◇8 平和の訪れ──『第九』が脳天を揺さぶる!
文字数 8,246文字
コウスケは物音で目覚めた。
仰向けのまま首を起こして窓の方を見ると、薄らと白み始めている。風で窓ガラスがガタガタ鳴った。欠伸をしながら左向きに寝返りを打った。
──一寸先は闇……
目の前に岩石があった。それで視野が狭まったのだ。あまりにも大きすぎて、いや、近すぎて輪郭がぼやけている。目頭を摘まんで大きく見開いてみる。天然か人為的かの判別はつきかねるが、石の表面には無数の溝が刻まれていた。石の上部で黒大豆が二つ異様な輝きを放ち、中央には風穴がこれまた二つ、ふいごのように規則正しく風を外部に送り出す。最下部の先っちょの真っ赤な突起は、まるで、まるで……
──肛門!?
首を引いて突起を詳しく観察してみる。それはいきなり収縮運動を始めた。コウスケは身構えた。
「ウーワンッ!」
肛門から放たれた。
婆さんはゆっくりと目の前から顔を遠ざけ姿勢を正した。
コウスケは小さく叫び声を上げた。が、このところ婆さんの顔にも大分慣れたらしい。以前に比べて大慌てはしなくなった。
──悲しい習性が身についたものだ。
大きく溜息をつく。
「もう起きたのか、早えじゃねえか……」
「おはようさん。お目覚めかい?」
婆さんはいつになくニヤついた顔をしているようだった。
「なにか、嬉しいことでもあったのか?」
コウスケは依然と横になったまま、目を凝らして婆さんの顔色をうかがう。だが薄暗い中ではよく見えない。
──なにを企んでやがる?
婆さんの行動を訝りながら、本能的に防御の態勢を整える。頭で思考していては間に合わない。無意識のうちに体に叩き込まれたのだ。今では敵の行動を瞬時に察知できる。ただ反射神経が伴わないだけだ。致命的な欠点だと重々承知だ。だから、極力、敵の神経を逆撫でせぬよう細心の注意を払うことが大事なのだ。
──言葉を選ばなくてはならぬ!
頭の中で禁句を列挙してみた。
婆さんは何やらソワソワしているように思えるのだが、こちらの気のせいかもしれない。コウスケは首を捻る。
「長居したな……」
婆さんはぼそっと言った。が、よく聞き取れなかった。
「なんだって? はっきり言ってみろ」
自分の放った言葉にホトホト後悔した。婆さんは顔を近づけてきたのだ。
──この、深い溝が掘られた岩で……
──打ちのめされるのではないか!
と、己が心臓は激しく打ち出したが、動揺を決して顔に出すまいと必死に平静を装った。
「オラ、今日……」
「今日?」
婆さんは顔を遠ざけ、胸を張り深呼吸した。
目の前から岩石が消えたことに胸を撫で下ろす。ホッとして一瞬目を閉じた。次に目を開けると、物凄い勢いで岩石は突進してきた。丁度、隕石が大気圏に突入する時のように、もしくは彗星の尾っぽよろしく、コウスケにはその残像が軌跡として認識できた。
「帰るぞー!」
耳元で彗星は水蒸気爆発した。つばきが顔面に降りかかる。
──ここはツングースカか!?
咄嗟に頭を両手で抱え体を丸めた。その時、膝で顎を思い切り蹴り上げた。
「イッテーし!」
「おめえ、なんの運動だ? 朝っぱらから……」
「大声出すな!」
「はっきり言えって、おめえが言ったのに……」
「限度があるだろうが! 全く……イッテーし」
婆さんの叫んだ言葉の意味がつかめないでいたが、顎をさすりながらしばらく頭の中に木霊する声を、もう一度はっきり聞こうと耳に神経を集中させた。
──帰る、帰る、帰る……
「ん? ん? ん?」
ようやく木霊を耳にした。「帰る……って、言ったの?」
「向こうが気になってよ……」
素早い動作で掛け布団を払い除け、布団の上に正座し婆さんと膝を突き合わせた。顎の痛みなど最早どうでもいい、忘れよう。
「そうか、そりゃ急だな……」
声は心なしか弾んだ。自覚している。仕方のないことかもしれぬ。が、相手に悟られまいと慌てて渋い顔を作った。右の太腿を力いっぱいつねって気持ちを落ち着かせる。
「おめえも、達者でな」
「で、いつ出発だ?」
「日が昇ったら、この部屋ともおさらばよ」
婆さんは名残惜しそうに部屋を見回す。
「なんで帰るんだ?」
「帰りてえからだ」
「そうじゃねえ。手段……バスか列車か?」
「飛んで」
「飛行機か。ま、落ちねえように祈っといてやるぜ」
「おめえも一緒に連れてってやるぞ」
「な、なんで、オレが……?」
「寂しいかと思ってよ……」
「そんなこと……い、いや、寂しくなるな、全く。でもよ、仕方ねえし……」
婆さんの顔がはっきりくっきり見える。窓を見ると、外はすっかり明るくなっていた。心の中でお天道様に祈った。
──日よ、早く高くなってくれ!!
*
朝食は婆さんの手料理だ。これが最後の朝餐 かと思うと名残惜しいような気もする。
白米に豆腐の味噌汁、納豆、海苔、珍しく豪勢にメザシに玉子焼きつきだ。今朝も食卓には何の変哲もない、ありふれた朝のメニューが上っている。だが、コウスケの胃袋は正直だった。確かに婆さんの作る飯は美味かった。味噌汁にしても、不思議なほど、母親の味と似ている。いや、籠野家の味そのものだ。飯の炊き具合も硬すぎず軟らかすぎず、絶妙な歯触りだ。魚の焼き加減といい、玉子焼きの味つけまで、まるで自分の好みを最初から知っていたとしか思えなかった。この婆さんに一つだけ感謝することがあるとしたら、食事の世話ぐらいだろう。
碗を鷲づかみに口の方を近づけると味噌汁をすする。左手に味噌汁の碗を持ったまま、メザシの尻尾を、箸を握った右手で摘まんだ。頭からひとかじり、二口目で尻尾ごと口に放り込み、味噌汁の碗を、テンコ盛りにそびえ立つ白米が眩しい茶碗に持ち替え、箸で山の頂を一気に崩し頬を膨らませ、また味噌汁で食道へ流し込む。小鉢の納豆を十分粘り気が出るまでかき混ぜると、飯の上に全て流し、糸を巻き取る。数枚ほど重なった短冊状の海苔の束に、納豆の粘々が付着した箸の先を少し広げて置いた。そのまま持ち上げると最上段の一枚だけが、箸に辛うじてくっついて宙に浮かんだところを素早く茶碗の上に載せる。白米と納豆を海苔でうまく包んで頬張った。口に運んだ寸前に、一粒二粒と海苔の隙間から納豆が零れ落ち、茶碗で受け止める。鼻につーんと辛子の利いた納豆に舌鼓を打つと、茶碗の縁に口をつけ、そのまま飯と納豆を一緒にかき込んだ。糸を巻き取りながら味噌汁を目指す。口の中の粘々を味噌汁で洗い流してもう一匹のメザシに手をつけた。茶碗に白米が残り少なになると、最後に好物の玉子焼きを半分だけで飯を終え、大きく口を開け味噌汁を具ごと最後の一滴まで搾り尽くす。玉子焼きの残りの半分はデザートとして味わいながらゆっくりと胃袋におさめた。砂糖の甘味の方が幾分勝 った中から塩気とほんのり醤油の風味が鼻から抜ける。砂糖と醤油の二種類の調味料だけで絶妙に味つけした玉子焼きは、ダシ巻き玉子のような味がする。もちろんダシなど入っていようはずもない。きっと少量の生醤油のせいだろう。これが滅法美味い、とコウスケを唸らせた。
「うめえな」
あっという間に平らげると、茶をすすりながら思わず呟いた。
「もう一杯どうだ?」
「いいや、腹いっぱいだ」
コウスケは首を捻る。「しかし、そっくりだ」
「なにがだ?」
「籠野家の味に」
「当たりめえだ。オラ、おめえの母親に教わったんだもの」
「えっ、いつ?」
「いつ、って……70年前になっかなあ」
「なに言ってんの? オレのお袋、まだ50前だぜ」
「あっそうか」
「バアさん、時々変なこと言うよな……」
「気にすんな。満足したならそれでええでねえか」
「まあな。それより、なん時だ、飛行機は?」
「あと、もうちょっとだ」
「そうか、気をつけて帰んな」
「あんがとよ。寂しかったら遠慮しねえでそう言え」
「い、いや……そんなことは……」
「なんだったら、もう少し一緒にいてやろうか?」
「い、いやあ……悪いし……」
──ここは言葉を選ばねば!
極力ボロが出ぬよう、今一度、禁句を頭に浮かべてみる。胸がドキドキした。
「そんなこたねえよ。悪いだなんて……」
婆さんは首を横に振る。
「あ、会いてえ……だろう? 孫にも……」
「そりゃそうだけどよ、おめえが望むんなら……」
「け、けっこう……です」
婆さんが言い終わらないうちに慌てて言い放った。声は少し上ずっていた。
「そうか?」
婆さんは立ち上がった。
「ど、どうした?」
反射的に婆さんを見上げた。心は躍り出す。
「あと片づけだ」
「あっ、そういうこと……」
思わず笑みを零した。心とは裏腹、悔しい時には、却って真逆な対応をしてしまうのが人間だ、とコウスケは学習した。
「ほかに、なんかあんのか?」
「い、いいや、別に……」
わざとそっぽを向いて平静を装う。
婆さんは洗い物を済ますと、ちゃぶ台を挟んでコウスケの正面に座って茶をすすった。ゆっくりと首を回し窓の外をうかがう。
「今日もええ天気だな」
「そうらしいな。飛行機は間違いなく飛ぶな」
コウスケも外をうかがう。
日が高くなるのが待ち遠しくて堪らない。
──だが、もう少しの辛抱だ。
──これで婆さんから解放される。
──完全に自由で平和な生活に戻れるのだ。
これほどまでに平和の有難みを理解し得たことは未だ嘗てなかった。
──平和とは尊い!!
──声を大にして言おう。
──人類にとっての脅威は廃絶せねばならぬ!
──太陽のヤツなにをモタモタしてやがる!
コウスケは太陽に腹を立て、時計を覗いた。まだ午前7時53分だ。
──辛抱、辛抱……
心の中で唱え続けた。
「さてと」
──いよいよか?
胸は大きく膨らみ、弾んだ。
「ま、気をつけてな」
ちゃぶ台に頬杖をつき、あさっての方を向いて、わざと小声でぼそっと言った。心臓の鼓動が耳の血管を刺激し、ドクドクと鼓膜を振動させる。全身に震えが走る。
「おう、あんがとよ」
婆さんはゆったりとした動作で立つと、コウスケの横を通りすぎた。
婆さんの足元に全神経を集中させ見入った。一歩ずつゆっくりと、だが確実にコウスケの元を離れて行く。心臓は尚一層高鳴る。ついに婆さんの足取りは玄関の前……を通りすぎて、便所の中に吸い込まれた。コウスケは愕然として、その場に倒れ込むと、仰向けで地団駄を踏んで悔しがる。怒りが込み上げてくる。四つん這いになって両手で畳をかき毟り始めた。
ふと、心を落ち着けるため坐禅を組むことを思いついた。正式なものとはほど遠い。が、そんなことは構わない。
──形じゃない、心だ!
見よう見まねの半眼で1メートルほど先の畳の縁 に視線を落とす。両の掌を合わせる。知る限りの念仏を唱え、一刻も早い婆さんの消失を祈った。
「おめえ、オラのことそんなに心配してくれてんのか?」
どこからともなく何かの声が聞こえるが、最早コウスケにはどうでもいいことだった。一心不乱に念仏を唱え続けた。目を見開くと、婆さんが顔を覗き込んでくる。目と目が合う。
「オレは忙しいんだ」
「オラ、もう行くぞ」
「どういう意味だ?」
合掌したまま目は婆さんの顔を捉えたが、脳ミソは神経の伝達を拒んだ。だから、人の顔として認識できない。
「そういう意味だ。じゃあな……」
「おう」
コウスケは無意識に答えた。坐禅は続く。
──このまま時間が経つのをやり過ごそう。
背筋を伸ばし念仏を唱えながら薄目を開け、畳の縁 に視線を落とす。
──雑念を払わねば……
バタン、という音が聞こえた。ドアが開いて閉まったような。
──ダメだ!
──心を無にしなければ!
──南無阿弥陀仏……お陀仏……
──南無妙法蓮華経……ホーホケキョ……
──色即是空……アーメン……
「ん?」
どれくらい時間が経っただろう。ゆっくり目を開けた。ゆったりとした動作で目覚まし時計をちゃぶ台の下からつかんだ。
8時2分31秒。
手元の時計が刻んだ時刻だ。あれから5分ほどしか経ってはいなかった。部屋を見渡してみる。婆さんの姿はない。
──ヤツはどこへ?
──出て行った……というのか?
半信半疑だった。慌てず静かに立つと、まず風呂場を覗く。風呂桶の冷め切った残り湯に手を突っ込んで探る。風呂桶と壁の10センチほどの隙間も確認した。
──大丈夫だ。
──いない。
風呂場の引き戸をピタリと閉め、
「ようし!」
と一声かけて、次に便所の戸を手前に引いてみた。首を突っ込み何度も見回して天井から床までくまなく調べ尽くす。天井板を叩いて何か変わった音がしないか耳をそばだてる。最後に便器の中に頭を突っ込み奈落の底へ、
「おーい!」
と声を落とし耳に手を当て反射音を確認して、ちり紙を丸め3回落としてみた。
──婆さんはどこにもいない。
便所を出て、玄関脇を通りすぎようとした時、ふと、カギを確認するのを忘れたことに気づいた。一瞬慌てたが、心を制してあくまでも冷静に行動しようと一呼吸置いてから、玄関へゆっくりと歩を進めた。バアさんの履物はない。
──やはり出て行ったのだ。
──もうここへは戻ることは、絶対にない!
コウスケは確信した。
ゆっくりとドアノブに手を伸ばし、ノブの真ん中のポッチリを押してカギを閉めようとした。ノブが少し回った気がしたので、ノブを握って回らぬよう両手で固定した。物凄い力で左へ回転しようとする。必死に堪えた。今、一呼吸置いたことを後悔した。この怪力は紛れもない、あの鬼婆に間違いない。
──この平和な地を……
──再び戦場にしてなるものか!
コウスケは額に汗し、平和維持活動に勤しんだ。しかし、人というのは、平和の尊さなど時が経てば忘れてしまうものだ。大層愚かな生き物だ。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」
とでも言わんばかりにコウスケは堪えに堪えたが、やはり敵の挑発を無難にやり過ごすことは不可能だった。次第に手元が汗で滑る。この敵には和平交渉など、外交努力など通用せぬことは承知だ。それでもこの地を戦場と化すのは死守すべきだ。体制など最早どちらでもよい。憎むべきは戦争そのもの。だが、とうとうコウスケは虚しすぎる決断を下した。愚かな武器を纏った猿に成り下がってしまった。
──受けて立つしか術はない!
咄嗟に戦闘態勢を整え、ノブから手を離し、部屋の中央へ移動して身構えた。
ドアは軋みながらゆっくりと向こう側へ開いた。まだ敵は姿を現さない。コウスケは神経を尖らせ続けた。決して油断などしない。どうにか戦闘状態に突入せぬよう今一度模索してみる。最後の最後まで足掻きながら、右足を後ろに半歩引いて斜に構え直す。
一瞬敵の顔が見え隠れしてドアの影からようやく姿を現した。
「わたしよ」
「トキちゃん!」
コウスケは息を吐いて全身の力を緩め、首を回しながら強張った手首と足首をこねくり回した。「遠慮しないで入りなよ。狭いとこだけど……」
戦闘は避けられ安堵したコウスケはクルリとトキに背を向けた。ドアは閉まり、トキが履物を脱いで畳に足をつけた気配を背中で受けると、すぐにトキの温もりが背中に伝わってきた。
──オレの背中ってなんて鋭敏なんだ!
我ながら感心した。トキはすぐ後ろに立っている。
「ねえ、チューして……」
──しょうがねえヤツだ、どれどれ……
鼻の下を伸ばしに伸ばしてゆっくり体を回転させ、トキに向き直ると、その肩に両手をかけた。
トキは目を閉じて顔を上に向けた。口を尖らせ、まるで酢ダコのように。
コウスケは目を瞬き、トキの顔を見つめた。己の頭から爪先へ震えが走った。そっと肩から手を離すと、気づかれぬように静かに後ずさって逃亡を試みた。と、相手は突然目を見開いた。
「へへへ……」
愛想笑いで誤魔化す。
「忘れ物してよ」
「な、なにを?」
「おめえにプレゼントあるんだ」
「オレに? 別に……気遣いはいらねえって……」
「まあ、そう言うな。感謝のしるしだ」
「気にしなくていいって……」
「オラの気が済まねえ」
「な、なんだ?」
「こっちゃこいや」
婆さんがしつこく手招きするので、仕方なく婆さんの傍に寄った。
「オ、オレのために……わざわざ……いいって……」
「いいから目瞑ってみろ。早くしねえか」
「わ、分かったって……こうか?」
コウスケは渋ったが、従わざるを得ないだろう。
しばらくそのまま時間はすぎた。薄ら目を開けてみた。婆さんは上目遣いでこっちを見ていた。コウスケは目を見開いて何度も瞬きを繰り返す。
──嫌な予感がする……
突然、婆さんはコウスケの首根っこに両腕を巻きつけグイッと引き寄せた。体は凄まじい力に引っ張られ、なされるがまま唇を奪われてしまった。
「んーぱっ! お礼の接吻だ」
婆さんは突然力を緩め手を離した。と、体は自由になりはしたが、反動で後方へ跳ね返され、そのまま後ずさりしながら、激しく畳に尻餅をついて後ろに一回転してきちんと正座して止まった。
「な、なにするんだ!」
思わず怒鳴ると婆さんは迫ってきた。慌てて畳に両手をつき、這って婆さんの横をすり抜け、一目散に便所に駆け込んだ。引っかけカギを下ろし、戸の取っ手をつかむと渾身の力で死守する。
耳を戸に当て息を潜めた。婆さんの足音が近づいてくる。
「ま、達者でやんな」
婆さんは便所の前で一声かけると、足音は遠ざかった。玄関のドアの開閉音が聞こえた。
しばらくして戸を押し開け、頭を出して確かめる。
──いない。
念のため爪先立ちでそっと玄関に近づいてみると、婆さんの履物は消えていた。急いで鍵をかけ、再び風呂場、便所、押入れを調べ尽くし、ヤツがいないことを確認する。本当に出て行ったのか、確信が持てない。部屋の真ん中で上下前後左右に首を動かして部屋の隅々までくまなく見渡す。それでも不安が募る。そこで心を落ち着かせようと羊の数を数えてみた。
「ひつじが1匹、ひつじが2匹、ひつじが……」
60匹ほど数えた頃、ようやく心の平安を取り戻しつつあったコウスケの耳を怖ろしい声がつんざいた。
「あーばよっ!」
体が勝手に跳び上がった。心臓も飛び跳ねる。次の瞬間、声のする方へ駆け出していた。怖いもの見たさなのか、吸い寄せられるように窓を開け、路地を見下ろした。
婆さんがこっちに手を振っていた。と、コウスケに背を向けるとその場を立ち去った。
コウスケはヒクヒクと大きく息を吸い込んで、ヒクヒクと息を吐き出した。全身の力が抜け、足がガクガクした。とても立っていられる状態ではない。その場に沈んで両手を畳につく。畳の上にポタポタと滴が落ちる。
「汗か?」
額を手の甲で拭う。薄らと油汗が滲んだ程度で滴り落ちるほどのものではなかった。
「なんだろう?」
──雨漏りか?
天井を見上げすぐに違うと悟った。外は快晴だった。
滴は、コウスケの頬を次から次へと伝った。滴の軌跡を顎の先から上へと指でなぞってみる。目尻でそれは途切れていた。
──涙……?
──涙!
「オレは泣いているのか?」
目頭を指で押さえた。泣いていた。涙は止め処なく流れ落ちた。
──歓喜の涙だ!
心は打ち震えた。今は丁度師走だ。
──そうだ、歌おうではないか!
「歓喜の歌を!」
頭の中で『第九』は流れた。
──カラヤンか?
顔は見たこともない。金ヤンならロッテオリオンズの監督だ。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団だ。一流のマエストロに一流の演奏家達。普段のコウスケの耳には流行歌しか聞こえはしない。が、今は一流の音楽家達がコウスケの脳天を揺さぶり始めた。
──なんと心地いい響きだろうか!
「これがクラシックというものか!?」
──ベートーベンを讃えよ!
──この際モーツアルトは置いといて……
──ブラームス『交響曲第三番第三楽章』より今は『第九』だ!
「さあ、歌おう、歌おう、歓喜の歌を!」
これでようやく平和が訪れる。
仰向けのまま首を起こして窓の方を見ると、薄らと白み始めている。風で窓ガラスがガタガタ鳴った。欠伸をしながら左向きに寝返りを打った。
──一寸先は闇……
目の前に岩石があった。それで視野が狭まったのだ。あまりにも大きすぎて、いや、近すぎて輪郭がぼやけている。目頭を摘まんで大きく見開いてみる。天然か人為的かの判別はつきかねるが、石の表面には無数の溝が刻まれていた。石の上部で黒大豆が二つ異様な輝きを放ち、中央には風穴がこれまた二つ、ふいごのように規則正しく風を外部に送り出す。最下部の先っちょの真っ赤な突起は、まるで、まるで……
──肛門!?
首を引いて突起を詳しく観察してみる。それはいきなり収縮運動を始めた。コウスケは身構えた。
「ウーワンッ!」
肛門から放たれた。
婆さんはゆっくりと目の前から顔を遠ざけ姿勢を正した。
コウスケは小さく叫び声を上げた。が、このところ婆さんの顔にも大分慣れたらしい。以前に比べて大慌てはしなくなった。
──悲しい習性が身についたものだ。
大きく溜息をつく。
「もう起きたのか、早えじゃねえか……」
「おはようさん。お目覚めかい?」
婆さんはいつになくニヤついた顔をしているようだった。
「なにか、嬉しいことでもあったのか?」
コウスケは依然と横になったまま、目を凝らして婆さんの顔色をうかがう。だが薄暗い中ではよく見えない。
──なにを企んでやがる?
婆さんの行動を訝りながら、本能的に防御の態勢を整える。頭で思考していては間に合わない。無意識のうちに体に叩き込まれたのだ。今では敵の行動を瞬時に察知できる。ただ反射神経が伴わないだけだ。致命的な欠点だと重々承知だ。だから、極力、敵の神経を逆撫でせぬよう細心の注意を払うことが大事なのだ。
──言葉を選ばなくてはならぬ!
頭の中で禁句を列挙してみた。
婆さんは何やらソワソワしているように思えるのだが、こちらの気のせいかもしれない。コウスケは首を捻る。
「長居したな……」
婆さんはぼそっと言った。が、よく聞き取れなかった。
「なんだって? はっきり言ってみろ」
自分の放った言葉にホトホト後悔した。婆さんは顔を近づけてきたのだ。
──この、深い溝が掘られた岩で……
──打ちのめされるのではないか!
と、己が心臓は激しく打ち出したが、動揺を決して顔に出すまいと必死に平静を装った。
「オラ、今日……」
「今日?」
婆さんは顔を遠ざけ、胸を張り深呼吸した。
目の前から岩石が消えたことに胸を撫で下ろす。ホッとして一瞬目を閉じた。次に目を開けると、物凄い勢いで岩石は突進してきた。丁度、隕石が大気圏に突入する時のように、もしくは彗星の尾っぽよろしく、コウスケにはその残像が軌跡として認識できた。
「帰るぞー!」
耳元で彗星は水蒸気爆発した。つばきが顔面に降りかかる。
──ここはツングースカか!?
咄嗟に頭を両手で抱え体を丸めた。その時、膝で顎を思い切り蹴り上げた。
「イッテーし!」
「おめえ、なんの運動だ? 朝っぱらから……」
「大声出すな!」
「はっきり言えって、おめえが言ったのに……」
「限度があるだろうが! 全く……イッテーし」
婆さんの叫んだ言葉の意味がつかめないでいたが、顎をさすりながらしばらく頭の中に木霊する声を、もう一度はっきり聞こうと耳に神経を集中させた。
──帰る、帰る、帰る……
「ん? ん? ん?」
ようやく木霊を耳にした。「帰る……って、言ったの?」
「向こうが気になってよ……」
素早い動作で掛け布団を払い除け、布団の上に正座し婆さんと膝を突き合わせた。顎の痛みなど最早どうでもいい、忘れよう。
「そうか、そりゃ急だな……」
声は心なしか弾んだ。自覚している。仕方のないことかもしれぬ。が、相手に悟られまいと慌てて渋い顔を作った。右の太腿を力いっぱいつねって気持ちを落ち着かせる。
「おめえも、達者でな」
「で、いつ出発だ?」
「日が昇ったら、この部屋ともおさらばよ」
婆さんは名残惜しそうに部屋を見回す。
「なんで帰るんだ?」
「帰りてえからだ」
「そうじゃねえ。手段……バスか列車か?」
「飛んで」
「飛行機か。ま、落ちねえように祈っといてやるぜ」
「おめえも一緒に連れてってやるぞ」
「な、なんで、オレが……?」
「寂しいかと思ってよ……」
「そんなこと……い、いや、寂しくなるな、全く。でもよ、仕方ねえし……」
婆さんの顔がはっきりくっきり見える。窓を見ると、外はすっかり明るくなっていた。心の中でお天道様に祈った。
──日よ、早く高くなってくれ!!
*
朝食は婆さんの手料理だ。これが最後の
白米に豆腐の味噌汁、納豆、海苔、珍しく豪勢にメザシに玉子焼きつきだ。今朝も食卓には何の変哲もない、ありふれた朝のメニューが上っている。だが、コウスケの胃袋は正直だった。確かに婆さんの作る飯は美味かった。味噌汁にしても、不思議なほど、母親の味と似ている。いや、籠野家の味そのものだ。飯の炊き具合も硬すぎず軟らかすぎず、絶妙な歯触りだ。魚の焼き加減といい、玉子焼きの味つけまで、まるで自分の好みを最初から知っていたとしか思えなかった。この婆さんに一つだけ感謝することがあるとしたら、食事の世話ぐらいだろう。
碗を鷲づかみに口の方を近づけると味噌汁をすする。左手に味噌汁の碗を持ったまま、メザシの尻尾を、箸を握った右手で摘まんだ。頭からひとかじり、二口目で尻尾ごと口に放り込み、味噌汁の碗を、テンコ盛りにそびえ立つ白米が眩しい茶碗に持ち替え、箸で山の頂を一気に崩し頬を膨らませ、また味噌汁で食道へ流し込む。小鉢の納豆を十分粘り気が出るまでかき混ぜると、飯の上に全て流し、糸を巻き取る。数枚ほど重なった短冊状の海苔の束に、納豆の粘々が付着した箸の先を少し広げて置いた。そのまま持ち上げると最上段の一枚だけが、箸に辛うじてくっついて宙に浮かんだところを素早く茶碗の上に載せる。白米と納豆を海苔でうまく包んで頬張った。口に運んだ寸前に、一粒二粒と海苔の隙間から納豆が零れ落ち、茶碗で受け止める。鼻につーんと辛子の利いた納豆に舌鼓を打つと、茶碗の縁に口をつけ、そのまま飯と納豆を一緒にかき込んだ。糸を巻き取りながら味噌汁を目指す。口の中の粘々を味噌汁で洗い流してもう一匹のメザシに手をつけた。茶碗に白米が残り少なになると、最後に好物の玉子焼きを半分だけで飯を終え、大きく口を開け味噌汁を具ごと最後の一滴まで搾り尽くす。玉子焼きの残りの半分はデザートとして味わいながらゆっくりと胃袋におさめた。砂糖の甘味の方が幾分
「うめえな」
あっという間に平らげると、茶をすすりながら思わず呟いた。
「もう一杯どうだ?」
「いいや、腹いっぱいだ」
コウスケは首を捻る。「しかし、そっくりだ」
「なにがだ?」
「籠野家の味に」
「当たりめえだ。オラ、おめえの母親に教わったんだもの」
「えっ、いつ?」
「いつ、って……70年前になっかなあ」
「なに言ってんの? オレのお袋、まだ50前だぜ」
「あっそうか」
「バアさん、時々変なこと言うよな……」
「気にすんな。満足したならそれでええでねえか」
「まあな。それより、なん時だ、飛行機は?」
「あと、もうちょっとだ」
「そうか、気をつけて帰んな」
「あんがとよ。寂しかったら遠慮しねえでそう言え」
「い、いや……そんなことは……」
「なんだったら、もう少し一緒にいてやろうか?」
「い、いやあ……悪いし……」
──ここは言葉を選ばねば!
極力ボロが出ぬよう、今一度、禁句を頭に浮かべてみる。胸がドキドキした。
「そんなこたねえよ。悪いだなんて……」
婆さんは首を横に振る。
「あ、会いてえ……だろう? 孫にも……」
「そりゃそうだけどよ、おめえが望むんなら……」
「け、けっこう……です」
婆さんが言い終わらないうちに慌てて言い放った。声は少し上ずっていた。
「そうか?」
婆さんは立ち上がった。
「ど、どうした?」
反射的に婆さんを見上げた。心は躍り出す。
「あと片づけだ」
「あっ、そういうこと……」
思わず笑みを零した。心とは裏腹、悔しい時には、却って真逆な対応をしてしまうのが人間だ、とコウスケは学習した。
「ほかに、なんかあんのか?」
「い、いいや、別に……」
わざとそっぽを向いて平静を装う。
婆さんは洗い物を済ますと、ちゃぶ台を挟んでコウスケの正面に座って茶をすすった。ゆっくりと首を回し窓の外をうかがう。
「今日もええ天気だな」
「そうらしいな。飛行機は間違いなく飛ぶな」
コウスケも外をうかがう。
日が高くなるのが待ち遠しくて堪らない。
──だが、もう少しの辛抱だ。
──これで婆さんから解放される。
──完全に自由で平和な生活に戻れるのだ。
これほどまでに平和の有難みを理解し得たことは未だ嘗てなかった。
──平和とは尊い!!
──声を大にして言おう。
──人類にとっての脅威は廃絶せねばならぬ!
──太陽のヤツなにをモタモタしてやがる!
コウスケは太陽に腹を立て、時計を覗いた。まだ午前7時53分だ。
──辛抱、辛抱……
心の中で唱え続けた。
「さてと」
──いよいよか?
胸は大きく膨らみ、弾んだ。
「ま、気をつけてな」
ちゃぶ台に頬杖をつき、あさっての方を向いて、わざと小声でぼそっと言った。心臓の鼓動が耳の血管を刺激し、ドクドクと鼓膜を振動させる。全身に震えが走る。
「おう、あんがとよ」
婆さんはゆったりとした動作で立つと、コウスケの横を通りすぎた。
婆さんの足元に全神経を集中させ見入った。一歩ずつゆっくりと、だが確実にコウスケの元を離れて行く。心臓は尚一層高鳴る。ついに婆さんの足取りは玄関の前……を通りすぎて、便所の中に吸い込まれた。コウスケは愕然として、その場に倒れ込むと、仰向けで地団駄を踏んで悔しがる。怒りが込み上げてくる。四つん這いになって両手で畳をかき毟り始めた。
ふと、心を落ち着けるため坐禅を組むことを思いついた。正式なものとはほど遠い。が、そんなことは構わない。
──形じゃない、心だ!
見よう見まねの半眼で1メートルほど先の畳の
「おめえ、オラのことそんなに心配してくれてんのか?」
どこからともなく何かの声が聞こえるが、最早コウスケにはどうでもいいことだった。一心不乱に念仏を唱え続けた。目を見開くと、婆さんが顔を覗き込んでくる。目と目が合う。
「オレは忙しいんだ」
「オラ、もう行くぞ」
「どういう意味だ?」
合掌したまま目は婆さんの顔を捉えたが、脳ミソは神経の伝達を拒んだ。だから、人の顔として認識できない。
「そういう意味だ。じゃあな……」
「おう」
コウスケは無意識に答えた。坐禅は続く。
──このまま時間が経つのをやり過ごそう。
背筋を伸ばし念仏を唱えながら薄目を開け、畳の
──雑念を払わねば……
バタン、という音が聞こえた。ドアが開いて閉まったような。
──ダメだ!
──心を無にしなければ!
──南無阿弥陀仏……お陀仏……
──南無妙法蓮華経……ホーホケキョ……
──色即是空……アーメン……
「ん?」
どれくらい時間が経っただろう。ゆっくり目を開けた。ゆったりとした動作で目覚まし時計をちゃぶ台の下からつかんだ。
8時2分31秒。
手元の時計が刻んだ時刻だ。あれから5分ほどしか経ってはいなかった。部屋を見渡してみる。婆さんの姿はない。
──ヤツはどこへ?
──出て行った……というのか?
半信半疑だった。慌てず静かに立つと、まず風呂場を覗く。風呂桶の冷め切った残り湯に手を突っ込んで探る。風呂桶と壁の10センチほどの隙間も確認した。
──大丈夫だ。
──いない。
風呂場の引き戸をピタリと閉め、
「ようし!」
と一声かけて、次に便所の戸を手前に引いてみた。首を突っ込み何度も見回して天井から床までくまなく調べ尽くす。天井板を叩いて何か変わった音がしないか耳をそばだてる。最後に便器の中に頭を突っ込み奈落の底へ、
「おーい!」
と声を落とし耳に手を当て反射音を確認して、ちり紙を丸め3回落としてみた。
──婆さんはどこにもいない。
便所を出て、玄関脇を通りすぎようとした時、ふと、カギを確認するのを忘れたことに気づいた。一瞬慌てたが、心を制してあくまでも冷静に行動しようと一呼吸置いてから、玄関へゆっくりと歩を進めた。バアさんの履物はない。
──やはり出て行ったのだ。
──もうここへは戻ることは、絶対にない!
コウスケは確信した。
ゆっくりとドアノブに手を伸ばし、ノブの真ん中のポッチリを押してカギを閉めようとした。ノブが少し回った気がしたので、ノブを握って回らぬよう両手で固定した。物凄い力で左へ回転しようとする。必死に堪えた。今、一呼吸置いたことを後悔した。この怪力は紛れもない、あの鬼婆に間違いない。
──この平和な地を……
──再び戦場にしてなるものか!
コウスケは額に汗し、平和維持活動に勤しんだ。しかし、人というのは、平和の尊さなど時が経てば忘れてしまうものだ。大層愚かな生き物だ。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」
とでも言わんばかりにコウスケは堪えに堪えたが、やはり敵の挑発を無難にやり過ごすことは不可能だった。次第に手元が汗で滑る。この敵には和平交渉など、外交努力など通用せぬことは承知だ。それでもこの地を戦場と化すのは死守すべきだ。体制など最早どちらでもよい。憎むべきは戦争そのもの。だが、とうとうコウスケは虚しすぎる決断を下した。愚かな武器を纏った猿に成り下がってしまった。
──受けて立つしか術はない!
咄嗟に戦闘態勢を整え、ノブから手を離し、部屋の中央へ移動して身構えた。
ドアは軋みながらゆっくりと向こう側へ開いた。まだ敵は姿を現さない。コウスケは神経を尖らせ続けた。決して油断などしない。どうにか戦闘状態に突入せぬよう今一度模索してみる。最後の最後まで足掻きながら、右足を後ろに半歩引いて斜に構え直す。
一瞬敵の顔が見え隠れしてドアの影からようやく姿を現した。
「わたしよ」
「トキちゃん!」
コウスケは息を吐いて全身の力を緩め、首を回しながら強張った手首と足首をこねくり回した。「遠慮しないで入りなよ。狭いとこだけど……」
戦闘は避けられ安堵したコウスケはクルリとトキに背を向けた。ドアは閉まり、トキが履物を脱いで畳に足をつけた気配を背中で受けると、すぐにトキの温もりが背中に伝わってきた。
──オレの背中ってなんて鋭敏なんだ!
我ながら感心した。トキはすぐ後ろに立っている。
「ねえ、チューして……」
──しょうがねえヤツだ、どれどれ……
鼻の下を伸ばしに伸ばしてゆっくり体を回転させ、トキに向き直ると、その肩に両手をかけた。
トキは目を閉じて顔を上に向けた。口を尖らせ、まるで酢ダコのように。
コウスケは目を瞬き、トキの顔を見つめた。己の頭から爪先へ震えが走った。そっと肩から手を離すと、気づかれぬように静かに後ずさって逃亡を試みた。と、相手は突然目を見開いた。
「へへへ……」
愛想笑いで誤魔化す。
「忘れ物してよ」
「な、なにを?」
「おめえにプレゼントあるんだ」
「オレに? 別に……気遣いはいらねえって……」
「まあ、そう言うな。感謝のしるしだ」
「気にしなくていいって……」
「オラの気が済まねえ」
「な、なんだ?」
「こっちゃこいや」
婆さんがしつこく手招きするので、仕方なく婆さんの傍に寄った。
「オ、オレのために……わざわざ……いいって……」
「いいから目瞑ってみろ。早くしねえか」
「わ、分かったって……こうか?」
コウスケは渋ったが、従わざるを得ないだろう。
しばらくそのまま時間はすぎた。薄ら目を開けてみた。婆さんは上目遣いでこっちを見ていた。コウスケは目を見開いて何度も瞬きを繰り返す。
──嫌な予感がする……
突然、婆さんはコウスケの首根っこに両腕を巻きつけグイッと引き寄せた。体は凄まじい力に引っ張られ、なされるがまま唇を奪われてしまった。
「んーぱっ! お礼の接吻だ」
婆さんは突然力を緩め手を離した。と、体は自由になりはしたが、反動で後方へ跳ね返され、そのまま後ずさりしながら、激しく畳に尻餅をついて後ろに一回転してきちんと正座して止まった。
「な、なにするんだ!」
思わず怒鳴ると婆さんは迫ってきた。慌てて畳に両手をつき、這って婆さんの横をすり抜け、一目散に便所に駆け込んだ。引っかけカギを下ろし、戸の取っ手をつかむと渾身の力で死守する。
耳を戸に当て息を潜めた。婆さんの足音が近づいてくる。
「ま、達者でやんな」
婆さんは便所の前で一声かけると、足音は遠ざかった。玄関のドアの開閉音が聞こえた。
しばらくして戸を押し開け、頭を出して確かめる。
──いない。
念のため爪先立ちでそっと玄関に近づいてみると、婆さんの履物は消えていた。急いで鍵をかけ、再び風呂場、便所、押入れを調べ尽くし、ヤツがいないことを確認する。本当に出て行ったのか、確信が持てない。部屋の真ん中で上下前後左右に首を動かして部屋の隅々までくまなく見渡す。それでも不安が募る。そこで心を落ち着かせようと羊の数を数えてみた。
「ひつじが1匹、ひつじが2匹、ひつじが……」
60匹ほど数えた頃、ようやく心の平安を取り戻しつつあったコウスケの耳を怖ろしい声がつんざいた。
「あーばよっ!」
体が勝手に跳び上がった。心臓も飛び跳ねる。次の瞬間、声のする方へ駆け出していた。怖いもの見たさなのか、吸い寄せられるように窓を開け、路地を見下ろした。
婆さんがこっちに手を振っていた。と、コウスケに背を向けるとその場を立ち去った。
コウスケはヒクヒクと大きく息を吸い込んで、ヒクヒクと息を吐き出した。全身の力が抜け、足がガクガクした。とても立っていられる状態ではない。その場に沈んで両手を畳につく。畳の上にポタポタと滴が落ちる。
「汗か?」
額を手の甲で拭う。薄らと油汗が滲んだ程度で滴り落ちるほどのものではなかった。
「なんだろう?」
──雨漏りか?
天井を見上げすぐに違うと悟った。外は快晴だった。
滴は、コウスケの頬を次から次へと伝った。滴の軌跡を顎の先から上へと指でなぞってみる。目尻でそれは途切れていた。
──涙……?
──涙!
「オレは泣いているのか?」
目頭を指で押さえた。泣いていた。涙は止め処なく流れ落ちた。
──歓喜の涙だ!
心は打ち震えた。今は丁度師走だ。
──そうだ、歌おうではないか!
「歓喜の歌を!」
頭の中で『第九』は流れた。
──カラヤンか?
顔は見たこともない。金ヤンならロッテオリオンズの監督だ。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団だ。一流のマエストロに一流の演奏家達。普段のコウスケの耳には流行歌しか聞こえはしない。が、今は一流の音楽家達がコウスケの脳天を揺さぶり始めた。
──なんと心地いい響きだろうか!
「これがクラシックというものか!?」
──ベートーベンを讃えよ!
──この際モーツアルトは置いといて……
──ブラームス『交響曲第三番第三楽章』より今は『第九』だ!
「さあ、歌おう、歌おう、歓喜の歌を!」
これでようやく平和が訪れる。