◆5 猿の惑星──また飛ばされた!?

文字数 7,859文字

 コウスケを快く見送って、朱鷺はすぐに向かいのアパートに走った。
 木造二階建て、おんぼろアパートの錆びた鉄製の階段を上ると、正面にはめ殺しの小窓が目に飛び込んできた。手すりにつかまり、
「よいしょ」
 と最後の一段を上り切ったら、左手にざらついた感触が気色悪かったので、思わず手をはたいた。錆の粉末は静かに宙を舞いながら落ちてゆく。指をこすりながら鼻に近づけてみると血のにおいがする。
 四部屋並んだ奥の角部屋が目指す場所だ。正面の小窓に視線を向けたまま、狭い廊下を十歩ほど直進した。
 右手の薄汚れた玄関扉の化粧板は所々剥がれ、ささくれ立っている。右の拳でドアを叩きながら小窓から中の様子をうかがってみる。すりガラスの向こうに人影がうごめいた。
 左程間を置かずにドアは開いた。素早い動作でクルリと右向け右で向き直る。
 ドアの隙間から何かが顔を出したが、最初それが何なのか分からなかった。
 ──赤い顔。
 ──額の皺。
 己の記憶からそのものの実体を推察する。ピンときた。
 ──まさしく、サル!
 猿に間違いない。
 ──だがおかしい?
 猿がこちらに微笑みかけてくる。愛想を振りまいているではないか。朱鷺は我が目を疑った。しばらく呆然とその面に見入ってしまった。
「はい、なにか?」
 またまた驚いて目を見張った。猿が喋った。朱鷺の頭は混乱する。
 ──ハテ、また飛ばされたのだろうか? 
 ──ここは猿の惑星なのか? 
 こんな場合いかに対処すべきか、見当もつかぬ。何ともお調子者といった感じの猿だ。それに騙されてはならぬ。相手は凶暴なケダモノかも知れぬのだ。こちらの動揺を見抜かれでもしたら、餌食にされるのが落ちだろう。朱鷺は腹を括り、慎重にポーカーフェイスを装う。
 ──だが、待てよ?
 確かに知能は高いやも知れぬ。が、所詮、猿は猿。人間様に敵うはずはない。朱鷺は知恵を振り絞った。言葉が分かるのなら、意思の疎通も可能なはず。腕力では到底敵う相手ではないが、口先ならこちらに分があるのは当然だ。この瞬間、心のたがは外れた。朱鷺は口角を持ち上げ、薄ら笑うと、猿の目を凝視する。宣戦布告の合図だ。少しずつその距離を縮めていった。
 突然頭に雷が落ちたように電流が駆け巡る。誰かが朱鷺の頭の中で叫ぶ。
「犬だ、犬になれ!」
 ──そうか、犬猿の仲というではないか!
 ──こいつの天敵はおそらく犬だ。
 朱鷺は尚も猿に詰め寄った。猿もゆっくりと後ずさり、部屋の中へと押し戻される。明らかに怯え切った表情に変わった。
 朱鷺は突然動きを止め、その場に仁王立ちになる。思い切り息を吸い込んだ。
「ウウゥー……」
 小さく唸り声を上げ、吸い込んだ空気もろとも一気呵成に吐き捨てた。「ワンッ!」
「キーッ!」
 猿は尻餅をついた。その体は小刻みに震える。
「オメエ、なに様のつもりだ!」
「あーんっ!」
「オメエは

か?」
 尋ねると、猿は首を激しく横に振ってイヤイヤをして否定した。
「わ、わたしが……なにか……気に障る……ことでも?」
「オメエは人間じゃねえよな?」
「はっ? わ、わたしは、人間です!」
「なんと! オラと同じ人間だと言う気か?」
「あ、あたりまえ……でしょ」
「ほざきやがる。同じ人間とは思えねえ!」
「な、な、なんとな! 目をかっぽじって……よーっく見なさーい」
「ほーれ、ぼろが出やがった。やっぱ人間でねえ。かっぽじるのは耳だ、目でねえ!」
「あっ、間違えました。み、み……見開いて……よく見て……」
「そうだ、目は見開くもんだ。よく学習した」
 猿の言う通りにその顔をじっと見つめる。しばらく見入って首を捻った。見れば見るほど猿面だ。が、よく見ると人間臭さも否めない、と思い始めた。腕組みをして頭を整理する。猿と人の共通点、相違点を脳裏に列挙してみた。
「あ、あのう……どういった……ご用でしょう?」
 その声に我に返った。
「あんたは本当に人間なのか?」
「人間ですとも! 当然です。おバアさんと同じ人間です!」
 猿は涙目で訴えた。
 その姿は朱鷺の胸を打った。
 ──コイツはよほど人間が好きなのか、人間になりたがっているのかもしれない。
 ──コイツは無害だ!
 直感した朱鷺の敵がい心は失せ、泣きっ面の猿を憐憫(れんびん)する。
「オラに危害は加えねえな?」
「な、なぜわたしが……そんなことを……わたしは平和主義者です」
 猿は押入れの襖に貼ってあるアッカンベーオヤジを指差して主張した。
 朱鷺は今の言葉に安堵し、いたく感動した。
 ──平和主義者とは、なんと洒落た猿だろう。
 ──随分と利口な猿だ。
 人間だと認めてやってもいいような気もする。
 ──よし決めた、今から人間扱いしてやろう!
 朱鷺は相手に微笑んだ。向こうも同じことをする。猿真似だろうが、それも許してやることにした。
「オラ、向かいのアパートの……ほれ、あそこです」
 指を差す。丁度正面にコウスケの部屋が見える。「知り合いのもんじゃが、あんたに折り入ってお話が……」
 猿、いや、若者は立ち上がり、首を回して後ろを向き、また朱鷺に微笑んだ。幾分頬が引きつっているのが分かる。
「ど、どうぞ……お、お入り……お入り……くださーい」
 少々躊躇いがちに促してきた。
「はあ、そんじゃお邪魔しますよ」
 若者がすんなり招き入れてくれたので朱鷺は遠慮なく上がり込んだ。
 部屋に入ると四畳半一間一面に難しそうな本や漫画や雑誌で溢れ返っている。
 ──幾分漫画の方が多い……かな?
 と朱鷺の観察眼は訴えた。
 足の踏み場もない。しかも何か臭う。猿臭さ、男臭さとは違った、つんと鼻腔を刺激するような、丁度、学校の理科室で嗅いだことのある薬品の臭気に似ている。朱鷺は鼻を鳴らした。注意して嗅いでみると、どこか馴染み深く、うっとりするような快い匂いのようにも思えるのだが、どうしても正体がつかめない。それは押入れの中から湧いてくる。
 若者は無造作に散らかった本の波間を足でかき分け、朱鷺のための急ごしらえの客間を設えると、中綿が剥き出しの破れ座布団をストンと落とした。
「どうぞ」
 と右手で朱鷺に合図を送る。
 朱鷺も手刀を切って礼を示すとその行為に甘えた。正座して若者の次の動作を待ち望んだ。
 若者は散乱した本の上にどっかと腰を下ろした。尻が滑って危うく転びそうになるのをヒョイと立て直し胡坐をかいた。
 朱鷺はさっきから呆然と部屋じゅうを見渡していた。おもちゃ箱をひっくり返した、という形容がこれほどまでに相応(ふさわ)しい部屋は、ある意味見事だと感心した。
「どういったご用件でしょう?」
 若者の声にふと我に返り、しばしの間をおいて真顔を彼に向ける。
「なにやら難しそうな本ばかりですなあ……」
 漫画本については黙認した。武士の情けを示すのが礼儀というもんだ。
「いやあ、すみません、汚い部屋で……」
「いえいえ、これが男というもんです」
 入れ歯を引ん剥いてニコッと笑う。「学生さんですかね? 噂じゃと東大目指しとるとか……」
「実はそうなんです。表向きは……」
「と、言いますと?」
「いやはや、私の母親というのが教育ママゴンでして……お分かりになりますか?」
「東大以外は大学ではない、と?」
「そういうことです。上の兄二人が東大なもので……」
「はあ、そりゃ、えれえ優秀ですな」
「期待が大きすぎるというのは、いささか困ったものです」
「で、どうなさるおつもりで?」
「もちろん、行きません」
「なして?」
「行かないと決めたからです」
 朱鷺は何度も小刻みに頭を上下して頷いた。
 ──ま、他人の人生だ。
 とやかく言うまいと思った。
 ふと若者の後ろに柳行李が二段積んであるのが目に入った。上段のやつは蓋が半開きで中身が確認できた。身を乗り出して覗き込むと、紙切れしか入ってないようだった。
「それは、なんですな? ゴミですかな?」
「ゴミ?」
 若者は後ろを向き柳行李を見ながら大きく頷いている。「ゴミねえ……そうかもしれません。そうです、おバアさんのおっしゃる通り、これは全部ゴミです」
 若者は手を伸ばすと、蓋を払い除けた。中から紙の束を取り出して指を舐め、上から数枚だけしばらくざっと目を通したあと、全て下に落とした。
 朱鷺の前にもヒラヒラと舞い降りてくる。一枚を手に取り覗いてみた。老眼でよくは見えないが、何か方程式らしきものが並んでいた。
「なんか難しい計算ですなあ?」
「論文の草稿なのです」
「柳行李の中身……これ全部ですかな?」
「はい、5年分の集大成です。まだなにも成し得てはいないのです」
 若者は溜息をつきながら肩を落とす。
「論文といいますと、なんのご研究ですかな? 発明家とお聞きしたのじゃが……」
「ろくでもない研究です。数学やら物理学やら天文学やら……それに生命科学も、アルコール発酵についても少々」
「あんた、それでも東大には未練はねえと?」
「はい、大学の勉強は全て終えました」
「はあーっ、大したもんでねえか。あんた天才か?」
 朱鷺は腕組みしながら若者を持ち上げる。
「とんでもない。私は凡人すぎて……」
「まあ、ご謙遜を。謙虚ですなあ」
「いえ、身のほどを知っているだけです」
 若者はそう言ったが、言葉とは裏腹、朱鷺の目には少々誇らしげに映った。
 ──謙遜は最大の(おご)り……とも言うからな。
 と反論してやりたくなったが、そこはこちらの方が大人だし、今後の展開を慮り、ここはぐっと堪える。
「そこでじゃ、あんたを猿、もとい、男と見込んで、ちょっくら聞いてもらいてえんじゃが……」 
「はいはい、なんなりと……」
 若者の声は弾む。上機嫌のようだ。
 朱鷺はこれまでのいきさつを話して聞かせた。
 若者は初め笑顔で朱鷺の話に聞き入っていたが、途中から笑顔は消え腕を組んで難しい表情を見せ始めた。唸りながら頷くと大きく何度も首を傾げる。朱鷺の話が終わると首を傾げたまま固まった。
「信じられんでしょうな、おかしいと思われても仕方ないんじゃが……」
「そんなことありません。私は笑ったりはしません」
 若者は真剣な表情を朱鷺に向ける。
「あんた、ええお人じゃ! 猿ではねえ! 世間じゅうの人があんたを猿呼ばわりしようとも、オラだけは否定してやってもええ」
「あ、ありがとう……?」
 若者は口をすぼめながら天井を仰ぎ見て少々首を捻った。顔をこちらに向け、激しく瞬きを繰り返したあとで先を続ける。「その若い頃のおバアさんに……トキさんとおっしゃいましたね……接近すると7日後に飛ぶ……60センチの法則……」
「はいな、ロクマルナナの法則です」
「おバアさんの時代、つまり70年後に戻るには3650回接近する必要がある。なかなか数学的才能がおありになる……」
「いやいや、只の割り算ですが……」
 若者はしばらく考え込むと、突然物欲しげな目つきで朱鷺の頭から足の裏まで視線を這わせた。
 朱鷺は只ならぬ気配を察知した。
 ──もしやこの人は……?
「おバアさん、トキさんにお会いしたい」
 ──ほーらきなすった!
 ──やはりそうだ!
 自分に気があるのに違いない。朱鷺は疑わなかった。
「はい、オラここに……」
 若者は目を丸くして朱鷺を見つめる。
「いえいえ、若い方のトキさんに……」
「あんた、オラに言い寄るつもりか? オラには決まった男が……あんたの気持ちは嬉しいんだがよ……」
「えっ! い、いえ、そういうつもりでは……とにかくサンクチュアリに行きましょう」
 若者は急に立ち上がった。
「今からですかな?」
 若者の動きにつられ猿面を見上げる。
「はい、善は急げと言いますから……」
 朱鷺は部屋をもう一度見渡し時計を探した。窓際の机上に目覚まし時計があった。下方から見ると、所狭しと本に埋もれ、金属製のベルの部分だけを覗かせていた。膝をつき、あらゆる方向に頭を動かすと、辛うじて長針の位置だけを確認できた。あと数分で12を差そうとしていた。ということはもうすぐ一時だ。
「ダメです」
 座り直した朱鷺は、上目遣いで若者を見た。
「わ、わたし……」
 若者は唾を飲み込んだ。「言い寄ったりしませーん!」
「もう、仕事は終わっとります」
 訝しげに目を細めて若者の表情をうかがう。「あんた、やっぱりオラに言い寄るつもりでねえのか?」
「ち、誓って! そんなつもりは……」
 若者は手を激しく振って必死に否定した。幾分顔に赤みが差す。元が赤ら顔の猿面で判別しにくいが、朱鷺はそれを見逃さなかった。突然顔を近づけ、上から下へと舐めるように若者の顔を観察した。姿勢を正すとじっと見つめる。
「あんた、それならそうと……恥ずかしがらねえでもええのに」
「な、なんですな?」
「オラのことが好きならそう言えばええのに、回りくどい真似はなしよ。イヤーン」
 朱鷺は両手で顔を覆った。
 ──若い男心をそそるなんざ、つくづく罪作りなオナゴだ!
 とほくそ笑む。
 ──それならば!
 とじりじりと若者に顔を寄せた。壁際まで追い詰めると、その熟れた真っ赤な額に自らのそれをピタリと張りつけた。お互いの鼻が触れ合う。
「あーん……」
 若者は小さく叫んだ。
 よほど嬉しいと見える。朱鷺はゆっくりと力を緩め額の密着を解いた。離れ際、若者の額から汗が一筋流れるのが見えた。
「うぶなお人じゃ。目は口ほどにものを言うのさ。さっきからオラを見る目つきが……まるで野獣でねえか。あんた、そんなにオラが欲しいのか?」
 若者の鼻頭を人差し指でチョンと突っついた。すると若者は尻に敷いた本の波の上をこちらに向かってずるずると滑り始めた。首を前方に折り曲げ、壁に後頭部をつけ、体は本の波間に沈み込んだ。気をつけの体勢で両手の指先をきちんと伸ばしたまま太腿にピタリと張りつけて、緊張のあまり全身硬直している。
「ご、誤解……でーす!」
 声の語尾がひっくり返った。
「はいな?」
「お、おバアさんの顔には陰影がない。どこから見ても、光に透かして見ても影ができない。おバアさんのおっしゃる通り……不思議だ、と思っただけ……でーす」
 若者は身も声も震わせながら続けた。「お、おバアさんに……き、気が……ある……あるわけ……わけでは……あ、あーりませーん!」
「ええーっ? そんなはずは……ねえです!」
 朱鷺は疑惑の目で若者を見据える。
「わ、わたし……う、うそ……言わなーい!」
 ──自分の気持ちをうまく表現できぬとは……
 ──なんと不器用な恥ずかしがり屋だろう。
 これ以上この人の本心を追求するのは酷のように思われ、渋々諦めた。本人自らの素直な言葉を聞き出してみたい衝動を抑えつつ、この時代の若者達の奥ゆかしさに感じ入ってしまった。しかし同時に直接的ではないもどかしさも否めなかった。朱鷺の時代の若者はもっと率直だ。
「で、なんとかなりますかな?」
 訴える目つきでシャイな若者を見る。「オラ、帰りてえ。孫にも会いてえ」
「な、なんとか……します、なんて……断言……できません、が、なんとか……頑張って……みない……でも……ない……ような……」
「えーい、ややっこしい物言いしねえで、はっきりしなせー!」
 奥ゆかしさもここまでくると、もどかしくて堪らぬ。思わず立ち上がって怒鳴ってしまった。
「します!」
 若者は太腿に張りつけた指先をピンと伸ばし、即座に返答してくれた。気のせいか、どこか怯えたようにも映る。
「よろしい! いやあ、あんたに話してよかった」
 ホッとして立ち上がり、仰向けに寝そべる若者の傍にしゃがんで顔を覗く。「あいつじゃ、なーんもラチ明かねえし……」
 若者がなぜ怯えた表情を見せるのか朱鷺には見当もつかない。きっと自分の魅力のせいで緊張しているに違いない。
 ──ならば、少しでも緊張をほぐしてやらねば!
 肩に左手を添え軽く鷲づかみにして、微笑みかけてやった。少しばかり力を込めて握ってやる。
「あーん!」
 若者は表情を崩し、今にも感涙に咽ぶように小さく叫んだ。
「あんた、オラと接吻すっか? お礼だ」
 朱鷺は再び己が額を相手のそれに押しつけてみる。
「あーん!」
 今度は悲鳴のような歓喜の声で気持ちを表現した。
 静かに額を遠ざけると、若者は慌ててぎこちなく上体を起こし、前のめりに倒れ込んだ。四つん這いで震えながら玄関の方へハイハイして行った。朱鷺はあとを追い、先回りしてドアの前に立ちはだかる。
「遠慮せんでもええのよ。その気になったら、いつでも言うてくれりゃええ。そんじゃ、また明日」
 踵を返しかけ、ふと肝心なことを聞き忘れたことに気づき慌てて先を続けた。「あんた、明日のご帰宅はなん時頃じゃろか?」
「ア、アル……バイト……」
「なん時まで?」
「よ、夜まで、ずうっと……」
「もしかして、パチンコかい?」
 四つん這いで頭をこちらに向ける若者の前にしゃがみ込む。
「えっ! なんで、お分かりに?」
「あんたの顔に出てるもの、ギャンブルの相が」
「それは科学的では……」
「いんや、オラの時代では既に科学的に証明されとります」
 若者は膝をついて起き上がると、両手で顔を何度も撫で回した。
「どういう理論なんでしょうか?」
「明日は休めんですかのう?」
 若者の質問に旗色が悪くなると、話題を逸らし、穏やかな口調ではあるがドスの利いた声で哀願した。
 若者は首を激しく横に振っていたが、朱鷺が突然睨みを利かしながら「ウーッ!」と唸るとようやく縦に振ってくれた。
「休み……ます」
 その言葉に安堵した朱鷺は表情を笑顔に戻すと、ツッカケを履いてドアを開け表へ出た。クルリと身を翻して若者に向き直り、そっとドアを閉める。ふと礼を言うのを忘れたことに気づきまたドアを開けた。するとドアの前に若者が突っ立っていた。
「あれま、名残惜しいんですかな? それとも寂しいのかい? したら、もう少し一緒にいてあげましょう」
 朱鷺は一歩を踏み込んでまた中へ入り、部屋に上がりかけた。
「あーん。ご、ご心配なく! ま、まだなにか……?」
「そうじゃった、礼を言うのを忘れてしもうて……あんがとさん」
 深々とこうべを垂れた。
「れ、礼には……及びませーん」
 若者の頬は引きつっている。また恥らっているのだろう、と朱鷺は推察する。
 朱鷺はもう一度だけ首をちょこんと折って礼を示した。若者に視線を向けたまま後ろ向きに表へ出てドアを閉めると、すぐに鍵をかける音が響いた。
「ハテ? よく見れば、あの人もどこかで見た顔じゃったが……ありゃりゃ、名前は?」
 表札を探したが、どこにもかかってはいなかった。「ま、明日聞けばええか」
 ──それにしても、なんとうぶな若者だろう。
 ──猿顔さえ気にしなければええ男だろうに。
 少々残念な気もするが、何はともあれきてよかった、と心底胸を撫で下ろした。あの若者が何とかしてくれることだろう。
 朱鷺は期待に胸を膨らませながらコウスケのアパートまでスキップで戻って行った。
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