でコウスケを見据える。笑って誤魔化すことしか思いつかなかった。頬が激しく引きつる。
「ガアーッ!」
 婆さんは吠えながらつかみかかろうとしたので、慌てて後方へ引っくり返り、頭を抱え防御する。だが、婆さんは途中で襲いかかるのをやめ、定位置で空を見上げた。
「お、おバアちゃん……」
 畳に仰向けになったまま恐る恐る呼びかけてみる。
「おめえ、オラの親友の悪口言うなや」
 婆さんがボソッと呟いた。
「親友……って、誰?」
「お春に決まってる」
「いつから!」
 反射的に上体を起こし胡坐をかきながら叫ぶ。
「ずーっと昔からだ」
「ん! ん! ん! 散々、春乃さんをこき下ろしといて……」
 思わず声を荒げそうになったが、必死に気持ちを静めて呟いた。「今更なんだ、このババア……」
「聞こえたぞ。おめえ、今朝は嫌に落ち着いてんじゃねえか」
「まだ、早いだろうが」
「ほれっ」
 婆さんの視線が目覚まし時計を指し示した。そちらに目を向け鼻先で笑ってやる。
 ──既に10時を回っているなんて……
「細工したんだろ? もうその手には乗らねえよ」
「お天道様見てみな」
 婆さんは窓の外を指差す。
 コウスケは舌打ちしながら窓から空を見上げた。ほんで、目覚ましをもう一度確認する。婆さんを見る。婆さんは大きく頷く。
「これ、合ってる……の?」
「時計は正確さが肝心だ! おめえの口癖だったな」
「は、早く言え! ああ、どうしよう、大目玉だ。遅刻だ!」
 慌てて着替えを済まして、婆さんを睨みつけ玄関を出た。もう一度婆さんを見るとバカにしたように舌を出し、知らん振りを決め込んでいる。コウスケはドアを力いっぱい閉めた。大きな音がして、部屋の中から婆さんの笑い声が漏れてきた。
 ──コンチクショウ!!!
 はらわたも煮え繰り返ったが、最早それどころではない。急いで階段を下り、ポケットをまさぐってバイクのキーを探した。が、どこにもない。仕方なく階段を上り、玄関のドアを開けた。そしたら玄関先で婆さんがキーをかざして待っていた。それを引っさらうとバイクの元へと走った。
 バイクにまたがりエンジンをかけ、左右を確認して路地に出ると、トキが呼び止めた。声の方を向くとトキではなく婆さんが窓から手を振っている。
「気をつけて行っといでー」
 婆さんの声は背筋を凍てつかせる。一度身震いすると、その振動で背骨は自ずとピンと伸びる。その場から逃げるようにバイクを走らせた。

   *

 コウスケが事務所に入ると、案の定、社長が待ち構えていた。こちらが口を開きかけた途端、声は喉の奥へと押し戻された。
「言いわけするな!」
 社長の声は小柄な体に似合わずでかい。有無も言わせぬ社長の迫力に押されっぱなしで、自ずと身は縮こまり、只々コメツキバッタ同然に首を小刻みに上下させ、平謝りに謝るのがコウスケには精一杯だった。
 直立不動のコウスケを窓越しに覗く視線があった。
 ──寺西だ!
 ──ウッスラ笑ってやがる!
 ──あのヤロー、いつか見てろ!
 コウスケは腹に力を込め、寺西に復讐を誓いながら社長のお小言に頷き続けた。
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